◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
土佐の森・文芸 幕末足軽物語/融通無碍
[関連話]
プレイバック/土佐の森・文芸[第50話]
海援隊◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◆亀山社中から海援隊に
慶応3年4月、龍馬や中岡慎太郎の脱藩罪が許され、
亀山社中は海援隊に改編された。
亀山社中(融通無碍/関連話)この時に明文化された規則が「海援隊約規」

海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵/弘松家寄託)
5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
ーーーーーーーー
【土佐藩の隊士】
坂本龍馬、長岡謙吉、池内蔵太、石田英吉、近藤長次郎、坂本清次郎、佐々木多聞、沢村惣之丞、新宮馬之助、高松太郎、千屋寅之助、中島作太郎、野村辰太郎、宮地彦三郎、安岡金馬、吉井源馬、島村要
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)池内蔵太(融通無碍/人物評伝)石田英吉(融通無碍/人物評伝)近藤長次郎(融通無碍/人物評伝)坂本清次郎(融通無碍/人物評伝)沢村惣之丞(融通無碍/人物評伝)新宮馬之助(融通無碍/人物評伝)高松太郎(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)中島作太郎(融通無碍/人物評伝)野村辰太郎(融通無碍/人物評伝)宮地彦三郎(融通無碍/人物評伝) 安岡金馬(融通無碍/人物評伝)吉井源馬(融通無碍/人物評伝)島村要(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
◆海援隊日史
慶応3年4月から7月頃の海援隊の記録。
その内容の主なものは、海援隊約記の写、いろは丸衝突事故の簡単な記録、新政権構想素案などである。
筆者は海援隊の文官で龍馬の秘書役だった
長岡謙吉とみられる。
長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)特に「新政権構想素案」は慶応3年前半段階に海援隊で考えられていた政府構想としてとても重要な内容をもっている。
海援隊日史京都国立博物館

海援隊旗(この旗印は「二曳にびき」といい、海援隊の会計を勤めた岩崎弥太郎が基礎を築いた三菱の、船舶部門「日本郵船」の社のマークとして、白地に二本の赤線が使われ、煙突にも描かれた。やはり「二曳」という。)

海援隊(左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)溝渕広之丞(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)山本洪堂(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)白峰駿馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
【その他の隊員/土佐藩以外】
陸奧宗光(融通無碍/人物評伝)渡辺剛八(融通無碍/人物評伝)佐柳高次(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
海援隊の立上げに関わった土佐藩参政・
福岡藤次には海援隊隊長・坂本龍馬とのエピソードがある。(『福岡孝弟手記』より)
福岡藤次(融通無碍/人物評伝)手記に福岡藤次は海援隊及び
陸援隊の設立主旨をこう記している。
「我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所に任す。鳥かごの中に入るものではない。今後、海の海援隊だけでなく、陸援隊をあわせて『翔天隊』と言わん。この理想と精神を忘れてはならない。」
陸援隊(融通無碍/関連話)坂本龍馬は暗殺された当日、近くの酒屋に寓居する福岡藤次を2度も訪問している。福岡はいずれも不在だったため、龍馬は暗殺現場である近江屋に戻ることになる。
もし、酒屋に藤次が居たならば・・・
歴史に「もしも」は禁句。
龍馬暗殺(融通無碍/関連話)~~~~~~~~
海援隊の立上げ(土佐藩の公式機関として取り込み)に関わった土佐藩の重役としては
佐々木高行もいる。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)佐々木高行は長崎で龍馬や
亀山社中・海援隊と深く関わっている。
亀山社中ーーーーーーーーーー
[佐々木高行日記より]
保古飛呂比(出典:
魚の目<魚住昭>)
この頃の海援隊の様子について『佐佐木老候昔日談』には次のように描かれている。
此頃の海援隊の貧乏と言うたらない。
石田英吉が船長となつても、その衣服がない始末。才谷(坂本龍馬)より『石田英吉も20両あれば間に合ふから、やつて貰ひたい。さもなくば自分(=佐々木高行)の着古しの衣服でもやつて呉れ』と手紙で頼んで来たので、その金額丈けやると、一寸した洋服を整へて、先づ以て船長らしくなつた。
石田英吉(融通無碍/人物評伝)◆龍馬の手紙
このたび石田英吉の航海のことですが、以前から衣服の少ない者たちなので、はなはだ気の毒です。金を与えてくだされば早速に買い求めます。もし先生のお着物でもあれば、与えてくださるならばよろしいのですが。今回の英吉の仕事は非常の用向きなので、(土佐藩の)官費よりそうした金を出してしかるべきかと存じます。何とぞよろしくお取りはからいを願います。謹言。龍拝 佐々木さま
ーーーーーーーーーー
[佐々木高行日記より]
初め海援隊の出来た当座は、
後藤象二郎や
福岡孝弟なども滞在して居つた。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)後藤象二郎は土佐商会の総裁であるから、
岩崎弥太郎などもその命を聞いて、海援隊を助けて居つた。また海援隊の方でも、不時必要の時には土佐商会に無心に行く。
岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)後藤象二郎等が居なくなつてからは、岩崎弥太郎などは厄介の様に思うて居る。
岩崎弥太郎は学問もあり、慷慨の気に富んで居るが、商業を以て國を興すといふ主義を懐いて居て、丁度海援隊とは反対である。
海援隊からは屡々金の融通に行く。土佐商会の方でもさうさう際限なくやれぬので、之を謝絶する方針を採つた。
すると海援隊の方では、天下の為めに尽力するものを厄介視するとは不都合であると言うて攻撃し、互に軋轢する様になつた。
才谷(=坂本龍馬)は度量が大きいから、それ等の壮士を抑へて、先づその衝突を避けて居たが、内情に立入ると、右様に僅かの金にも困つて居たのだ。
◆慶応3年8月25日、曇り、
今朝、端本喜之助を立山役所へ出した。官金20円を石田英吉に渡した。才谷らがたびたび来る。
夕方、石田英吉・
岡内俊太郎、下等士官の小柳高次、高見島[シハク](塩飽諸島の高見島。幕末、初めて太平洋横断した咸臨丸の水夫のうち四人は高見島の出身だった)の水夫小頭梅吉、ほかに水夫一人が幕府の長崎丸に乗り込んだ。
岡内俊太郎(融通無碍/人物評伝)その際、一樽(※酒樽のことか)を持たせた。夕刻より肥前藩士副島次郎(=
副島種臣)に藤屋で会った。このごろ肥前人では副島次郎・大隈八太郎(注④)の両人が最も人物であると聞いた。
副島種臣(融通無碍/人物評伝)時勢談をしたが、同藩は佐幕の風があるので、胸襟は開かず、適当に談話した。
夜四ツ(午後10時ごろ)前に帰途、宿より使いが来た。立山役所で御用があるとのことで、出頭した。
帰途、
渡辺剛八の下宿に行き、御用のことを伝えた。
渡辺剛八(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
龍馬は長崎で女遊びに誘う手紙を佐々木に書き送ったり、下宿先にやって来ては自分の家のようにして宿泊するなど深い交流を重ねた。
のちに佐々木高行は、
「才谷(=龍馬)と自分との間には、随分面白い事が多く、今思へば実に抱腹する事もあった」と回顧している。
龍馬没後は海援隊を手厚く保護し、海援隊士らも深く佐々木高行を信頼していた。
◆龍馬の手紙(佐々木高行 宛て)
佐々木高行 宛て①(鉄砲千挺取り揃えた)
佐々木高行 宛て②(飲み会の誘い)
佐々木高行 宛て③(小五郎の手紙)
ーーーーーーーーーー
慶応3年1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は海援隊士でもある溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察/参政・
後藤象二郎が会談した。(清風亭会談)
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)長崎清風亭会談この結果、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まった。これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、溝渕広之丞、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助(=陸奧宗光)、越後長岡藩の白峰駿馬、讃岐国塩飽佐柳島の出身・佐柳高次ら)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。
同時期、
中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応3年1月16日
龍馬は、長崎で会談した土佐藩参政・後藤象二郎について、「十分話し合ったが大いに面白い人」と長州藩士・
三吉慎蔵に報告している。
三吉慎蔵(融通無碍/人物評伝)龍馬の手紙(三吉慎蔵 宛て)・・・・・・・・・・・
慶応3年4月
海援隊と名を改め、坂本龍馬が隊長となり土佐藩公認の外郭機関(海運/有事には海軍として活動)になった。
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て 宛て))・・・・・・・・・・
慶応3年9月23日
イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺を船に積んで長崎から土佐へ運んだ。
イカルス号水夫殺害事件(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
海援隊の商事秘記[
佐々木高行/日記「保古飛呂比」
魚の目<魚住昭>より]
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)9月14日、蘭商ハットマンと條約(取り決めを結んだという意味か)、ライフル1300挺買い入れのことを話し合った。
ただし(手付金として)4000両を入れておいて、残りは90日後に払うことになった。
9月15日、契約書と金4000両を持参。陸奥陽之助および請け人(契約の保証をする人)鋏屋與一郎・廣せ屋丈吉、[そのほか商人3、4人]、通訳の末永猷太郎とともに、出島のハットマン商会に出向き、昨日の約定の通り、ライフルを受け取ることを話し合い、その場で引き替えた。
ハットマン商会よりライフル目録書ならびに品質請け合い書を出した。それには末永氏の翻訳書も添えられていた。
長崎から土佐へ運んだ銃のこと(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応3年11月15日
龍馬が京都の近江屋で陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに暗殺される。
坂本龍馬と云う支柱を失った海援隊は大きな転機を迎えた。
坂本龍馬の葬儀を無事終えた海援隊の一同は、幕府の探索の目が厳しい京を出て一旦大坂に集結したが、その中では陸奥陽之助らを中心とした一団が、自分達自らの手で坂本龍馬の復讐を実行するのだと息巻き、血眼になって下手人の捜索に乗り出した。
いろは丸事件に絡んで、紀州藩の
三浦休太郎を犯人と決めつけ、「
竜馬暗殺復仇隊」を結成して、京の料亭/天満屋で新撰組の面々と酒を飲んでいた三浦休太郎を襲撃する。(天満屋事件)
三浦休太郎は手傷を負うが危機一髪で逃れた。
三浦休太郎(融通無碍/人物評伝)竜馬暗殺復仇隊(融通無碍/関連話)
旅籠・天満屋/京都油小路
《
日記・遣倦録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
・・・・・・・・・・・・
慶応3年12月7日
この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも死ななかった。
~~~~~~~~~~
三浦休太郎は紀州藩士。
この年(慶応3年<1867>4月)龍馬の海援隊船(いろは丸)と紀州船が衝突、いろは丸が沈没した事件が起こる。
いろは丸事件(融通無碍/関連話)いろは丸事件(NHK動画)・・・・・・・・・・・
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いが始まる。
龍馬の暗殺で求心力を失い、天満屋事件の後、海援隊は分裂状態になる。
独自の道を模索する長岡謙吉、陸奥宗光等の一団は京都に留まり、千屋寅之助(=菅野覚兵衛)石田英吉らを中心とする一団は横笛丸で長崎に帰った。中島作太郎は高野山の挙兵に参加する。
陸奥宗光、安岡金馬、白峰駿馬、吉井源馬等は新政府に出仕し、その後は明治新政府のそれぞれの場で活躍した。
・・・・・・・・・・・
慶応4年、京に留まった長岡謙吉は、京の情勢、海援隊の状況等を建白書にして度々新政府に提出した。その結果、
慶応4年4月12日、長岡謙吉は土佐藩大監察・
小南五郎右衛門より2代目海援隊長に任命された。
新海援隊だ。
小南五郎右衛門新海援隊(融通無碍/関連話)=====
[融通無碍]
◆長岡謙吉に出された辞令
『長岡謙吉:爾来之海援隊長其儘を以て讃州島に御用取扱勤隊長被仰付之』
同時に12名の海援隊士(八木<宮地>彦三郎、桂井隼太、勝間桂三郎、得能猪熊、橋詰啓太郎、島橋兼吾、堀謙司、波多彦太郎、岡崎恭輔、島村要<土岐真金>、島田源八郎、武田保輔)に長岡謙吉の弟・長岡謙次郎を加えた13名が
『長岡謙吉に付属被仰付候事』の辞令を受け、新(再編)海援隊が発足した。
こうして長岡謙吉は、土佐藩から新海援隊長を命ぜられ讃岐諸島を湯治するかたわら、坂本龍馬の志を継ぎ、新政府のもとでの海軍創設を目指していた。
慶応4年4月18日付けで海軍建設意見書を建白している。
◆海軍建設意見書を建白
『海軍之急務たるは弁論を不待候。因て愚味を不顧、見込之次第別紙に言上仕候。御採用被仰付候はゞ難有仕合に奉存候。誠恐誠惶謹言、神武開闢2528年第4月18日 長岡謙吉』
【別紙】
第一、総督 1名 宮公卿之に任ず
第二、副総督 3名 公卿諸侯之に任ず
第三、参謀 10名 副参謀 20名 草莽間より特抜す
第四、海軍局 瀕海之地に於て一巨厦を造築す。兵庫、蓋其地なり
第五、局費 徳川氏封地中に就て八分之三を採り、局の諸費に抵、或は関西諸国に散在せる徳川領、及旗本領を収用するも亦可なり
第六、船艦 徳川氏の船艦を収用し、諸費局中より出づ
第七、局中規律 洋人数10名を招請し、天文地理測量器械運用等、一切の諸課を嚮導せしめ、或は一艦毎に教導師1、2名を乗らしむ。而て学則軍律悉く洋式に従ふ
第八、生徒 海内之列藩に課し、有材之子弟を貢せしむ
~~~~~~~~~~
長岡謙吉の元には13人の隊員(
八木<宮地>彦三郎、桂井隼太、勝間桂三郎、得能猪熊、橋詰啓太郎、島橋兼吾、堀謙司、波多彦太郎、岡崎恭輔、
島村要<土岐真金>、島田源八郎、武田保輔、長岡謙次郎)が参集し、
新(再編)海援隊を結成した。
宮地彦三郎(融通無碍/人物評伝) 島村要(融通無碍/人物評伝)新海援隊(融通無碍/関連話)12名の同志を得た長岡謙吉は、弟の長岡謙次郎を加えて、13名が讃岐の国髙松に向かった。
讃岐高松藩の松平家は徳川幕府の親藩であり、鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍と行動をともにしたので朝敵の烙印を押されてしまった。
~~~~~~~~~~
慶応4年1月、土佐藩に対して讃岐髙松藩征討の勅命が下った。
土佐藩に四国内征伐命令(融通無碍/関連話)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版)《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P312》
・・・・・・・・・
慶応4年1月10日
土佐に錦旗が授与された
征討仰せ付けられ候に付き、御紋御旗(錦の御旗)二流下賜候事 正月
高松 松山 大垣 姫路
右四藩、従来天朝を軽蔑し奉る義、少なからず候処、剰あまつさえこのたび慶喜反逆に与力し、官軍に敵し候段大逆無道、これに依って征伐の師(軍勢)差し向けられ候事 正月十日
土佐に錦旗が授与された(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
慶応4年1月13日
真吉は錦旗を守護して本藩(高知)に帰る予定で動き始める。
土佐藩への伝達組一行は大監察・
本山只一郎、徒監察・
樋口真吉ら12名。
本山只一郎(融通無碍/人物評伝)樋口真吉(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
こうした状況を知った長岡謙吉は、新海援隊を率い高松へ赴き、土佐藩の本隊(
迅衝隊)の到着前に高松藩主・松平頼聡を恭順させ、髙松城を無血開城に導いた。
迅衝隊(融通無碍/第56話)・・・・・・・・・
《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P314》
慶応4年1月18日
午時丸亀に達す。
深尾丹波(土佐藩:佐川領主で一万石)が本藩から兵隊を約1500人引き連れ川ノ江に宿陣していると聞き、行軍を急がせるためそこに赴く。和田浜まで行ったときこの兵隊たちが来た。土佐藩の迅衝隊(=深尾丹波隊)である。
・・・・・・・・・
慶応4年1月19日
総勢、丸亀に着陣し高松征討隊がそろった。
・・・・・・・・・
慶応4年1月20日
早朝、総勢で(錦旗を先頭に)進発したが、(干潮で干潟が出来て)泥が粘り付くから思うように進めない。しかたなく真吉らは陸行した。
高松藩との境に来た。
藩の家臣はいずれも麻裃<あさかみしも>を着用し刀無しの(無条件降伏)姿でズラーと道端に頭を地面に擦りつけるように平伏している。みなみな嘆願書を懐中にして愁訴も受け取ることなく進む。民家は戸を閉ざし、真吉らが歩む道にはチリひとつない。
途中の寺で軍糧を使い(食事する)、城下に入る。
城下のとある寺で小休を取ったあと黄昏、高松城に乗り込む。
すでに髙松藩主・松平頼総は城を抜けて一寺に入り謹慎している。家老が嘆願書を持ち出す。筆頭家老は割して謝罪していた。
錦旗を城中に立てた。警備に必要な人員のみ残して、ほかは城を出て高松藩の準備した米澤屋に泊す。

高松城
~~~~~~~~~~
その後、新海援隊は天領であった小豆島を占領、塩飽本島の鎮撫に務めた。
その頃、塩飽本島の小坂部落で人名と称する人達と、問人と呼ばれる人々の間に争闘が発生した。慶応4年1月には小坂浦全戸が焼かれ、村人18人が死亡し、400余人が人名側によって監禁される事態となった。従来から瀬戸内海の塩飽諸島には、豊臣時代から続いている特権を与えられた水主の人名と、権利を与えられず差別された小坂浦の問人と呼ばれる村人との間に、争闘があった。そのため長岡謙吉は、征討総督の内意を受け、宮地(=八木)彦三郎、島村要(=土岐真金)、武田保輔らを本島に派遣し、鎮撫させた。
新海援隊は「土佐小屋」と云う救護施設を作り、救助米を与え生活を支えた。このような善政に対して
「今日に至るまで御神徳を追慕して止まず、特に我が小坂に取ってはは命の親、部落の神様なりとて、一同打ち寄りて、永久土地の守護神として、報恩反始の精神より、山の神の社殿に合祀して土佐藩海援隊の方にてありければ………」と八島神社誌に記されているように、隊士13名を生き神様として祀るため「十三(土佐)神社」を建立した。八木彦三郎の「八」と、島村要の「島」を採って「八島神社」と称し、新海援隊の13名が現在も生神様として祀られている。
長岡謙吉は塩飽島の統治に引き続いて、小豆島も支配下におこうとした折り、京都から長崎に帰る途中の石田英吉が来合わせ、長岡謙吉と協力して連名で、小豆島鎮撫の建白書を朝廷に提出し、土佐藩の名の下に新海援隊が小豆島の統治権を確保した。
さらに新海援隊は、佐渡、三宅、八丈島等の旧幕府直轄領を陳腐しようと、石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎、佐々木高行の連名で、再度建白書を朝廷に提出したが、事は成就しなかった。
明治元年5月17日、備中に倉敷県が設立されて、塩飽諸島や小豆島等の、長岡謙吉ら新海援隊が管轄統治していた地域は、全てが倉敷県の管轄となった。
新政府によって長岡謙吉は三河県知事に登用されその後大蔵省に勤めた。
その他の新海援隊士もそれぞれ各県に出仕して、新海援隊は自然消滅し、解散した。
~~~~~~~~~~
一方、長崎に残った多くの隊員は振遠隊(総勢359人)に加入した。
長崎の
千屋寅之助(菅野覚兵衛)らの海援隊士は土佐藩大目付(大監察)・
佐々木高行に従って
長崎奉行所を占領した。
千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)佐々木高行(融通無碍/人物評伝)長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)長崎奉行所を占領(長崎龍馬便り)佐々木高行は長崎奉行所を接収後、長崎に赴任して来た長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨の推薦で参謀助役に任命され、幕府撤退後に施政の空白地帯となっていた長崎取り締まりを任された。
長崎裁判所は「
振遠隊」を結成して長崎市街・長崎港の警備・治安維持にあたった。隊長は海援隊士の
石田英吉。
振遠隊(融通無碍/関連話)石田英吉(融通無碍/人物評伝)その後、戊辰戦争では、長崎振遠隊(隊長・石田英吉)を結成して海援隊の同志・千屋寅之助らが
秋田戦争に官軍として従軍した。
秋田戦争<奥羽越列藩同盟>(融通無碍/関連話)
戊辰戦争(秋田戦争)に出征する振遠隊
・・・・・・・・・・・
慶応4年閏4月27日
海援隊は土佐藩命(
真辺栄三郎)により正式に解散される。
真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
また、土佐藩(=後藤象二郎)は海援隊を土佐商会に吸収合併、
岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させている。
岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~~~~~~~~
◆土佐商会(「土佐商会跡・板碑より)
土佐藩の貿易関係の役所で、開成館貨殖局と呼ばれた。
長崎出張所は、慶応3年2月頃、長崎市西浜町(現在の浜町)に開設された。
最初は、後藤象二郎が、後には岩崎弥太郎が主任となり、辣腕を振るった。
同出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することであったが、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却、捻出した。
また、坂本龍馬率いる海援隊には、隊員それぞれに月々金5両を支給するなど、その運用資金なども調達した。
このように、海援隊は土佐藩の保護のもとにあったので、海援隊旗は土佐藩旗と同様に、「赤白赤」の二曳(にびき)と呼ばれるものであった。

土佐商会跡/長崎市浜町
ーーーーーーーー
海援隊(世界大百科事典による)
海援隊は「幕末期の長崎における坂本竜馬を中心とする組織。貿易,海運などを業としながらも倒幕運動への参加を企図した政治集団。
慶応元年に廃止された神戸海軍操練所の修業生のうち坂本竜馬を中心とする20余名は,薩摩藩の保護をえて鹿児島に赴くが,ただちに同藩の小松帯刀に伴われて長崎に移り,同地の豪商小曽根家(=
小曽根英四郎)の援助をえて,同年5月下旬に〈
亀山社中〉を成立させる。
小曽根英四郎(融通無碍/人物評伝)亀山社中(融通無碍/関連話)その後社中は,薩摩藩の名義を借り,小曽根家の海運業に支えられて,薩長両藩などの武器・艦船の輸入を仲介し,あわせて海運業に従事しながら航海術を修業していた。
ところが土佐藩の政情の変化と坂本竜馬の政略とが重なって,土佐藩(後藤象二郎,福岡孝弟ら)と社中がむすびつく。
慶応3年4月初旬,竜馬は,脱藩の罪を許されるとともに海援隊長に任命され,社中は海援隊士とされた。
この組織は,〈海援隊約規〉に見るように〈脱藩ノ者,海外開拓ニ志アル者〉を組織し,〈出崎官〉すなわち長崎に出張している土佐藩の責任者に属することが定められていた。
隊士の出身階層が町医者(長岡謙吉),村役人(菅野覚兵衛),饅頭屋(近藤長次郎)など多様であり,出身地も土佐中心であるが紀州(陸奥宗光)など他藩出身もみられた。
そして最終的には土佐藩の海軍力となることが期待されていたが,直接的には勉強しながら商業活動を独自にすすめるという幕藩制社会には珍しい組織であった。
しかし竜馬が暗殺されてから自然崩壊し,明治元年閏4月27日藩命により解散した。(執筆者:池田敬正)
*****************
ブログ
土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
*****************
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2026.01.01。23.54
*****************