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土佐の森・文芸 幕末足軽物語(南寿吉著)
[関連話]
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《
真吉日記・遣倦録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP183>
文久2年閏8月京都で不穏な動きが頻発し、既存の京都所司代では治安維持が難しいとみた幕府は新たに会津藩主・松平容保<かたもり>を
京都守護職に任ずる。
就任受諾に際し、会津藩内では反対意見が相次いだが、松平容保は「火中の栗を拾う」決意で入京する。
京都守護職(幕末足軽物語/関連話)その後治安維持の実務は
新撰組が受け持つことになる。新撰組は会津の後ろ盾を得て強行路線を取り、以後勤王浪士を厳しく取り締る。
新撰組にとって浪士は京の治安を乱す『不逞の輩』であり、許すべからざる連中であった。
確かに何の志もなく暗殺と殺戮を繰り返す浪士は京都市民にも不安で不愉快極まる存在だった。
池田屋騒動(融通無碍/南史観<私観>)新撰組は後世「殺戮集団」と見なされることが多いが彼らも勤王の意思は明確に持っていた。勤王という思想は浪士側、新撰組とも共有していた。
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)=====
[融通無碍]
◆新選組
敗者側の幕府と会津に組したばかりに汚名を着せられた。筆者は武士という名と身分に憧れた新撰組諸氏の悲運に同情を覚える。
時世時節は変遷するものだ。だが新撰組の連中は処世術に長けていなかったばかりに野山に屍をさらし、汚名を着たまま名誉回復もされていないから。かれらも時代の犠牲者だ。
朝廷、幕府、諸藩ともばらばらに動く混迷のさなかにあった。先の見えない不安だらけの時代だった。
時世時節は変遷するものだ。だが処世術に長けていなかったばかりにかれらは野山に屍をさらし、汚名を着たまま名誉回復されていないから。かれらも時代の犠牲者だ。
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下となった。
しかしながら所司代・町奉行・会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かり(非正規部隊)として
新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。
江戸でも不穏な動き(山内容堂への糾弾)があり、京から容堂の身辺警護のため御扈従<こじゅう>組を送ることに。
さらに、この年の11月、高知から
50人の郷士が江戸に赴き、山内容堂の身辺警護にあたっている。
五十人組(融通無碍/南史観<私観>)この中に、
中岡慎太郎がいた。
中岡慎太郎(融通無碍/片岡正法著) 慎太郎は江戸に来た後、長州の久坂玄瑞と水戸で交わり、さらに信州松代の
佐久間象山も訪問し国防・政治改革について議論している。
佐久間象山(融通無碍/南史観<人物評伝>)ーーーーーーーーーーー
[幕末足軽物語/関連話]
文久2年8月(空白の日々)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP178>
◆天変地異
曇天。(大阪湾に浮ぶ)天保山の洋上が黒雲に閉ざされている。
雲脚は砲煙の如く洋上から雲腹に通じ、雲脈は浪の如くその有様はあたかも漏斗の口から逆上するようであった。
すなわち、雲が雨を巻くということだ。
真吉は、この景色を道頓堀の楼上から見た。
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文久2年8月朔日
夜、御番を勤める。彗星<すいせい>を見る。
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[融通無碍]
天変地異をまざまざと見て、真吉の脳裏には不安が広がったかも知れない。
池田屋事件など京都で不穏な動きが頻発し、既存の京都所司代では治安維持が難しいとみた幕府は、この日新たに会津藩主・松平容保<かたもり>を京都守護職に任ずる。
就任受諾に際し、会津藩内では反対意見が相次いだが、松平容保は「あえて、火中の栗を拾う」という決意で入京する。
その後、京都での治安維持の実務は新撰組が受け持つことになる。
池田屋事件(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
8月2日
空白======
[融通無碍]
真吉日記では『空白』となっているこの日、朝廷よりの沙汰書(勅書)が示された。
学院(学習院のことか)に於いて、松平長門守(長州藩主・毛利敬親の息子である元徳)、土佐藩主・山内豊範と面会した節のこと、2通の書面(沙汰書)に記された趣旨について、関東(江戸幕府)に於いて(幕府と)周旋するように仰せ含られた。(ようは「幕府を説得せよ」ということ)
日記に記録するには重すぎる内容(職務の守秘義務?)なので、あえて『空白』にしたものと思われる。
この月(文久2年8月)の日記は、『空白』の日が多い。
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朝廷からの沙汰書の内容は、
「大老・井伊直弼による安政の大獄で処分を受けた
山内容堂、
松平春嶽らは早々に復活(名誉回復)したが、身分の低い(地下の輩)も赦免すべきだ」というもの。
しかし、
土佐藩への沙汰書では、表向き池田屋事件で犠牲になった輩の赦免となっていたが、安政の大獄で徳川家の後継問題に絡んで大老・井伊直弼から隠居を命じられ、土佐藩主の座から引いて江戸で蟄居していた山内容堂の上洛を促す内容になっていた。
後継の藩主・山内豊範がまだ若く実力もないため、朝廷は山内容堂の処分撤回はもとより現役復帰を望んでいたのだ。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)そのため朝廷は、大阪に滞在していた土佐藩主・山内豊範に勅書(
沙汰書)を出した。
沙汰書<容堂の上洛を促す>(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~~
◆真吉日記の『空白』
真吉の日記には、時々空白の期間がある。空白期間中も真吉日記は続けられたはずである。何故、空白になったか。
真吉は浄書してその日記を残し、後世に伝わり今われらが目にすることができる。下書きとも呼ぶべき詳細な記録があったはずだが、それは見い出せない。
筆者は経験上『真理は細部に宿る』を信奉している。
初夏の朝、ツユクサの葉の先端に露が宿って朝日に輝いている。微風あってその小さい露は静かに落ちる、露が落ちて平衡を失った葉は揺らめくがその動きも瞬時にして収まる。
修行僧が寺の庭に散らばる竹の枯れ落ち葉を掃いている。黙々と掃く。偶々箒ほうきが枯れ葉に混じっていた小石を勢い良くはね飛ばす。小石は大きく飛んで離れた竹林の中の一本を撃つ。竹幹のたてる澄んだ音が静寂を破る。僧は心の耳でこの音を聴く。やがて周囲は静寂に戻った。が、僧の耳には反響が残ったままだ。やがて決然と言う。
「よし、大体のことは分かった」
真吉日記の空白の部分、若しくは下書きには様々なことが書いてあったろう。
歴史への使命を感じていたかれは枝葉と思える些事は削除し清書しただろう。その枝葉<えだは>に今を生きるわれらに大きな感動を与える何かがあったような気がしてならぬ。
日常のどうでもいい事象にこそ真理があるかも。日常の身辺雑記を『日乗<にちじょう>(=日記)』として残せば、それは九分九厘以上が本人にも無意味で空疎な内容で、同時代を生きる者にも退屈極まる記録であろう。
がもし後世の目に触れると突然、燦然と輝く、轟音を発するものに変わるかも知れぬ。
真吉の生涯と記録(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
8月3日
この晩、
小南五郎氏が江戸に出立する。
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[融通無碍]
京事情を熟知した小南五郎氏が江戸の山内容堂の意向を確認するための急使となった。
京都事情(融通無碍/南史観<私観>)要件は現藩主が入洛(京都に入ること)することについて、容堂の意向を確かめること。現藩主・豊範は年少ということもあり、実権は全て後見人たる隠居・容堂に握られていたから。
この使いの結果、小南は容堂から藩主の入洛承認を得た。(その後、藩主・山内豊範は入洛した。)
この使いの結果、小南は容堂から「藩主・山内豊範の入洛承認」は得たが、「容堂の上洛」は曖昧模糊の状況だった。(結果的には、この年の暮れに容堂は海路で上洛することになる。)
小南五郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)さらに、前日(2日)には学院(学習院のことか)に於いて、大阪に滞在している土佐藩主・山内豊範が松平長門守(=長州藩主・毛利敬親の息子である元徳)と面会しており、朝廷よりの沙汰書が示されている。この沙汰書を容堂に届けるため、急務となったか。
沙汰書(安政の大獄、名誉回復)(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
8月4日
当番を勤める。
武市半平太を訪ねる。中村への手紙を托す。
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[融通無碍]
武市半平太も真吉とともに藩主に随行して大坂に来ており、上洛の機を伺っていた。
この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた。
半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・
岡田以蔵と薩摩藩士・田中新兵衛が有名である。
半平太が関与したとされる天誅には、越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。
しかし、同月に関白・近衛忠煕が半平太に対し、洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。
また、侍従・中山忠光から前関白・九条尚忠と岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)岡田以蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・
8月5日
御菓子を箱に入れ、三原・弘野(三原村広野か)の長平に托す。
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[融通無碍]
前月火事の誤報でもらった褒美の菓子を中村の留守家族に送ったか。真吉の心優しい一面がみえる。
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8月6日
7月9日付けの弟・甚内の手紙が中村から届いた。岩三郎が高知へ行ったとか。
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8月7日
空白
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8月8日
空白
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8月9日
空白
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8月10日
受取御番を勤める。五十嵐文吉が訪ねて来た。
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[融通無碍]
五十嵐は高齢であるが学識と温厚な人柄の勤王思想家で武市も尊敬した人物。
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8月11日
空白
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8月12日
御次御番を勤める。
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8月13日
昨夜の御次御番の際、長官・小南氏に逢う。
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[融通無碍]
朝廷からの沙汰書について、容堂の意向を確認し時勢につき所信を述べたか。
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8月14日
乗船して木津川を下って住吉洋(大阪湾)に出る
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[融通無碍]
堺にあった土佐藩の海防陣屋に行ったか。
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8月15日
曇りだが、夜半には満月が見えた。8月15日、中秋の名月だ
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8月16日
御番勤め。
今日以後、「小頭持場へ隔日出勤すること」を命ぜられる。
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[融通無碍]
13日に大監察・小南五郎氏に謁し意見を具申したが、それを受けての処遇か。
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8月17日
岡本八之助が三条家へ書類を届けるため入京する。この夜、江戸から飛脚が着く
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[融通無碍]
岡本八之助は郷士で、この月2日夜、藩下横目・井上佐一郎を殺害したとされる。
このため土佐に帰国後、収監され慶応元年5月獄舎で斬首刑。
真吉の日記が、この日(8月2日/朝廷よりの沙汰書が示された)は、『空白』になっているのが気になる。
あるいはこの井上殺害に関与したか。もしそうなら真吉の汚点になるが・・・。
武市の暗殺路線と一線を画している真吉ゆえその事実はなかったと信じたい。
◆天誅と称した要人暗殺テロ
土佐藩の岡田以蔵は「幕末の四大人斬り」の異名を取っている。
岡田以蔵(土佐藩士)河上彦斎(肥後藩士)田中新兵衛(薩摩藩士)
中村半次郎(薩摩藩士)
尊王攘夷派の4人の志士がおこした天誅と称した要人暗殺テロ事件は都の人々を震撼させた。
幕末の四大人斬り(Wikipedia)
真説 岡田以蔵歴史の中に埋もれた以蔵(NHK動画)~~~~~~~~~
真吉は最晩年、江戸にいて自分の記録を整理して再録したと思われる節があるから都合の悪い部分は意識的に落し、強調したければ原記録を補足して追記した可能性も否定できない。原典に当たって、手にして読んだ筆者としては言葉がない。
【真吉の生涯と記録 その価値・信憑性】
真吉は徳大寺家の離れで「徳大寺家公務人」とかいう微職のまま明治3年6月に死んだ。家族を高知に残し寂しさを堪えながら江戸の広尾に客死した。享年56。
歿後の栄典など期待できる境遇にはなかった。新政府の基礎も全く不安定で朝令暮改と試行錯誤の連続、自分が死にゆく実感はあるが世の中の行方には展望も予想もなかった。
「鹿の死なんとする その声や良し」
野心のない人の残した記録、大嘘はあるまい、として書き進める。
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8月18日
白髪町・松村屋嘉右衛門方へ移る。
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[融通無碍]
大坂は橋の、堀川の町でもある。今の大阪もその面影が残る。
堀川は重量物を船で運ぶ手段で貯蔵施設でもあったから、水面には多くの丸太が浮んでいた。土佐産の木材は良質のため大坂で歓迎され木材市場での手数料も他藩産より軽減されたほど。
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◆白髪橋<しらがばし>
大坂に「白髪橋」という地名がある。
その由来は藩政初期の野中兼山が藩財政改善のため大量のヒノキ材を国許の本山(嶺北と呼ばれる地域)の白髪山から伐り出し、船便で大坂に移送した。「白髪ヒノキ」と呼ばれた。これを資材に作られた橋が白髪橋。
筆者かつて大阪に在勤したことあり。
土佐藩の殖産興業<木材・薪・炭>(融通無碍/<脱線話>)・・・・・・・・・
8月19日
佐野長ヱ(兵衛か)へ行く。下田船へ油渋キ物を頼みおく。
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[融通無碍]
真吉の心の片隅には常に中村があったようだ。
下田船とは中村の下田港に船籍をおく船のことだろう。
油渋キ物とは不明であるが雨具の類いか。大坂で入手した雨具が便利だから中村に送ったか。
佐野長兵衛は船問屋か。
下田の貴船神社には天明年間(1784年ころ)に江戸深川の材木問屋が奉納した灯篭がある。
奥地から四万十川を筏いかだで下った丸太は下田港から積み出され盛んに藩外に運ばれた。
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8月20日
空白
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8月21日
土佐稲荷神社に参る予定があったが東邸の訃報(山内家の分家・豊道が8月12日に歿した)が届いたため御延引になる。
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[融通無碍]
藩主・山内豊範の病気(麻疹)平癒を祈願するための稲荷神社へ参拝、あるいは快気の御礼参りの予定があったようだ。
土佐稲荷神社は長堀川畔の土佐藩蔵屋敷に古くから鎮座していた。
山内氏は参勤交代で大坂を通る際には必ず参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた。
明治初年、土佐藩蔵屋敷とともに
岩崎弥太郎に譲り渡された。岩崎弥太郎は当地で事業を営み三菱財閥の発祥の地となった。で、土佐稲荷神社は三菱グループの守護神となっている。
岩崎弥太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)
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8月22日
朝、戎橋北側・泉屋作兵衛方へ帰る。
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8月23日
大坂を発籠して、網島から守口へ、蹉蛇<さだ>(現在の京阪・光善寺駅かいわいか)で小休し枚方で御宿となる。
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[融通無碍]
容堂の承諾があったので、いよいよ藩主一行は入洛の決意を固めたか。
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8月24日
樟葉<くすは>(=葛葉<くずは>)を通過し淀で御休み、伏見に御宿。
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8月25日
藤森と大仏前(方広寺と智積院周辺)の2箇所で御休み。京都御邸(四条河原町上ルにあった土佐藩邸)に着く。真吉は近くの寺町・了連寺に泊まる。
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[融通無碍]
経囲山水 数千程 名月清風 違素情
今日纔慰 旅中苦 侍来君駕 入京城
この日、御歩行組の小屋(己屋<こや>と土佐では表記、軽格用の宿舎)と伍長が決まる。
伍長とは5人の人員を指揮監督する地位をいう。この頃、真吉は藩内の待遇がちょっぴり上がったようだ。
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◆国事周旋と天誅
土佐藩主・山内豊範がやっと入洛、武市半平太も真吉もこれに随行して京に入る。
半平太の思惑通り、豊範は江戸へ東下せず、京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受けた。
武市半平太、
小南五郎右衛門、
平井収二郎、小原与一郎、
谷守部(干城)ら尊皇攘夷派が他藩応接役に任じられた。
各藩との交渉や朝廷工作を積極的に行ったほか、
岡田以蔵や田中新兵衛等を用いて盛んに安政の大獄の折、尊攘派弾圧に関与した者への粛清を行うなど、京都における急進的な尊攘運動の一翼を担った。
半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構え、藩主・山内豊範の名で朝廷に向けた建白書を起草した。
この建白書の内容は、
山城、摂津、大和、近江4力国を天皇の直轄地とし、直轄地に配置した親王以下の国司は諸国浪士を家来として召し抱えること、江戸への参勤交代を5年ないし3年に1度へと軽減させることなどを建言すると共に、政令は全て天皇から諸大名へ直接発すべきであるとし、
王政復古を主張するなど、時代に先んじたものであった。
王政復古の大号令(慶応3年12月)同時に、長州の久坂玄瑞ら他藩の志士、
三条実美や姉小路公知を始めとした朝廷内の尊攘派公卿とも緊密に連携し、朝廷を代表して幕府に攘夷督促する勅使を江戸へ東下させる画策の下、朝廷工作に奔走する。
これらの動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決定した際、一橋慶喜がこれを覆そうと入京を画策したが、半平太は裏工作によりこれを一時妨害することに成功している。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)小南五郎右衛門(融通無碍/南史観<人物評伝>)平井収二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)谷守部(干城)(融通無碍/南史観<人物評伝>)岡田以蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~
さらに10月、朝廷が幕府に対して攘夷実行を迫る勅使を江戸に派遣した際には、武市半平太ら相当数の勤王党員が衛士として随行した。
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8月26日
雨、大勢が随従するため河原町の藩邸はいかにも手狭で、洛西にある臨済宗本山の妙心寺内にある塔頭<たっちゅう>・大通院(藩祖・一豊夫妻の墓地あり。乗馬のまま通過できる巨大大門があることで有名)にお移りになる。真吉は同じ敷地内にある慈雲院に止宿。
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8月27日
当番を務める。雨が降る。
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8月28日
河原町二条上ル法雲寺で(長州の)
久坂玄瑞に会う。
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[融通無碍]
久坂玄瑞と会ってどのような会話がなされたのか、気になるところだが、真吉の日記にはそのことの記録がない。
久坂玄瑞・・・・・・・・・
8月29日
当番を勤める。
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8月30日
永野楠治と弘田章三郎(いずれも中村人か)両名の江戸行きが決定する。
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文久2年閏8月朔日
曇り、当番を勤める。
小八木五兵衛の引率で、
御扈従<こじゅう>組が江戸へ差し立てられ、郷士組が先発した。
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[融通無碍]
◆御扈従組
京都で不穏な動きが頻発し、既存の京都所司代では治安維持が難しいとみた幕府は新たに会津藩主・松平容保<かたもり>を京都守護職に任ずる。就任受諾に際し、会津藩内では反対意見が相次いだが藩主は「火中の栗を拾う」決意で入京する。
その後、治安維持の実務は
新撰組が受け持つことになる。新撰組は会津の後ろ盾を得て強行路線を取り、以後勤王浪士を厳しく取り締る。
江戸でも不穏な動き(山内容堂への糾弾)があり、土佐藩も京から身辺警護のための御扈従<こじゅう>組を送ることに。
御扈従<こじゅう>組中にいる郷士
①松本雄吉 ②島村恒三郎 ③弘田章三郎 ④山本伊之助 ⑤永野楠冶 ⑥入交晋二郎 ⑦入交五郎蔵 ⑧長尾孫三郎 ⑨和田熊太郎 ⑩門田為之助
以上10名が小八木五兵衛の引率で江戸へ差し立てられ、郷士組が先発した。
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文久2年閏8月2日
真吉は非番(休日)だ。日記も空白。
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文久2年閏8月3日
小八木五兵衛氏が江戸に向け出発した。
朝、真吉は
本山只一郎氏を訪ねる。
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[融通無碍]
本山只一郎は土佐藩の重役(大監察)
勤王攘夷思想に理解を示す上士であったが、武市半平太の土佐勤王党とは一線を画し、乾退助(=板垣退助)、谷守部(=谷千城)、佐々木高行(=佐々木三四郎)ら上士の面々と独自の勤皇派閥を形成していた。(真吉も武市半平太の土佐勤王党とは一線を画す確執があった。)
安政年間(1854~)には幡多奉行に任ぜられ、真吉とともに幡多群内17箇所の砲台を建造してる。
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~
真吉は京では、藩主・山内豊範の身辺警護もしている。
御扈従組中にいる郷士は身辺警護の真吉シンパか
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文久2年閏8月4日
真吉、当番を勤める。
この日、明日から木戸駒二郎が中村に帰ることを聞いた。
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[融通無碍]
木戸駒二郎(のち、明<めい>と改名、1834~1916)は、中村の豪商・木戸家の嫡男であり真吉の愛弟子であった。木戸家からは種々援助を受けている真吉には駒二郎は気にかかる存在だった。
豪商・吸田屋(木戸家)(融通無碍/南史観<私観>)木戸明は明治になって教育者として活躍する。隷書の達人であったという。
筆者未見だが、木戸明が「真吉も在京しているからもっと長く京都にいたい」旨、中村の実家に送った手紙の存在は尊敬する先学から聞いた。
木戸駒二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)◆真吉墓碑の揮毫者
全くの想像だが筆者は現存の真吉墓碑の揮毫者はこの木戸明でないかと思っている。ただし根拠はない。
真吉の墓に字を書く人、自他ともに適任と見られる人、木戸明しかいない。
従四位樋口真吉の墓。明治3年(1870)6月14日に56才で没。
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文久2年閏8月5日
雨降る。京都にいた日光宮(朝幕間の調停役を勤めたか)が江戸に帰った。
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文久2年閏8月6日
また雨が降る。前夜の深更午前二時、五条通りで火事があった。
(勅使として江戸に行った)大原卿が京都に戻ったから、真吉は謁見を願い出たところ聞き届けられた。(謁見許可は武市の周旋・紹介によるか、あるいは全く別人か。)
本山只一郎の江戸行きが決まる。小原与一郎が土佐帰国を命じられる。
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文久2年閏8月7日
真吉は藩主・豊範との謁見を請う。
大原卿の江戸行きに随行していた
島津久光(=三郎)も関東から戻った。
島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)======
[融通無碍]
真吉は江戸からの帰途、同年8月21日に武蔵国生麦村で薩摩勢が英国人を斬殺した事件(=
生麦事件)をまだ知らない。薩摩は、道中で勅使大原卿に勅書改竄を強要するなどその粗暴性が目に余る。
生麦事件(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
文久2年閏8月8日
土佐藩主が入洛する。
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文久2年閏8月9日
真吉、風邪を引く。
島津久光は参内(御所に入ること)する。
本山氏は江戸に行く。
帝の側近(御周<そばり>或いは陪臣)が久光に言う。
「攘夷の一件について、(われわれ側近は)先年以来度々陛下のお気持ちを聞かされており(そちも)厚く廻考しなさい。陛下のお気持ちを汲んで御心を安んずるように」との言葉が久光に漏らされた(天皇は話さない。慣例である)。
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文久2年閏8月10日
雨だ。(以下空白。)
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文久2年閏8月11日
中村から手紙が届く。
・・・・・・・・・
文久2年閏8月12日
空白
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文久2年閏8月13日
平井収二郎(土佐藩上士で京都では他藩応接役)が御目付方から呼び出しを受ける。
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[融通無碍]
収二郎は後に公家とか薩長の勤王運動家との接触を深めて翌文久3年6月に切腹させられる。上士には珍しい勤王党シンパであった。
平井収二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・
文久2年閏8月14日
空白
・・・・・・・・・
文久2年閏8月15日
江戸から御使者が到着。江戸の隠居・容堂に勅命が届いたことを報じた。
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勅命は以下のとおり。
◆江戸にいる容堂に届いた勅命
閏八月五日に板倉周防守(=勝静<かつきよ>:文久2年に幕府老中に就任)から御渡し
容堂様ヱ
先年以来、国家のために忠誠を尽していることは厚く叡感(天皇も感謝)である。兼ねての叡念(天皇の希望)を徹底するよう猶なお又また皇国のお為に尽力するようにとの思し召しを容堂に伝えるよう京都から言って来た。この叡感の趣を厚く心得て国家のために忠誠を尽くすようにとの御沙汰である。
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[融通無碍]
毎度のことながら勅命とかいう種類の文書は戦後育ちの筆者にはまことに難解で荷が重い。
意味不明の言葉の行列だ。
敗戦を受諾したあの昭和20年8月15日のお言葉を聞いて
「そうか、負けたんだ」と理解できた人知りぬ、多少ぞ。
・・・・・・・・・
文久2年閏8月16日
空白
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文久2年閏8月17日
矢ノ川真幸(幡多人であろう)御雇い歩行となる。
土佐清水又は中村出身の矢野川が臨時足軽に採用採用された。かれも真吉傘下にあった人物だろう。
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文久2年閏8月18日
栗尾源八が国許の土佐で病気になり、帰京延期の願いが聞き届けられた旨の書状が来た。
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文久2年閏8月19日
武市を訪う。
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文久2年閏8月20日
雨。昨日、以下の面々が(悪い)行状により京都藩邸で協議の結果、土佐に戻されることに決した。
①日根野要輔②志賀泰八③松井孫衛門④馬詰真七郎⑤北村彦太郎
処分の具体的理由は分からない。先輩諸氏の御教授を待つ。
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文久2年閏8月21日
雨、上京。小原氏に逢う。
昨夜、本間精一郎が先斗<ぽんと>町で横死する。四条河原に首がさらされ、胴体は高瀬川に投げ込まれた。
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[融通無碍]
文久2年3月、本間精一郎(偽名=名張良蔵)は真吉との接触を求めて幡多へ来たようだ。
「名張良蔵は七日に西ヶ方に泊まった」と日記中にある人物が本間では。
本間は軽挙が多く、挙動に不審な点があり次第に勤王の仲間から孤立した。
大坂・堺の土佐藩陣屋にも郷士・吉村寅太郎を伴って姿を現わし大言を吐くなどして陣屋幹部の顰蹙を買っていた。
この暗殺は武市一派と薩摩による仕業であった。
8月20日に「あやつの行動は目に余るし、どうやら二股膏薬の臭いもする。始末せよ」と決定、武市派と憤激を募らせていた薩摩の過激派が協同で実行した。その惨殺の有様を描いた絵があり、筆者はその写しを見ながら拙稿を書く。決して気持ちのいい絵ではない。
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文久2年閏8月22日
雨、(以下空白。)
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文久2年閏8月23日
昨夜九条家の諸大夫・宇郷玄蕃頭を討ち取り、松原河原に梟首<きゅうしゅ>(首をさらす)された。
脇に建てた札には
「玄蕃は島田左兵衛と組んで悪巧みして主家(主人=九条尚忠)を不義に陥れたからその姦悪さは主家より悪質である。よって天誅を蒙らしめる。」
(いよいよ天誅組の暗躍が始まるか。)
天誅組(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
文久2年閏8月24日
土佐への飛脚便が立つから、惟子<ただこ>(女子名か)に紙入れ(財布)を送る。ただし、これは岩三(=人名)に託す。(真吉は変わらず女性に紙入れを送るなど、故郷あるいは知人思いの一面が顔をみせる。)
欄外:□関白落飾、とある。九条尚忠が前日(23日)に落飾(=出家)しているからこれを指すか。
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文久2年閏8月25日
雨、上京。小原氏が高知に帰る。
武市を訪う。
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[瑞山在京日記より]
25日 この日、真吉呼に遣、来る。真吉をせめる。(せめるの内容は未考)酒を出す。夜六っ半頃迄談し帰る。
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文久2年閏8月26日
空白
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文久2年閏8月27日
空白
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文久2年閏8月28日
土佐藩主が長州侯を訪問する
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文久2年閏8月29日
空白
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[幕末足軽物語/南寿吉著]
文久2年9月《
真吉日記・倦遣録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP187>
◆真吉、谷守部と九州へ(西国筋探索御用)
文久2年9月朔日
真吉は御本陣において、爾来の勤事そのままを以って当分「西国筋探索御用」を命じられた。
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[融通無碍]
この西国探索は肥後・熊本藩を朝廷側に引き寄せるための工作活動で、真吉らは三条公から熊本藩主への直書を携行する。この旅行の裏に、武市半平太の画策があったようだ。
この使者の正使は上士・
谷守部(後の干城)で、真吉は副使、付添いのような立場であった。
谷干城と西国を探訪(西国筋探索御用)谷守部(後の干城)(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・
文久2年9月1日
武市を訪う。西国行蒙る由を報告也。
今朝、三条河原に(目明し)文吉が晒された。
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[融通無碍]
文吉の暗殺は、安政の大獄への報復。血で血を洗うまるでヤクザの抗争だ。文吉の殺害には刀の汚れだとばかりに手拭いで絞殺され、陰部は竹串を差し込まれるという悲惨さ。これも絵を見ながら・・・パソコンを打つ。
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文久2年9月2日
武市を訪う。
午後、真吉は木屋町の平井収二郎の宿に行って泊まる。
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文久2年9月3日
御目付方の改め(旅行手形)を受取り、御勘定方に届けを出す。
西国筋探索のため旅行許可の切手を受け取る。
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文久2年9月4日
午後、江戸からの飛脚が到着した。
御隠居・容堂様が現藩主・豊範様と交替し京都に来ることを命じる勅書を土佐藩家老・山内下総が受け取った。
◆勅書の内容
先だって松平土佐守(=山内豊範)に滞京を命じたにも関わらずこれを請けたこと満足に思う。
しかし当人が若年ゆえ経験不足の懸念していることは理解でき無理ないことと思う。
土佐守も引き続き諸方との周旋をし、父・容堂は年配の経験者、陛下の御膝下での御警衛が最も相応しいと思うから早々(江戸から)入洛し父子が交替するようにと仰せい出された。
後(=閏)8月5日付け
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文久2年9月5日
武市を訪う。
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文久2年9月6日
朝、谷守部(干城)と武市を訪う。西国行の事なり。
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文久2年9月7日
東山の土地を見分(購入するために下見)。
河原町にある藩邸が手狭で藩主一行の到着直後から悩みの種だった。新本陣を建設する敷地を東山界隈に物色した。
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文久2年9月8日
昼から長寺に移る。
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文久2年9月9日
空白
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文久2年9月10日
真吉は明11日から西国への出発を命じられた。
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文久2年9月11日
微雨降る。申の刻(16時)出発。
真吉は
谷守部に同行する。この2人に従う御小人(武家に付き従う小者)・鉄蔵<かなぞう>は中村・下田の生まれだ。
◆谷のこと
谷干城<たてき>(1837~1911)土佐藩上士、四万十町窪川に生まれた。
真吉より22才も若い。坂本龍馬よりも2才年下だ。
優秀であったが若い。身分は高い。が中村と高知の中間・窪川の出身だ。付き従う従者は中村・下田の金蔵だ。干城+真吉+鉄蔵≒幡多連合軍だった。
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夜に入り伏見・大仏屋に着。肥後人・
堤松左衛門が同行する。
夜四ツ(22時)淀舟に乗り、川を下り翌日の暁天ごろ(6時ごろか)大坂に至る。
◆堤松左衛門のこと
肥後・熊本の侍。勤王派だったが自藩の方針が一定せず焦燥していた。
で、洛中の勤王諸藩と接触を重ねるうち、土佐勤王党の連中と知り合い、
「それなら公家の直書を持って行って口説けばいい」の提案に乗り行動に移したようだ。
この方法は吉と出るか、凶とでるか。
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この「西国筋探索御用」には、武市半平太が深く関わっていたようで、西国へ出発する直前に真吉と半平太は頻繁に逢って談判をしている。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~~~
[瑞山在京日記より]
文久2年8月8日 樋口真吉、
平井収二郎など来る。昨日真吉君公へ拝言上の○聞。
平井収二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)19日 姉小路様面会。真吉来る。
21日 前略、真吉なども来る。
24日
小南五郎右衛門より内談の事に付、真吉を呼にやる也。
小南五郎右衛門(融通無碍/南史観<人物評伝>)25日 この日、真吉呼に遣、来る。真吉をせめる。(せめるの内容は未考)酒を出す。夜六っ半頃迄談し帰る。
9月1日 樋口真吉来る。西国行蒙る由也。
2日 この日、真吉引越来る。
4日 真吉、収二郎来る。
5日 真吉来る。
6日 朝、
谷守部(干城)へ会する筈にて、収二郎、真吉同道にて行。西国行の事なり。谷と真吉とは出侯由なり。
7日 収二郎、真吉、文吉杯見分に行。
11日 谷、樋口今日西国発足に付暇乞うに行。
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[融通無碍]
この西国探索は肥後・熊本藩を朝廷側に引き寄せるための工作活動で、真吉らは三条公(三条実美)から熊本藩主への直書を携行する。この旅行の裏に武市半平太の画策があった。
この使者の正使は上士・
谷守部(後の干城)で、真吉は副使、付添いのような立場であった。
谷干城と二人旅(西国筋探索御用)西国筋探索御用*****************
ブログ
土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)****************
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2024.12.01.23.55