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土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)
[関連話]
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<令和6年3月5日発信>
【第39話】
幕末足軽物語/樋口真吉伝(南寿吉著)から読み解く・・・
龍馬と小五郎の「慶応3年の大芝居」[プロローグ]
龍馬伝(NHK)小五郎の手紙<龍馬宛て>(融通無碍/第35話)龍馬の手紙<小五郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)桂小五郎(NHK)~~~~~~~~~~~
一筆書かせて頂きます。
先日の書面にあった(
四侯会議後の薩摩、長州、土佐による)
大芝居の件はかねて知っていたことだけど、実におもしろい。それがわかった時、いよいよ奮発しました。
その後長崎でも上国(京都)のことを色々と心にかけていました。
多少はご存知かと思いますが、私は銃を一千挺買い求めて、芸州藩の蒸気船を借入て土佐まで送る予定です。
今日はその途中で下関まで着きましたが、運よく伊藤兄(=伊藤俊輔<伊藤博文>:長州藩士)が京都から戻ってきていました。そして薩摩・土佐のことなどを話し、また、大久保(=大久保利通:薩摩藩士)が使者として来た事などを話しました。
急ぎ本国(土佐)を救おうかと思っているので、ここに(下関)留まっている暇はなく、残念ながら出航することになりました。
これから土佐へ向かい乾退助(=
板垣退助:土佐藩士)に会い、それから京都へ向かい、
後藤象二郎は国(土佐)へ返すか、または、長崎へ向かわせることになります。
《大政奉還が受け容れられなかった場合は後藤を国へ返し、(倒幕派の)板垣を出すと暗示している。》
大政奉還~竜馬暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)先生の方には、検討した時勢その他の認めもの(船中八策)が出来上がったのでお渡しします。
さらに、最近の京都の議論は先生に直々に伺えば私の考えと同じかとは思いますが、なんとも筆を持つ気にはなれませんでした。
かれこれの理由から心中をお察し下さい。
なお、後日の時にまた。
(慶応3年)9月20日 龍馬
木圭先生(桂小五郎)
坂本龍馬
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)大政奉還について後藤象二郎に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(後藤象二郎 宛て)*******************
慶応3年(1867)
《亀山社中が海援隊に/1月、四侯会議/5月、薩土密約/5月、薩土盟約/6月、中岡慎太郎が陸援隊結成/7月、大政奉還/10月、龍馬&慎太郎暗殺/11月、えじゃないか起こる/11月、江戸薩摩藩邸焼討事件/12月》
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1月・・・・・・・・・・・
1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い亀山社中の坂本龍馬に注目した土佐藩は、長崎で溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察/参政・後藤象二郎の会談が実現した。(長崎清風亭会談)
後藤象二郎
長崎清風亭会談清風亭の対決(NHK/龍馬伝)この結果、亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織にすることが決まり、これを機として4月上旬に
亀山社中は「
海援隊」と改称した。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)海援隊(幕末足軽物語/関連話)海援隊(左から
長岡謙吉、
溝渕広之丞、
坂本龍馬、山本洪堂、
千屋寅之助、
白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)長岡謙吉溝淵広之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)溝渕広之丞坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)坂本龍馬山本洪堂千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)千屋寅之助(菅野覚兵衛)白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)白峰駿馬~~~~~~~~
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊長は坂本龍馬、隊士は土佐藩士(千屋寅之助、
沢村惣之丞、
高松太郎、
安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、溝渕広之丞、
石田英吉、中島作太郎ら)および他藩出身者(紀州藩の
陸奥陽之助、越後長岡藩の白峰駿馬、越前福井藩士の山本洪堂、讃岐国塩飽佐柳島の出身・佐柳高次ら)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。
沢村惣之丞(融通無碍/南史観<人物評伝>)高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)安岡金馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)陸奧宗光(融通無碍/南史観<人物評伝>) 同時期、
中岡慎太郎は京都で陸援隊を結成している。
中岡慎太郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝/片岡正法>) ・・・・・・・・・・・
慶応3年1月16日
龍馬は、長崎で会談した土佐藩参政・後藤象二郎について、「十分話し合ったが大いに面白い人物だ」と長州藩士・
三吉慎蔵に報告している。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)龍馬の手紙(三吉慎蔵 宛て)ーーーーーーーーーーーーーーー
2月幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編樋口真吉
<「幕末足軽物語
樋口真吉伝完結編」ではP277>
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2月15日
西郷吉之助が蒸気船に乗って高知に来た。
龍馬は、西郷が高知にやってきて、山内容堂と会見した情報をつかんでおり、そのことを長州藩士・三吉慎蔵に伝えた「
龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)龍馬の手紙(融通無碍/第45話)
~~~~~~~~
◆薩摩の西郷が高知へ
薩摩の実力者・西郷が海路高知に入る。
隠居・
山内容堂に時局打開のための
四侯会議への参加を懸命に口説く。
愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)四侯会議(融通無碍/南史観<私観>)======
[融通無碍]
西郷隆盛の要請に応じ、四侯会議への参加を決心した容堂は
「よし、ワシは今回は東山の土になる積もりで行く」と上洛の決意を披瀝した。(容堂決心の固さは分かるが、その後の行動が伴ったか・・・・。)
西郷の訪問は土佐藩では大事件で、藩は豪商・川崎(=田村屋)の邸宅をその宿舎に当てもてなした。(泊まったときに西郷が使った下駄が今も残っている。)
薩摩の西郷が高知へ (融通無碍/南史観<私観>)======
[融通無碍]
◆四侯会議とは?
薩摩藩の主導のもとに成立した四侯会議は、京都において設置された諸侯による会議。有力な四侯による合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。
慶応3年5月初旬から中旬にわたり8回にわたって京都で開催された。
薩摩藩国父・島津久光、越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城が、直面する二つの政治課題「長州処分(赦免)」と「兵庫開港」について話し合い、将軍徳川慶喜との交渉に臨んだ。
5月14日の初会合では、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。
徳川慶喜たっての要請で四侯は二条城で記念写真に応じた。写真が趣味の慶喜が自ら撮ったという。
四侯会議の際に徳川慶喜が撮影したとされる写真。(右上から時計回りに)島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
四侯会議(かごしま明治維新特集/南日本新聞)島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)伊達宗城(融通無碍/南史観<人物評伝>)松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)薩摩藩はこの四侯会議を機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした
公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、幕府(=徳川慶喜)との政局に敗れ、薩摩藩の目論見は挫折した。
公武合体 (融通無碍/南史観<私観>)その結果、薩摩は完全に倒幕路線に舵を切ることになり、明治維新までの幕末劇(物語)が始まる。
・・・・・・・・・・・
2月21日
西郷帰る。
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[融通無碍]
◆西郷の離高
西郷は高知を離れたあと西へ。四国西端の足摺岬を回って宇和島に向かう。
容堂と同じく
四侯会議の参加メンバーとして期待される宇和島・伊達侯(伊達宗城)を説得し、成功した。
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2月22日
「我ら今度皇国のために」云々の容堂の
書付が藩士に公表される。
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[融通無碍]
◆書付<かきつけ>
容堂は
「我らの今回の上京は皇国のためであり、困難な旅だが少々のことでは挫くじけず・・・」と周辺に決意を披瀝して退路を断った積もり…。
有言実行か、大言壮語して竜頭蛇尾に終わるか。不言実行が恥をかかず、得策の場合も…。
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3月西郷隆盛と約束した四侯会議に参加するため、山内容堂は上洛した。
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4月樋口真吉は徒士目付役格式御用人として、山内容堂がいる京都に差し立てられた。
身
辺警護も含む山内容堂の側近としての任務だ。
真吉は
混迷する京都に上洛し、「慶応3年の大芝居」の舞台に(下士<足軽>のため徹底した裏方ではあるが…。)どっぷりとはまることになる。
混迷する京都 (融通無碍/南史観<私観>)======
[融通無碍]
この時期、真吉は京の土佐藩邸を中心に動き回った。
特に中岡慎太郎とは頻繁に会っているが、6月以降は慎太郎と接触していることの記録(日記)がない。
しかし、慎太郎日記を読めば、6月以降も変わらず、頻繁に会っていることが判明する。
倒幕路線を突き進む慎太郎との交遊を(倒幕を是としない土佐藩・官吏としての立場から)真吉は意識して秘匿したようだ。
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慶応3年4月
長崎の亀山社中は
海援隊と名を改め、坂本龍馬が隊長となり土佐藩公認の外郭機関(海運/有事には海軍として活動)になった。
海援隊(幕末足軽物語/関連話)本部は、長崎の豪商・
小曽根英四郎邸に置かれた。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた
陸奥宗光が主導して行なった。
陸奧宗光(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て 宛て))・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP282>
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4月23日
龍馬の海援隊船(
いろは丸)と紀州船が衝突、いろは丸が沈没した事件が起こる。
いろは丸事件(融通無碍/南史観<私観>)======
[融通無碍]
大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。
龍馬、小曽根英四郎(会計官)はじめ、いろは丸乗組員は明光丸に収容されて備後鞆ノ津に入港、英四郎知りあいの回船問屋桝屋清左衛門方に落ち着き、早速、紀州側と談判を開始した。
衝突直後の
龍馬の手紙がある。海援隊の
千屋寅之助宛てた事件の状況を知らせる手紙だ。
龍馬の手紙(千屋寅之助宛て>(幕末足軽物語/関連話)千屋寅之助(=菅野覚兵衛)
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)龍馬は
万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及。さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を長崎で流行らせるなどして紀州藩を批判した。
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◆万国公法
龍馬に万国公法を教授したのは長岡謙吉。
長岡謙吉
長岡は、天保5年高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の長男として生まれる。安政6年には家業の医師を継ぐため、長崎で二宮敬作に医学を学ぶ(後年、二宮の師であるシーボルトが再来日した際には英語や国際法の教えを受けた)。その後、高知城下東(鹿児)にて医者として活動、名医としての評判を得ていたが、やがて脱藩して長崎に赴き、坂本龍馬の下で海援隊に参加した。
龍馬は長岡の文才を高く評価し、文士として海援隊の通信文書の作成や、いろは丸事件の顛末書の起草など、事務処理のほとんどを長岡に一任していた。
慶応3年、夕顔丸に坂本龍馬、後藤象二郎らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を成文化したのは長岡とされている。
万国公法について、長岡謙吉に宛てた「
龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<長岡謙吉宛>(幕末足軽物語/関連話)長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~~~~
紀州藩と海援隊の交渉は、後藤象二郎ら土佐藩が全面的にバックアップし、また薩摩藩士・五代友厚の調停もあり、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後、減額して70,000両(現在の貨幣価値に換算すれば164億円/日本銀行高知支店の計算による)になった。
この「いろは丸事件」も、龍馬にとっては、唄もあり、はったりもありの「一世一代の大芝居」であった。
◆龍馬の大芝居/いろは丸劇場
紀州藩を相手に、龍馬が仕掛けた演出は、なんと!コマーシャル・ソング。 ん!?
「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る--♪」
龍馬はこんな戯れ歌<里謡(りよう)>を長崎の花街丸山で流行らせ、世論を味方につける巧みな攻勢を仕掛けたことはよく知られている。
これはまさに現代のCMプランナーだ。
龍馬は、長崎で豪商・
小曽根英四郎の兄・小曽根乾堂から中国の楽器、月琴を習ったといわれている。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でも、姉・乙女と一緒に一弦琴を習ったり、名曲『漁火』を演奏したり、また長崎では花街へと繰り出し『長崎ぶらぶら節』を楽しむ場面などが出てくる。
龍馬はかなりの音楽好きだったようだ。
小曽根英四郎(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)長崎ぶらぶら節( YouTube )ーーーーーーーーーーーーーーー
5月長州の桂小五郎が、土佐の坂本龍馬に話した「大芝居」は混迷の京都に役者が出そろい、慶応3年5月に幕が切って下ろされた。
ようやく、薩摩の西郷が斡旋した四侯会議の役者たちが京都に出そろった。芝居の始まりだ。
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[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP279>
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5月11日
殿下が将軍を召して言う。
「以前から言ってきたことだが、戎服・胡服(=洋服)姿の者が帝都を徘徊し、大阪湾にも異国船が入っている。大坂市中を勝手気ままに歩き、その上(神聖な)岩清水の神廟を覗くなど、言うべき語を失う。
帝都警衛のため設置した関門を無理矢理通行するなど一体誰が認めたのだ。これを知らないとは言わせないぞ。
28人の異人どもが先達<せんだって>から入洛しておるはずだ。これらのことをとくと相糾<あいただ>し、結果を報告せよ。」
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[融通無碍]
◆殿下が将軍を詰問
殿下とは、のちの明治天皇の摂政に就任した二条斉敬<なりゆき>(=関白)である。将軍は徳川慶喜<よしのぶ>。
この頃、慶喜は朝廷への対抗意識を燃やし、大坂城で各国の公使と対面(謁見)して自分が日本の実質的な統治を行なう権力者であることを誇示していた。
その証しとして「兵庫の開港」も確約したから、攘夷・鎖港の朝廷側の反発を招いていた。
まだ流動する世界で、主導権を握って実績を積み上げて、諸外国の支援を得ようとする姿勢が攘夷派を刺激し倒幕運動の火を一段と燃え上がらせた。
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5月12日
薩摩と越前と宇和島の三侯が土佐藩邸に来る。(四侯会議の根回しか)
真吉は石川清之助、高松太郎と逢う。
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[融通無碍]
石川清之助は中岡慎太郎の変名である。高松太郎は龍馬の姉の子(龍馬家を継ぐことになる龍馬の甥である。)
中岡慎太郎
この時期、土佐藩では薩摩藩の西郷隆盛が主張する「四侯会議」を積極的に後押ししており、真吉も藩邸で御用にかかわる。
この日、山内容堂が薩摩と越前と宇和島の三侯を土佐藩邸に呼び、二条城での会見のすりあわせをしたものと思われる。(四侯会議の初会合は14日に、二条城で開催された。)
土佐藩邸で四侯会議のメンバーが議論した同じ日、真吉と中岡慎太郎、高松太郎
が何のために逢い、何を話して、何を画策したのか、日記からは読み取れない。
高松太郎
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)龍馬の手紙<高松太郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・
5月14日、
京都・二条城を舞台に、初めての
四侯会議が開催された。
四侯会議 (融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・・
5月15日
乾退助(=
板垣退助)が江戸から京都に来る。
日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)退助は一時期、容堂に嫌われ江戸藩邸で閑日を過ごしていたが、老公入京を聞いて動いたようだ。
福岡孝弟(藤次)、中岡慎太郎らと武力倒幕の密議を交わした。(福岡は大政奉還の平和路線派、中岡は武力討幕路線派だ。)
福岡藤次
福岡孝弟(藤次)(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・・
5月18日
江戸にいた退助は、中岡慎太郎の手紙を受けて上洛した。
京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次や、広島藩の船越洋之助らとともに中岡と会見して武力討幕を議した。
その後、退助は中岡慎太郎の仲介で薩摩の西郷隆盛に逢っている。
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5月19日
容堂は宿痾<しゅくあ>(不治に近い持病=歯痛かも)の治療のため医学生を呼んだ。
容堂はこの日の四侯会議を病気で欠席。(21日も)
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[融通無碍]
◆容堂病気
永年の過度の飲酒で肝臓などは傷んでいただろう。
だが今回は四侯会議が思い通りに運ばないことが癪の種だった。歯痛もあった。
医学生は弘田親厚(中村・下田出身)かも知れない。
容堂は政局の帰趨を左右する重要人物、後には朝廷から英国医も派遣された。
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5月20日
幕臣・
原市之進が将軍・徳川慶喜の代理として病床の容堂を見舞いに来た。(原市之進は、徳川慶喜の懐刀)
原市之進(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)朝廷からは御酒を四樽、鯉二十尾を賜る。
(容堂は朝廷からも幕府からもお呼びがかかる。どうする、容堂!!。)
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5月21日
中岡慎太郎の仲介によって京都(御花畑)の薩摩藩家老・小松帯刀寓居(京都市上京区)で、土佐藩の板垣退助、
谷干城、毛利恭助、中岡慎太郎ららとともに、薩摩藩の西郷吉之助(=隆盛)、
吉井耕助、小松帯刀らと武力討幕を議し、大意を確認し薩土密約を結ぶ。
薩摩藩と土佐藩の実力者間で交わされた武力討幕のための軍事同盟=『薩土密約』だ。薩土密約は「武力倒幕路線」で、後の戊辰戦争に繋がる。
薩土密約 (幕末足軽物語/関連話)谷干城(四万十町HPより)
谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>)吉井耕助
吉井耕助(融通無碍/南史観<人物評伝>) また、この密約には江戸の土佐藩邸に匿われていた水戸浪士の身柄を薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれていた。後の
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に繋がる。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)薩摩藩邸焼討事件絵図(松山文化伝承館蔵)
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5月22日
(四侯会議で幕府と朝廷の間に立つ)容堂は、病気と称して御暇を願い立てる。(舞台から降りるか?)
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板垣退助は容堂に謁し
「今倒幕に積極的に動かねば、いずれ薩長の手下同然になり後塵を拝する」となかば脅し、密約を承認させる。
この「薩摩との密約・容堂の承認」を知るものはごく限られていた。容堂の側近中の側近、
寺村左膳にも知らされてなかった。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)決断のつかない容堂は悩み苦しむ。
退助の激情は死んだ
吉田東洋以上かもしれない。が、容堂は直言を好んだ。
吉田東洋
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>) 但し、上士による直言である。真吉ら下士(郷士)がこれを行えば「分を超えた行為≒処罰対象」と見なされる。が、容堂、今回はその真吉も連れての入洛だ。
伊豆・下田の遠州灘でのあわやの遭難経験が心に刻まれているのか。
伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話) ======
[融通無碍]
「焼け跡の釘<くぎ>拾い」という言葉がある。
消火活動に出遅れたら(混乱に乗じ、めぼしい物を盗む「火事場泥棒」も出来ず)ショボショボと金目<かねめ>ともいえぬ焼け釘を漁<あさる>こと。戦働<いくさばたらき>には平時の正義は無用で、早い者勝ちだ。
徳川を倒したあとの世界にこそ出番あり、と意気ごむ退助、徳川を倒すなど夢想だにしない容堂。
世は動いている。
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退助は薩摩藩と締結した密約及び水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿している事を山内容堂に稟申。
容堂は退助の勢いに圧される形で、この密約を承認、水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿させていることも黙認した。そのうえで板垣退助に土佐藩の軍制改革を命じた。
容堂の鶴の一声で板垣退助を筆頭として、土佐藩は軍制改革(軍備の近代化)を行うことを決定。中岡慎太郎らにアルミニー銃の購入を命じた。
一方、薩摩藩側も薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。
中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため、薩摩藩と土佐藩の間で武力討幕の密約が締結されたことを土佐勤王党の同志に知らせた。
「天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である。」と「檄文」を飛ばした。
さらに、退助は土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放した。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の党員ら300余名が板垣のもとで近代式練兵を行なうことになった。(これがのちの迅衝隊の主力メンバーとなる。)
結果的に、
武市半平太が率いた
土佐勤王党を、板垣退助が
迅衝隊として引き継ぐ形になった。
武市半平太
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>) 迅衝隊(幕末足軽物語<関連話>)・・・・・・・・・
5月23日
幕臣・
小笠原壱岐守が江戸に帰る。
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[融通無碍]
◆小笠原壱岐守
小笠原は勅命による幕府の長州征伐の総督であったが、
第二次長州征伐で惨敗し、文字通り敗軍の将となり面目を失った。
幕船・富士山に乗って戦線離脱、敵前逃亡した。
かれ、何の面目あって入洛したか。処分を決定するための召喚があったと解することもできる。いずれにしても、幕府の対応はいかにも遅い。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>) ーーーーーーーーーーーーー
[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP281>
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5月24日
将軍(徳川慶喜)が殿下(二条摂政)に兵庫開港を要求し迫る。
夜を徹した議論で、慶喜はまるで懐に拳銃を呑んだような態度で交渉し、殿下を虚喝し続けて、終に殿下は不本意な勅命(≒偽勅)を出すに至り、翌25日明け方の七ツ頃(4時)に退出した。
この日の夕方、三条橋のたもとに立つ高札が
「長州は朝敵だ」と明記していたから、これが引き抜かれた。(この行為がだれによってなされたかは記されていない)
この日に行なわれた朝議(四侯会議)で、徳川慶喜は幕府が要求する「兵庫を開港する」勅許を勝ち取ったが、その時の慶喜の一番の側近(ブレイン)として辣腕をふるったのが原市之進だ。
原市之進(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)徹夜の交渉など一連の政局における慶喜の完全勝利は原の功績であるが、これを妬む者も多く、また「兵庫開港」が水戸藩の尊王攘夷からの変節、奸臣と見なされ、同僚である水戸浪士・鈴木常二郎、依田勇太郎、鈴木豊三郎の刺客3人により暗殺された。
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[融通無碍]
◆徹夜の交渉
徳川慶喜は決死の覚悟をもって朝議(四侯会議)に臨んだ。
四侯には慶喜の動きに半ば諦め気味の雰囲気が漂い、春嶽、宗城の2人が参席したのみであった。(薩摩・土佐は不戦敗。)
朝廷は、徳川の要求を飲み、勅令を出した。(強要の末だから、真吉は日記に「偽勅」と書いた。)
①兵庫を開港する(徳川の要求)
②長州は朝敵ではなく寛大な処分に留める。
慶喜が主導して徹夜の交渉で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味した。
これにより、薩摩は幕府を含む公武合体に見切りを付けて、完全に「倒幕路線」に舵を切った。
・・・・・・・・・
5月26日
容堂は
馬に乗って登営(=登城)した。(辞任の挨拶か)
容堂は馬が好き (融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
5月27日
老公(容堂)が乗馬で帰国の途に就く。
(伏見で御宿を取ったあと大坂に一日滞在し、蒸気船に乗って高知・浦戸に着船の予定だ。)
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[融通無碍]
◆容堂、京都から遁走する
容堂は四侯会議もスルーして、早々に京都から遁走する。
当時、京童<きょうわらべ>歌に
「見えた 見えたよ 三条の橋に 丸に三つ葉の 尾が見えた」というのがある。
丸に三つ葉は土佐山内の家紋である。尾は乗馬姿の容堂を揶揄したものか。逃げて行く後ろ姿も大勢に目撃され京雀の噂になったか。
これとは別の関連する話題がある。
◆臆病湯と書かれた徳利
筆者が見た骨董に珍品があった。酒用の徳利である。首が長い。
この出所<でどころ>は県中西部・新庄川の中流域で、幕末には数多くの志士を出した村の旧家である。時代は幕末、土佐安芸の内原野焼きらしい。
それに書かれた文句が振るっている。
『京みやげ 臆病湯<おくびょうとう>』
筆者想像するに
容堂をからかった物だろう
もし容堂が帰郷にあたり京・土産を買うなら酒好きだから酒だ。
が、中身が愛飲の灘の銘酒「剣菱」では面白くない。
酒好きで臆病なら、臆病というやまいを治すには○○湯(葛根湯<かっこんとう>のように)に限る
それなら京都に行く前に薩摩の西郷と家臣に確約した「上洛して京・東山の土になる」をあっさり破約した大ぼら吹きの土産は「臆病湯」という薬が一番だ。
内原野焼きの酒徳利
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6月いろは丸事件の処理で長崎にいた龍馬と後藤象二郎はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ(大政奉還の)上書を行なうよう準備していた。
しかし、これより1ヶ月前の5月21日の時点で既に中岡慎太郎の仲介によって板垣退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した。大坂で武器300挺の買い付けを指示したあと、板垣退助らとともに土佐に帰藩していた。
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[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP283>
・・・・・・・・・
6月3日
真吉が相国寺前の旅宿に西郷吉之助を訪ねて逢う。
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[融通無碍]
◆真吉が西郷と逢う
中岡慎太郎日記には、同日の記録として「樋口と西郷に至る」とあり、この会見は中岡の紹介によるものか。
相国寺の前には薩摩藩の二本松藩邸があった。
この二本松にある薩摩屋敷こそ
龍馬暗殺の一月<ひとつき>前に、龍馬が友人望月清平に送った書簡中にある「薩摩が勧める緊急避難先」だった。
龍馬暗殺 (融通無碍/南史観<私観>)二本松の薩摩藩邸跡、現在は同志社大学の今出川キャンパス
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6月8日
祇園にて真写をなす。西山平馬も同じく写す。
真吉 写真を写す(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・
6月9日
いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。
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[融通無碍]
5月には京都で、将軍・徳川慶喜および島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤象二郎は山内容堂に京都へ呼ばれていたが、四侯会議には間に合わなかった。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。
それは以下の8項目であった。
①天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
②上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
③有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
④外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
⑤古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
⑥海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
⑦御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
⑧金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
以上の8項目は、長岡謙吉が筆記したとされ、歴史小説などでは「船中八策」と呼ばれ、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となったとされてきた。
しかし、江戸時代のものとは思えない文体で書かれており、内容も引用されたものによって食い違いがあり、かつ龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とされる。
11月に書かれた新政府綱領8策の自筆本は実在しており、思想や主張の内容はこれをと基に遡及して作られたものとされる。
船中八策(NHK動画)ーーーーーーーーーーーーー
[丁卯上京誌/真吉日記より]
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP283>
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6月13日
参政・後藤象二郎が着京した。
薩摩藩士・
田中耕助と
坂本龍馬が来る。
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[融通無碍]
◆田中耕助
かって、
日本漫遊の旅の途中、釣り好き田中耕助の招きに応じ、真吉は釣行をした。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)《「幕末足軽物語 樋口真吉伝/完結編」では、P121》
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◆坂本龍馬
想像だが、二人は言葉を交わさなかったのではないか。
川柳に『その二人 昼間は互いに 物言わず』
来島又兵衛の項でも引いた。
来島又兵衛
来島又兵衛(融通無碍/南史観<人物評伝>) ======
[融通無碍]
後藤象二郎は龍馬とともに、土佐藩船・夕顔丸で長崎から着京した。
その船中で龍馬が後藤に新国家の構想(=船中八策)を示したとされる。(異説有り)
田中耕助はかってロンドンに3カ月間留学した経験があるという。
残念ながら、後藤、田中、龍馬と何を話したかの記録はない。
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6月17日
白河邸(中岡慎太郎の結成した陸援隊がここに駐留した)に詰める軽卒が10人ばかり二条河原で納涼しながら一杯飲んで2組に分かれての帰途、先行組の2人と何者かが口げんかになるがそのまま帰った。
ところが後行組がそこを通り掛ると矢庭に斬りかかってきて軽卒1人が薄手を負って倒れた。後行組が次々と刀を抜いて対抗姿勢を示すと敵は逃げ去った。賊は2人だった。
・・・・・・・・・
6月22日
大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、薩摩藩と薩土盟約を結ぶことになる。
5月には薩土密約が成立しており、そのため一歩出遅れた後藤象二郎らは大坂で藩重臣らと協議し大政奉還論を藩論とするよう求める他なかった。
土佐側は坂本龍馬、中岡慎太郎、寺村左膳、後藤象二郎、福岡孝弟(藤次)真辺正心(栄三郎)が、薩摩側は西郷隆盛、大久保一蔵、小松帯刀が代表となり、龍馬の進言に基づいた王政復古を目標となす
薩土盟約が成立した。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>) 福岡孝弟(融通無碍/南史観<人物評伝>) 薩土盟約 (融通無碍/南史観<私観>)薩土盟約は「武力によらない平和的路線」、その後の大政奉還/公議政体へと繋がる。
一方、1カ月前の5月に成立した薩土密約は「武力倒幕路線」で、後の戊辰戦争に繋がる。
《当初、板垣には薩土盟約、寺村、後藤には薩土密約の存在が伏せられた。盟約、密約の両方に関わった中岡の差配か。》
真吉は、表向き(職務上)は薩土盟約に関わったと見られ、日記にも記述を残している。
しかし、裏では薩土密約にも深く関わっていたようで、5月21日の密約締結の場には、真吉の一番弟子とも言える
安岡亮太郎を参加させている。密約のことは、日記にはいっさい記録していない。
安岡亮太郎
安岡亮太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)後藤象二郎は薩摩との盟約を成立させると、土佐に帰って山内容堂に(大政奉還の)上書を行なった。
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[融通無碍]
慶応3年、土佐藩は幕府を中心とする公議政体論を藩論として決定、大政奉還のため薩土盟約を締結する。
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、布告させるという「平和路線」だ。
その後も、この路線で武力討幕派に対抗したが、薩摩の二股膏薬(薩土密約)などもあり伏見戦争(戊辰戦争)でこの平和路線は霧散した。
土佐藩も佐幕派の筆頭・旧藩主の山内容堂の突然の「君子豹変」で、討幕運動に加わることになる。
腹の探り合い/薩土盟約
この盟約には背景がある。
幕府の命脈が尽きようとしていることは薩摩、土佐ともに明瞭に見えていた。問題はどう収拾を付けるか。
武力倒幕の薩摩、平和裏に政権交代を実現したい土佐が曖昧な形で妥協して生まれたものだ。
だから契約が実効していた期間は極めて短い。
この6月22日(下旬)から9月上旬(明確な日付確定は困難だ)の間のたった2ヶ月半だった。
薩摩としては土佐を幕府側に立たせることは避けたい、その一心で妥協した産物だ。
この経緯を真吉は知っていたはずだが、日記には書いていない。
真吉は長州好きだった。薩長の対立と、変転極まりない薩摩の態度に嫌悪を感じていたか。そう考えておこう。
薩土盟約薩土盟約が締結された前後のことを長州藩士・三吉慎蔵に伝えた「
龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)~~~~~~~~~~
板垣退助は西郷隆盛と薩土討幕の密約を結んだあと、土佐勤王党の志士らを釈放した。
釈放された勤王の志士を再結集して土佐藩兵(=
迅衝隊)を結成、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。
迅衝隊 (融通無碍/南史観<私観>)また一方では、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が、土佐藩・参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導した。
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6月26日
芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
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7月・・・・・・・・・
7月3日
後藤象二郎氏が帰国する。同行帰国したのは寺村左膳らであった。
平和路線が薩摩の理解を得たとして高知に帰り、隠居・山内容堂に「大政奉還建白」の相談をするための帰国だった。
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7月4日
後藤象二郎が「平和路線の最終調整」のため高知に帰る。
龍馬が不在中の長崎で、英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。
その談判交渉が、高知の須崎で行なわれることになり、龍馬も高知に行くことに。
・・・・・・・・・
7月4日
幕府・鉄砲方と二条鉄砲組のケンカを
新撰組が仲裁する
寺は財産持ちだったから自衛の手段を日頃から講じ、幕府の鉄砲方を寺内に引き入れていたが、政情不安もあり気が立っている。踏んだ踏まぬは喧嘩の常。京の治安維持を主務とする新撰組も思わぬ出番が回る。新撰組とて人を斬りたくない。
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)幕府からの御達し書(通知文)
「市中取締りのため、陸軍奉行と歩兵奉行の銃隊頭、歩兵頭、撤兵頭、組合銃隊頭に附属する兵士が巡邏するからその心得のため通知する。」
将軍が鳥羽通りを通って大坂に下る。七カ国の船が大阪湾に入ってきたからだ。将軍は単身外国船に乗り込んだという。
幕府は近頃銀札を造り大坂辺の現金と引き換えを始めたらしい。大坂の豪商で一万両以上を融通する者は皆幕府の金融をするらしい。
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[融通無碍]
意味不明だが、経済・通貨・為替戦争が始まったようだ。
幕末のインフレ・デフレ(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
7月27日
客兵(中岡慎太郎傘下の浪士達/26名=陸援隊、後に田中健助<=
田中光顕>ら12名が追加加入/真吉はその名簿を入手していた)を白川邸入り(陸援隊の屯所として使用)させることが決定する。
田中光顕
田中光顕(融通無碍/南史観<人物評伝>)======
[融通無碍]
◆白川邸
土佐藩の京都藩邸・白川邸(現京都大学農学部構内にあった)は、前年の慶応2年に福岡藤次により購入され、結果的には陸援隊の屯所となった。
真吉は
佐々木三四郎と相談して、
中岡慎太郎傘下の浪士達を白川邸に入れる。
長崎の龍馬・海援隊と並び称される陸援隊の誕生である。
陸援隊(幕末足軽物語/関連話)この決定について、三四郎自身『他日罪人となることは覚悟している』と書く危険な行動だった。三四郎の気概を見る思いがする。こういう人柄が友を作る。
佐々木三四郎
佐々木三四郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・
7月28日
夜、由比猪内と佐々木三四郎が大坂に下る。
用務は、長崎において土佐藩の夕顔丸(龍馬が運行)の船員(海援隊員)が
英国人を殺害した事件(イカルス号事件)について本藩に確認と質問をするためだ。
英国水兵殺害事件(イカルス号事件)(融通無碍/南史観<私観>)(これに関連して)大坂の幕府役人が英国からの直訴もあり、とりあえず英国の動きを制止し「幕府自らが我が藩(=土佐)を糾問する」と幕吏・永井玄蕃から土佐藩大坂屋敷の留守居役に連絡があった。事の詳細は「在坂の閣老・板倉伊賀守に直に逢って聞くべし」と言われ、2人は幕府役所に赴く。
幕吏・平山図書頭、外川某、説木(=設楽)某が土佐に行くのは、英国人を斬った者が土佐藩船・横笛に逃げ込んだという情報によるもの。
由比、佐々木の二氏が土佐(須崎)に帰国する。幕吏も行く。英国(船)もその後を追って土佐に行くらしい。切歯切歯(歯がゆいことだ)。
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8月真吉は西郷隆盛にも相国寺前の旅宿で数回面談している。東奔西走する龍馬とも数回会っている。お互い知らぬふりをしていたのかも知れぬ。会った場所も土佐藩邸内ではないはずだ。
時局は土壇場に来ていた。
大政奉還である。
それも平和裏に終わればいいが、中岡慎太郎を中心とする陸援隊はもうこの時期には、世にはばかることなく武力倒幕を目指すようになっていた。
陸援隊員たちを京の白川にある藩邸に収容するよう積極的に動いたのは、真吉と武者修行の旅の経験のある佐々木三四郎で、藩からの処罰を覚悟の上の行動であった。
真吉の突然の辞職申し入れは、このことに由来するか。(三四郎を動かしたのは真吉だから)
京伏見での戦となれば陸戦が主体となる。長崎を本拠地とする海援隊(坂本龍馬)の出番はあるまい。
しかし、この時期には龍馬も中岡慎太郎も大政奉還・その後の幕府との戦いを見越して秘かに動いていた。
土佐藩・大監察の
本山只一郎に宛てた 中岡慎太郎の書状がある。(霊山歴史館蔵<京都東山>)
中岡慎太郎の手紙(youtube)慎太郎の手紙では、土佐藩も大政奉還に向けて行動をおこすことを本山に促している。
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)龍馬の手紙<本山只一郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・
8月1日
龍馬が兵庫の駅に着いた。幕吏も追い付いて来た。両者とも高知に急いでいる。
龍馬は乗船(=三邦丸)したがまだ蒸気は立っていないから帆を上げ出発した。幕吏も同じく帆を上げ追発した。
翌2日も1隻が出発する。英国船が長崎から来てこれも追発した。在港している仏船は4隻という。
~~~~~~~~~~~
真吉の日記の中に七言絶句の漢詩あり。本文は略すが大意は
「夷賊も幕府も大急ぎで高知に向かう。船中は衆議一致せず大騒ぎだろう。この混乱を断ち切れるのは誰か。後藤氏か、そうでなければ板垣君だ」
事件解決後の作だろうが、後藤と板垣への真吉の高評価が分かる。
後世の評価では後藤象二郎はあまり芳しくない(明治期のかれの所業の故か)。
・・・・・・・・・
8月6日
兵庫で約10人の脱藩人が英国船に討ち入って2人が捕縛された由、大坂の留守居役・石川石之助から報せが来る。
英国人を斬った事件は幕府の奸謀であること疑いない。
同じ頃芸州人・船越某が上京し同様の話を聞かされた。
さらに時任健三郎が帰って言うには
「それは間違いだ。少し事情がある。つまり仏人は神戸と兵庫の境目辺りで水練をしていたが旗本・青木源五郎の家来がこれを嘲弄したから仏人が怒って海辺に上がって来た。これを見た家来が抜刀するも逆に刀を奪われ縛り上げられた。この件について仏は幕府に対し『近頃毎度われらに不敬の挙動があり、ついには仏の公子に刀を抜き付ける事態にまでなった。とにかく横浜で談判して決着をつけよう』と言って早々に発船して去ったというのが事実だ」
======
《融通無碍》
◆真吉の記録は実況中継
情報が混乱しているが、真吉の記録に後出しジャンケンはない。当時のまま残る実況中継だ。
それ故、筆者は真吉の記録に大きな価値を見る。
明治の遺勲者たちが若輩連を前に「○○翁、往時を語る」のとは全く別世界の記録。懐旧談にありがちなリップサービスも誇張も老齢のための記憶違いもここにはない。どうぞこの点に留意してもらいたい。
事件当事者の本人が話したとしても、時間が経過すれば、話の内容の信憑性は相当薄れるだろう。
・・・・・・・・・
8月8日
佐々木氏らが乗った薩摩の蒸気船は今月1日、浪花を発し2日夜に土佐の須崎に着いた。
幕府の船も(1日遅れで)3日須崎着。
参政・後藤象二郎が薩摩・西郷隆盛氏に送った手紙に
「(大政奉還という)土佐の国論に変わりなく、さあ京都に行こうかとした時、土佐藩士が長崎で英国人を殺害した報せ(イカルス号水夫殺害事件)が飛び込んで来た。この一件が幕府の悪巧みに間違いないから(出発を延期して)英国などと直接交渉し幕府の奸謀であることを証明したい。その後藩侯父子が英国ミニストル(=公使)と懇親を結び土佐を出る予定だ」。
~~~~~~~~
薩摩の西郷氏が京都の土佐藩邸に来て言う。
「兵庫において英船に攻撃したのは脱藩浪人15人ばかりによるもので、このことは大坂の土佐藩邸・留守居役の石川石之助から聞いた。」
同じ内容を芸州の船越某も話した。
・・・・・・・・・
8月12日
本藩から幕吏の書類が届く。今月6日に高知城下から出されたもの。
この時点ではまだ英国船は土佐(=須崎)に到着していない。
須崎には渡邊弥久馬、由比猪内、後藤象二郎、佐々木三四郎が詰めている。
板垣退助も、2小隊を率いて須崎に来ている。
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[融通無碍]
◆板垣が2小隊を引率
船内の交渉では、陸で乾の小隊が活発に行軍するのを見て英国側が不快感を示し
「交渉より戦争する気じゃないか。不愉快極まる」と抗議すると後藤は涼しい顔で
「いや、通常の訓練、演習でござるよ」と答えて脇にいた容堂の側近・寺村左膳などを安堵させたという。
板垣は明治を迎えると政治家として自由民権運動をリードしたが、「政治家より軍人に適した人柄だった」という評価がある。
・・・・・・・・・
8月14日
水戸の浪士3人が幕府の大監察・
原市之進の旅館に押し入り刺して首を取った。
原の家臣が必死で賊を追い駆け全員を報復・斬殺する。
この蛮行を実行した水戸浪士の名は、鈴木常二郎弟、同豊三郎、依田勇太郎。
かれらは市之進の首を獲った他、板倉閣老への訴文を残した。
◆暗殺者たちの残した訴文
原市之進 梅津孫太郎
この者らは元水戸藩の家臣で、徳川斉昭(=水戸烈公)に奉事して先哲に交わりかねがね尊攘の大義を講究し当時顕要の地位に居て奸謀を巡らし、あまつさえこの度は兵庫開港を謀った。
この行為は先哲の教旨を顧みず、天聴を欺くもの。主君を助け尊攘の盛挙を施行させることこそ至当なのに、死を恐れ栄利を貪り快楽を主とすること少なからず。
われらは多言を待たず、玉体を破壊し天倫を滅することで共に天を戴<かざる>賊臣である。
衆の悪天を断ち必誅の義に基ずき今身を以って先帝在天の霊に謝し奉り、君臣の汚辱を雪そそぎ、衆人の冀<こいねがう>所に答えるもの。
天下有識の士よ、幸いにこれを諒解<りょう>とせよ。
(筆者、力不足で意味不明な文章になった。原文に忠実に訳するとこうなった。中学生レベルの英文和訳を表に出す、恥じ入るばかり。)
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《融通無碍》
◆原市之進(幕臣・大目付)
慶応3年5月24日に行なわれた朝議(四侯会議)で、徳川慶喜は幕府が要求する「兵庫を開港する」勅許を勝ち取ったが、その時の慶喜の一番の側近(ブレイン)として辣腕をふるったのが原市之進。
徹夜の交渉など一連の政局における慶喜の完全勝利は原の功績であるが、これを妬む者も多く、また「兵庫開港」が水戸藩の尊王攘夷からの変節、奸臣と見なされ、同僚である水戸浪士・鈴木常二郎、依田勇太郎、鈴木豊三郎の刺客3人により暗殺された。
原市之進(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)ーーーーーーーーーーー
暗殺者3人は閣老・板倉伊賀守の邸に入るも本人とは逢えず、
(原市之進の惨殺後)かれこれするうちに原の家臣が追いついて、豊三郎と勇太郎を斬る。
常二郎は(原の家臣を差し留め)、辞世の歌を書き残して屠腹した。
【辞世の歌】
闇の夜の 死手(出)乃山路を たとるとも 迷いはせまし 日の本の道
閣老の家来は常二郎の切腹を中途で制し、治療したが深手のため、舌が回らず
ただ「常州<じょうしゅう>」という言葉のみ分かったという。
・・・・・・・・・
8月15日
長崎で起きた
イカルス号水夫殺害事件が、土佐の須崎で談判交渉される。
イカルス号水夫殺害事件(融通無碍/南史観<私観>)須崎での談判交渉後、後藤、龍馬、佐々木三四郎らが高知から土佐藩船・夕顔丸に乗船して長崎に行く。
この船に英国の通訳・佐藤健之助(
アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)が加わり同乗した。
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[融通無碍]
◆佐藤健之助(アーネスト・サトウ)
イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、佐藤健之助は阿波経由で土佐に来ていた。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、山内容堂にも謁見した。
佐藤は龍馬とともに土佐藩船「
夕顔丸」 で下関経由で長崎に向かい、龍馬の紹介で桂小五郎と初めて会った。
夕顔丸
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[融通無碍]
◆土佐藩の洋式艦船
土佐藩の洋式艦船は『源氏物語』の巻の名に因んで命名されている。
「夕顔」・「空蝉」・「若紫」の他に、「箒木」・「胡蝶」・「羽衣」・「乙女」・「紅葉賀」が知られている。
「夕顔丸」モニュメント(長崎市西浜町)/この船中で大政奉還に繋がる龍馬の「船中八策」が起草された。
龍馬は海援隊員の疑義をはらすために長崎へ戻り、9月まで英国公使パークスとの談判にあたった。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている。(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
[余話](英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録より)
サトウとの交渉で後藤象二郎は
「土佐藩は事件とは全く関係ない」と論じている。
「英国を手本にして国会と憲法とを作ろうと思っている。薩摩の西郷も相似た意見を持っている」とも述べている。
幕末足軽物語/関連話<民撰議院設立建白書>サトウは
「後藤はこれまで会った中で最も才智の優れた日本人である。余の考えでは、独り西郷だけが人物の点で後藤に優れていた。」と記述している。
ーーーーーーーーーーーー
9月中岡慎太郎は、白川の隊舎内(陸援隊屯所)に大量の武器弾薬類を集積した。これを真吉に見せたのではないか。
国内には戦争に備えて武器が充満していた。攻撃するにも自衛するにも武備は必要だ。
諸藩が懸命に新武器を購入し実戦に備えて藩士を鍛えている。
幕府も大量の武器を抱えたままである。
平穏のうちに政権交代が行われる可能性は低い。せめて考えられるのは江戸市中での戦闘を避けることである。
・・・・・・・・・・
9月2日
桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗っていた)から龍馬宛に手紙がきた。
龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を1000丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めた。
幕末足軽物語/関連話<桂小五郎の手紙(龍馬宛て)・・・・・・・・・・
9月6日
大監察に復職した板垣退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。
これにより、勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を板垣退助が事実上引き継ぐことになる。
・・・・・・・・・・
9月8日、
京都で薩摩・大久保と西郷、長州・広沢真臣と品川弥二郎、芸州・辻が会い、出兵協定である三藩(薩長芸)盟約を結んだ。
これで薩摩は土佐の力がなくとも倒幕に見通しがついたと判断、薩土盟約の意義が失われつつある。
薩摩は、建前では平和路線、本音は武力討幕の方向に舵を切ったが、土佐はそれを知らない。
芸州、薩摩、会津などの動きが活発になる。
一連に動きから「どうも薩摩と安芸・広島の動きが怪しい」と真吉は感じていた。
さて、薩土盟約がどうなるか。
・・・・・・・・・・
9月9日、
土佐藩お抱えの刀鍛冶・
左行秀(豊永久左衛門)は、退助が江戸の土佐藩邸に尊皇攘夷派浪士を隠匿していることを、山内容堂の側近・寺村左膳に密告を行った。
左行秀(融通無碍/南史観<人物評伝>)幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP293>
慶応3年9月9日
この日、江戸から豊永久左衛門(=
左行秀)が来た。
~~~~~~~
左行秀は、16日に本藩(高知)に行く。
行秀は江戸藩邸での乾退助(=板垣退助)の行動<水戸浪士隠匿>に反発し、本藩に告発すべく江戸から京都へ来て、真吉らとも相談のうえ高知に向かう。行秀は刀工だったが龍馬の兄・権平とも親しかった。
真吉は(外交掛御用であるから「水戸浪士隠匿事件の
裏事情」を知っていたであろうが)、愚直な行秀の行動を黙認したのか。制止するが止められなかったのか。
======
[融通無碍]
◆裏事情とは?
左行秀は「乾退助が江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)に天狗党残党(水戸浪士)を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てている」と土佐藩重役・寺村左膳に対し密告<機密事項の暴露>を行った。
この密告は、建前論的には退助が処罰(死罪/切腹)されるほどの重大事柄であったが、土佐藩(乾退助)と薩摩藩(西郷隆盛)の間で締結された薩土討幕の密約<薩土密約>を山内容堂が知っていた<黙認していた>ため、退助は不問(処罰ではなく、軍制改革・近代式練兵の責任者に抜擢される)、行秀は図らずも「不埒な密告をする裏切り者」になってしまった。
よかれと思ってしたことが裏事情を知らなかったため、その後の人生を狂わせた。いつの時代にもよくあることだ。
その後、水戸浪士たちは土佐藩から薩摩藩へ移管され、慶応3年の暮れに戊辰戦争の前哨戦となる「
江戸薩摩藩邸の焼討事件」へと発展した。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)この事件は、薩摩が「倒幕の大儀を得るための陰謀」であった。やがて、翌慶応4年の鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争へと繋がって行く。
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9月20日
龍馬は、桂小五郎に
「先日いただいた手紙の中の「大芝居」の件は、かねてより知っていたことだけど、実におもしろい。」と手紙を出している。
龍馬の手紙<桂小五郎(=木戸孝允)宛て③>(幕末足軽物語/関連話)さらに、
「大政奉還が受け容れられなかった場合は、後藤象二郎を国へ返し、板垣退助を出す」と述べている。
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9月22日
中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く。
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9月23日
これらの動きに呼応し、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺あまりを船に積んで長崎から土佐へ運んだ。
途中、下関に寄港し、長州の伊藤博文らと会談したのち、廻船問屋・伊藤家に妻のお龍と妹の君江を預けた。
この際、龍馬は
「万一のご報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」との書簡を朋友・
三吉慎蔵に送り、お龍の後事を託している。
三吉慎蔵
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)三吉慎蔵は龍馬との約束通り、お龍・君枝姉妹を長府の自宅に引き取って面倒を見た。
龍馬暗殺後の翌年(慶応4年3月)、慎蔵はお龍・君枝姉妹を高知の坂本家に送り届けている。
その後、お龍の妹・君江は高知/和食(現高知県芸西村)の
千屋寅之助(=菅野覚兵衛)に嫁いでいる。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)寅之助の実家には、お龍も同居しており、和食の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。
お龍君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
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坂本龍馬らは一連の動きに呼応して、長崎より銃器を携えて土佐へ帰国。
龍馬、千挺の銃を土佐藩へ持ち込む(NHK)・・・・・・・・・・
9月24日
浦戸入港の時、龍馬は土佐藩家老・渡辺弥久馬(斎藤利行)に小銃の購入、及び討幕への覚悟を求めた書簡を送っている。
渡辺弥久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)◆龍馬の手紙(渡辺弥久馬宛て)
『この度は、銃一千挺芸州藩の蒸気船に積んで浦戸まで来ました。来る途中で下関により、京都の急報を聞きましたが、中々差し迫った感じでした。』
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[融通無碍]
龍馬は五台山下の料亭で、土佐藩家老・渡辺弥久馬と懇談、龍馬が土佐藩へ持ち込んだ銃千挺の商談がまとまった。
会談後、渡辺弥久馬は龍馬に帰宅を勧める。脱藩以来初めての帰宅だった。
銃の売却代金の他に謝礼も追加され、自宅で開かれた龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。
脱藩者が、秘密裏ではあるが公然に近い形で帰郷した。
龍馬は5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)・・・・・・・・・・
9月25日
龍馬は土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す。
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9月27日
本山只一郎宛ての 坂本龍馬書状/9月27日(霊山歴史館蔵<京都東山>)
龍馬の手紙(youtube)龍馬のこの手紙が書かれた時期には、本山只一郎は土佐藩の大監察という重役に就いていた。文中、龍馬は
「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」、
「運んできたライフル銃の購入を決めてほしい」と、本山をせかしている。
龍馬の手紙<本山只一郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)土佐藩が龍馬から購入したライフル銃は1000挺ともいわれる。後に真吉が土佐藩の輜重隊<兵站/武器弾薬食糧の調達・輸送・補充を用務とする>の責任者として参戦した戊辰戦争で使われることに。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・
9月29日
板垣退助は土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜられる。
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10月慶応3年10月になると、大芝居の第2幕/大政奉還の物語が始まった。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
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10月3日、
後藤象二郎と福岡藤次の両氏が建白書(=大政奉還)を閣老・板倉周防守に提出する。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)福岡藤次(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・・
慶応3年10月3日
容堂の同意を受けた後藤が二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
しかし、土佐藩幹部の中にあって板垣退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し
「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と真っ向から反対する意見を言上した。
このことで板垣は全役職を解任されて失脚した。
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10月4日
寺村左膳と神山左多衛が摂政・二条家に同じ内容の建白書を差し上げる。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・
10月5日
寺村左膳が立帰り(任務終了次第、戻る)で帰国し、本藩に京師情報を伝えることになった。啓太郎らが随従する。
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10月8日
後藤象二郎が幕府閣老・板倉周防守幕・板倉閣老に建白書の趣旨を説明するため出向く。
板垣退助は大政奉還に真っ向から反対して、土佐藩歩兵大隊司令役を解任された。
土佐藩は板垣退助の説く過激な武力討幕か、後藤象二郎の説く穏健な大政奉還かで、藩論が揺れ動く。
・・・・・・・・・
10月9日
龍馬が入京。
龍馬は入京したことを土佐にいる兄の坂本権平に伝えている。
龍馬の手紙<坂本権平宛て>(幕末足軽物語/関連話)徳川慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に
「建白が受け入れられない場合は、あなた(後藤象二郎)はその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なきときは、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」 と激しい内容の手紙を送っている。
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10月10日
坂本龍馬が長崎から長州、土佐を経て上京した。
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[融通無碍]
◆龍馬が長崎から上京した
慶応3年9月、龍馬は長崎で買い込んだ大量の新式銃を芸州藩から借入れた蒸気船を使って土佐まで送る計画で長崎を出発した。
途中、下関に寄港、そこで長州藩士・伊藤俊輔と面談して薩摩・土佐のことなどを話した。そのことを長州の桂小五郎に報告した「
龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(桂小五郎宛て<幕末足軽物語/関連話>)その後、龍馬は四国の西南端の足摺岬を回り高知の浦戸湾に船を停泊。
土佐藩は平和路線を取っているも、事態はどう転ぶか予測できない。
和にしろ戦にしろ武器は必要だった。
(<後藤象二郎=平和路線の>大政奉還は実現したが、結果的には龍馬が運んだ大量の新式銃は、<板垣退助=倒幕路線の>戊辰戦争で使われた。)
龍馬は土佐藩家老・
渡辺弥久馬、大監察・
本山只一郎と接触して好感触を得たから、直接交渉に踏み切り、五台山下の料亭で懇談。
渡辺弥久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)結果、藩の銃購入が決まった。
その後、龍馬は上京するが船の故障もあって須崎に舞い戻り別船に乗り換える等、予定を狂わせながらも大坂へ入港を果たす。
11月15日に京都で暗殺されるから、長崎から始まり大坂で終わるこの船旅(途中で高知を経由した)は、龍馬最後の船旅となる。
死の直前に福井に行くが、これは陸路だった。龍馬は死ぬために京都に入った。
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◆龍馬の動静(真吉日記より)
才谷楳太郎(=坂本龍馬)が長崎から長州、土佐を経て上京したが、その「龍馬の動静」を日記に書いていた。
龍馬は長崎で買い込んだ大量の新式銃を蒸気船・震天丸に載せ長州に寄港した後、四国の西南端の足摺岬を回り高知の浦戸湾に船を停泊。土佐藩への銃の売却だ。
土佐藩は武器は必要とし、銃の購入が決まった。
売却代金の他に謝礼も追加され、龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。
龍馬は11月15日に京都で暗殺されるから、長崎から始まり高知経由、大坂で終わるこの船旅は、龍馬最後の船旅となる。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)龍馬は大政奉還を見届けるため、
そして死ぬために、真吉の居る京都に入った。
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◆大政奉還
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)慶喜が長州に寛大な処分を決めたため、幕閣は武力討伐を主張するが、幕府軍の戦力を知る慶喜は強硬論を退ける。
そんな中、慶喜は幕閣から土佐の大政奉還建白の情報を聞き、坂本龍馬の「船中八策」を渡されて、側近の西周に徳川中心の新体制草案作りをいそがせる。
西周の「議題草案/徳川中心の憲法草案」が完成、慶喜はこれに沿って行動をおこすことにするが・・・。
西周(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)土佐が独自に大政奉還の建白書を幕府に提出、一方薩摩は倒幕の勅命を画策する。
慶喜は倒幕派の機先を制して大政奉還を表明する。
最後の将軍・徳川慶喜は倒幕勢力の主張に最も胡散臭さを感じていた。
大政奉還 歴史を動かした龍馬たち(NHK動画)大政奉還~竜馬暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)大政奉還(YouTube)~~~~~~
龍馬と永井尚志<大政奉還~伏見戦争>(幕末足軽物語/関連話) ・・・・・・・・・
10月12日
神山氏が摂政・二条家に(建白書説明のため)出る。
一方、慶喜は大小目付や諸有司など幕府要人を集め、政権奉還の書付を提示した。
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10月13日
二条城大広間に10万石以上の諸藩重臣を集め、板倉勝静が大政奉還上表の諮問案を廻覧した。
その後、直々に意見するために土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀らが慶喜に拝謁したが、小松は慶喜に大政奉還の賛成を表明した。
◆大政奉還
《日記・倦遣録より》
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP297>
幕府は二条城に諸藩を集める。集まった諸大名、その数40余であった。
王政復古(=大政奉還)を布告する紙面が参加者に配られる。
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龍馬の手紙
いよいよ大政奉還の可否を決める日。龍馬は二条城へ登城する後藤に決死の覚悟で臨めと檄文を送った。しかし、よほど力が入ったのか「(後藤)先生」を「生生」と書き損じ、これを下書きとして手元に残した。このときの緊張と高まりが直に伝わる第一級資料である。(坂本龍馬記念館HPより)
龍馬の手紙<後藤象二郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・
10月13日
将軍・徳川慶喜は二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
ここに、江戸幕府は理論的には日本政府の座を朝廷に明け渡したことになった。
大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下された。
【討幕の密勅(訳文)】
源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。
朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。
本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。
しかし、大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕の実行延期を命じられる。
最後の将軍・徳川慶喜は倒幕勢力の主張に最も胡散臭さを感じていた。
が、かれ自身の幕末の一連行動は似たようなもの。
最後の将軍・徳川慶喜
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10月14日
将軍・徳川慶喜が(摂政・二条家にか?)辞表を出す。
下横目・卯七郎が高知を8日に発ち、昨13日に着京した。
卯七郎が京都に来た理由は、近頃高知へ京師の情報が全く届かないのは(何か変事があって)途絶かと心配した上司が「お前、行って見て来い」と命じられたから。
真吉は高知の同志(島村祐四郎、桑原介馬、<中村の>諸君)に、京師の情報(大政奉還の諸事情<手紙>)を送る。
真吉が送った手紙<大政奉還!!>(融通無碍/南史観<私観>)(土佐山内家宝物資料館蔵)
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10月15日
15代将軍・徳川慶喜による大政奉還が勅許された。
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)そして龍馬と慎太郎はその1カ月後、11月15日夜近江屋において同時に暗殺された。
徳川幕府を倒して新しい国家を築く目前に、京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎は会談中刺客に襲われ、その生涯を閉じた。
大政奉還から龍馬&慎太郎暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・
10月16日
展望が見えた龍馬は、戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の『新官制擬定書』を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと西郷が勧めると龍馬は
「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。(この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典で、創作の可能性がある。ただし、龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話がある(『千里駒後日譚』)
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10月17日
薩摩の小松、西郷、大久保(=薩摩の大立者3人)が帰国する。
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10月19日
望月清平が勅書を持って帰国する。下横目・俊太郎も同行する。
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[融通無碍]
◆届かなかった手紙
《日記・倦遣録より》
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP298>
望月清平が帰国した前日(18日)、清平はすぐ近くの町屋・近江屋に潜伏する
龍馬からの手紙を受け取っていた。
その中身は大要で
「今、住む近江屋が危険なことは承知。だが薩摩の世話になるのもまずい。真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ」というものであった。
届かなかった手紙(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーー
10月20日
福岡と神山の二氏が御所に招かれる
・・・・・・・・・
10月24日
慶喜は将軍辞職を奏請したが、朝廷は勅許を拒否したので。この段階でも、実質的には幕府は朝廷に代わって、政治を代行していた。
坂本龍馬が
後藤象二郎の依頼で
山内容堂の書状を持って越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して由利公正(=三岡八郎)と会談した。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)======
[融通無碍]
龍馬が下横目・岡本健三郎に見張られながら越前福井藩へ向けて出発。
岡本の同行について記載した岡本宛の「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<岡本健三郎宛て>(幕末足軽物語/関連話)~~~~~~~
龍馬の福井訪問の目的は、
①大政奉還後の政治体制について
松平春嶽の考えを聞くこと。
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)②新政府の財政問題の解決方法を
由利公正に聞くこと。
由利公正(融通無碍/南史観<人物評伝>)新国家には松平春嶽の力が必須であるため、本来なら後藤象二郎が行くべきところ、後藤は大政奉還の顛末を山内容堂へ報告するため帰国しなければならず、代わりに後藤が龍馬を派遣した。
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◆龍馬、越前・福井に行く
龍馬は福井で由利公正に会い、新政府樹立後の経済運営と財政についてコタツに足を突っ込んで語り合う。
由利公正は藩によって逼塞された身の上だったから監視役がつき、龍馬にも同様の岡本健三郎がいる。
2人の相談事はコタツで足を暖めながらだったが、監視と見張りはその様子を遠巻きにして見るだけで「たまらん程ひやかった」という岡本健三郎の後日談がある。
由利公正も
「この出会いで龍馬から写真をもらった。その後川に落としてなくしたが、思えばそれは
龍馬が暗殺された晩だった」と言い残した。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)由利公正は謹慎中にもかかわらず坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。
龍馬とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが
明治新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
明治新政府(融通無碍/南史観<私観>)この会談が、後に(明治7年)後藤象二郎、由利公正、岡本健三郎らによる「
民撰議院設立建白書」に繋がって行く。
民撰議院設立建白書(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーー
11月船中八策をもとにしたとされる『新政府綱領八策』を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。
・・・・・・・・・
11月5日
福井から帰京した。
直後に、由利公正の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し、さらに10日(龍馬暗殺の5日前)には福井藩士・中根雪江宛てに、由利公正を出仕させるよう懇願する手紙を記している。
龍馬の手紙(慶応3年11月初旬)
越行の記(土佐藩参政・後藤象二郎に、越前福井藩を訪れた内容を報告した書簡。)
龍馬の手紙(後藤象二郎 宛て②<幕末足軽物語/関連話>)龍馬の手紙(中根雪江宛て)<新国家>・・・解説は尾崎前高知県知事
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暗殺直前の龍馬の手紙
◆暗殺5日前の手紙
龍馬の手紙(中根雪江宛て)<新国家>◆届かなかった手紙
龍馬暗殺の直前、龍馬は安全な宿の確保を真吉に頼んだ手紙がある。
しかし、その龍馬の手紙は真吉に届かなかった・・・。
届かなかった龍馬の手紙(融通無碍/南史観<私観>)樋口真吉伝・・・・・・・・・・
11月15日
龍馬・慎太郎が暗殺された。
龍馬と慎太郎が同じ日、同じ場所で刺客に攻撃され龍馬は即死、慎太郎は3日後死んだ。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)======
[融通無碍]
真吉はその死に様をだれかから聞いて、こう日記に書き残した。
龍馬暗殺/京都・近江屋(NHK動画)近江屋
日記・日新録<龍馬暗殺の日!>(融通無碍/南史観<私観>)龍馬と慎太郎が暗殺された夜、真吉は京都の土佐藩邸にいた。
当日の日記が残っている。「日新録」がそれである。それには、通説と違う記述もある。
龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃 、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された]。享年33(満31歳没)。龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。
龍馬暗殺は新選組の関与が強く疑われた。
慶応4年(1868年)4月に、戊辰戦争の最中、下総国流山で出頭して捕縛された新選組局長の近藤勇は、土佐藩の主力部隊の小監察であった谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名は全く出しておらず、斬首の理由としても言及していない。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している。
12月6日海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、陸奥陽之助らが紀州藩御用人の三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている。(天満屋事件)
明治3年、箱館戦争で降伏して捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥伴蔵、桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている。
その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーー
龍馬と小五郎の「慶応3年の大芝居」第3幕が龍馬暗殺で幕が降り、引き続き第4幕<師走のこと>へ。
大政奉還から龍馬暗殺まで (融通無碍/南史観<私観>)==========
[龍馬&小五郎/小話]
①西郷隆盛と、坂本竜馬と、桂小五郎、もし結婚するとしたら誰でしょう?と若い独身女性に聞くと「断然、桂小五郎!」だそうだ。西郷だと、家庭よりも仕事を優先しすぎのきらいがある。竜馬だと他の女性にモテすぎて心配になる。それに比べて桂小五郎はずっと一途に奥さんを大切にしてくれそうだからとか。
②安政の頃、坂本龍馬と桂小五郎が江戸の土佐藩邸で行われた剣術大会で対決した記録がある。勝敗結果は2対3で龍馬が敗北。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の場面と同様、接戦の後に小五郎が勝利したようだ。
龍馬の手紙<桂小五郎なるものあり>(幕末足軽物語/関連話)岩倉使節団右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允(=桂小五郎)
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大芝居/第4幕<慶応3年師走のこと>
12月《
日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
・・・・・・・・・・・・
慶応3年12月7日
この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも死ななかった。
龍馬暗殺後、
陸奧宗光は紀州藩士・三浦休太郎を暗殺の黒幕と主張し、海援隊の同志15人と共に三浦の滞在する天満屋を襲撃する事件(
天満屋事件)を起こしている。
龍馬暗殺(融通無碍/南史観<私観>)陸奧宗光(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)======
[融通無碍]
◆竜馬暗殺復仇隊
いろは丸の怨念から龍馬の暗殺犯とされた紀州藩幹部・三浦休太郎を討つため海援隊士を主体とする
復仇隊が作られ、京の料亭/天満屋で
新撰組の面々と酒を飲んでいた三浦を襲撃(天満屋事件)するも、討ち漏らした、と真吉は日記に書き残している。
龍馬暗殺復仇隊(融通無碍/南史観<私観>)新撰組(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~~~
さらに、倦遣録と同じ時期を扱った記録(愚庵筆記、壬戊日記)がある。
龍馬が暗殺された<慶応3年11月15日>ころの記録(
日新録)も現存する。
日記・日新録<龍馬暗殺の日>(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・・
慶応3年12月9日、
薩摩を中心とする倒幕派の画策によって、
王政復古の大号令が出され、一部の公家と5藩(薩摩・土佐・安芸・尾張・越前)に長州藩を加えた有力者が主導する新政府が樹立された。
王政復古の大号令(融通無碍/第40話)
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[真吉日記]
12月9日~大晦日
9日 老公(山内容堂)が参内する。(御所での三職会議<明治天皇臨席>に出席)
10日 老公(山内容堂)が河原町土佐藩邸から大仏邸に。
12日 会津、桑名、大垣が大坂に下る。《兵庫行きを命じられる。》
13日 将軍・徳川慶喜が大坂に下る。加賀が上京する。
14日 《出京して伏見まで南下する。》
15日 徳川の歩兵が土手を歩いて大坂に向かっているのを見る。《船を雇い淀川を下る。大坂について河藤に宿す。》
16日 紀州勢は天王寺に宿陣している。《大坂に留まる。》
17日 《陸行して西宮に宿す。》
18日 《兵庫の三本屋に宿す。》
19日 《豪商・北風庄右衛門を訪問する。》
20日 《小舟に乗って外国船を見る。停泊する外国船は米、英、仏で20ばかり。》
22日 《浪花に戻る。》
23日 《伏見。》
24日 《帰京。》
27日 政変で追放されていた五卿が京都に戻った。
28日 高札を改正する。《三条殿に謁し一書を呈上する。大原郷に拝謁する。》
大晦日 《宿毛の齋原治一郎<後の大江卓>が高野山から上京する。》
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慶応3年12月23日
海援隊士の
陸奥宗光が大坂のイギリス公使館にアーネスト・サトウを訪ね、新政府の承認問題について意見交換をする。
陸奥宗光(幕末足軽物語/関連話<人物評伝>)アーネスト・サトウ
陸奥は皇族の一人が大坂城内で外国公使と会見し、王政復古の布告を宣言することを提案、サトウの賛成を得ると、これに基づく意見書を議定・岩倉具視に提出した。
岩倉具視
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慶応3年12月25日
江戸で
薩摩藩邸焼討ち事件が起こる。
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[融通無碍]
薩摩の西郷の謀略で「
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」が起こる。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)~~~~~~~~
薩土密約に基づき薩摩の西郷隆盛が谷干城に「京都で合戦が始まる」ことを告げる。この情報を高知本藩に伝えるため急遽、谷干城が早馬で土佐に向かうことに。
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[融通無碍]
西郷は土佐藩兵の上洛を促し、これに呼応して板垣退助が
迅衝隊を率いて上洛、そのまま関東・東北へ兵を進めた。戊辰戦争だ。
迅衝隊(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆鳥羽・伏見の戦い
大政奉還で一大名になったつもりの徳川慶喜(旧幕府)、あくまでも倒幕を目論む薩摩・長州藩、その間で狼狽する朝廷、それぞれの思惑が絡んで鳥羽伏見で薩長軍と旧幕府軍(会津・桑名藩など)が戦闘状態になった。<鳥羽・伏見の戦い>
土佐藩(山内容堂)は「この戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘である」と日和見を決め込んでいたが、『薩土密約』から京都の土佐藩兵(真吉も)が、伏見方面の戦闘に参加してしまう。
戊辰戦争が鳥羽伏見の戦いから始まり、幕府軍の愚行を見て容堂は佐幕から倒幕に変心した。
愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)「徳川家への旧恩に報いる」ことに専心した男が、全く正反対の向こう岸に飛び移った、大嫌いな船も使わず。取り巻きたちは仰天する。
容堂は言い放つ。
『やると決めた以上、即刻やる。やれ!』
側近は戦費問題を持ち出して説得する。
戦費調達(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・・
◆丁卯上京誌
慶応3年の「真吉日記」である。
このとき真吉は、土佐藩京都藩邸で容堂の側近として仕えており、四侯会議・薩土密約・薩土盟約・大政奉還・龍馬暗殺などの生情報を記録している。
丁卯上京誌(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~
慶応3年の暮れの世情
この頃京都市中に神仏の名号(御札おふだ)が降る。その騒ぎが喧やかましい程だ。(群集は)日夜踊り狂って止まない。
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[融通無碍]
◆御札が降る
全国的に起った珍現象である。
「えじゃないか えじゃないか」と歌いながら踊り狂う民衆が町にあふれた。
土佐でもそれ以前から「のえくり」と呼ばれる民衆の踊り(あるいは行列)が鏡川河畔の潮江の川原で続いた。
前の人の着物を握り蛇のような列をなしてジグザク行進する。あまりの喧騒に手を焼いて藩庁はこれを禁止した。
転換期には諸外国でもこんな現象が起きるらしいから、人間の本性に基ずくものかもしれぬ。
えじゃないか(融通無碍/南史観<私観>)慶応3年が、終わった。
「慶応3年の大芝居」の幕が降りた。慶応4年は、戦乱(
伏見戦争)が待ち構えている。
これは芝居ではなく、日本人同士の戦い<活劇>『
戊辰戦争』だ。
「慶応4年の大活劇」の幕が揚がった。慶応4年の大活劇<伏見から戊辰戦争へ>(融通無碍/南史観<私観>)真吉と戊辰戦争(融通無碍/南史観<私観>)慶応4年/戊辰の年、秋には改元され明治となる。真吉、54歳
《鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争/1月、堺事件、新政府有栖川宮熾仁親王を征東大総督に/2月、甲州勝沼の戦い/3月、江戸城無血開城/4月、新政府軍会津若松城を攻撃/8月、会津戦争に勝利し東京・高知に凱旋/11月》
明治元年(融通無碍/南史観<私観>)明治の新政府(融通無碍/南史観<私観>)*****************
ブログ
土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)*****************
幕末足軽物語/関連話<大芝居の立役者たち>
この大芝居のプロデューサー、脚本家、は誰なのでしょうか?
この大芝居を演出した、また出演した「新しい時代を切り開いた立役者たち」のコメント集です。(皆、役者じゃのうし!?)
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2024.03.05.12.00