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幕末足軽物語(南寿吉著)
[融通無碍/人物評伝]
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吉田東洋(1816~1862)
樋口真吉(1815~1870)

幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP160>
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文化13年、土佐藩上士(馬廻格・200石)の四男として高知城下に生まれる。
文政6年、兄らの早世のため18歳で正式嫡子となる。
天保8年、22歳の時、家僕を無礼討ちした罪で蟄居処分を受ける。家の召使いを口論の末斬殺する程短気な激高しやすい性格、癇癪持ちだった。が、頭脳は明晰だった。
天保12年、父の死により家督相続。
天保13年9月、船奉行として藩に出仕、11月に郡奉行に転じて民政も経験する。藩主・山内豊熈(英明の君子として知られた)の進める藩政改革に参画し、飢饉に備えた救荒の設備「済農倉」設立を進言する。
弘化2年、病のため無役となったが、人事制度や法令改正、海防等の意見書である『時事五箇条』を提出する。
弘化4年、船奉行として再出仕する。
嘉永元年7月、後藤正晴が病死すると、その遺児・後藤象二郎を父親代わりになって養育する。12月、藩主・山内豊熈の死去に伴って無役となる。が、藩主お気に入りの側近で、藩主歿後もその才能は引き続き重用され、次の藩主・山内容堂の側近となる。得難い人材だった。
嘉永4年、近畿地方を遊歴し、伊勢国の漢学者・斉藤拙堂(樋口真吉の父・
樋口信四郎の墓碑銘を草した人物でもある)、京の梁川星巌、頼三樹三郎らに会う。
信四郎の足軽物語(融通無碍/第25話)嘉永6年7月、
山内容堂によって大目付に抜擢され、12月には参政として強力に
藩政改革を推進した。容堂は才気煥発の東洋を溺愛した。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)安政3年3月、参勤交代に伴って江戸へ出府して藤田東湖や塩谷宕陰、安井息軒らと親交を結ぶが、酒宴における「
旗本殴打事件」を引き起こして罷免される。
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[融通無碍]
◆旗本殴打事件とは
短気な性格は直らない。
事件は藩主・山内容堂が親戚筋の松下嘉兵衛という旗本を自邸に招いた宴席で起きた。席上、酔った旗本がしきりに東洋の頭を叩く。しばらくは堪えたが膨れ上がった東洋の堪忍袋は突然破裂した。
「ワシの頭は容堂様にお仕えする大事なもんじゃ。貴殿に叩かれる太鼓じゃない! このバチ当たりめ」と言い放つや今までのお返しとばかり頭を殴りつけ、首根っこをつかみ容堂も臨席する座敷から引きずり出し、広縁から庭へ投げ捨てたというからその激高ぶりが知れる。
結果、家禄を150石に減らされ、帰郷して隠居を余儀なくされた。
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◆吉田東洋の鶴田塾

帰郷後は高知郊外の長浜に私塾(少林塾又は
鶴田塾と呼ばれた)を開き、後藤象二郎、
野中太内、
板垣退助(長浜の塾には通っていない)、
福岡孝弟、真辺栄三郎、由比猪内、
岩崎弥太郎(安芸の郷士)、
間崎哲馬(中村の郷士)等の上士・下士及び思想信条を問わず若手を指導した。
吉田東洋の鶴田塾(融通無碍/関連話)野中太内(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)吉田東洋の判断尺度には身分はなく、能力の有無が重要だった。差別意識は希薄だった。
後に、鶴田塾の門弟が藩内の一大勢力となり(土佐藩の非公式派閥で「
新おこぜ組」とよばれた)、幕末の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。
多くの藩政改革を強力に推進し土佐藩が幕末・明治の中央政界で活躍する経済的基盤を築きあげた。
新おこぜ組(融通無碍/関連話)吉田東洋の鶴田塾(NHK動画)《桂浜の西に広がる長浜海岸に、土佐藩の参政・吉田東洋が開いていた塾がありました。ここから後藤象二郎をはじめ、岩崎弥太郎など、多くの優秀な人材が輩出されました。吉田松陰の松下村塾のように、東洋に学んだ青年たちは、その後の日本を担う存在になっていきます。<NHK龍馬伝紀行より>》
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安政4年、柳川藩で(大石神影流の創始者)
大石進に師事して免許皆伝を得て高知城下で道場を開いていた
寺田忠次の門下生となる。
大石進(融通無碍/人物評伝)寺田忠次(融通無碍/人物評伝)門人には
後藤象二郎、
片岡健吉、由比猪内、真辺栄三郎らがいた。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)片岡健吉(融通無碍/人物評伝)由比猪内(融通無碍/人物評伝)真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝)
大石流の諸国門人姓名録(土佐藩)に、寺田忠次、吉田元吉(=吉田東洋)、
由比猪内、
真辺栄三郎、後藤保弥太(=後藤象二郎)らが記載されている。
後に、門下生の多くは吉田東洋の土佐藩での派閥「新おこぜ組」のメンバーになる。
安政4年12月、吉田東洋は赦免され、新知150石と役高300石を支給された。
安政5年1月、参政となり藩政に復帰する。
『海南政典』を定めて門閥を打破して、
殖産興業・兵制改革・開国貿易等を推し進め、富国強兵を狙った改革を断行する。
土佐藩の殖産興業<樟脳生産>(融通無碍/関連話)土佐藩の殖産興業<木材・炭>(融通無碍/関連話)土佐藩の殖産興業<養蚕>(融通無碍/関連話)その結果、吉田東洋、後藤象二郎、板垣退助らの改革派(=新・おこぜ組)と
山内下総らの守旧の門閥派
、武市半平太、
小南五郎右衛門、
渡辺弥久馬らの尊皇派(=土佐勤王党)との三つ巴の政治的対立を生じさせることになった。(後の吉田東洋暗殺の伏線となる。)
山内下総(融通無碍/人物評伝)武市半平太(融通無碍/人物評伝)小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)渡辺弥久馬(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
◆吉田東洋の藩政改革

土佐藩校/致道館(表門が武道館正門として当時の姿を残す<県重要文化財>)
文久2年、吉田東洋は藩政改革の一環として、西洋式軍備にも対応した育成機関として土佐藩校<致道館>を開校した。
致道館は吉田東洋の改革構想の大きな柱で、青年のみならず壮老の藩士にも出席を義務づけた。
教授内容、教授陣選抜にも吉田東洋の認識が色濃く反映され、剣術には樋口真吉が免許皆伝を受けた
大石流が新規採択された。
大石流・大石進(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP162>
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文久元年4月、真吉は『白札以下剣術寄合稽古世話方』になれという藩命を受けた。
さらに同年9月には『文武方下役加役並びに教授方証拠役』という職名を与えられる。土佐藩校の教授だ。
この役についたから補米<おぎないまい>(在任手当て)を年間2石(200升=300kg)もらうことに。
役料が年間たった2石だから端役で、実力に相応しい待遇とは言えまい。
身分制度の壁は厚い。例えば吉田東洋の役料なら年300石。月とスッポン。
「白札以下の剣術教授・・・・」という真吉の職名にも差別の姿が見える。
門閥はやはり親の敵だ。
門閥は親のかたき(融通無碍/関連話)白札とは上士と下士の間にある階級で、武市半平太がこれに属した。
真吉と半平太と吉田東洋(融通無碍/関連話)専任教授には
寺村左膳が選ばれた。寺村はその後、山内容堂の側近になり激動の幕末京都で活躍をしている。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝)また、
谷干城が助教に任命された。吉田東洋は若輩ではあるが、谷干城の学識を高評価しての抜擢であった。
谷干城(融通無碍/人物評伝)土佐藩の砲術などの遅れは深刻であった。
土佐藩の砲術(融通無碍/関連話)吉田東洋の藩政改革(融通無碍/関連話)吉田東洋は、強引に現状を改革しようとする。強引な手法は様々なところに軋轢を生む。
その東洋の改革手法には批判、非難もあるが、同調賛同する者もいる。しかし表面に現われるのは「反対の声」が大きいのも常態。
正しい現状認識から出発し、対応策の樹立と確実な実行、そして結果の検証。どれが欠けても改革は完結しない。
革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となった。
東洋はその中途で悲運に倒れた、前のめりの姿で。
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◆武市半平太が土佐勤王党を結成。
その時、吉田東洋は・・・
武市半平太が
土佐勤王党を結成した頃の土佐藩は、容堂の信任厚い参政・吉田東洋と配下の新・おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。
土佐勤王党(融通無碍/関連話) 故に藩論は東洋の唱える「開国・
公武合体」であり、また初代・
山内一豊が徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。尊皇攘夷思想の入りこむ余地はなかった。
公武合体 (融通無碍/関連話)
初代土佐藩主・山内一豊
山内一豊(融通無碍/人物評伝)それでも、武市半平太は藩論を刷新すべく大監察・福岡孝弟および大崎健蔵に進言するが、書生論であると退けられた。
武市半平太は、なおも吉田東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、吉田東洋は
「そこもとは(水戸)浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と徳川幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した。
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[融通無碍]
◆真吉と武市半平太、吉田東洋、そして山内容堂
武市半平太による「土佐勤王党結成」の動きは、下士の糾合という点からすれば奏功したが、上士には僅少の例外のほか加盟者はなく、土佐藩の大勢(上士)はこの動きを無視していた。
挙藩体勢の構築という観点からすれば明らかな失敗だ。体制派に改革意識は少ない。もしそれがあったとしても表立つことはまれである。
現体制から得られる安楽は、身を焦がすような不安感がよぎっても長くは続かず認識が行動に結びつくことはありえない。
(下士連中が勤王のこころざしと言うても、なんぞ裏がある。それに乗ってたまるか)
そもそも今、「徒党を組むこと」自体が藩の禁忌である。
皆、一様に主君(
土佐藩)に仕える身であるから、「忠」以外の思想などに事寄せて集まることはご法度であった。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP165>
文久元年12月11日
真吉は解印(辞職)する。
故郷・中村に帰ることに。
故郷に帰る(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
唐突な辞職に思えるがかねて心中期するものがあったようだ。が、倦遣録からはその明確な理由は見い出せない。
しかし、近づく嵐の予感、怪しい雲行き、湿った風などから「武市らの吉田東洋暗殺計画を知って、連中とは一線を画すべき時が来た。職を辞し、身を幡多に退転、隠居する」と判断したと想像する。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP166>
文久元年12月20日
土佐藩参政・吉田東洋氏に上書を提出する。
吉田東洋に提出した上書(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
辞職にあたり、吉田東洋への意見書であろうが、さすがの真吉も武市らの「暗殺計画」のことに触れることはなかった。
歴史に「もしも・・・」は禁句であるが、上書の欄外にでも、もしも何らかの示唆があったら・・・
文久元年が暮れた。
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文久2年
元旦の初陽が昇った。
中村は昨夜来の雪で銀世界となり、初春を迎える。
真吉は48歳になった。
未明七ツ(午前4時前後)に起床し身を清め、粗衣をまとい、四万十河原に出て日の出を待った。日の出まで長い時間川風に震えながら明るんでくる東の空を見ながら様々のことを思った。
朝焼けの中昇る陽を見て掌を合わせて今年の多幸を祈った。祈りながら
(ことしは、おおごと<大変なこと>になりそうだ)
言いようのない憂鬱な漠然とした予感が彼にはある。
頭を左右にふり、その憂鬱な思いを断ち切るように歩き始めた。そして冬枯れの草原を抜けて岸辺にあがり家に帰ってきた。
家に帰ってからも思い続けている。
文久2年正月元旦文久2年のことども(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP171>
文久2年3月25日
家業を罷免される。樋口道場の閉鎖だ。
樋口道場の物語(融通無碍/第25話<其の3>)======
[融通無碍]
樋口道場での弟子指導を禁止されたという。
吉田東洋の制度改革の一環として家毎に与えられていた芸道指南の資格を全廃した。
この背景には私学的教育を止め、公設の藩校によって統一教育を目指すという吉田東洋の確固たる理念があった
だが、自信に加え実績のある真吉は揺るがない。かれの剣術が全国的にみても最上級の水準にあり、他の追随をゆるさないことに絶対の自信がある。
真吉の剣は常に最善を求めて各国に散らばる剣友たちとの交流を通じ情報収集に努め時代の動き・趨勢にも精通し、決して時代遅れにはならない。
これまでの師家制度に安住し自己研鑽を怠っても恥じることなく、全く時代錯誤的な芸の内容、手法で以って安穏と過ごして来た連中には、家業の罷免は許し難いものがある。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP173>
文久2年4月8日
参政・吉田東洋が暗殺された。
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[融通無碍]
真吉はその立場上、暗殺計画を事前に知り得た可能性があると想像する。
吉田東洋の暗殺には、勤王と佐幕、上士と下士など土佐藩内の複雑な事情があった。
土佐藩の奉行職(守旧派)の山内下総は、このころ実質的に藩政を牛耳っていた参政・吉田東洋の改革・施策に反発し、反感を抱いていた。
東洋は武市半平太の主導する勤王党を嫌ったから、勤王党にとって山内下総は手を握りやすい相手。敵の敵は味方になる。山内下総は勤王党の若手に
東洋暗殺を教唆し、実行された。
吉田東洋の暗殺を教唆(融通無碍/関連話)近づく嵐を予感させる怪しい雲行き、湿った風は真吉ら明瞭な時代認識をもつ者にとって、将来に漠然とした不安を与えた。
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◆吉田東洋の暗殺(文久2年4月8日の夜の事件)
この改革は、守旧の門閥勢力や過激な尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立が生じていた。
文久2年4月8日、夜雨の降る高知城下・帯屋町で勤王党の武市半平太の放った3人の刺客(
那須信吾・
大石団蔵・
安岡嘉助)によって、吉田東洋は暗殺された。享年47。
那須信吾(融通無碍/人物評伝) 大石団蔵(融通無碍/人物評伝)安岡嘉助(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
吉田東洋は藩主への講義を終え、追手門を出て後藤象二郎らと別れ帯屋町の自宅への帰路、降りしきる雨の中、暗殺された。
那須信吾らは、東洋の首を「ふんどし」に包み、それを抱え「雁切橋」までひた走り鏡川の河原にさらしたという。
吉田東洋は真吉より一歳年下だったが意見も時代認識にも似通ったところがある人物だった。
真吉が免許皆伝を受けた大石神影流が土佐に導入されたときにも積極的にこれを学び、大石流(大石進)門弟録にもその名が残っている。
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◆吉田東洋と大石神影流

江戸を席捲した九州の怪物剣豪・
大石進 (天保の三剣豪といわれた)
吉田東洋は大石神影流の使い手で、暗殺剣に易々とは討たれず
左行秀<さのゆきひで>の鍛えた長刀二尺七寸を振るって防戦したが、雨天のため差した傘が邪魔になったようで、奮闘甲斐なく首をとられた。
左行秀(融通無碍/人物評伝)真吉の師でもある大石進(大石神影流の創始者)は土佐藩(吉田東洋)の招きに応じて、嘉永5年(1852)秋、自分の息子(大石種昌)を門人2人を添えて土佐に送り出した。滞在は約2ヶ月に及び、一行は高知を離れたが、その際東洋は
「大石種昌の帰筑を送る序」をつくって、その労を謝した。それにいう
『壬子の秋、君其の弟子二人を携えて我が府下に来り寓す。府下の士就学する者甚だ多し。(略)見る者復た武人たるを知らず。予親しんで之を憚る。其の将<まさ>に筑に帰らんとするや繾綣已む能わず。此を書して別と為す』
大石種昌らが滞在した寺田忠次(前年に真吉らと共に九州に行き<日本漫遊の旅>、大石進の招聘を懇請した上士である)の道場には、東洋を囲むグループ、由比猪内、真辺栄三郎、後藤良輔(のちに後藤象二郎と改名)などが競って集まった。
大坂から江戸への真吉の「
日本漫遊の旅」に同行した
佐々木三四郎の父が、倅への指導の謝礼に贈った鯛十枚に対する大石進の礼状(嘉永5年9月30日付)が残る。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)佐々木三四郎<高行>(融通無碍/人物評伝)嘉永6年5月3日には、大石進は江戸土佐藩邸にも招かれ邸内道場で演武の後、二階座敷で藩主容堂の引見を受け、酒肴が出て、銀三枚の下賜などのことが「山内家日記」が詳細に記録されている。
安政2年10月、大石流一行3人(松岡新、友清助大夫および島添政之助)が、再び高知へ来た。
47日間の集中訓練が終わって、一行は降雪のなかを離高する。
復路は往路と違えて、真吉の居る中村に向かった。
12月5日から中村に3泊して、80人に余る樋口道場の門弟に稽古をつけた。
かくして、土佐の侍は大石流の長刀を使うようになった。
大石進(融通無碍/人物評伝)大石進と土佐の長刀(融通無碍/南関連話ーーーーーーーー
吉田東洋が暗殺された文久2年(1862)は多事多難であった。
この頃の土佐藩での吉田東洋を中心とする、武市半平太、坂本龍馬、樋口真吉らの動きについては、南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に詳細な記述があります。
龍馬を見抜いた男 樋口真吉伝(平成23年度高知県出版文化賞/2011.3.15発行)
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第五章 西洋砲術の導入
幕末維新の混乱期の中で
《「樋口真吉伝」ではP157~164》
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[融通無碍]
吉田東洋考/幕末足軽物語・関連話**************
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土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2023.08.01.23.42.