■川柳(高知新聞「高新文芸」より)
寒卵大鵬逝ってしまひけり 市川千年(土佐の森・救援隊会員)
【評】寒の内(小寒から節分まで)に産まれた卵を寒卵といい、それを食べるとお金に困らないそうだ。人々は何かにつけて縁起を担ぎ福を呼ぼうとしたのである。高度成長期「巨人、大鵬、玉子焼き」と囃したのもこの類かも知れぬ。故に大鵬は逝ってはならぬものだったのだ。寒卵の最中1月19日大鵬は逝った。
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■大鵬がやってきた(大相撲四万十川場所)
「巨人、大鵬、玉子焼き」、と1960年代に活躍し、大相撲の黄金期を築いた横綱大鵬。当時、子どもたちが好きなものの代表格にも称せられた。そんな人気絶頂の大鵬関や、ライバルだった柏戸関らが四万十市(旧中村市)を訪れたのは、1963(昭和38)年10月のことだった。(井上智仁)
【写真】力士街を行く/38.12.24(小谷貞広写真集「ゆく河の流れ」1980より)
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[土佐の森・文芸(短歌)] ブログ:
四万十川の文化人「小谷貞弘」より
秋場所のテレビカメラは時々に見目よき桟敷の女を映す 小谷貞広
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◆テレビ桟敷
この写真は、取組を終えた力士らが市街地を闊歩し、その後を観衆がずらりと追っている光景をとらえている。小谷のおんちゃんが振り返る。
『右端が大鵬。暑い時期じゃなかったのに、力士は浴衣一枚でしかもはだしやった。』
現在はテレビ桟敷で大相撲を楽しむ小谷さんだが、当時はあまり相撲に関心がなかったという。
『大鵬を見ても、それほどうれしいとは思わんかった。けんど、今思えば貴重な資料になった・・・』
当時、小谷のおんちゃんは、近くで食堂を経営。
『町に出ていた人は多かったけど、食堂の客はいつも通り。もうちょっと、うちも賑わったてくれたら良かったね・・・』
と、ちょっぴり、ほろ苦い思い出もあるようだ。
(井上智仁/高知新聞「わが町の100年・20世紀ワンショット」より)