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土佐の森・文芸 融通無碍
[関連話]
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■樋口家のルーツ
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幕末足軽物語より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP12>
樋口真吉より数えて四代目の曾孫・文太郎氏から直接聞いた話
「うちの先祖は土佐の東部から出た。先祖の墓は高知の大津にある。一条山というところで頂上に神社がある。参道は北と西にある。わが先祖の墓は西側の参道を登って、すぐのところの右手にある。うちの墓の隣には清岡<きよおか>家の墓群もあった」
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[融通無碍]
樋口家先祖のルーツは高知県東部(安芸と呼ばれる)の山間部、北川村辺にあるらしい。
◆安芸国虎の生き残り作戦
真吉の先祖は戦国時代、高知県東部の武将たちは相克を繰り返しながら淘汰されて行き最終的に安芸に地盤をもつ土豪・安芸国虎(1530~1569)に集約される。

安芸城(高知県安芸市土居にある平山城)
安芸国虎の居城/お城解説【城旅人】より土佐一国は最後は長宗我部氏の手に帰するから、当然国虎も長宗我部に滅ぼされた。
安芸氏は県東部の盟主として「土佐の七土豪」のひとつに数えられ、その隣で急激に勢力をのばす
長宗我部氏とのあつれきは避けられない。
◆土佐の野獣・長宗我部

南寿吉著「樋口真吉伝」より
長宗我部<ちょうそがべ>は山内氏の土佐入国前、勢力を張ったおのれ生えの戦国大名だ。
土佐の中央東部の長岡郡に地盤をもつ土豪のひとつに過ぎなかったのだが戦雲に乗じ、土佐一国を切り取り、余勢を駆って遂には四国全土を平定した家である。
ところが長宗我部軍団は勇猛で強かったのだが、その実、装備は貧弱であった。土佐という土地柄は台風が常襲するし平地にも乏しくそこから生まれる富もすくなかったからだ。かれらがが乗った馬は原種のひとつともいえる土佐駒で粗食に耐え険阻な山道にも強いが、いかにも矮小で、阿波(徳島県)に侵攻したとき
「土佐兵はヤギのような馬に乗って攻めてきた」と言われた。
だが兵そのものは屈強をもって恐れられた。
例えば隣県愛媛出身の著名作家は幼時泣いてむずがると老婆から
「泣く子は山からチョウスガベが来て、連れて行くぞう」と言われて泣き止んだという。
山向こうから猛虎のごとく襲い来る土佐兵(長宗我部)はそこ以外の人々には魔界からの狼藉者だった。
お遍路巡礼で知られる四国八十八の寺々の多くに
「伝来の寺宝は、長曽我部氏による焼き討ちで灰燼に帰し、古いものはない」という決まり文句のような言い伝えがある。
四国の覇者としての栄光は長く続かなかった。
長宗我部も全国平定を企図する豊臣勢の前には赤子も同然で相撲でいえば単なる田舎大関にすぎなかった。
長宗我部と豊臣の戦いは緒戦から滑稽ともいえる有様であった。
豊臣側は「ヤギのような馬」どころか
「犬のような馬に乗ったぼろ武者ども」と嘲笑したし、
長宗我部勢は豊臣のプロ軍団を見て
「見たこともない大馬に乗り、燦然と輝く鎧兜はまぶしい程だ」と呆れ返った。
戦う前から勝負はついていた。
戦後、身を縮めて上洛し秀吉の前に畏まった失意の将長宗我部元親<もとちか>に、秀吉はしたにも置かぬ厚遇をもってした。
上段から降りて元親の手を取ったともいう。これで勝者への畏怖が、尊崇に変わった。
秀吉の人心掌握術は有名であるが、元親はしんそこ参って、ふたたびの降参をした。
戦いは二種ある。
陣場での流血の闘い、そして畳の上の対決である。
手勢を引き連れて雌雄を決する戦い、戦塵にまみれ敵味方の阿鼻叫喚の中で血汗を流す。
戦いは、静寂の掃き清められた畳のうえにもある。将たる器を競い合うのだ。
(完璧に負けた。自分とは器量が桁違いに大きい)
長宗我部はあくまで根が田舎者であるから、心従すれば決して背反することはない。土佐者の心栄えの良さだ。好もしさともいえる。
こうして土佐の野獣は家畜となり、暴れ駒は豊臣の門前に繋がれた。
その臣従の悲劇の序章は、秀吉の命に従って出陣した九州征伐(島津氏に対する討伐)であった。
長宗我部勢は島津の伏兵に完膚なきまでに叩きのめされ一瞬にして嫡男を含め七百人余りを失った「
戸次<へつぎ>川の合戦」であった。
戸次川の合戦(融通無碍/関連話)元親は、命からがら戦線から離脱したものの悲嘆にくれた。嫡男を戦死させた悲しみは大きかった。これ以後長曽我部の内的崩壊が始まった。
嫡男を失ったあと、元親は大方の予想を裏切り、末っ子を後継者と決めたから家臣団に大きな亀裂が生れた。しかもその後継者に選ばれた盛親は兄を謀殺したのである。
秀吉、元親亡き後に日本を東西に二分した決戦があった。
関ヶ原の戦いである。
関ヶ原の戦い(融通無碍/関連話)長宗我部は豊臣恩顧の家ゆえ、多少の論はあったが徳川の誘いを拒み西軍加担を決めた。
(太閤亡き後ならばこそ忠節を示す好機ぞ)
こうして長宗我部は東軍(徳川勢)に敗れ、その家臣団は四散して新領主山内氏を迎えた。入国前後には様々の悲劇も生まれた。一領具足たちの抵抗と弾圧である。
さらにこの結末にはだめ押しがある。
山内入国後に起こった二度目の関が原で、裸城同様になった大坂城を拠点にした西軍(旧豊臣勢)の連中には勝利の展望もなく諸将の多くははまるで戦意を持たなかったと言っても言い過ぎではなく、西軍に属した長宗我部残党は、京の寺子屋教師をして世を忍んでいた後継者盛親を、まるで御輿でも担ぐようにして出陣したが、結果はこの教師が生け捕りされ、鴨川で斬首されて終った。
かつて四国の覇者の盛名を誇った名家はこのようにして血脈を絶って歴史の表面から消えた。
第一次関が原の戦後早々に、長宗我部残党のうち有能人士はすでに山内氏に組み込まれるか、あるいは縁を求めて他国の大名に吸収されていた。
第二次関が原の戦では名ばかりの烏合の衆のごとき西軍には戦闘意欲にも乏しく、特に質の低下の著しい長宗我部勢に勝ち目はなかった。
戦いとは総力戦で、人智と体力の限りを競い合うものだ。特に戦争を取りしきる頭脳が要る。
「野に遺賢なし」という。
残党をかき集めてもまともな戦はできまい。
才能は発揮する場を与えられる。場を与えられないと嘆く才能は所詮賢ではない。
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◆安芸国虎と長曽我部氏と中村一条氏の軋轢
自家保存のためさまざまの手を打ち、お決まりの嫁取り、婿取りの婚姻作戦もある。
国虎は土佐の東端部分が勢力圏である。
土佐の西端には一条氏が公家大名として君臨しその高貴な血統ゆえ衆望を集めている。下克上の時代とはいえ、やはり貴族の血はありがたがられる。
一条氏はかつて長宗我部氏が周辺勢力から包囲網を敷かれ孤立し存亡の危機にひんした時、幡多に保護を求め緊急避難した際には積極的に庇護した。その後、一条氏の口添えと応援で長宗我部は失地を回復したという経緯もある。
だから長宗我部は幡多の一条家は大きな恩義がある。戦乱の世では『恩義』などはいつボロ草履のように投げ捨てられるかしれない徳目ではあるが。
戦国土佐には七土豪と総称される土着勢力あったが、一条氏は別格である。
国虎は近攻遠親ともいうべき外交作戦に出た。
伸張著しい新興勢力・長宗我部と組めば一気に滅亡させられる恐れは減るが、近傍の弱小土豪たちとの信頼関係はくずれる。それより長宗我部とは緊張関係を維持しその弱点ともいえる一条氏を後ろ盾とすれば当分は安泰だろうと考えた。
国虎は思案の末、一条氏の娘を嫁に迎えることにした。この娘は『北の方』とのみ伝わり名は不詳だが、この夫婦の間に世継ぎも生れた。順調だった。
しかし長宗我部元親との衝突は早晩、起きるものだった。両雄は並び立たない戦国の世。
些細な出来事(かたちとしては、国虎が元親にちょっかいを出した)からこれを契機とし両者は全面戦闘に突入する。いくさば(戦場)は、国虎の領内だった。強いほうが弱いほうに攻め込むから。
戦力差は歴然で安芸勢は防戦一方、ねじろの安芸城にたてこもるが、城内の井戸に毒を入れられ、内部呼応者(裏切り)もあって、次第に篭城側の戦意はおとろえた。
国虎は講和の条件として、自分の自害と家族の助命、家臣の宥恕を申し入れ元親はこれを飲んだ。
和議は成立し、城は明け渡された。安芸の西はずれの静貞<じょうてい>寺(曹洞宗)において国虎は一人の家老を道連れに割腹し最期を遂げる。
国虎には二人の家老がいた。残る一人は主従の始末を見届けたあと、『北の方』を実家、幡多中村の一条氏のもとに送り返すため海路を急いだ(潮の具合が良ければ一日か二日で中村に着いたであろう)。
中村では一条家当主に声涙ともにくだる挨拶をしたあと、帰りは陸路を懸命に歩いた。海路は潮加減でも悪かったか。往路と復路で手段を変えたのは復路は急ぐ必要があったからか。
急ぐ理由があった。
安芸近くまで戻ってきたが、長宗我部兵に見つけられ元親のもとに連行される。元親はねんごろにねぎらいのことばをかける。
「中村への往復大変であったろう。陣中ゆえ美味なものもないが、とにかく腹を満たせ。そなたの働きは軍のあいだ感服しておったし、国虎殿の奥方を送り届けるという難役も果たした。あっぱれな所業である。遺恨を忘れすべてを水に流し、わしにつかえぬか」
家老いう「まだ亡君の初七日が終わっておりませぬ。終えたあと、必ず御前に参ります」
元親が許したから家老は足取り軽く浄貞寺にむかい、ま新しい墓標ふたつの前に立ち、中村へ無事北の方を送り届けたこと等無言で復命のあと、肌えをくつろげ割腹した。
いま、浄貞寺には国虎を守るかのように両脇に二人家老の墓標が立つ。
◆安芸家滅亡後の樋口家
以下は筆者の想像である。
ただし、相当確度の高い想像と自負する。史料が存在しない以上、想像の翼を広げるしかない。
敗れて、仕える主をうしなった安芸勢は長宗我部軍団に編入された。
かつて北川村の土豪であったであろう樋口の祖先は、土佐東部・安芸氏から土佐一国の統一を目指す長宗我部に移った。
◆大津の神社
高知の城下を東にはずれた大津の小高い山、『城山』に話を戻す。
現在は住宅に取り巻かれ、野鳥たちの貴重なすみかとなっている。頂上には神社がひとつ。石造りの手水鉢には奉納者の「古足軽」の文字が苔むしながらも明瞭である。これは江戸時代に古足軽とよばれていたグループが納めたものだ。
この小高い山が『城山』と呼ばれるのは、中世以来さまざまの勢力がここに城(いまわれわれが見るような石垣とか天守閣をもついわゆる『城』ではなく、石垣はなく木造の砦とりで程度の粗末な建物で、山の上の掘っ立て小屋、二階立て物見小屋とよんだほうが適当か)を築き、興亡をくり返し、栄枯衰盛の歴史を刻んできたからだ。
◆一条氏の歴史
一条氏の滅亡の経緯をのべる。
中村および幡多全域に勢力をほこった一条氏は応仁の乱(1467年からおよそ十年あまり続いた戦乱)直後京を離れ、奈良を経て
土佐・中村に難をさけた。中村一条氏のはじまりである。
土佐・中村(融通無碍/関連話)初代教房、二代房家、三代房冬と続き四代房基は20歳、天文10年(1541)に跡を継ぐ。このころから一条家は変貌する。いかにも公家然としていた歴代当主が四代目に至り、干戈<かんか>をこととする戦国大名として戦乱の渦中に躍り出た。
房基のあと、五代目兼定が継いだが、いわゆる暴君だった。結果、家臣団は相談のうえ兼定を九州豊後大友氏ものとへ追放した。時は天正2年(1574)2月、兼定32歳。
家臣団は兼定の息子・万千代をその後継者にすえた。この非常手段は幡多のみならず隣接する東側地域にも勢力を広げていた一条の家来たちの間に内部混乱をもたらした。
これを見た長宗我部は万千代の幼少を理由に「一時大津城に避難させ娘をめあわせ成長ののち再び中村に返す」ことを内外に周知した。その約束は守られなかったが。
一条家はその再興の夢を幼い万千代に託し、時節を待った。
一条家の復活のため非常処置をとった家臣団。これに乗じて、保護を口実に後継者の身柄を自分の庇護(≒監視)のもとにおいた長宗我部。長宗我部の行動の表面はうるわしい。がその内実はどうか。
幼君は大津城で長宗我部の娘をめとり婿殿となった。名も内政<ただまさ>と改めた。一方で幡多の混乱を収めるためと称して長宗我部家臣が中村に進駐した。
一条氏家臣たちは岐路に立って迷う。
1.高知に移り大津城で内政を守る
2.中村にとどまり長宗我部家臣(吉良左京進)の下知に従う
3.岡豊<おこう>(南国市岡豊で今は県立歴史民族資料館となっている)にある長宗我部根城に出向き当主元親に仕える
中村に残っても長宗我部の命に従わざるを得ない、高知に出て大津城の守衛に参加してもその主力は長宗我部軍だ。それならいっそ長宗我部の拠点城で仕えるか。いずれにしても四散することになる。
元服して内政となった暫定六代目は元親の娘とのあいだに一男一女を得た。身分的には従三位に叙せられ、天正5年(1577)には左中将に任ぜられたがこの時点で、大津城にとどまること7年が経過していた。
◆渡川の決戦

内政の実父兼定は嫁の実家がある豊後にいて、しゅうと大友宗麟の言に従ってキリシタンへの改宗もした。
が、中村復帰への夢は止みがたく、しゅうとの応援も得ながら伊予の勢力(法華津、御庄)の援助をうけ幡多回復の戦をおこした。九州・伊予連合軍対長宗我部のいくさである。
兼定に手勢はなく膨張する長宗我部勢を阻もうとする、隣国伊予と海を隔てた九州豊後勢寄せ集め軍団との衝突で、なにやら代理戦争の様相を帯びていた。
「渡川の決戦」と後世よばれたこのいくさでは元親も岡豊を出て、中村まで出張り、臨陣して直接指揮に当たったから長宗我部軍団の士気は大いにあがり、九州・宇和島連合勢力を圧倒した。渡川とは中村地区での呼称であり、実は四万十川である。
敗れた兼定は宇和島に逃れ、土佐に近い伊予の孤島で、恨みを含んで死んだ(殺害説もある)。
◆内政の謀叛
一方、大津の内政の周辺も安泰でなかった。元親に不満をいだく家来の動きである。
名を波川玄蕃<はかわげんば>という。
長宗我部進駐軍の将として出城のひとつ、中村の山路<やまち>城(四万十川と宿毛から流れて来る中筋川<なかすじがわ>に挟まれた場所)を任されていた。
山路は四万十川の西岸に、町の中心部である一条氏の中村御所は東岸にあった。ここは長宗我部水軍の本拠地のひとつで水主<すいしゅ>(船の乗組員)達の暮らす地域であった。
乱行のゆえか玄蕃は長宗我部により山路城を召し上げられ、仁淀川のほとりにある波川(かれの本領)に閉塞された。
玄蕃は元親の妹婿でもあったから義兄から受けた処分は、深刻な疎外感と憎悪に近いうらみをいだく。
同じような怨みを長宗我部の居候か人質あるいは無為徒食者扱いされる一条内政も抱いているはずとみて、玄蕃は謀反を呼びかける密書を内政に送り付けかれも同意する。
内政は逆臣・玄蕃の「謀反の御輿みこし」にされた。御輿は名分さえあれば担ぐ側にとっては軽いに限る。内政は軽かったか。
これが元親に露見する。あとは想像がつくだろう。
大津御所とよばれた城を追放されるに際し、かれの作った歌がいまに残る。
うえおきし にわの藤が枝 こころあらば この春ばかり さくな におうな
内政は大津を追い出され、旧知の伊予・法華津ほけつ播磨守の縁をたどり伊予に移った。幾ばくもなく世を去る。
土佐西部に根を張った名家一条は百年余りで消滅した。先代は孤島に消え、当主は客地に歿した。
内政の跡取り候補としてその息子政親<まさちか>は元親の命により久礼田<くれだ>(今の南国市久礼田)で養育され『久礼田御所』とよばれたが長じて元親の弟・香宗我部親泰の娘をめとったが長宗我部滅亡後に大和に移ったらしい。
陰謀発覚して失敗した波川玄蕃は頭を丸めて阿波にのがれ当時海部<かいふ>城に現地駐在軍の将であった香宗我部親泰を頼ったが、元親は許さず切腹させた。
政親にとって、わが父親を謀反の御輿に乗せた憎き玄蕃。そのかれを現場で処罰した男が妻の父である香宗我部親泰。
政親という名は父親内政の一文字、元親の一文字をとったようにも思われるが、一条も長宗我部もともに滅び去った。
土佐を去り大和に向かう政親の胸中に去来するものは何であったろうか。
さて、大津城である。
かつて大津城には一条氏再興の切り札となる内政がいて大津御所と呼ばれていたことは既に述べた。
長宗我部にとって一条家の血をひく内政は『弱いものを守る信義に厚い長宗我部』を演出するに絶好の素材だったかもしれない。
過去に長宗我部は一条に保護をもとめ、その力により本領回復を実現させてもらったから「恩返し」とも世間は評価する。
長宗我部氏にとって内政の身の安全を図ることは重要だから大津城の警備を厳重にする必要がある。

《土佐電鉄の一条橋停留場》
名の「一条橋」は、並走する国道195号に架かる橋。当地に築かれていた大津城城主の土佐一条氏に由縁し、橋の欄干には一条氏の家紋が入れられている。
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以下は筆者の想像だ。
中村からやってきた一条家の連中にだけ任してはおけず自分の手下も配備することにしたが、問題はだれを内政の警護に当てるか。
自前の家臣・古参の家臣をあてがえば周辺からは
「長宗我部が内政の身柄を大津に移し、人質として見張っている」と受け取られかねない。
それを避け一条に旧縁でつながる者たちに身辺を守らせたら、内政も安心だろう。
一条直属グループ(中村から来た)と縁故グループの二本立て。ここで安芸国虎の元残党に出番が回ってくる。
安芸残党は亡君の奥方が一条氏の出であり、国虎の死後直ちに中村に奥方らを送り届けた家老がいる。旧主・国虎の墓前で切腹した家老の顛末は関係者の心を深くゆさぶったこと、想像にかたくない。
となると、元親も同じように考えたはずだ。
「安芸国虎の旧家臣に警護させればいい」
勝蔵、信四郎父子も『先祖には大津城で一条内政の警護に当たった歴史があり、以来ここを去らず住み続けている』という伝承を知っていたとすると勝蔵が息子信四郎の幡多行きに反対しなかった理由は理解できる。
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)融通無碍/総集版2021.7.1.23.59