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土佐の森・文芸 幕末足軽物語/融通無碍
[人物評伝]
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武市半平太 (1829~1865)
樋口真吉(1815~1870)

文政12年、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)の土佐藩郷士(白札格)・武市正恒の長男として生まれる。弟は
田内衛吉。義理の叔父が
島村寿之助。
田内衛吉(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)天保12年、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ。学問を
徳永千規に学ぶ。
徳永千規(融通無碍/人物評伝)安政2年、島村寿之助と道場を開く。武市道場には120人の門弟(
中岡慎太郎や
岡田以蔵ら)が集まったという。後の土佐勤王党の母体となる。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)安政3年8月、
武市半平太が藩から江戸での剣術修行が許され江戸へ。鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。武市半平太の人物を見込んだ桃井春蔵は皆伝を授け、塾頭とした。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)武市半平太に同行して江戸に上った同行者は、
多田哲馬、
岡田以蔵、
五十嵐文吉、多田三十五郎、
阿部多司馬ら。
多田哲馬(融通無碍/人物評伝)岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)五十嵐文吉(融通無碍/人物評伝)阿部多司馬(融通無碍/人物評伝)9月には江戸剣術修業が許された
坂本龍馬も江戸に到着、
大石彌太郎、
小笠原保馬らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)大石彌太郎(融通無碍/人物評伝)小笠原保馬(融通無碍/人物評伝)安政4年、江戸では親戚筋にあたる山本琢磨が商人の金時計の拾得売却事件を起こし切腹沙汰になったが、
山本琢磨を脱藩させて救っている。土佐に帰国。
山本琢磨(融通無碍/人物評伝)安政7年、岡田以蔵や
久松喜代馬、島村外内らと西国遊歴に出る。
久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、
大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で、甥の
小笠原保馬(母・美多が
武市半平太の姉)を連れて江戸へ。
小笠原保馬は江戸で武市半平太が土佐勤王党を結党すると8番目に血盟書に署名している。
大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)小笠原保馬(融通無碍/人物評伝)長州藩の桂小五郎(=
木戸孝允)や
久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊皇攘夷派と交流し感化を受ける。その結果、勤王運動における土佐藩の立ち遅れを自覚する。
木戸孝允(融通無碍/人物評伝)久坂玄瑞(融通無碍/人物評伝)武市半平太は土佐・長州・薩摩の3藩を尊皇攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと久坂玄瑞、樺山三円らに提案、一同の同意を得る。
江戸築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(
山内容堂)の志を継ぎ一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)薩長土3藩はそれぞれ同志を結集し、自藩の藩論をまとめ、その勢力によって朝廷の権威を強化し、幕府と対抗すべき道を模索し始める。
その中で武市半平太は在府中だった土佐藩士らと語らい「土佐勤王党」を結成することにした。
武市半平太の元には大石弥太郎、島村衛吉、間崎哲馬、門田為之助、柳井健次、河野万寿弥、小笠原保馬、岡田以蔵、池内蔵太ら江戸にいた土佐藩士が集まった。(
岡田以蔵、
池内蔵太も血判書に署名したと思われるが、その後の諸事情から最終的な血盟書からは削除されている。また、この頃、坂本龍馬も江戸に滞在していたが千葉道場に寄寓し土佐藩邸には顔を出していない。しかし武市半平太と接触があったと思われ、血盟書には江戸での参加者の最後に署名(9番目)している。)

1
武市半平太(土佐勤王党盟主。P236,P271、真吉伝P26)
2
大石彌太郎(土佐勤王党NO2。P230,P353、P365、p376)
3
島村衛吉(土佐勤王党弾圧で客死。P236)
4
間崎哲馬(勤王党の弾圧で切腹。P216,P229)
5
門田 為之助(勝海舟門弟。御扈従組。P183,P208,P235,P249)
6
柳井健次(五十人組。脱藩して長州へ。禁門の変で闘死。)
7
河埜万寿彌(土佐勤王党の獄で永牢処分。P271)
8
小笠原保馬(土佐勤王党を結成。P173)
9
坂本龍馬(坂竜飛騰。P164、真吉伝P124)
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)池内蔵太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
武市半平太が江戸で土佐勤王党を立上げ在郷中の同志を糾合するため、大石弥太郎が起草した盟約書(血盟書)を携えて(島村衛吉、柳井健次、河野万寿弥の3名を従え)土佐へ下った。
武市半平太は土佐藩大監察/大目付の
平井政実、
小南五郎右衛門の上士尊王派2名をたずね、土佐勤王党糾合の協力を取り付けた。
平井政実(融通無碍/人物評伝)小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)さらに、
島村寿太郎、
島村寿之助、島村外内<島村寿之助の甥>、
多田哲馬、
上田楠次の5名を武市家に集め、土佐七郡における同志勧誘を依頼した。
島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)多田哲馬(融通無碍/人物評伝)上田楠次(融通無碍/人物評伝)この武市半平太の勧誘運動は足掛け3年にもおよび、
土佐勤王党の盟約書に残るだけでも192名が名をつらねた。
土佐勤王党の盟約書(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
武市半平太は血判盟約書を持って土佐に帰国する。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP163>
・・・・・・・・・
文久元年9月3日
武市半平太が江戸を発し、土佐に帰国する。
ーーーーーーーー
遣倦録真吉が残した(「幕末足軽物語」の原本とも言うべき)日記・遣倦録の起筆は文久元年9月3日。(この時、真吉は土佐藩の下級官吏として高知城下に住まいしていた。)
物語は、武市半平太が土佐勤王党の血判盟約書を持って、江戸から土佐に帰国するところから始まる。
日記:遣倦録(融通無碍<第30話>) ・・・・・・・・・・
文久元年9月3日
武市半平太が江戸を発し、土佐に帰国する。(と聞いた)
・・・・・・・・・・
文久元年9月6日
真吉の親友である上士・
佐々木三四郎が教えてくれる。
佐々木三四郎(=高行)(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
文久元年9月7日
真吉は武市半平太を訪う。
ーーーーーーーー
武市半平太が土佐勤王党を結成すると、土佐藩の藩論は武市半平太の勤王派、吉田東洋の改革派、山内下総の守旧派と三つ巴の政争が展開された。(その結末は、
吉田東洋の暗殺ということで収斂する。)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)山内下総(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
吉田東洋の暗殺(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、久坂玄瑞に宛てた武市半平太の書状を
坂本龍馬が届ける。
坂竜飛騰(融通無碍/関連話)武市半平太に宛てた久坂玄瑞の書状がある。(高知城歴史博物館蔵)

長州藩士で尊王攘夷派の中心人物である久坂玄瑞が、剣術修行の名目で萩を訪れた坂本龍馬に託し、土佐藩士武市半平太へ送った書状。
「諸侯恃(たの)むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し」と決起を促す。
文久2年のことども(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP173>
・・・・・・・・・・・
文久2年4月8日
吉田東洋が土佐勤王党の那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵らによって暗殺される。
高知城下で土佐藩参政・
吉田東洋が暗殺された。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
吉田東洋暗殺の刺客には
島村衛吉、
谷作七、
上田楠次、
那須信吾、
安岡嘉助、
大石団蔵、
岡本猪之助、岡本恒之助らが指名されたが、実行したのは那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵であった。
島村衛吉(融通無碍/人物評伝) 谷作七(融通無碍/人物評伝) 上田楠次(融通無碍/人物評伝) 那須信吾(融通無碍/人物評伝) 安岡嘉助(融通無碍/人物評伝) 大石団蔵(融通無碍/人物評伝) 岡本猪之助(融通無碍/人物評伝) 岡本恒之助(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーー
武市半平太は土佐藩主・山内豊範の参勤交代に随従し京に上る。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP176>
・・・・・・・・・・・
文久2年6月28日、
吉田東洋暗殺事件のために延期になっていた土佐藩主・
山内豊範の
参勤交代の大名行列が出立。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)参勤交代行列の人数は通常600人程を、2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ、武市半平太をはじめ、
小畑孫次郎、
岡本次郎、
久松喜代馬、
島村衛吉、
平井収二郎、
山本喜三之進、
大石弥太郎、
谷正方、
安岡覚之助ら土佐勤王党の同志も供奉した。真吉も藩主辺警要員で随行している。
小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)岡本次郎(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷正方(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)武市半平太には藩主を上洛させる密かな企てがあった。通常の大名行列は京を素通りして江戸に向かうことになっていたが、武市半平太の策略で(朝廷から京都警護の内勅を受け)藩主は京に入りそのまま留まることになった。同伴した土佐勤王党の志士たちは(真吉は勤王党員ではないが同士として)そのまま京で武市半平太のもとで国事(尊王攘夷活動)に奔走する。
======
[融通無碍]

「北山道」と呼ばれる
参勤交代の道が残っている。高知城から見て「北の方に抜ける道」ということから「北山道」と言われるようになった。
参勤交代(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP179>
文久2年8月2日、
《真吉の日記は空白》
ーーーーーーーー
土佐藩の下横目・
井上佐一郎が殺害された。
井上佐一郎(融通無碍/人物評伝)井上佐市郎暗殺事件(融通無碍/関連話)井上佐一郎は下士の足軽であったが、土佐藩参政・
吉田東洋に認められて下横目<現在の警察・検察の役目>の役職を与えられていた。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)井上佐一郎は土佐藩主・山内豊範の参勤交代に従って上洛中であり、大坂でも吉田東洋暗殺の犯人探索に当っていた。しかし、その行動が下手人であった土佐勤王党員に危険視され、勤王党員に酒を飲まされたその帰途、岡本八之助らによって絞殺された。
=====
[融通無碍]
この日、土佐藩下横目・井上佐市郎暗殺事件が起こる。
暗殺の実行犯は岡本八之助、
岡田以蔵、
久松喜代馬、
村田忠三郎、
森田金三郎の5人。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)森田金三郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP181>
・・・・・・・・・・・
文久2年8月17日、
岡本八之助が三条家(
三条実美)へ書類を届けるため入京する。この夜、江戸から飛脚が着く。
三条実美(融通無碍/人物評伝)=====
[融通無碍]
岡本八之助は郷士でこの月の2日夜、下横目・井上佐一郎を殺害したとされる。このため土佐に帰国後、収監され、慶応元年閏5月獄舎で斬首刑。真吉の日記がこの日(2日)が空白であるのも気になる。
ーーーーーーーー
三条実美は安政の大獄により江戸で隠居していた
山内容堂に働きかけ、土佐藩主・
山内豊範を上洛させ、土佐藩(=山内容堂)を中央政界へ進出させる。
三条実美(融通無碍/人物評伝)山内容堂(融通無碍/人物評伝)山内豊範(融通無碍/人物評伝)さらに、三条実美は長州藩と土佐藩が企てた幕府への攘夷督促の勅使として
姉小路公知とともに江戸へ赴く。
姉小路公知(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
文久2年10月、
幕府に対する「攘夷督促」と「御親兵設置」を要求する勅使として正使・三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、土佐藩主・山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。
武市半平太が姉小路の雑掌となり、柳川左門の仮の名が下賜されて江戸へ随行した。
藩命で
清岡半四郎が衛士となる。
清岡半四郎(幕末足軽物語/人物評伝)警固役には
大名行列で京に上った武市半平太の配下・土佐勤王党の剣豪(
岡田以蔵、
弘瀬健太、
伊藤甲之助、
島村衛吉、
中平龍之助、
中平保太郎ら)が選ばれた。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)伊藤甲之助(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)中平龍之助(幕末足軽物語/人物評伝)中平保太郎(融通無碍/人物評伝)大名行列(融通無碍/関連話)さらに、山内容堂の警護で江戸へ下った
五十人組の土佐藩郷士(
中岡慎太郎ら)が護衛にあたった。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)五十人組(融通無碍/関連話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP206>
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文久2年11月27日
京からの勅使が江戸城に入る。
・・・・・・・・・・
文久2年12月5日
将軍が勅使に回答する。
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文久2年12月6日
勅使に随行してきた土佐藩主・山内豊範が江戸を発する。
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文久2年12月7日
勅使(中納言・三条実美)と副使(少将・姉小路公知)の御輿が江戸を発つ。
ーーーーーーーー
この時期、江戸では長州藩の高杉晋作と
久坂玄瑞が
横浜の異人館襲撃を計画していた。
久坂玄瑞は武市半平太にも参加を呼びかけるが、久坂の口から江戸の同行していた弘瀬健太がこれに加わっている事を知った武市半平太は山内容堂に訴えて収拾を乞い、容堂の警告を受けた長州藩世子・毛利定広が高杉らを説諭して襲撃は中止になった。
久坂玄瑞(融通無碍/人物評伝)横浜の異人館襲撃を計画(融通無碍/関連話)この事件の余波で、長州藩の周布政之助が容堂に放言をして、長州藩士と土佐藩士が衝突しかける騒ぎ(
梅屋敷騒動)が起こっている。
梅屋敷騒動(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、土佐勤王党への本格的弾圧が始まる。(土佐勤王党の獄)
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP230>
弘瀬健太、
平井収二郎、
間崎哲馬が賜死(切腹)した。
弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)文久3年のことども(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
元治元年、京では
蛤御門の変が、土佐では
野根山騒動が起きる。(「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP254)
蛤御門の変(融通無碍/関連話)野根山騒動(融通無碍/関連話)
野根山二十三烈士の墓(田野町福田寺)
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP264>
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元治元年11月30日
田内衛吉が拷問され吐血、その翌日に死んだという。
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慶応元年、土佐勤王党の獄の処分が下された。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP271>
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慶応元年5月11日
岡田以蔵、久松喜代馬、
村田忠三郎、
岡本八之助が牢屋において斬首された。
歴史の中に埋もれた以蔵(NHK動画)村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)岡本八之助(融通無碍/人物評伝)園村新作、島村寿之助、
安岡覚之助、
河埜万寿彌、
森田金三郎、
小畑孫次郎、
小畑孫三郎、
島本審次郎は引き続き牢屋に監禁され、
小南五郎右衛門殿は御預け処分となった。
安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝)森田金三郎(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)島本審次郎(融通無碍/人物評伝)小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)武市半平太は屠腹とふく(=切腹)を命じられた。
武市半平太が切腹(融通無碍/関連話) **************
[佐々木高行日記:保古飛呂比]
[
魚の目<魚住昭>より]
土佐勤王党が処分される。
「罰文」は左記の通り。
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武市半平太右の者、去る酉年(土佐勤王党が結成された文久元年のこと)以来、天下の形勢に乗じ、密かに徒党を組み、人心扇動の基を醸造し、それより後、京都の高貴のお方へ容易ならざることをしばしば申し上げ、かつまたご隠居様へたびたび不届きのことを申し上げるなど、すべて臣下の分際をわきまえず、目上の者を軽蔑し、國憲をばらばらに乱した。そうした振る舞いは言語道断、重々不届きの至りである。(太守さまは)非常に御不快に思し召され、厳罰に処されるべきはずのところだが、ご慈恵をもって切腹を命ぜられる。
なお閏5月11日の夜、南会所大廣庭北の角に板を敷き、また莚を敷き、切腹を命ぜられる。
武市切腹の経緯(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーー
武市半平太の切腹は南会所大広庭で、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を3度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から2名の介錯人により心臓を突かせて絶命したといわれる。
2人の介錯人は武市半平太の妻・冨の弟の
島村寿太郎と甥の
小笠原保馬。
島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)小笠原保馬(融通無碍/人物評伝)西山志澄らが武市半平太の遺骸を長棒の駕籠に乗せ武市半平太の自宅まで運んでいる。
西山志澄(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
武市半平太の切腹
武市の切腹の有様は立派であったようで関係者の賞賛を呼んだ。「花は散り際」という美学あったから武士は死に様で評価され、それがみにくい場合過去の功績を台無しにした。
真吉は勤王という点ではかれと同調したが、その実現方法では大いに意見を異にした。
執政・
吉田東洋の暗殺計画は知っていたが積極的に参加しなかった。否、嫌悪したと言った方がいいだろう。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)東洋は土佐藩主・山内容堂の『お気に入り人物』である。
その見識、行動力とも容堂は最高評価を与え容堂自身「東洋先生」と呼び、尊敬措くあたわざ>る人格者であった。その言動に容堂は憧れるような視線を投げた。激情に駆られる性格は両者に共通するから、なお一層東洋への愛着は君臣の範囲を超えて深かった。
一方「意見が異なるなら排除せよ」は真吉にはありえないことで、武市はそういう意味では「対岸の人」だった。
武市半平太が切腹(融通無碍/関連話) 瑞山神社(NHK動画)幕末の土佐にあって、武市半平太も吉田東洋も、そして坂本龍馬も樋口真吉も、ともに同じ流れに身を任せ、ともに同じ流れの中にあった。
源流から中下流まで、川は常に激しく流れ下る。
だが海に近づくと、川の流れは海の干満の影響を受け流れは緩やかになる。
引き潮の時にはどんどん海に注いで海と一体化する。が、満ち潮になれば川に向かって押し寄せる潮流に包み込まれるようにして混じり合う。

四万十川河口・下田
[融通無碍/第6話]下田の風景中村・下田でこの有様を見ることに親しんだ真吉は体得していた。
世の流れは海と川との関係と同じだ。
山に生まれた四万十が流れ下って、海に注いで一体する。
川は海に飲み込まれたのか。海は川を飲み込んだのか。そういう関係ではあるまい。
両者が交わる汽水域にこそ、豊かな何かがある。
川が海に注ぐのは自然だ。海という子は母なる川から大地の養分を受け取る。母は流れくる子に無心に乳を与える。子は当たり前のように教えられずして乳首に吸い付く。その乳も元は血液で、それが乳腺組織を通るだけで赤い血が白の乳に変わる。何かをわれらに啓示している。
川の水のもとは雨で、雨のもとは海から立ち上る湯気のようなもの。全てはつながっている。
このつながりを断ち切ってはいけない。
認め合いながら一緒に歩くがいい。時の流れが対立と互いの違和感を消すこともあるから。
上流で川を観る者は「逝く者はかくの如きか昼夜を措かず」(論語)と四六時中、下流に向かう流れに自分を重ねる。
生まれたからには死に向かうのみ。それは正しい。
だが生から死へは一直線だろうか。
川の流れのように岸を削りながら淀みながら行くのが人生ではないか。
人生は直線のコンクリート水路ではなく右往左往しながらいく自然な流れがいい。
[融通無碍/第2話]川の流れのように時間の経過は老化だけを意味しない。
流れをさかのぼるがごとき青春があるではないか。自分を駆り立てて止まない力に悩む夜があるではないか。
人生には三つの苦悩がある。老いること、病に伏すこと、死ぬことだ。老いも病も死につながるが生きる者に死は避けられない。
武市の死に際の様子を詳しく聞いた真吉もそれを賞賛したであろうが、かれの生涯(生き様)を評価し直すことはなかっただろう。
死に様と生き様は関係ないから。
見事な最期は間違った生き様を償うものたりえまい。
~~~~~~~~
慶応元年、武市半平太は切腹を命ぜられる。享年37。
武市半平太の墓は高知市郊外にあるが、遺憾なことに碑面には数多くの傷がある。
武市半平太に説得され、ともに行動して非業の死をとげた多くの志士たち類族の無念を慮るのみか。

ーーーーーーーー
武市半平太考(幕末足軽物語/関連話)
武市半平太旧宅(高知市仁井田)
ーーーーーーーー
武市半平太/年譜(融通無碍/第63話)**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)融通無碍/総集版2026.03.01.23.59.