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土佐の森・文芸 融通無碍
[関連話]
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■日記・遣倦録/樋口真吉(南寿吉著)

(原本:四万十市立郷土資料館)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編>高知県内主要書店で好評発売中です!<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP162~>
◆激動・大地震始まる

桜田門外の変(1860.3.3)
大老・井伊直弼が暗殺され万延(1860~)と改元されるがこの元号、満1年も経たぬ翌年2月19日、文久に改まる。
真吉にとっても激動の時迎える。
文久元年、47歳である。(県東部)赤岡の奉行所官舎から引っ越し、高知の吸江に家を求め、家族ともども住み、母・花野も同居している。
この年4月、高知城のすぐ下にある「文武館」の『白札以下剣術寄合稽古世話方』になれという藩命を真吉は受けた。同9月に『文武方下役加役並びに教授方証拠役』という長ったらしい職名を与えられる。この役についたから補米<おぎないまい>(在任手当て)を年間2石(200升=300kg)もらう。
役料が年間たった2石だから端役で、実力に相応しい待遇とは言えまい。身分制度の壁は厚い。例えば吉田東洋の役料なら年300石。月とスッポン。門閥はやはり親の敵だ。
「白札以下剣術・・・・」という職名にも差別の姿が見える。白札とは上士と下士の間にある階級で、武市半平太(吉田東洋の暗殺を指示したとされる男)がこれに属した。
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①文久元年9月3日~12月20日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP163>
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◆文久元年9月3日
武楯(=
武市半平太、号瑞山。小楯とも言う)が江戸を発し土佐に帰国する。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)武市半平太は
土佐勤王党の土佐藩内での勢力拡大を目論み、藩幹部(吉田東洋ら)への時局事情の説明と説得に当たった。
土佐勤王党(融通無碍/関連話)真吉も相談に応じたが、半平太とは考え方や価値観に微妙な違いがあり、終生土佐勤王党に加盟することはなかった。
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[融通無碍]
武楯とは今もまれに使われる人名表記の方法だ。
真吉は龍馬を坂竜と記した。
昔なら有名俳優・榎本健一をエノケン。アメリカに渡りメジャーリーガーとなった日本人投手<前田健太>は「マエタケ」。マエタケが後世に通じるか筆者不安。
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◆10月11日
半平太の命を受け、土佐勤王党に加盟した坂本龍馬が、長州の久坂玄瑞に密書を届けるために土佐を出た。真吉は倦遣録に「
坂竜飛騰」と記した。
坂竜飛騰(融通無碍/関連話)・・・・・・・・
[融通無碍]
坂竜飛騰(ばんりゅうひとう)

真吉日記中、もっとも有名な文言だ。
坂本龍(=竜)馬→坂竜だろう。飛騰は中国の詩人屈原がその著書「楚辞」で使った言葉、同郷の詩人・間崎哲馬の詩にも出る。
「坂本龍馬という人間が、蟠わだかまる龍が貯めたエネルギーを一気に噴出して大空に沸騰するかのように飛翔する」の意味か。親交があった二人は連絡を取り合っていたのだろう。香川県丸亀に剣術修行を名目として土佐を出国する龍馬の真の目的を真吉は知っていたようだ。それは長州に使いして密書を届けること。真吉は秘密裏に前年結成された土佐勤王党のご意見番的地位にあった。がかれ自身の加盟は無かった。
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◆12月11日
真吉は武市半平太らの吉田東洋暗殺計画を知って「連中とは一線を画すべき時が来た。職を辞し、身を幡多に退転・隠居する」と判断、
吉田東洋に上申書を提出して故郷・中村に帰る。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)吉田東洋に提出した上書(融通無碍/関連話)===============
②文久2年元旦~8月29日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP173>
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◆文久2年正月元旦 真吉四十八歳になった。
宇和島の多都味嘉門に手紙を出す。真吉の剣術仲間である。
多都味嘉門(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆文久2年4月8日
参政・吉田東洋が暗殺された。
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◆6月21日
「御歩行小頭場兼帯勤め」(役料3人扶持・切米8石)を命ぜられ復職。藩主・
山内豊範のお供役として上洛することに。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆6月22日
高知城二の丸の玄関で藩主・山内豊範とのお目通りを許される。
真吉は48歳にして初めて殿様の顔を見た。否、見ることは許されなかった。
謁見は身分次第。通常、足軽は殿の顔を拝むことは不可能だった。今回の昇格でやっと実現した。
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[融通無碍]
どうなんだろうか、真吉の胸の内。
藩主の尊顔を拝し奉り・・・・。天にも登る感激だったか、それとも淡々と親玉の顔を目という器官を使って認識したか。
読者も想像してほしい。
多分樋口家歴代には誰も叶わなかった藩主との顔合わせ。身分差別に甘んじる境遇の者が思わぬ昇任をしてこのような経験をしたとき、どのような感慨をもつのか。
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◆6月30日
この日慰労のため、途中で真吉ら随従者に酒が配られた。藩主は立川(大豊町立川)御殿にお泊り。
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[融通無碍]
立川御殿は今も同地にある。文化財に指定され大豊町の管理下、日を定めて一般公開されている。立川は大豊町でも辺境の土地だ。筆者も行くが日が合わず、一度も内部を見る能<あたわ>ず、外観拝見で我慢している。コスモスが咲く頃が好機か。
北山越え<立川御殿>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆7月23日
大坂の市中にて龍馬に会い、一円を贈る。
壬戊日記には「市中に於いて竜馬に逢い、一円を与えて別れる」とある。
竜馬に逢う 一円贈る(融通無碍/関連話)・・・・・・・・
[融通無碍]

龍馬はこの年3月末に脱藩した。そして約4ヵ月後に大坂市中で真吉に逢う。
脱藩に当たり龍馬は才谷屋の秘蔵する銘刀を持ち出したらしい。脱藩途中に立ち寄ったらしい土佐・須崎では便所に行くにも刀を気にしていたという情報がある。よほど高価な刀だったのだろう。良い刀には良い拵えが必須だ。その拵えを売り食いしながら脱藩の旅を続けた。大坂での別の目撃談によれば龍馬の刀の柄糸がほどけ、手拭いで巻いてあったという。
握り部分の飾り細工の頭かしらとか縁ふちは金銀を使う等高価な物である。だから売れば旅費の足しになる。がこれらは柄糸を固定する働きがある。この両方を売り飛ばせば柄糸はよれよれとなり、みっともない格好になる。柄糸の内側には豪華な目貫めぬきもあっただろう。小柄も笄こうがいなどはとうの昔に売り払って食費にしただろう。

坂本龍馬の刀【陸奥守吉行 】
《龍馬は脱藩にあたり坂本家秘蔵の銘刀を持ち出し、その拵えを売り食いしながら脱藩の旅を続けていた。真吉が出逢った大坂での別の目撃談によれば龍馬の刀の柄糸がほどけ、手拭いで巻いてあったという。》
◆肌付きの一両
龍馬の尾羽打ち枯らした哀れな姿を見て真吉は即座に金を与えた。
当時士さむらいには面白い慣習があった。『肌付きの一両』という。懐中の巾着が空になっても肌身離さず身に着けた小判。たった一両だが、これさえあれば急場は凌げたらしい。その用心のため必ず身に着けることを励行したという。廉恥を知る者は不時に備え常に準備を怠らないものだ。
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◆7月29日
曇天。(大阪湾に浮ぶ)天保山の洋上が黒雲に閉ざされている。
雲脚は砲煙の如く洋上から雲腹に通じ、雲脈は浪の如くその有様はあたかも漏斗の口から逆上するようであった。
すなわち、雲が雨を巻くということだ。
この景色を道頓堀の楼上から見た。
天変地異(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆8月4日
真吉、当番を勤める。この日、明日から
木戸駒二郎(=明)が中村に帰ることを聞いた。
木戸明<=駒二郎>(融通無碍/人物評伝)中村の豪商・木戸家(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆8月21日
雨、上京。小原氏に逢う。昨夜、本間精一郎が先斗<ぽんと>町で横死する。四条河原に首がさらされ、胴体は高瀬川に投げ込まれた。
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③文久2年9月1日~12月28日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP187>
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◆文久2年9月1日
真吉は「西国筋探索御用」を命じられた。
この西国探索は肥後・熊本藩を朝廷側に引き寄せるための工作活動で、三条公から熊本藩主への直書を携行する。
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[融通無碍]
九州への『西国筋探索御用』については、南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に詳細な記述があります。

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第五章 激動の時代
真吉、谷干城と西国を探訪
《「樋口真吉伝」ではP181~187》
この旅行の裏に武市半平太の画策があったようだ。
この探索御用の正使は若輩の上士・谷守部(後の谷干城)で、熟年の真吉は副使、付添いのような立場であった。
谷干城(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆10月3日

山路を通るが、山茶花がおびただしい。
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[融通無碍]
「山路に山茶花がおびただしい」の記述は印象に残るではないか。
真吉の精神的余裕、歌心を感じる。
山茶花の咲き乱れる山路を真吉と谷干城が連れ立って歩く姿、思い浮かべてもほのぼのとする。
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◆10月4日
長崎・鍛冶屋町/廣瀬宅に宿す。
(高知城下)北奉公人町の医学生・島田洞愿<どうげん>、(土佐東部)安田(安田町)の医学生・柏原玄碩<げんせき>が来た。
両生とも大徳寺境内に逗留して
医学伝習所に学んでいる。真吉の出崎<しゅっき>(長崎に出ること)を知って来訪した。
長崎の医学伝習所(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆10月29日
浪華に入り、山口屋に投宿する。
谷干城が真夜中に灯りを点<とも>して帰宿した。
谷は堺の土佐陣屋から帰って来たのだ。言う
『大変なことになった。旅先の熊本でも聞いた小河彌右ヱ門(一敏)を岡藩が幽閉した事件(=
中川侯違勅騒動)だ。
小河彌右ヱ門中川侯違勅騒動(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆11月13日
長州の一部(久坂玄瑞ら)に横浜夷人館襲撃計画があって、薩摩の密告を受けた容堂がこの夜長州侯にこれを囁いたから暴発寸前でこの暴挙は抑圧された。
暴動の抑圧は薩摩による画策であった。
薩摩と容堂と長州<夷人館襲撃未遂事件>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆12月12日
刀工・
左行秀<さのゆきひで>が抜擢される。
土佐藩は輸入品の西洋銃を元に新式銃を造る計画を立て、その製造責任者に刀工・行秀を配し職人を集めて鉄砲を製造した。
左行秀(融通無碍/人物評伝)===============
④文久3年元旦~2月14日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP208>
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◆文久3年1月10日
幕府は山内容堂の早急の入京を命じ、幕船「大鵬丸」を貸し与え海路入京を勧めた。真吉は「御隠居様御供」を以って蒸気船「太鵬丸」に乗船し京へ。
御供人数63人、家老・深尾丹波、御用役は
寺村左膳と
乾退助、目付は
小南五郎右衛門、御侍<おさむらい>衆(=上士)は合計33人。歩行以下(=下士)は30人。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝) 乾退助(板垣退助)(融通無碍/人物評伝) 小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝) 外に幕府の旗本・加藤安太郎、同・小野友五郎が航海術指南役として乗る。
船は筑前船(幕船)である。船将は松本主殿で水手総人数が150人ばかり。
黄昏、鮫津<さめつ>(
山内容堂はここに隠居していた)砲台前で乗船する。一晩船内で過ごして様子を見る。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆1月15日
滞泊する。真吉は蓮代寺温泉(静岡県下田市蓮台寺温泉)温泉に浸かる。
攝海(大阪湾)を出航した蒸気式幕船(=順動丸)が入港して来た。この船は勝麟太郎(=
勝海舟)が乗り組んでいる。
勝海舟(融通無碍/人物評伝)土佐藩の①
高松太郎②
千屋虎之助③
望月亀彌太も航海術修行のためこの船に乗っている。
高松太郎(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)望月亀彌太(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・
[融通無碍]
◆山内容堂と勝海舟
15日夜、伊豆下田・宝福寺で行なわれた山内容堂と幕臣・勝海舟との会談について述べる。
この話し合いで坂本龍馬は前年3月に犯した脱藩の罪を許された。赦免である。脱藩は大罪だから、この烙印が付いている限り公然と表社会を歩けない。身分制の武家社会では藩から追放されあるいは逸脱した者を受け入れる他藩はあり得ない。
いわば『回状』というものが存在し「この者は故あって絶縁した。もし、この者に構うなら私に敵対することになる。覚悟してお取り扱いなされよ」である。土佐藩の犯罪者を他藩は受け入れできない仕組みだった。
この規制も幕末期には若干弛緩していたが、公然に近い形で行動するには「脱藩者」の烙印は大きな障害だったことに違いはない。志士たちも藩庁と共同一致して動けば効果が上がるし、外からの圧力も恐れる必要がない。
土佐藩の幕末悲劇の大元はここにある。藩上層部と下層部の齟齬・軋轢あつれき(食い違い)である。端的に言えば藩創設以来、徳川から受けた厚恩のみを思う上層部と世直しを考える下層部の対立だ。
下田・宝福寺での対談は容堂が海舟を招く形で行なわれた。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)===============
⑤文久3年2月15日~12月30日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP217>
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◆文久3年2月15日
真吉は外夷拒絶の策略を隠居の承認(許可)を得て、上書する。
勝手に意見を述べることは許されない。「私の意見を申し述べて宜しゅうございますか」とお断りをまず言い、次に意見陳述し、併せて意見内容を書き記した書面(=上書)を提出する。江戸から大坂までの航海で大鵬丸から降り陸路採用を建言した際には上書提出までに至らなかった。良いところまで行ったが不発であった。
この時期、容堂の真吉への信頼は確かに深まっているように見える。その理由は何か。伊豆・下田の宝福寺の件も一因かも知れない。
攘夷策略(通商条約)について意見(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆2月22日
真吉は容堂との「お目通り仰せ付けられる」
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《融通無碍》
日記に真吉は「御目通り仰せ付けられる」と書いた。もちろん、御目通りの相手は隠居・容堂だ。
どんな御目通りだったのか。
日記には何も書かれてない。が態々<わざわざ>書いたから理由があろう。
先の上書のことがあったか、が容堂側近の寺村左膳日記には龍馬処遇の件が書かれている。
真吉と龍馬と寺村左膳(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆3月14日
この日、同志・
平井収二郎が土佐京都藩邸内の檻<おり>に押し込められるが、真吉はこれに触れていない。
平井収二郎(融通無碍/人物評伝)山内容堂による土佐勤王党への弾圧の始まりの鐘が鳴った。その鐘は重々しく殷々と四方に響きわたる。その音量は大きくはないが真吉らに冬の時代の到来を告げる鐘だった。
真吉らに冬の時代(融通無碍/関連話)勤王党への弾圧(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆3月16日
水戸藩・隅谷寅之助と本国寺で会う。武市半平太が京都藩邸の御留守居役加わり(加役か)となる。
・・・・・・
[融通無碍]
◆武市半平太の昇進(水戸・隅谷寅之助のこと)

武市は土佐勤王党の首領だ。そのかれが昇任した。留守居役は他藩との外交官でもある。「平井を収監したのに、武市は昇進・・・」複雑な動きに真吉も困惑したか。
隅谷は公武合体の勤王論者だった。公武合体論を広げようと各地を遊説し、土佐にも来て龍馬と接触した経験がある。
その印象記に「龍馬は幕閣の名前すら知らない田舎者だった」とある。土佐に絶望して去った。

隅谷寅之助は、
立川御殿の近くの荷宿で龍馬と会見した。
立川御殿(融通無碍/関連話)その時に、隅谷に宛てた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(隅谷寅之助 宛て)~~~~~~~~~
隅谷は、真吉と会ったときは徳川慶篤の上京に随伴して京師警衛指揮役だった。公武合体の持論を堅持するが時代の流れは変わりかれは孤立の様相を深めていた。
その後、慶応三年に土佐藩の山本らによって斬殺された。
明治になり、隅谷の息子が山本を殺し復仇したが、後年これは「最後の仇討ち」と言われる事件だった。その後法の整備により「仇討ちは蕃風で、以後厳禁」となったから。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP229>
◆6月3日
京から九州に向かって探索の旅を続けた真吉の弟・甚内。
弟・甚内は長崎にいた(融通無碍/関連話)長崎から高知に帰って、言う。
長崎を出て下関まで来た。朝、外国船が一隻来た。長州の砲台が砲撃を加えて戦争は半刻(約一時間)続いたが外国船は逃げた。翌朝にもまた一隻が来て同様の経過をたどった。

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
下関戦争(NHK動画)・・・・・・・・
[融通無碍]
長州による攘夷実行である。
幕府は朝廷に攘夷を決行すると約束をしたが、諸藩の見るところ『実行は不可能』であったから皆、様子見を決め込んで静観していたところ、建前と理屈好きの長州が敢然と外国船に砲撃を加えた。
下関戦争(馬關戰争)である。
下関戦争(馬關戰争)(融通無碍/関連話)その後、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が下関の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
下関海峡の砲台を連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化することになる。同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と共に倒幕への道を進むことになる。

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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP238>
◆11月3日
爾来の「御役御免、役料除かれ、御歩行格」を以って元支配へ差し返えさる。
真吉に冬の時代が来たようだ。
この辞令の意味するところは筆者には難解すぎて解釈に迷う。
長州ひいきが過熱して周辺から煙たがられたか。
真吉に冬の時代(融通無碍/関連話)===============
⑥文久4年1月13日~元治元年7月17日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP240>
文久4年(1864)になった。真吉は50歳である。
文久4年2月20日、改元され「元治元年」となる。
《この日以後「元治元年」》
京から御飛脚が着く。曰く。御隠居様はいまだ参内されず、しきりに辞職願いを提出、参予会議(
諸侯会議)も逡巡。
諸侯会議(融通無碍/関連話)《参与会議は、後の慶応3年に薩摩の主導で設置された(幕府と朝廷に対する諮詢機関)
四侯会議<
島津久光、
松平春嶽、山内容堂、
伊達宗城>のさきがけ》
島津久光(融通無碍/人物評伝)松平春嶽(融通無碍/人物評伝)伊達宗城(融通無碍/人物評伝)四侯会議 (融通無碍/関連話)・・・・・・
[融通無碍]
◆改元
この文久から元治への元号改めは2月20日に決定された。しかし実施と公表はおおよそ2ヵ月の遅れだ。これが当時の慣例だったか。
現在は天皇の崩御後直ちに元号が発表されるが、発表以前から粛々とその選定作業は水面下で進んでいるはず。
平成も新しい元号に変わるときが来る。マスメディアはこれをスクープせんと他社を出し抜くため日夜熾烈な取材競争を展開していることだろう。
平成天皇退位の意向はNHKが出し抜いた。皇室ネタ故、民放各社が他社の思惑を忖度しているうちにNHKにしてやられた。
昭和天皇の逝去前の病状についても「NHKの独占報道」が続いた。
歴史は繰り返される(≒前例踏襲)もの、なら新元号の報道レースもNHKが圧倒的有利の立場にあるはずとのみ、言っておこう。
ーーーーーーーーー
◆4月4日
明5日と明後6日は(藩主関係者)御法事があるため
穏便(騒音を慎み静かに暮らす)だ。
・・・・・・
[融通無碍]
◆穏便
真吉のこの頃の文書を読むと「穏便」が頻出する。葬儀とか法事では必ず発令された。藩主関連に限らず将軍家、隣藩の不幸も同様である。服喪令という規則集もあって厳格に規定されていた。
筆者も写本が一部手許にある。複雑・難解で通読したことなし。当時の侍たちは座右に置き日々これをめくりながら暮らしただろうと思うと憂鬱になる。
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◆5月20日
真吉は藩庁に「類族書(親類・縁者など血縁姻族関係を記載した書面)」を提出する。
類族書<素人と専門家>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆6月14日
那須俊平と玉川壮吉(いずれも梼原<ゆすはら>出身者)が当月8日亡命(脱藩)したようだ。

脱藩/那須俊平と
那須信吾那須俊平(融通無碍/人物評伝)那須信吾(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆6月22日
横田源作殿が京都から戻った。用件は池田屋騒動にかかる麻田時太郎の事後処理だという。
池田屋騒動(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆7月9日
福岡藤次が御用役に、後藤良輔(=象二郎)と森権二が大監察に、岩崎二三と野中多内が小監察に就任する。
福岡藤次(融通無碍/人物評伝)後藤象二郎を大監察に登用するなど勤王党を弾圧するための陣容強化が進んでいる。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)御徒目付<おかちめつけ>が惣<そう>引きになる。
◆惣引き
「惣引き」の意味が不明だ。惣は「全て」だから全員が解雇・免職か、御徒目付という職分が廃止されたか。
いずれにせよ真吉は仕事を失ったようだ。役手当ては削られても家についた基本給的なものは保証されるから当面の生活維持はなんとか可能だ。
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⑦元治元年7月18日~10月29日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP254>
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◆元治元年7月23日
町便によると、「伏見で異変が起きた」
伏見の異変=蛤御門の変である。

超大事件だ。7月18日、長州藩家老・福原越後の率いる軍勢が伏見で警護に当たる大垣兵と戦火を交える。翌日には御所の蛤御門<はまぐりごもん>で御所を守衛する薩・会らの勢力と激突して京の街を戦火に包む。
・・・・・・
[融通無碍]
真吉の情報入手は早い。町便とは民間情報であり、飛脚に限定したものでもあるまい。上方に航海する下田船は多かったはずだからその情報源は船乗りだったかも知れぬ。
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◆元治元年7月24日
真吉は、京都で異変が起こったので上京の御供に加えてほしいと願書を大監察に提出する。
蛤御門の変(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
野根山二十三士の乱・野根山騒動
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP254>
◆元治元年7月26日
清岡道之助ら2人が野根山に立て籠もり、国事(藩政に関わる事)を嘆願するするに及んで高知城下の御侍中(上士以上の者)が大いに動揺する。それぞれ槍を持って御屋敷を警護して郭中(城近く上士達の住む区画、下士はそれを取り囲むような地域に住んだ。真吉の住む小高坂もその一部)を巡回する。続いて3~400人にも及ぶ討伐隊(討手=足軽など下士中心で編成)が東に行く。
これは
野根山騒動のほんの序幕で別に記すから詳細は述べない。
野根山騒動結末記(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆元治元年8月15日
此の暁<あかつき>(朝焼けの頃)佐川人・
伊原応助、
濱田辰彌(=田中光顕)、
橋本鉄猪、
那須守馬、
池大六の5人が佐川から脱走・脱藩した。
佐川組の集団脱藩(融通無碍/関連話)伊原応助(融通無碍/人物評伝)濱田辰彌(=田中光顕)(融通無碍/人物評伝)橋本鉄猪(融通無碍/人物評伝)那須守馬(融通無碍/人物評伝)池大六(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆元治元年8月22日
藩は藩主・豊範の奥方の実家が長州だから離縁して城から出し、お堀端にある(安芸の)
家老・五藤の留守宅に移した。
・・・・・・
[融通無碍]
真吉は大名家の薄情さに怒り心頭だったろう、世の常とは言いながらも薄情ではないか。既に北の方の処遇について堂々の正論を提出していた、単独で。
五藤屋敷(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
[
佐々木高行/日記より]
保古飛呂比(出典:
魚の目<魚住昭>)
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
[日記/保古飛呂比]
元治元年8月22日、藩が出したお触れは次の通り。
『このたびの防長(周防国と長門国。長州藩のこと)追討のお沙汰に関して、(太守さまの)お考えがあり、御奥さま[長州よりお輿入れの方である]は離別され、(お城を)退去される。当分、五藤内蔵助の留守屋敷を借り上げ、そこに住まわれる。よって、今日から、俊姫さまと唱え奉るようお命じになった。右のことをそれぞれの組の者たちに申し聞かせるよう。』
ーーーーーーーーー
◆元治元年8月23日
佐々木三四郎(=高行)を訪ねる。
同氏は7月26日に高知を立ち、京都で5日間(禁門の変後の)探索を続けた後、昨8月22日帰着という。
[
佐々木高行/日記より]
保古飛呂比(出典:
魚の目<魚住昭>)
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
[日記/保古飛呂比]
禁門の変(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆元治元年9月5日
兼彌太が幡多に帰る。清岡道之助ら23人が昨4日、奈半利川原で打首にされ、このうち(首領格の)道之助と治之助の首が(高知城から少し上流の鏡川河畔北側)雁切りの渡し場の梟木<さらしき>の上に乗せられる。
野根山二十三烈士(融通無碍/関連話)・・・・・・
[融通無碍]
◆二十三士の乱=野根山騒動
土佐東部の志士達が元治元年7月26日から
①獄中の勤王党盟主・武市半平太の釈放・減刑
②藩論を勤王に統一
を求めて蜂起した事件である。
高知から派遣された藩討伐軍に追われて阿波領まで逃げ込むが土佐との交誼を重視する阿波藩は丁重に扱い、蜂起勢を感激さたが最終的には土佐に引き渡す。
◆真吉は『至誠通天』の人
真吉はこの蜂起を立案時から知っており、時期尚早であることなどを理由に反対した。盟主・清岡らから「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたようだが真吉はその主張に同調しなかった。
しかし蜂起を高知で知ると藩庁に「蜂起軍を処罰することの不可」を堂々たる論調で述べ、かれらの行動に不正な動機など一切ないことを主張して徹底的に弁護する。蜂起した人数は23人だが真吉は1人欠落したことを知らず24人と記録に残した。斬首された全ての人の辞世の歌も書き写して残した。

かれらの墓は今、田野町の福田寺(ふくでんじ)の墓地にま一列に並ぶ。埋葬に際し、清岡道之助の妻は切り離された首に竹棒を差し胴体とつなげて葬ほうむったという。
奈半利の河原で断罪した責任者は小笠原唯八(上士)で7月3日に監察に就任したばかりだった。23人の処刑後、かれは報告書を取りまとめた。それは戦災で焼失、残っていない。が焼失前にこれを読んだ人によれば『唯八の震える筆跡に感動を覚えた』という。
その唯八が戊辰戦争では牧野群馬<まきのぐんま>と改名して奮戦し散ったことは後に述べるだろう。
唯八の震える筆は「お前たちを死なせるワシも必ず死ぬ。安心せよ」と言いたかったか。同じ藩の者が殺し合う悲劇、文久初年にも薩摩でも起った。ほぼ同じ時代認識をもつ者同士がその実現法の違いを巡って対立する。殺し合う。昔も今も人間は同じようなことを繰り返す。もう本能なのだろうか。人間の知性はこれを超えないか。
小笠原唯八(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆元治元年10月12日
この度(離縁され家老・五藤様の留守邸を借り上げ御住まい)俊とし姫ひめ様の御屋敷を「御仮住居」と呼ぶことに決まった。
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[融通無碍]
◆高知城下の五藤邸
高知城の東南のお堀端に現存する。立派な建物だ。五藤氏の高知屋敷である。五藤はこの屋敷は高知にいる時用いた。真吉も安芸の五藤家から大砲受け取りのため何度か足を運んだ。また本宅と呼ぶべき邸宅は、五藤氏の領地の安芸市土居にあり、昔のままの威容を誇る。安芸の五藤家に関係しそうな古文書類は筆者知り合いの襖屋さんのルートで入手し保管している。
この襖屋さんは土居地区お住まいの旧家臣のお家から襖の張替えを頼まれることあり。襖屋さんは小松さんという職人さんで大坂で修行後、安芸市名村で店を開いた。かれも古い文字に興味があり襖の下張りは通常廃棄され新しい物に張り替えられるが、その古い下張りを保存されていた。
偶々筆者が通りすがりにお邪魔した所、共鳴しあう所あり、知遇を得て情報交換しあう間柄となった。そのご縁で襖の下張りを頂戴できることがある。五藤家は領地内の寺院に暮れには金子を届けていたようでその一覧もあった。さらに驚くべきことに佐川の古文書も下張りの中に見つけた。明治初年のものだ。古紙を回収する業者がいてそこから古紙が買い取られ、安芸の旧家の襖を修理する際襖屋さんがこの古紙を買い、下張りしたようだ。
旧家の襖には歴史が下張られている。すこし時代が下がると新聞紙の下張りばかりで全く面白くない。活字には味がない。
高知の五藤邸は文化財に指定されているか不明だが、指定要件は充分に満たすと思う。かつて五藤家の文化的遺風を残して書店『藤書房』がその屋敷地内にあったが時代の流れ廃業し、今はコンビニが。コンビニに罪はない。が古い時代に「藤書房」で至福の刻を過ごした者には違和感がある。往時茫々。
高知城下の五藤邸(融通無碍/関連話)===============
⑧元治元年11月2日~慶応元年5月27日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP263>
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◆元治元年11月12日
桑原義之助の亡命の報せが届いた。脱走したのは九日である。これに同行したのは尾川保馬と
小松清雪(清拙)。
小松清拙(融通無碍/人物評伝)・・・・・・
[融通無碍]
◆桑原義之助の脱藩
桑原は幡多の楠島生まれの郷士で真吉の門下生あるが、定見のない藩庁に憤慨して脱藩した。この桑原と清雪の二人が真吉の影響下にあって脱藩者となった。
尾川保馬は安芸郡芸西村和食の産である。戊辰戦争にも従い維新後は平川和太郎と改名し、司法関係に進んだ(筆者、縁あってかれの蔵書一冊が手許にある。
しかし清雪(=俗名:小松勇道)は物部村に生れたから例外とすべきかもしれない。
真吉は徒党を組む、集団で行動するのを嫌った。
だが他から見れば真吉を盟主とする『
幡多勤王党』的な組織が存在した。
その組織は「来るものは拒まず、去るものは追わず」だった。そういう集合体だったから決まりもない。武市半平太の土佐勤王党の如き凝り固まったものではない。
武市の組織はいわば近代的で、真吉の集合体は前近代的であったように感じる。時代の影響を人も組織も受ける。
時代背景の影響をまともに受けたような西洋の技術が津波のように日本列島を襲っている。
西洋はキリスト教の影響か物事を論理的、合理的に処する傾向が強い。だが世界ではそうではない国々が今も多く存在する。文化の対立、宗教をめぐる紛争、貿易摩擦・・・・。対立の原因はいくらでもある。
筆者はアメリカの拝金傾向が目に余ると感じているが近頃はそれを上回る国が出現した。中国である。
世界各地にある対立の根は経済である。経済対立は人智と互いの自己規制・調整により緩和できよう。がどうにも克服しづらい対立がある。宗教的対立だ。排他的宗教は互いに理解しあうことなく紛争が内乱に果ては戦争に発展する。さあ世界は今後どう動く?
幡多勤王党(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆元治元年11月30日
帰庵(元の住まいに帰る=小高坂)する。田内衛吉が拷問され吐血、その翌日に死んだという。
・・・・・・
[融通無碍]
◆田内衛吉(1836~1864)の獄死
武市半平太の実弟だが田内菜園の養子となる。
文久2年江戸遊学の帰途、大坂で吉田東洋殺しの犯人捜査中の下横目・
井上佐一郎を
岡田以蔵らと殺害した。
土佐勤王党への弾圧で投獄されその後「同志から差し入れの毒を服用、獄中死した」というのが現在の史学界の定説だ。
真吉の『衛吉が拷問死』は当時流布していた説を聞いたまま書いたか。死因は定説を覆す新説が出れば…。
井上佐市郎(融通無碍/人物評伝)岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)井上佐市郎暗殺事件(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆元治2年1月17日
芸西の和食<わじき>(実妹が嫁いでいる)に行く。
真吉の血縁(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆元治2年4月8日、
改元され「慶応元年」となる。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP271>
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◆慶応元年5月11日
岡田以蔵、
久松喜久馬、
村田忠三郎、
岡本次郎が牢屋において斬首された。
久松喜久馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)村田忠三郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)岡本次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・
[融通無碍]
岡田以蔵は、肥後の
河上彦斎らとともに「幕末の四大人斬り」の異名を取っている。尊王攘夷派の4人の志士がおこした天誅と称した要人暗殺テロ事件は都の人々を震撼させた。
幕末の四大人斬り(Wikipedia)
河上彦斎(融通無碍/人物評伝)
真説 岡田以蔵歴史の中に埋もれた以蔵(NHK動画)~~~~~~~~
園村新作、
島村寿之助、
安岡覚之助、
河埜万寿彌、
森田金三郎、
小畑孫次郎、
小畑孫三郎、
島本審次郎は引き続き牢屋に監禁され
小南五郎右衛門殿は御預け処分となった。
園村新作(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝)森田金三郎(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)島本審次郎(融通無碍/人物評伝)小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)武市半平太は屠腹<とふく>(=切腹)を命じられた。
武市半平太が切腹(融通無碍/関連話) 瑞山神社(NHK動画)・・・・・・
[融通無碍]
武市の切腹の有様は立派であったようで関係者の賞賛を呼んだ。「花は散り際」という美学があったから武士は死に様で評価され、それがみにくい場合過去の功績を台無しにした。
真吉は勤王という点ではかれと同調したが、その実現方法では大いに意見を異にした。
高知藩の執政・吉田東洋の暗殺計画は知っていたが積極的に参加しなかった。否、嫌悪したと言った方がいいだろう。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)東洋は土佐藩主・山内容堂の『お気に入りの人物』である。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)その見識、行動力とも容堂は最高評価を与え容堂自身「東洋先生」と呼び、尊敬措くあたわざ>る人格者であった。その言動に容堂は憧れるような視線を投げた。激情に駆られる性格は両者に共通するから、なお一層東洋への愛着は君臣の範囲を超えて深かった。
一方「意見が異なるなら排除せよ」は真吉にはありえないことで、武市はそういう意味では「対岸の人」だった。
同じ流れに身を任せ、同じ流れの中にある。
源流から中下流まで川は常に激しく流れ下る。だが海に近づくと川の流れは海の干満の影響を受け流れは緩やかになる。引き潮の時にはどんどん海に注いで海と一体化する。が満ち潮になれば川に向かって押し寄せる潮流に包み込まれるようにして混じり合う。
◆下田の風景

四万十川河口下田の港
中村・下田でこの有様を見ることに親しんだ真吉は体得していた。
世の流れは海と川との関係と同じだ。山に生まれた四万十が流れ下って海に注いで一体する。川は海に飲み込まれたのか。海は川を飲み込んだのか。そういう関係ではあるまい。
両者が交わる汽水域にこそ豊かな何かがある。川が海に注ぐのは自然だ。海という子は母なる川から大地の養分を受け取る。母は流れくる子に無心に乳を与える。子は当たり前のように教えられずして乳首に吸い付く。その乳も元は血液で、それが乳腺組織を通るだけで赤い血が白の乳に変わる。何かをわれらに啓示している。
川の水のもとは雨で、雨のもとは海から立ち上る湯気のようなもの。全てはつながっている。このつながりを断ち切ってはいけない。認め合いながら一緒に歩くがいい。時の流れが対立と互いの違和感を消すこともあるから。
上流で川を観る者は「逝く者はかくの如きか昼夜を措かず」(論語)と四六時中、下流に向かう流れに自分を重ねる。
生まれたからには死に向かうのみ。それは正しい。だが生から死へは一直線だろうか。川の流れのように岸を削りながら淀みながら行くのが人生ではないか。人生は直線のコンクリート水路ではなく右往左往しながらいく自然な流れがいい。
時間の経過は老化だけを意味しない。
流れをさかのぼるがごとき青春があるではないか。自分を駆り立てて止まない力に悩む夜があるではないか。
人生には三つの苦悩がある。老いること、病に伏すこと、死ぬことだ。老いも病も死につながるが生きる者に死は避けられない。
武市の死に際の様子を詳しく聞いた真吉もそれを賞賛したであろうが、かれの生涯を評価し直しはしなかっただろう。死に様と生き様は関係ないから。見事な最期は間違った生き様を償うものたりえまい。
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◆慶応元年5月20日
足軽・松之丞は脱藩していたが近頃帰国したらしい。
甚内は(幡多奉行所の)足軽小頭になった。
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[融通無碍]
◆足軽・松之丞
高知市久万に住む足軽・喜之丞の次男。手裏剣の名手として知られた。が脱藩は藩史に記録は残っていないようだ。
高知出身の田岡典夫(1908~1982)に『寸剣と長剣』という掌編あり、主人公の一人として松之丞は取り上げられた。
田岡は藩政時代史料の収集家としても知られ、これによって時代小説を執筆した作家である。
そのコレクションの一部が縁あって筆者の手許にある。
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◆真吉の弟・甚内
真吉は弟の消息を細かに記録した。それは備忘が主目的であったろうが、弟に寄せる兄の愛情のようなものを感じる。父・信四郎との関係、弟・
樋口甚内との絆、母・信との同居、愛に溢れた家族環境を想像させる。厳格な上下関係ではなく、自然な肉親関係があったようだ。「父上」と書いてあっても実際は「お父ちゃん」、と呼んでいたような気がする。
樋口甚内(融通無碍/人物評伝)愛に溢れた家族(融通無碍/関連話)===============
⑨慶応元年閏5月25日を最後に翌2年8月まで真吉日記は記録されていない。
※この空白の一年数ヶ月の間に起った事件などを見てみる。
◆政治外交
○元年9月16日
英・米・仏・蘭の四ヶ国の公使らが兵庫の開港を求めて兵庫沖に軍艦を集結させて圧力をかけた
○2年1月21日
坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介もあって薩長同盟が成立し、長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。この直後、龍馬は伏見・寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負うが薩摩藩邸に逃れる。その後鹿児島に渡る。勝海舟の神戸の海軍塾が閉鎖された際にも塾生らの身柄は薩摩に引き取られたこともある。この事件とその後の経過が真吉にどう映ったか。薩長の仲介は良いとしても、その後薩摩の保護下に入りさらに薩摩入りしたという事は「龍馬は何を考えているのか。まるで薩摩の手下じゃないか」と思ったとしても無理ないかも知れぬ。
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⑩慶応3年~慶応4年(明治元年)
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP277>
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[融通無碍]
真吉は明治3年に死んだ。
大名小路・明治3年(融通無碍/関連話)今は慶応3年だからいわば「明治マイナス一年」だ。西暦でいえばBC.一年といえば理解してもらえるか。
かれの記録に後出しジャンケンはない。当時のまま残る実況中継だ。
筆者は真吉の記録に大きな価値を見る。
明治の遺勲者たちが若輩連を前に「○○翁、往時を語る」のとは全く別世界の記録。懐旧談にありがちなリップサービスも誇張も老齢のための記憶違いもここにはない。
どうぞこの点に留意してもらいたい。
真吉の生涯と記録(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆慶応3年2月15日

西郷吉之助が蒸気船に乗って高知に来た。
薩摩の西郷が高知へ(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆5月26日
「大洲船を借りて器械を長崎から運ぶ途中、箱の岬で紀州船と衝突して沈められた」という報せ(4月23日夜の大洲船の沈没事故)が届いた。
龍馬が大洲藩から借りたいろは丸が紀州船と衝突した。
いろは丸事件(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆6月8日
祇園にて真写をなす。西山平馬も同じく写す。
真吉 写真を写す(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆6月22日
土佐藩の
後藤象二郎と
福岡藤次らが京都三本樹にて薩摩藩の小松(藩家老)、西郷(同参政)、大久保の諸氏に逢う。
後藤 象二郎(融通無碍/人物評伝)福岡藤次(融通無碍/人物評伝) 【薩土の幹部が三本樹で会い薩土盟約が成立する】
真吉の記述の人物以外に、土佐側からは坂本龍馬と
中岡慎太郎、真辺栄三郎、容堂側近・
寺村左膳が参加していた。薩土盟約の締結である。この盟約には背景がある。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝) 寺村左膳(融通無碍/人物評伝) 幕府の命脈が尽きようとしていることは薩摩、土佐ともに明瞭に見えていた。問題はどう収拾を付けるか。武力倒幕の薩摩、平和裏に政権交代を実現したい土佐が曖昧な形で妥協して生まれたものだ。だから契約が実効していた期間は極めて短い。この7月22日(下旬)から9月上旬(明確な日付確定は困難だ)の間のたった2ヶ月半だった。薩摩としては土佐を幕府側に立たせることは避けたい、その一心で妥協した産物だ。
薩土盟約======
《融通無碍》
この経緯を真吉は知っていたはずだが書いていない。真吉は長州好きだった。薩長の対立と変転極まりない薩摩の態度に嫌悪を感じていたか。そう考えておこう。
薩土盟約(NHK動画)薩土盟約ーーーーーーーーー
◆10月13日
大政奉還。
大政奉還と龍馬(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆10月26日
白川邸に居る水戸人・中野孝助、早川金太郎、岩崎誠之助らが所用あり四条辺まで行ったところ途中で(待ち伏せに逢い)狼藉者に出会い、金太郎が深手を負わし敵は逃げたが孝助と誠之助が退駆(追い駆け)して賊を討ち留めた。二人も薄手を負ったが幸い都合宜しく帰邸して養生している。
浪士の争い(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
慶応3年11月

この頃、京都市中に神仏の名号(御札<おふだ>)が降る。その騒ぎが喧<やかま>しい程だ。(群集は)日夜踊り狂って止まない。
えじゃないか(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆11月6日
真吉は「貨殖掛り」との兼帯を命じられる。
貨殖掛りの職務内容は不明である。
だが混乱期には贋金<にせがね>作りが横行する。土佐も幕政を混乱させるため実行した可能性がある。平時では大罪だからその活動は極秘だ。
贋金作りが横行(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆慶応3年11月15日(龍馬が暗殺された日)
宮川祐五郎(=上士)を幕吏から受け取る。宮川はさきに三条の制札(=高札)を踏んで幕府に捕縛されていた。
この夜、才谷梅太郎の宿へ横山勘蔵が行き(2人で)談話中のところに下婢が「度津川人の手紙が来ました」と言いながら(2人のいる)二階に上がり来たる。
両人がその書を燈火に閲する時、賊2人が襲来して矢庭やにわに両人に斬り掛かる。
勘蔵は刀を次の席(=隣の部屋)に置いていたから(長刀が手許になく)短刀を抜いてこれ(=敵の刀)を請(受)ける。二の太刀にて頭上を斬られる。止むを得ず、賊の刀とともに足へ組み付く。賊刀を引き抜いて又刺す。勘蔵斃たおる。
楳太郎、刀を取る暇いとまなく賊のために斃さる。
楳太郎の僕奥に避ける、賊退(追の誤記か)詰めて後より斬る。
賊「これにてよし」と言うて去るという。
楳太郎立ち上がり、刀を抜き火下に照らし見、「横山兄、如何」と言うて絶息す。勘蔵3日を経て終ついに絶息。
共に東山に神葬す。宿に賊の刀室(鞘<さや>)を落す。
龍馬と慎太郎が同じ日、同じ場所で刺客に攻撃され龍馬は即死、慎太郎は3日後死んだ。
真吉はその死に様をだれかから聞いてこう書き残した。
龍馬暗殺(融通無碍/関連話)
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◆慶応3年12月7日
この夜、紀州の大奸・三浦休太郎を討つも死ななかった。
三浦休太郎は紀州藩士。この年、龍馬の海援隊船と紀州船が衝突して紀州は莫大な補償金を海援隊に奪われる。これを恨みに龍馬の暗殺が行なわれたとする説があった。交渉時、三浦は紀州側の責任者であった。
海援隊を主体とする復仇隊が作られ、京の料亭で新撰組の面々と酒を飲んでいた三浦を襲撃する。三浦も手傷を負うが危機一髪で逃れた。この際三浦は明かりを吹き消し「三浦、討ち取ったり」と自ら声を挙げて敵を欺き自主的撤退を誘ったという。知恵者だ。
竜馬暗殺復仇隊(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆慶応4年1月3日
大坂伏見の会津兵が上げる火が天を焦がすように大きく見える。
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◆1月4日
鳥羽の方面に砲声がすさまじく、辺り一体に響き渡るのを聞く。
鳥羽伏見の戦いから「戊辰戦争」へと内戦が続く。
真吉と戊辰戦争(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆慶応4年秋、改元して「明治元年」となる。
明治元年(融通無碍/関連話)
明治天皇御東幸千代田城御入場之図(明治元年)
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融通無碍(南寿吉著)
[ノンフィクション]
日記:遣倦録/樋口真吉**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)