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土佐の森・文芸 幕末足軽物語/融通無碍
[関連話]
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■日記・戊辰戦争従軍/樋口真吉
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP305>
◆伏見戦争始まる
慶応四年(1868)戊辰の年、この慶応四年秋には改元され明治となる。
明治元年(融通無碍/関連話)
明治天皇御東幸千代田城御入場之図(明治元年)
新日本の夜明け前だ。激動の年は明けた。
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①慶応4年1月元旦~1月13日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP305>
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◆慶応4年元旦 真吉54歳
土佐藩の主力部隊=迅衝隊結成のため
谷千城と下横目・唯三郎が本藩(土佐藩)に帰る。毛陽人(宿毛)・中村進一郎がかれらに従う。
谷千城(融通無碍/人物評伝)伏見に会津兵が布陣している。
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◆1月2日
晩方、会津兵が大坂から伏見まで上り、京市中(いわゆる洛中)に投宿あるいは町奉行邸に集まるという情報がある。対抗措置として薩長の兵が出る、土佐藩(少ない手勢ながら)2、3の小隊を出動させる。
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◆1月3日
夕刻、伏見の兵が上げる火が天を焦がすように大きく見える。大小の銃砲声が大地を揺り動かす。
容堂公は皇居に参内、諸侯も追随する。御所内外うちそとは灯火に照らされ夜目にも明らか。容堂は三条殿邸へ入り次に御所に参内、さらに仁和寺宮邸に入る。
真吉はこれを見届けた後、斥候(状況把握のため)として御所から下僕・馬太郎を連れ伏見に直行する。
戦火は辺り一面に広がり、特に竹田街道周辺は砲弾の火が迸ほとばしるようだ。砲火の下をかい潜るようにして松下意興の持ち場に着く。松下は「竹田街道方面では薩兵が勝ち、敵の台付き大砲を奪って戦利品とした。長兵も激戦の真っ只中だ。土佐兵はまだ敵に接していない。現在、伏見の東で盛んに火勢が上がっている。その辺りに土佐兵も配置しているから必ず接戦になる」と言う。
その後次第に砲声は途切れ勝ちになり、火炎も千切れ千切れになった。戦火は収まりつつある。これまでの戦況を土佐本陣に戻って報告したのは日付けを越えた夜八ツ(26時)。
鳥羽伏見の戦い(NHK動画)=================
②慶応4年1月13日~1月18日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP312>
■土佐に錦旗が授与された
征討仰せ付けられ候に付き、御紋御旗(錦の御旗)二流下賜候事 正月
高松 松山 大垣 姫路
右四藩、従来天朝を軽蔑し奉る義、少なからず候処、剰あまつさえこのたび慶喜反逆に与力し、官軍に敵し候段大逆無道、これに依って征伐の師(軍勢)差し向けられ候事 正月十日
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◆慶応4年1月13日
真吉は錦旗を守護して本藩に帰る予定で動き始める。
土佐本藩では『迅衝隊』が結成され、同隊に錦旗を届けるための帰藩であった。
迅衝隊(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田喜久馬<平左衛門>(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)
錦旗を守り抜いた(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆1月18日
午時丸亀に達す。深尾丹波(土佐藩:佐川領主で一万石)が本藩から兵隊を約千百人引き連れ川ノ江に宿陣していると聞き、行軍を急がせるためそこに赴く。和田浜まで行ったときこの兵隊たちが来た。
【深尾丹波隊(
迅衝隊<じんしょうたい>)の構成】
総督・深尾丹波《真吉らが届けた錦旗を拝受し官軍として進軍。幕領の川之江、および高松を不戦降伏させた。その後四国に残留して後事を乾退助に一任した。迅衝隊の総督でありながら、一切実戦経験を積む事が無く、降伏した城に駐留するのみであった。維新後は、高知藩軍務局大幹事となるが戊辰戦争で華々しく戦った実戦経験者の活躍に比して、影の薄い存在とならざるを得なかった。没年不詳。》
大隊司令・乾退助(のち、板垣と改姓)《藩兵(迅衝隊)を率いて上洛を果し、山内容堂ならびに在京の土佐藩幹部を説いて勤王派になさしめ一藩勤皇に統一した。迅衝隊を伏見参戦者を含めて再編成。総督(第2代)兼大隊司令に就任し、2月14日東征の途次についた。》
半大隊司令・片岡健吉同・祖父江可成
一番司令・日比虎作、二番司令・野本平吉、三番司令・横田祐造、四番司令・野々村権四郎、五番司令・宮崎合助、真辺戒作、輜重衝司令・平尾左金吾、同・谷口傳八、
大監察・小南五郎右衛門参政・森権四郎、使役・乾三四郎、同加役・谷神兵衛、
小監察・谷守部(=谷千城)同・谷兎毛、小頭・土方理左衛門、同・楠山与五郎、徒士とし目付・佐井寅二郎、小荷駄高差配役・村松彦蔵、同・吉田孫蔵、同・波越喜平
深尾隊の幹部はほぼ全員が上士である。これの下位にある下士には職制上指揮権はなく、上士の顎で使われる立場にあったから身分制度によって編成されている。隊内には不平の渦巻く雰囲気があったかもしれない。
・・・・・・・・・
錦旗を掲げ官軍(東征軍)として関東へ
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◆2月11日
東征軍に動員する藩兵を全員集合させ、装備など点検する。
当初行軍経路は東海道の予定であったが朝廷の意向で東山道に繰り替えになる。
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③慶応4年2月14日~3月11日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP323>
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◆慶応4年2月14日

土佐勢は東山道を進むことに
雨天であるが予定通り京師を発す。
総兵員合わせて千百余人(割り当て人数より若干少ない)宿継ぎ人足は三百余人。三条橋を渡って行軍を続け、草津に陣する。
総督・板垣退助(京師出発の時点で改姓したか)
輜重長(=輜重奉行)・早碕兵吾
《真吉は輜重隊の裁判役、輜重長の早碕兵吾は後に敵前逃亡の罪で本藩送りの処分を受ける。》
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆2月18日
雨。垂井、大垣で宿。堺事件の一報が入る。迅衝隊・裁判役の村松彦蔵が大坂からやって来た。言うには『去る十四日、大坂・堺においてフランス人が乱暴を働き、土佐藩兵が駆けつて斬って追い払うと連中は狼狽し艀はしけに乗って逃げたそうだ』
堺事件と幡多(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆3月5日
早発する。甲州入口には川があった。
幕府代官のいる甲府城を受け取り、城下の一蓮寺(山梨県甲府市太田町:時宗系寺院で山号は稲久山。一条道場とも呼ばれる)で休憩する。
夜半、東方に火の手が上がり段々とこちらに近づいて来る。賊徒らしい。
真吉らは野寺の市店に宿陣していたがここでは防御が難しいと判断し、接収した甲府城に拠ることにし、移動した。その移動が終わる頃、夜が明けた。
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◆3月6日
賊徒を撲滅するため、先手・小笠原謙吉(迅衝隊三番小隊司令)、谷神兵衛(同四番小隊司令)と砲隊が東方へ押し出す。賊徒を勝沼(山梨県甲州市勝沼町:慶応四年大善寺付近で近藤勇・甲陽鎮撫隊が板垣退助・征東軍に駆逐され敗走した。《=
甲州勝沼の戦い》
甲州勝沼の戦い(融通無碍/関連話)
錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』
この日記が記された頁の欄外に『巨魁・近藤勇 変名・大久保剛』とある。
【近藤勇】
京都で治安維持のため志士たちを多数斬殺したあの
新撰組局長である。
池田屋騒動(融通無碍/関連話)この勝沼の戦いでは辛うじて戦線を離脱して再起を期したが、流山の戦いで官軍の本部に出頭して偽名(=大久保大和)を名乗るも顔見知りがいて正体が知れ、捕らわれて板橋で斬首された。
新撰組(融通無碍/関連話)真吉はこのことを知り、『逃げたあの群れの中に近藤がいたとは』と後日に加筆した。
・・・・・・・・・
[脱線話]
■京の都で「沈黙の会話」?
京都で近藤勇は名の売れた剣豪であった。しかも『泣く子も黙る』新撰組局長であるから威風堂々と京の街を配下引き連れ闊歩していただろうし、真吉もその姿を見ただろう。
老いたりとはいえ、真吉にも他を圧するような威厳が往時同様に漂っていただろう。勇は周辺の隊士に聞いたかもしれない。
(おい、あの長身の武家はなにものだ?)
(局長、土州の樋口真吉ですよ)
(あれがそうか。なるほど、修練とはすさまじいものだな。老いてなお、ではないか)
真吉は鋭い視線を通りの向こう側を歩く勇に注いだ訳ではない。かれも修羅場に身をおく境遇にあり警戒を怠らぬ剣士であれば自ずから真吉の発する雰囲気を感じ取っただろう。
真吉は
(あれが近藤か。寄る年波には勝てぬが歳を取ったから血気は失せ、その分無駄な動きも無くなる。抜きあえば、手数を使わず一撃で倒せる。一人を集団で囲み討ち取るのが、新撰組の戦法と聞いたが、京の白昼なら、壁を背にして戦えばこちらにも勝機は充分だ)
(ましてや、サシの勝負なら負けぬ)
こんな沈黙の会話が両者の間にあったかも知れないし、互いの立場を考えれば、あったとする方の可能性が高いと筆者思う。
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◆3月27日
13連発銃(=スペンサー銃)の代金600両を刀工・豊永久左ヱ門(=
左行秀<さのゆきひで>)に渡す。
スペンサー銃のこと(融通無碍/関連話)刀工・左行秀/中年武士の姿(融通無碍/関連話)=================
④慶応4年4月11日~4月25日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP336>
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◆4月11日
期限は11日とした朝廷の命令通り黎明のころ、慶喜が江戸城を退く。

徒歩かちの家来を五百人ばかり従え、上は平袖、下は小袴の高股を着用して(如何にも貧相で、尾羽打ち枯らした風体)、砲器(自衛の火器)は携えず、総髪(月代も剃らず、丁髷<ちょんまげ>を結ばず後で束ねた髪型)であった。
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■江戸城の無血開城(慶応四年四月)

『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館蔵)
徳川の終焉(融通無碍/関連話)江戸城無血開城(NHK動画)
芝 西郷と勝 会見の地
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《融通無碍》
意識を変えられない旧幕府高官、増長する新勢力。
関ヶ原から続いて来た旧構造が音をたたて崩壊している。
関が原の戦い(融通無碍/関連話)
「御本丸」と書かれた江戸城の写真
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◆4月13日
朝、田安邸前に旧幕歩兵が五百ばかり屯集していると聞き、急遽出兵するが虚報だった。
この日官軍総督が江戸城に入る。
真吉らは江戸城に通じる市谷・四谷・喰違<くいちがい>の三門を警護した。
勝てば官軍(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆4月28日
大雨を衝いて迅衝隊の6隊が進み、壬生城に着す。
輜重奉行・早崎兵吾が安塚<やすづか>(栃木県壬生町安塚)の賊軍が来たと誤断し、輜重隊は動揺する。しかも奉行たる早崎は臆病風に吹かれて(=『三舎を避けて』)姿をくらました。
主を失った輜重隊は右往左往し糸の切れた凧<たこ>状態となる。
真吉は早崎の行方を懸命に捜したが3日経っても分からない。
その結果、前線は輜重からの物資の供給を受けられず立ち往生、退却を余儀なくされる。土佐藩兵は宇都宮城攻撃に遅参して面目を失う。
その後落ち着いた早崎は正気に返り、舞い戻ったが問罪されて旅宿に閉居し、次いで本藩送りの処分を受ける。
輜重奉行が敵前逃亡(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP342>
◆閏4月1日
◆4月1日
晴れ、「如来寺」(同・日光市今市、東武日光線の下今市駅の西北五百mに所在)に
迅衝隊輜重局本部を置くことにした。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆4月5日
晴れ、大沢を発し、今市に戻る。さきに甲府の人・旧井清左ヱ門という人が敵情を偵察するため日光に潜入したが発覚して滅多斬りにされたという。
滅多斬りにされた男(融通無碍/関連話)結城七郎は甲府で地元有志によって結成された断金隊(土佐にとっては外人部隊)の隊長であるが江戸で突然脱走した。
板垣退助と、甲府の断金隊(融通無碍/関連話)晴れ、「如来寺」(同・日光市今市、東武日光線の下今市駅の西北五百mに所在)に輜重局本部を置くことにした。
【世界遺産を守った土佐兵・板垣退助】
昨日、迅衝隊は敵を追って日光東照宮に迫ったが、その門前に二人の僧侶が飛び出して来て平身低頭して涙を流さんばかりに哀願する
「賊徒が山内(境内)に侵入しております。今、官軍がこれを追って攻撃しますとこの貴重な霊場が焦土と化すことはわれらにとって嘆息に堪えないことです。暫くのあいだ、お待ち下さい。帰山して凶徒どもを追い払い掃除も済ませて官軍をお迎えします」
確かに懇願は丁寧で理に適っている。僧侶は懇願を繰り返す。
迅衝隊内で相談の末、ひとまず引き返すことにした。
板垣退助、日光東照宮を守る(融通無碍/関連話)
日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
板垣退助と、甲府の断金隊(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
4月9日
雨、戦闘に必須の軍夫の不足が深刻化してどうにもならない。
真吉はその募集のため本藩(高知)に派遣されることになった。早々に出立する。
真吉、人集めのため奔走(融通無碍/関連話)=================
⑤慶応4年5月1日~6月27日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP347>
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◆5月2日
江戸甲邸を発し連日の雨を衝いて古河まで足を伸ばし泊まる。
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◆5月3日
壬生を経て今市に返る。安岡亮太郎(=真吉門人、土佐中村の人)が江戸に行く。
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◆5月4日
賊が毘沙門の山(今市の北十kmにある山か?詳細不明)に旗を立てる。
先月十八日、十九日、廿一日の敵襲はことごとく撃退した。
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《融通無碍》
真吉は『賊襲来、悉ことごとく撃って之を退しりぞく』と書いたが実情は大接戦で、辛うじて勝ちを収めた際どい戦いくさで、命拾いしたような有様であったらしい。この前後、真吉は軍夫募集で江戸にいたから戦況の実態を知らなかったのか、「悉く」とは強がりを言ったか虚勢を張ったのか。
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◆5月5日
事なく終わる。真吉が今市に戻る前の一昨日、迅衝隊は毘沙門山にたてこもる賊軍に発砲し攻撃を掛けたところ、賊は立ててあった旗(=旌)を巻いて後退したという。
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◆5月6日
未明、東村(=芹沢である、と欄外に記入あり)の農民が来て言う、『昨夜から東村の近くに賊が屯<たむろ>している。今日あたり御陣を襲うつもりでは』
即座にかれを同行して本営に行き、その旨を報告する。
終わって、宿舎の如来寺に戻って碁をうつ。
(さあ、本営はどうするつもりか・・・・)
このとき寺の南門の方から砲声が聞こえ、(進軍を促す)ラッパの音も追々響くなど慌しくなってきた。
(ラッパの音からすると敵は洋式訓練を受けている。強敵だな)
何局打ったか、頭に棋譜を残すかのようにざっと布石を見渡し石を碁笥<ごけ>に納め、立ち上がった。朝五つ(八時頃)である。
真吉、陣頭に立つ。
敵の軍勢は700人ばかりと思うが、日光街道に立つ両側の巨大な杉並木の蔭に身を隠し、あるいは麦畑に伏せるなどしてその総数(多少)は分からない。
このため敵を撹乱しようと十字架の形の棒に笠をかぶせ、蓑みのを着せて兵隊に見紛うように麦畑の中から突き出させることにした。雨天だから敵も識別は容易でないはず。
わが兵隊は最初堤の外側にいたから胸壁(身を隠す障害物)がない。このため背後の堤に後退させて安全を図る。後退したとみた敵は猛襲をかけて急迫し弾丸を雨、霰あられと降らせる。
真吉らが滞在している如来寺は街の中心部にあり、敵はこれが目指す本営と思ったようだ。しきりに発砲する。とうとう寺の境内になだれ込んで来たから、予備の弾丸を寺の空き部屋に運び入れた。
砲弾の直撃を受けた庭の樹が織物のように織り重なって倒れる。真吉らの兵隊は全力を尽して懸命に戦う。砲隊は東の川原から敵の側面を攻撃する。兵は鯨声(ときの声)を挙げ、敵を威嚇する。激闘続く。
戦いは七ツ時(16時ころ)に至り、敵の退却逃亡をもって終了した。
迅衝隊は勝ちに乗じて一里ばかりも追い討ちをかけた。
敵の首を獲ること26、傷を負って逃げる途中で敵・加藤麟三郎を生け捕りした。迅衝隊にも死傷者が出た。大砲一門を戦利品として分捕った。
戦闘が終わったころ、南方にいた宇都宮兵(=土佐胡蝶隊と砲隊)が援軍に駆けつけた。
小野隼太が敵弾で戦死、「大沢」口でのことだ。「今市」口では谷本忠一郎、小松駒之助、小松克馬が戦死した。
右記の氏名を見ると、戦死者いずれもが幡多出身と思われる節がある。この推測が正しければ真吉は遺族に報告する備忘として記録したのか。
第二次今市宿攻防戦<慶応4年5月6日>(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーーー
◆5月18日
江戸・上野戦争の勝利報告が届いた。
上野戦争終結(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆6月16日
黎明、敵(仙台を主体とする)千人余りが城山を占領後、淺川に押し寄せた。
土佐藩と彦根藩がこれを迎えうつ。晨<そうちょう>から八ツ時(十四時頃)に及ぶ激戦のすえ、敵はついに背を向け敗走した。この日、朝のうちは晴天であったが戦いが酣<たけなわ>の頃大雨になったから敵は甚だ困窮した。
仙台勢を主体とする敵の装備は雨天に弱点があったのだろう。
つまり
火縄銃かこれを改善した燧(火打ち)式銃の点火は雨が降れば火薬には着火せず銃が使えない。
火縄銃(融通無碍/関連話)
奥羽越列藩同盟旗
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◆6月17日
昨夜横浜から戻った使者が言う。
「十連発銃が近日中に到着する見込みです」
さらに、その日のうちにスイツ(=スイス)の時計商人・James Favre-Brandtに注文していた小銃五十挺が横浜に届いたと連絡があった。
真吉が待ち兼ねていた品物であった。
真吉、十連発銃を買う(融通無碍/関連話)=================
⑥慶応4年6月28日~7月27日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP354>
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◆6月28日
大雨。この廿四日に迅衝隊は薩長他と協力して棚倉(福島県棚倉町)の城を攻め落としたという。

磐城平の戦絵図(絵の中央当たり、大砲から弾が放たれ、絵の上にある磐城平城の城門が破壊される様子が描かれている。)
真吉はこの日(深川・砂村の下屋敷に住む)中濱万二郎を招いて飲む。
真吉とジョン万(融通無碍/関連話)ジョン万二郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆6月29日
真吉は江戸城に登城して正五位を叙位されている土佐出身の高官・清岡半四郎に面会する。
かれは官軍の実質的な指揮官・大村益二郎と真吉をひきあわせた。
真吉は軍資金不足を直訴する。
「手持ちの金では一月<ひとつき>半がやっとだ、天金がもらえないと負ける」
その答えに大村益二郎は
「降心(=安心)いたされよ。これ以後は兵事の差し支えに及ぶことは決してない」
最高の言質を得て、真吉は安堵と満足に浸りながら帰邸した。
大村益二郎(融通無碍/人物評伝)清岡半四郎は土佐東部・野根山で蜂起し(野根山騒動)、奈半利川原で散った清岡道之助の実弟である。
野根山騒動結末記(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆7月10日
敵の領分を探索する。
五里圏内に敵影を見ない。しかし山林・渓谷中に放置された死骸の腐臭が酷く、鼻を被わないと通れないほどだった。今月一日の戦闘の跡だ。
旧暦の七月一日は調べるとこの年は八月十八日だった。お盆を過ぎているから少し暑気も薄れたかも知れない。が相当高温だろう。
遺棄された死体が十日間放置されれば・・・・
目を覆う惨状(視覚)に腐臭(臭覚)が加わると・・・・
匂い付きの地獄絵を突きつけられたような思いがするだろうに。
うじ虫が遺体の上を這い回る音(聴覚)がザワザワと静かに聞こえる。何とも筆舌に尽くしがたい。
われわれは戦争の画像を時々見ることもあるが、画像から臭においは伝わらない。視覚に訴えても嗅覚には伝わらない。
戦争の悲惨さへの自分の想像力の欠如を思い知る。
戦争を煽る人々にこそ嗅がせたい臭いではないか。
思い知るべきだ、戦争が起ればどうなるか。
一度臭えば三日は忘れないとか聞いた。鼻についた悪臭の思い出で全く食欲を失うとも。
ーーーーーーーーー
◆7月16日
黎明、仙台を主体とする敵(奥羽越列藩同盟)千人余りが城山を占領後、浅川に押し寄せた。
土佐藩と彦根藩がこれを迎えうつ。晨<そうしん>から八ツ時(十四時頃)に及ぶ激戦のすえ、敵はついに背を向け敗走した。
奥羽越列藩同盟(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆7月24日
真吉らは棚倉を発し、二里行くとまだ戦闘の跡も生々しい淺川を見る。ここは西側に原っぱや田んぼが広がっていて人家も多い所であった。
佐田、白川村を経由して石川に泊まる。石川は淺川から三里離れているが、ここでは官軍は先鋒を彦根藩、次に館林、薩摩、長州、そしてわが土佐、黒羽、最後に忍の順番に一日交代で宿陣する約束であったにも関わらず、この日は何故か全ての藩が宿泊しており、土佐藩兵の宿る人家がなかったから、大もめにもめた。
混成・連合軍の宿命(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆7月27日
迅衝隊の二、三、四、六の小隊が小浜(福島県二本松市小浜)に向かって進発した。敵は土佐兵の姿を見ると守っていた関所を捨て、持っていた銃器も投げ捨てて逃げる。
本道をとった九、十三の小隊は断金隊とともに早朝から敵を追って進んだが、敵は逃げながらも道ばたの家々を焼く。銃弾に死んだ敵兵の遺骸が収容もされず放置されている。敵は阿武隈川の西岸でわれらを待ち構えるように陣取りしていた。
板垣退助と、甲府の断金隊(融通無碍/関連話)=================
⑦慶応4年7月28日~9月4日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP366>
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◆7月28日
三春を発した。敵は本宮(福島県本宮士市本宮)の陣営を四方から攻撃するが、ついに守り切って敵を撃退した。
【この戦いの人的損害】
金創(刀・槍による傷)=
山地忠七(=山地元治)
銃創(鉄砲による傷)=
五十嵐幾之助、別府勘助、武藤並枝、中野順二郎、弘田倉二
戦死=米倉丹三
深手(重傷)=井上彌太ヱ門
山地忠七(融通無碍/人物評伝)五十嵐幾之助(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆8月11日
弘田章三郎が高知へ帰る途中にこちらに向かって来る
谷干城に会ったから止めて留まる。この頃、谷干城は丁髷を切り落とした髪型であったという話も残っている。
「止めて留まる」は意味が取りづらいが、弘田が谷に「どうも大きな戦闘が始まりそうで危険だから、行くのは止めて様子を見たほうがいい」と助言したところ、谷がそれに従ったということか。
【谷干城】
谷干城(四万十町HPより)
かれは文久二年秋に真吉と九州行きに同行した(干城は上士、真吉は足軽に毛の生えた程度の身分。正使が干城、付き添いが真吉だった)人物であり、学識も豊富で藩校の助教も勤めた。明治政府内では派閥を作らず藩閥にも属さなかった変わり者、是々非々とも言う。
上士だが高知城下でなく、窪川(高知県四万十町窪川)に生まれた野生児だった。窪川は四万十の最上流部に位置する盆地で多くの小川が流れる。
その小川で干城は水浴びをする、いつも一緒に遊ぶ悪ガキ共だが干城の泳ぐ場所の下手しもてにはその姿がない。高家のご嫡男だから敬遠したのではない。かれは風呂嫌いで垢だらけ、泳ぐと油膜のようなものが浮き、垢で濁った水が流れて来るから。
嘘だろうが言い伝えをそのままお伝えするしか筆者には能がない。
その硬骨漢が実は比類なき恐妻家であった。この恐妻がいたから西郷軍によって強いられた長期の籠城戦に耐えられたと干城自身が独白している。
「もし、西郷軍に降参でもしてみろ。アシがどれほど細君にしでられる(土佐弁で『厳しく叱責される』の意)ことか、思うても総身の毛が逆立つ」
さらに手記には
「われの人となりしは、わが父とわが師と、わが妻の恩なり」と書いたし、決定打は「余のもっとも恐るるは天子と地震とわが妻なり」であろう。
干城をして畏れ多くも天子と並べて畏敬の念を表わさしめ、現在もわれらの慢心(気を緩め警戒心を解く)を諌める筆頭の(突然襲う)地震と肩を並べる妻の名は、『くま子』であった。
くまではなく熊が適当ではないかと思うが、原典がこうだから筆者は改ざんする勇気もない。山中で熊に出逢えば、死んだふりをするに限るとか。
谷干城(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
【足軽などに苗字公称が許された】
軽卒(身分の低い兵卒)が苗字を公称することを許された。
慶応四年八月十一日は記念すべき日になった。
苗字を持たない、苗字を名乗ることを許されなかった人々に戦時限定かも知れぬが苗字を公称することが正式に認められた。
俗に「名無しの権兵衛」という。権兵衛ならありふれたどこにでもある呼び名だ。「○◎の権兵衛」となって、始めて個人を特定できるが、苗字は公称できないから住まいの場所名を付して清水の次郎長、森の石松となる。あるいは職業を頭につけて八百屋の丁兵衛とか植木屋の助六の例もあるだろう。
この時代、苗字と帯刀はセットになっていることが多かった。刀を身に帯びることは望まなくとも、自分が他のなにものでなく一人の人間であることを明らかにしたいという願望は切実なものがあっただろう。アイデンティティーは個性だ。
軍隊の規律保持や作戦遂行に当たって、同名の者が複数いては支障が生じるからこの目的のためだけに苗字を恩恵的に与えたようだ。が貰った側は永年の宿望が叶えられたわけだから大喜びであったろう。親のくれた自分の名前の上に自分で選んだ苗字を書き添えてニヤニヤ笑う顔、その笑顔が彷彿とする。真吉の父親でさえ、苗字を公称できるようになるまで時間が掛かったのだから。
高知県の大豊町に「○○屋」と屋号をつけて人を呼ぶ風習があったが、今はどうか。
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⑧慶応4年9月5日~12月1日
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP366>
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◆9月5日
昨夜若松城の方角が焼けた。真吉らの持ち場の前の空屋に潜んでいた敵が混乱させるためにこの空屋に火を放ち、折からの風に煽られ広がって、大垣藩兵の持ち場にも延焼した。
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■会津城の戦い

損傷した若松城(会津戦争後撮影)
旧幕府側の会津藩は若松城において約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。
白虎隊(NHK動画)負ければ賊軍(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆9月22日
(罪魁=賊の親玉)松平肥後守が降旗(=白旗)を捧げて陣頭に出て来た。降伏の応接(やりとり)を済ませた後、敵は一旦城に戻った。
七ツ時(十六時頃)に藩主父子は駕籠に乗って出て来た。近習(側近)が駕籠を担いでいる。駕籠の周りを二、三十人ばかり無刀で警戒しながら歩いていく。
その駕籠を先導するかのように薩摩勢が進み、真吉らの土佐兵勢は殿しんがり(最後尾)を固めた。藩主父子を瀧沢村にある妙国寺に幽閉した。瀧沢村の名主は田中冨七、同・地頭は大瀧勝次郎であった。
弘田章三郎は白河へ行き、東京から森村屋が来た。
弘田以下の記述は真吉の他の記録と突合すると廿三日であった可能性がある。
会津藩が降伏(融通無碍/関連話)・・・・・・・・
《余話として》
冬将軍の到来を間近にし、新政府は会津との停戦の時期を模索していた。このため会津と良好な関係にあった土佐に着目した。会津降伏は米沢藩→土佐藩の線で進められた。
会津は藩公・容保が和平交渉団を密かに土佐に送っていた。その構成員の多くは
山川大蔵の知人だった。山川は和戦両様の構えだったが戦況から和平に傾いていた。
山川大蔵と谷干城のこと(融通無碍/人物評伝)和平交渉団から「藩主・容保を助命すること」を求められた土佐藩(=藩中枢にあり、会津攻撃の責任者=板垣退助)はこれを飲む。(が、板垣の独断で決裁できる問題ではない、裏で「薩摩幹部と長州幹部そして岩倉具視など公家衆との合意・承諾が既に成立していた」とみるが常識だ。)
土佐は会津降伏の筋書きを交渉団に示しその承諾を得た。
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◆9月24日
薩摩の一大隊が(会津から)引き揚げる。
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◆9月25日
長州勢も引き揚げる。
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◆9月26日
小笠原八吉(彦彌)が足軽一人を従え御使者として高知に派遣された。
小笠原彦彌は小笠原三兄弟の末っ子である。兄二人は若松城の攻防で同じ日(九月五日)に戦死したから小笠原家はかれ次第。小笠原家廃絶を防ぐため迅衝隊幹部による温情派遣であったか。しかし悲劇が続いた。明治三年に彦彌が留学生として海外派遣が決まってその壮行会の夜、他藩の警備兵と騒動を起こして自刃した。
長兄の小笠原只八も血気の人であった。土佐兵が前線で苦労しているのを座視できず、江戸での職務を擲なげうち、牧野群馬と改名して前線に飛び出した男。若松城を攻めた際は当然のように陣頭に立ちはだかり銃弾を受け死んだ。
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《融通無碍》
■小笠原只八=牧野群馬のこと
文久三年(1863)に土佐東部の勤王党の二十三人が土佐の野根山に決起し阿波に逃げ込んで最後は奈半利川原で斬首された時の現場責任者であった。
野根山騒動(融通無碍/関連話)野根山騒動の処理に、かれは大きな苦悩を経験した。只八はその顛末を記したが、自筆記録を目にした者は只八の動揺が忍ばれて頬を濡らした。その記録は焼けてもう誰も見ることはできない。
「牧野群馬=小笠原只八の事績が顕彰されないのは勤王党の面々を処断してせいで、かれは素晴らしい人物だった」と板垣退助が明治の終わりごろ、講演で語った。
自由民権家として高名で日光東照宮の保全に功績があった板垣だがその行動に疑問符がつく場合もある。
板垣退助、日光東照宮を守る(融通無碍/関連話)板垣は以前は百円札になって銅像も各所にあるが、どうも筆者には身分制度から抜け出さなかった差別主義者的側面が引っ掛かる。
山内容堂のお気に入りの側近であり、真吉も自分の視野から強制排除した人物だったかも。
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◆10月5日
土佐兵が総兵引き揚げとなり、真吉らも若松を出発する。
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◆10月8日
この夜、沙汰書が届いた。
《沙汰書》
土州兵隊へ
春以来、長々と苦戦しながらも遂に敵の城を没落させた事は殿様も感賞されている。この上は速やかに凱陣して兵を休ませよと御沙汰があった(ので伝達する) 十月
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◆10月9日
総兵引き揚げとなる。先手須賀川の本営は本宮に宿陣したが、真吉は本宮から三春に行く事を俄かに命ぜられ急行して深夜二字(二十六時)に着いた。
■真吉の時刻表記
この日以降、真吉の記録は現在と同じ時刻制で表記されることが多くなる。一日を十二刻とし夏冬の日照時間の長短を無視した旧慣習とは異なり、真吉は時計を手に入れたのかも知れない。
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《融通無碍》
坂本龍馬が得意そうに腰の懐中時計を見せる写真が有名だが、裕福な郷士の次男坊で金に恵まれたかれとは違い、貧乏足軽で中村育ちの真吉に懐中時計は買えなかったろう。
だが何時入手したか、記録はない。この記録の前後と見るべきか。

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◆10月24日
午前中に東京に着いた。増上寺に入る。
東京に凱旋(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
◆10月25日
兵隊は残らず中納言様(=
山内容堂)へ拝謁する。御酒料として二百匹もらう。
金三円毛布料 右は朝廷より賜る
金一朱 正親町殿より賜る
【中納言様御意の写し】
今春以来、東北に出陣しいずれも勉励・奮戦の段はその時々に報告をうけて承知しており、予が満足はこれ以上ないほどだ。いささかであるが、慰労のためこの酒肴を遣わす

愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
◆11月1日

「御本丸」と書かれた江戸城の写真
晴れ、四時(十時ごろ)甲邸に出る。諸隊勢揃いの上、皇居(=天皇のいる江戸城)に参内する。下馬札の手前に銃器を置いてから登城する。回って庭先の少し下の段に刀を脱し、庭の上の土に蹲踞する。大臣が周旋して御簾が高く巻き上げられ、隊長以下敬いて龍顔(天皇の顔)を拝したてまつる。
陛下は白い御衣を召しておられた。
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◆11月4日
午時、英船に乗る。その乗組員は
真吉、寺田知己之助、川田敬之助、植田貞ノ助、廣井牛吉、村井清助、楠瀬直吉、亀谷傳介、松原宗碩、
軍卒五百人、病者 通弁官 大庭源二兵衛 結城幸某
横浜役人一人 船名:アルヒヲン 第三字(午後三時)抜錨して出発する。
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◆11月5日
志洋灘(熊野灘)を過ぎて紀州洋に至る。
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◆11月6日
紀洋を過ぎたが燃料の石炭が乏しく心配するが七字(午後七時)浦戸に着いた。
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◆12月朔(=1日)
曇天、真吉の戊辰の年の旅はこうして終わった。

土佐へ帰る直前に戊辰戦争凱旋記念として横浜で撮影された。
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■一枚の写真が語る真吉
南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に面白い記述(四方山話)があります。
樋口真吉伝・・・・・・・・・・・
第一章 真吉の生きた時代
故郷における樋口家
一枚の写真が語る真吉
《「樋口真吉伝」ではP20~23》
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[余話<後日談>]
会津から江戸・京都、そして高知城での凱旋後、中村に戻ってきて妻・お兼や娘二人、そして跡取りの次男(長男・鵬丸は夭逝した)鵬二郎を引き連れて高知城の南、鏡川の北岸・築屋敷に引っ越した。
家の座敷からは、川向こうに筆山<ひつざん>(標高百十七m)が見える。

鏡川北岸から筆山を望む
ここは足軽には居住が許されなかった区域(藩の官舎)であったが、真吉が戊辰戦争の功績で「
新留主居役<しんるすいやく>」という上士最下位に昇任したから入居できた。
新留主居役(融通無碍/関連話)==========
融通無碍
[ノンフィクション]
日記:戊辰戦争従軍/樋口真吉**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)