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土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)
[南史観<私観>]
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<令和3年3月5日発信>
【第3話】
■中村・下田のこと

海路、中村を目指す旅客は下田港に一旦上陸する。そして風と潮流を見て艀<はしけ>に移乗して中村の中心部を目指す。下田は中村の海の玄関ともいえる。(遣倦録より)

【写真】下田の港(四万十川河口)
四万十川河口にある下田は上方かみがたを往復する船も多く、水主(土佐では<すいしゅ>、他地域では<かこ>と読む)の数多く住む町であった。
この地は進取の気象に富み言葉遣いも荒々しく『お町・中村』のお上品さとは趣を異にする独特の雰囲気をもった地域とされていた。鎖国期の長崎のような役割をこの港町は土佐で果たしている。
その伝統は既に述べたように山内・長宗我部の時代をさかのぼって一条時代から続いてきたものだ。対明貿易で栄えた土地柄である。真吉の頃も同じだ。
四万十流域の山々と山間の谷と田んぼ畑が産む品々は上流からこの港町に集積され、船で大坂を始め各地に運ばれる。主なものは木材薪と炭、鰹節など。変わったもので油煙。
【貴船神社】

下田にある貴船神社は一条氏が京都(鞍馬山貴布祢大明神)から勧請したという歴史ある古い社だ。ここに鳥居柱の両脇に一対の灯篭がある。刻まれた字を読むと、奉納者は江戸深川の材木問屋で奉納時期は天明年間(1781~1789)と分かる。
境内には大きなクスノキがあり豊かな緑は目を楽しませる。四万十市指定文化財(胸高直径:181cm、樹高:25m)このクスノキの木は伝承では勧請した当時植えられたものと伝えられ記録によると社有林6畝20歩とあり、大木が林立していたと考えられる。このクスの木は地上8m付近まで空洞があり、四方より出入りできるが、生育状況は良好である。

四万十流域に育った樹は丸太に加工され、筏いかだに組まれて川を下り、河口へたどり着く。ここで待ち構える下田の船に乗せられて江戸に運ばれ、江戸・深川の材木商に大きな利益をもたらした。
四万十源流域の
梼原町の入口に代々暮らす家族に拝見させてもらった古文書の中に先祖の経歴書があった。読むと「藩命で下田に移住」という過去があったことが分かる。
四万十源流域の梼原町(融通無碍/関連話)四万十川源流は不入山<いらずやま>であり、ここには万古斧を入れない原生林があった。不入山(海抜1336m)一帯は藩有林で住民の立ち入りが許されなかったからこの名がある。
古文書を見せてくれたI氏の祖先は藩有林(=お留め山)山番であった。山林事情に精通した人は木材の積出港(=下田)に貴重な知識と情報をもたらすから、適した人材を積出港に配置転換する。
四万十川は約200kmの延長があるからI氏の先祖は異動でこの距離に近い距離を移動したことになる。われわれが想像するよりずっと柔軟な人事を藩は行なっていたようだ。
因みに中村には現在「いかだ羊羹」という和菓子を作る老舗がある。羊羹は最上級の小豆で作られ日持ちするから土産に好適だ。

この老舗の創業者は中村を遠く離れた県内の嶺北<れいほく>(徳島市に河口をもつ吉野川の上流域)にルーツをもっておられる。

吉野川は四国三郎の異名を持ち、かつては筏流しが盛んで本山町には筏師らの中継地点があり大いに栄えた歴史がある。
本山町より上流の土佐町、大川村そして本川村の山林に育った樹はノコギリ又は斧で伐採され、さらに少し形状の違う鋸で丸太に玉切り。木口に頭巾を巻かれカズラなどで結束されて筏になる。
筏は激流を下るが本山辺で筏の緩みを締め直す。この際、木の直径と長さも正確に測定し、本数もカウントされる。これには時間が掛かるから筏師と配下の人々は少し休息する余裕ができる。
筏流しは危険な作業だ。命を失う場合もある。男社会の休息地には酒と女性がつきもの。航海中の船乗りも閉鎖された男社会に耐えている。寄港地は休息地。オランダのアムステルダムも港町で公認の男性天国がある。
創業氏は生まれ故郷と同じ景色を四万十川に見い出し「故郷忘難<ぼうじく>候」とばかりこの銘菓を考案したのかもしれない。屋号は「
右城松風堂」という。
右城松風堂
下田の風景(融通無碍/第6話)**************
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)融通無碍/総集版