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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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佐々木高行(1830~1910)
樋口真吉(1815~1870)

文政13年、土佐国吾川郡瀬戸村(高知県高知市)に土佐藩士・佐々木高順(100石)の次男として生まれる。誕生前に父が死去したことにより48石まで家禄が逓減、幼少期は貧窮に耐えて過ごしている。
江戸に遊学。佐藤一斉から陽明学を学んだほか、軍学者若山勿堂の下で山鹿流の兵法、洋式兵学を学び、同門の
清岡道之助らと窪田練兵場(若山勿堂の兵学師匠である窪田清音の道場)で鍛錬する。また国学を鹿持雅澄に学び、鹿持の同門であった
武市半平太とも交流した。
清岡道之助(融通無碍/人物評伝) 武市半平太(融通無碍/人物評伝)土佐藩では文武調役、作事奉行、郡奉行、普請奉行、大目付など重要ポストを歴任、
山内容堂の側近として藩政をリードした。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の
板垣退助や
谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)真吉と同様、武市半平太の土佐勤王党血盟者ではないが、同士(シンパ)として活動をした。
としは若いが
福岡孝弟とともに、真吉のトモダチである。
福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)真吉のトモダチ(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
土佐三伯(板垣退助・
後藤象二郎・佐々木高行)のひとり。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
日記『保古飛呂比<ほごひろい>』の著者。
佐々木高行は明治政府高官を辞め、引退した後『ほご拾い<保古飛呂比>』という回顧録を後世に残した。
樋口真吉・甚内兄弟との交遊、長崎時代・海援隊長坂本龍馬との往復書簡など幕末期の裏面史とも言うべき書籍だ。(東京大学出版会から刊行されている)
保古飛呂比 佐佐木高行日記(東京大学史料編纂所)[
佐々木高行/日記「保古飛呂比」
魚の目<魚住昭>]
《日記には、生い立ちから、劔術修行のための出府(嘉永5年)、ペリー来航に際しての出府(嘉永6年)、家計不如意による逼塞(安政3年)、文武小目付・操練調役兼帯(安政3年)、二度の出府(安政3年・万延元年)、文武調役(文久元年)、大病(文久元年〜文久2年)、文武調役・小目付兼帯(文久2年)、海防御用取扱(文久3年)、山奉行・作事奉行兼帯(同年)、三郡奉行(同年)と、佐々木高行自身の履歴を中心に、開港と将軍継嗣問題を契機に急転する政治危機、それを背景として、山内容堂・
吉田東洋の藩政改革、勤王党の活動、吉田東洋暗殺、守旧派の藩政掌握、山内容堂の帰国奪権、武市半平太投獄と展開する土佐藩の動向が、史料によって綴られている。》
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
安政2年、武市半平太と
島村寿之助が開いた武市道場で稽古に務める。
島村寿之助(融通無碍/人物評伝)武市道場の同門には板垣退助、
土方久元、
細川潤次郎、
那須守馬、
山本琢磨らがいた。
土方久元(融通無碍/人物評伝)細川潤次郎(融通無碍/人物評伝)那須守馬(融通無碍/人物評伝)山本琢磨(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
嘉永5年、真吉<当時38歳>が
石山孫六<当時25歳>と敢行した『
日本漫遊の旅』の途中、嘉永5年9月6日に大坂で合流した佐々木高行(通称・三四郎<(当時23歳>)。かれは真吉の知己だった。
石山孫六(融通無碍/人物評伝)日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP136>
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嘉永5年9月6日
山田・佐々木(高行)両氏は真吉の大坂着より2日前に到着して待ち構えていた。高知を出る前から「大阪で会おう」と約束していたが、予定通り再会・合流できた、愉快と言うべきべきだろう。両氏は河内屋に宿。
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帰国の路銀がない・・・
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP153>
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嘉永6年1月25日
山田氏が帰国するため京橋まで送って別れた。
真吉らは故あって路銀(旅行に必要な金)に窮していたから、山田氏とともに土佐に帰ることが出来なかった。
その事情を聞いた佐々木高行の叔父・斉藤蔵太(麻布山内家の家老)は怒ったように10両という金を甥・佐々木高行の前に突き出す。
「早くこの金で山田氏と高知に帰れ!」
山田氏は京橋を出たものの、佐々木高行、真吉らの後続が着くのを川崎で待ち兼ねていた。
身分を越えて仲間を思う友情。そして甥の窮状を救うため怒ったような振りをして金を投げ出す麻布の叔父。叔父も甥も身分を省みない。あるのは甥の友情を守ること、仲間を大切にすること、そして川崎で真吉らを待つ路銀には余裕のある上士・山田。
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[融通無碍]
真吉らが金に困った原因は
1.江戸の名道場が軒並み真吉との対戦を避けた(御賄いの金子が入らない→別に道場破りを意識した訳ではないが)
2.
佐久間象山から買った参考書類が意外に高価で、飛んだ散財になったこと。象山は存外セコイ奴だったから。
この2点で真吉に収支見通しが狂った。入るを図り、出るを制すが蓄財の基本だ。真吉はこれまでの経験(「金は現地調達すればいい」)から少し甘くなったようだ。
佐久間象山(融通無碍/人物評伝)真吉の悪口はこれまでとする。
が、悪口も言わないと筆者は真吉教の信徒のように思われる。
だから悪口を敢えて言おう。
『君子交わりを断ちて 悪口を放たず』というからまだ真吉との交際を続けられる。
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文久2年、土佐藩の京都藩邸で諸藩応接掛(情報収集)などをつとめる。各藩の志士と交流する。特に長州藩の
時山直八と懇意になる。その伝で高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に携わる。
時山直八(融通無碍/人物評伝) ~~~~~~~~~~
文久3年、下関戦争が勃発する。江戸から山内容堂が帰国し、土佐勤王党への本格的な弾圧が始まる。
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長州で下関戰争が起こる。

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
下関戦争(融通無碍/関連話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP230>
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文久3年6月15日

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
長州の使者・大和弥三郎、木梨平之丞、阿部謙吉、湯浅正之助某ら4人が高知に着いた。
この時、
馬関戰争(=下関戦争、攘夷実行)に参加した長州藩の
時山直八と佐々木次郎四郎は下関戦争の現場から戦闘服装備のまま直ちに京都へ向かった。その途中、寄り道をして用井口(高知県仁淀町池川用井、ここに国境番所があった)番所行き、この戦争について土佐の反応を知ろうとするも、番所は差し止め入国を許さなかった。
時山直八(融通無碍/人物評伝)長州藩が攘夷実行(融通無碍/関連話)土佐藩は内外に鉗口令を敷いたようだ。馬関戦争を知る者を土佐に入れず、土佐側からの接触も禁じた。
武市半平太の指示で
大石弥太郎と岡本二郎(=
岡本八之助)、
安岡実之丞が用井口に派遣され佐々木高行らとの接触を試みた。(やはり藩命は厳しくを面談を許さなかったというが、安岡実之丞が密かに面談している。)
大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)岡本八之助(融通無碍/人物評伝) 安岡実之丞(融通無碍/人物評伝) ======
[融通無碍]
安岡実之丞(土佐勤王党23番目の血盟者)の書簡(宛先は武市半平太か?)がある。時山直八と佐々木次郎四郎に面談した内容を伝えている。
『6月19日、用井口(高知県仁淀町池川用井、ここに国境番所があった)番所で長州藩の時山直八、佐々木次郎四郎に会いました。
両人が言うには、6月1日に米国軍艦が下関に来襲して、ただちに戦争となった。
両人は、6月2日に山口へ行き、それから上京。(その途中に土佐への入国を試みるが果たせなかった。)
土佐への入国は、先に土佐藩へお伺いした長州藩の役人(大和弥三郎と木梨某ら4人)が報告した次の4カ条のことを言うためだ。追々(長州藩の)重役の者より、土佐藩の要職の方々へ相談するはずだが、まずもって両人がかねて知り合いの人々と話し合い、先方(土佐藩)の意見を聞くようにと長州藩の役人からいわれたので、話しに来た。』
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[保古飛呂比/佐々木高行日記]
(出典:
魚の目<魚住昭>)
安岡実之丞の手紙(復命書)/保古飛呂比(融通無碍/関連話)安岡実之丞の手紙<復命書>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
すでに高知に着いている長州使者には目的が2つあったのではないか。(実際は4ヶ条)
①前年11月、蒲田・梅屋敷で起きた周布政之助の山内容堂に対する暴言事件でギクシャクする土佐との関係修復。
梅屋敷騒動(融通無碍/関連話)②攘夷実行(下関の外国船砲撃事件<下関戦争>)への評価、反響等の確認。この二点か。
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真吉記録では長州の使者は簡単に高知入りを果たしたような記述だが、実際は立川番所(高知県大豊町)で足止めを食っている。
それを武市半平太の工作でなんとか切り抜け高知入りを果たした一行は土佐藩と交渉して周布政之助(改名して麻田公輔)の長州藩政への復帰を承認させたようと努めたようだ。
事後に武市半平太の裏工作を知った山内容堂はじりじりと「武市、憎し」の思いを募らせただろう。
(周布政之助は自分を公然愚弄した男だ、許さない)
山内容堂にはむかっ腹を立てては、さらに失敗を繰り返す傾向がある。
怒りは選択肢を少なくするが酔漢・山内容堂は、明くる朝にその泥酔態を完全に忘却している。覚えていれば酔態を演じることは無くなる。あるのは宿酔<ふつかよい>の苦しさから「今日は酒を控えよう」と思うだけで、昨晩演じた醜態は省みることなし。せめて反省あれば周囲も救われるが。だが「後悔」は山内容堂の字書にはない。
一方の武市半平太も
「容堂の面子<めんつ>に触れる、虎の尾を踏む」の危ない橋を渡っていた。
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《融通無碍》
◆馬関戦争
長州による攘夷実行である。
幕府は朝廷に攘夷を決行すると約束をしたが、諸藩の見るところ『実行は不可能』であったから皆、様子見を決め込んで静観していたところ、建前と理屈好きの長州が敢然と外国船に砲撃を加えた。
馬関戰争(
下関戦争)である。
下関戦争(融通無碍/関連話)その後、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が下関の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
下関海峡の砲台を連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化することになる。

英国海軍陸戦隊によって占拠された前田砲台(山口県下関市前田)
薩摩藩も同時期、
薩英戦争が勃発して、奇しくも長州と同様な思いから攘夷は不可能と悟ることに。
薩摩藩は島津斉彬の集成館事業が復活し、近代化路線を突き進んでいた。長州藩は薩摩藩と共に倒幕への道を進むことになる。
薩英戦争(鹿児島県公式動画)ーーーーーーーーーーーーー
[保古飛呂比/佐々木高行日記]
長州藩が攘夷実行/保古飛呂比(融通無碍/関連話)薩英戦争/保古飛呂比(融通無碍/関連話)8月18日の政変/保古飛呂比(融通無碍/関連話)禁門の変/保古飛呂比(融通無碍/関連話)第二次長州征伐/保古飛呂比(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
(8月18日の政変で)長州侯が三條殿(=
三条実美)と同意のうえ京都を立ち退き、その後、長州邸の兵卒が邸に火を放って立ち退き、といった巷説がひどくやかましい。これは文久3年8月18日のことだが、京都守護職の会津侯より使者が、日の出すぎに河原町の(土佐)藩邸に来た。
三条実美(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーー
佐々木高行は、
幡多郡奉行の辞令を受けたが、赴任する直前にキャンセルとなり、格上の三郡御奉行に任命されている。(詳細が佐々木高行の日記(=保古飛呂比)に記述されている。)
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[保古飛呂比/佐々木高行日記]
文久3年9月5日、三郡御奉行(長岡・土佐・吾川の三郡を所管する奉行)を仰せつけられた。
この進挙は意外だった。幡多郡へ赴任するのはしばらく差し控えるようにということだったので、たぶん免官になると思っていたら、こうなった。
幡多郡奉行/保古飛呂比(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
三郡御奉行に赴任したが、佐々木高行は土佐勤王党のシンパとされ役職を解任さてれる。
この解任についても、佐々木高行の日記「保古飛呂比」に記述がある。
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[融通無碍]
◆佐々木高行が三郡御奉行を御免(解任)になる
さてこのたび、自分(=佐々木高行)が高岡郡奉行を御免(解任)になったのは、
野中太内が幡多郡奉行から(高知に)呼び返されたとき。
野中太内(融通無碍/人物評伝)(野中太内は)須崎に一泊し、自分の同役・寺村勝之進と会った。
そのとき(寺村は)自分が郡内の勤王家(須崎の町医者・岡村斧吉ら)と交際し懇意にしていて、また
中島信行、
中島与市郎、
細木核太郎の脱走(脱藩)の時も見込み違いをしたことなど(つまりは武市半平太との関係を云々話し)、自分が郡の主宰(郡奉行のこと)でいることは後の災いになるだろうなどと内輪話をした。
中島信行(融通無碍/人物評伝)中島与市郎(融通無碍/人物評伝)細木核太郎(融通無碍/人物評伝)野中太内は吉田派のなかで小身であるけれども有力者で、吉田派が追々要路を占めるようになると大目付に抜擢された。
まもなく吉田東洋が暗殺されて(吉田派は)閑散となったが、その後、幡多郡奉行に任命された。
寺村勝之進との談話により、自分は御免になったと漏れ聞いた。
果たしてそうなのかどうか、これまでの(自分の)解任処分は何か失策かまたは議論の合わないことなど自分に覚えがあるけれども、今度はさらにその覚えがない。
大いに疑いの気持ちを持った。
ちょうどこのころの風聞に、揚屋(牢屋のこと)の建て増しがあって、佐々木高行らも武市半平太に関係して、大疑獄が起こるという噂があった。このことは家人たちが聞き込み、心配したことである。
これらの真相は、当時には何もわからないことだった。
しかし、明治26年ごろに至り、佐幕家の若尾直馬[故人]の文箱の中より、探索書が出てきたといって、ある人が送ってくれた。一見して、嫌疑があった痕跡が見えた。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP238>
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文久3年10月6日
薩州使者・
高崎猪太郎が来着する。
薩摩の高崎猪太郎は山内容堂のお気に入り。口が巧妙「口舌の徒」と呼ぶべき人か。
10月7日、高崎猪太郎が東邸(山内容堂の住まい)に出る。
高崎猪太郎(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
薩州の使者・高崎猪太郎[
佐々木高行/日記「保古飛呂比」
魚の目<魚住昭>より]
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元治元年、
小高坂村西町の
池内蔵太の屋敷を求め、転宅した。
池内蔵太(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーーーーーー
[保古飛呂比/佐々木高行日記]
池内蔵太の家を買った/保古飛呂比(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP250>
元治元年6月5日
池田屋騒動が起きた。京都の池田屋に集まった勤王の浪士達を会津藩の指揮下にあった新撰組が事前に集合情報を入手、襲撃した事件。浪士側は9人が死亡、6人が捕縛された。
池田屋騒動(融通無碍/関連話)この事件で
新撰組の名が洛中・洛外に全国に響き渡った。
新撰組(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーーーーーー
[保古飛呂比/佐々木高行日記]
池田屋騒動/保古飛呂比(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
池田屋という宿屋で浪人6人が切られたとのこと。戸が開いていないので見届けることができませんでした。三条小橋本に後ろ鉢巻の数十人が槍を引っさげてたむろしており、これは伊勢の桑名の手勢。裏に数十人棒をもってたむろしており、これは一橋の手勢。その次に数十人が手槍を持っており、これは壬生浪人。その次に数十人が槍と鉄砲をもっており、これは会津の手勢。
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幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP254>
町便によると「伏見で異変が起きた」
「京の異変は、長州藩士と浪士で構成された軍勢が会津軍を攻撃する戦いだ。会津には薩摩、彦根らが加勢する。」
元治元年7月18日、長州藩家老・福原越後の率いる軍勢が、伏見で警護にあたる大垣兵と戦火を交える。
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元治元年7月18日
禁門の変が勃発。京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000人が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた。
禁門の変<詳報>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
禁門の変で京を探索/保古飛呂比(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
元治元年7月22日、京都より飛脚が着いたので、戦争(禁門の変)後の状況を確かめたところ、19日「八ツ時前」(午前2時ごろか午後2時ごろ?)戦が終わり、長州人が引き取った後も砲声が聞こえた。20日に至り、砲声が止んだが、火勢はますます盛んで、京都の8割ほどが焼失した。もっとも御所をはじめ二条城、土佐藩邸に異常はなかった。鷹司邸からは長州藩士の死骸が車で積み出されていた。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP254>
元治元年7月23日、天皇の住まいする御所(禁門)に砲撃をかけた長州藩の蛮行に対して、幕府内で「長州討伐の発議」があり、朝議で長州征伐が決まった。幕府の軍勢が大坂に入った。
ところが長州討伐軍の体勢が整わない。間延びした時間が過ぎていく。ようやく前備州藩主・徳川慶勝が総督に決し、薩摩藩の
西郷隆盛が長州討伐軍参謀となった。
西郷隆盛(融通無碍/人物評伝)西郷隆盛は最初は本気で長州対罰を考えていた。
ところが
勝海舟との面談で、幕府体勢の荒廃堕落振りを知って長州追討の熱意を失ってしまう。
勝海舟(融通無碍/人物評伝)総攻撃期日の直前、西郷隆盛は水面下で長州と交渉を開始した。つまり長州討伐軍による実戦攻撃ではなく、穏健な収拾策を模索し始めたのだ。
長州討伐軍内には強硬論もあったが、西郷隆盛がこれらを抑えた。
蛤御門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。
長州征伐(融通無碍/関連話) ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
長州征伐/保古飛呂比(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
長州追討の勅命が下った。長州藩主・毛利慶親は前から入京を禁じていたが、陪臣・福原越後を遣わし、名自ら兵端を開き皇居に発砲した。その罪は軽くない。おのおのがたは防長(周防国と長門国。現在の山口県)に押し寄せ、速かに追討すること。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP255>
元治元年8月、
『下関戦争』下関戦争(NHK動画)これに激怒した英米仏蘭・四カ国は猛烈な抗議を幕府に行うとともに、長州藩に報復の四ヶ国(英米仏蘭)連合艦隊による軍事行動を実行した。
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[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
下関戦争/保古飛呂比(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
元治元年8月5日、この日より長州が異船(外国船)と戦争を始めたとの諸説・風聞が流れている。
(8月4日に豊後領の姫島より異国船18艘ばかりが長州下関の上手の小倉領田ノ浦沖へ碇泊し、長州へ何ごとか交渉がある様子だった。その後、5日昼九ツ時(正午ごろ)より、早くも長州領の前田というところの台場(砲台場)に向けて異国船7、8艘が近寄り、長州勢と双方が発砲して戦争となった。)
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慶応元年、[元治二年四月改元] 佐々木高行 36歳。
正月、家内一同で朝、祝った。
たらちねのうからやからも打揃ひ
としのはしめを祝ふうれしさ
芽出たしと祝ふうちにも
心にかかるくもはありけり
本日は年賀客が来て、面会した。夕方、寺村(勝之進)宅に挨拶に行った。
風さえて春としもなし久方の
都の空はいかにあるらん
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慶応2年、
坂本龍馬や
中岡慎太郎の仲介もあって
薩長同盟が成立した。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)薩長同盟(融通無碍/第38話)ーーーーーーーー
慶応2年1月22日
薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、
木戸孝允(=桂小五郎)はこれを了承した。
木戸孝允(融通無碍/人物評伝)これにより薩長両藩は後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。
盟約成立後、木戸孝允は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという「
龍馬の手紙(返書)」を受け取っている。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙<木戸孝允宛て①>(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
薩長が和解した/保古飛呂比(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
慶応2年1月20日、京都において薩長が和解したという風評あり。これらのことは順を追って高知に知らせがあった。
2月15日、薩摩藩の動静を探るため、後藤象次郞・
小笠原唯八の両人が鹿児島に派遣された。[小笠原手記]
小笠原唯八(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
慶応2年6月、『第二次長州征伐』幕府は10万を超える兵力を投入して、長州を攻撃するため幕府軍が出発する。上関・周防大島に幕府軍艦が攻撃を開始して開戦。
第二次長州征伐だ。
第二次長州征伐(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
長州と戦争が始まる/保古飛呂比(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
慶応2年6月14日、長州と戦争が始まり、井伊(彦根)・榊原(越後高田)両藩が敗北したとの報知があった。勤王家は大敗といい、佐幕家は小敗という。
慶応2年6月16日、長州の奇兵隊が大島で松山藩勢を破ったという。
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[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
将軍家茂公が病気大患の風聞/保古飛呂比(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
慶応2年7月28、29日ごろ、将軍家茂公が病気大患の風聞。
これは次々と知らせが入ったが、(真相は)よく解らない。どういうものか。
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家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、一橋慶喜(=
徳川慶喜)は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承した。
徳川慶喜は、徳川家茂の代行として出陣を決意するが、九州の小倉城が陥落したことで、戦況不利を悟って休戦を主張、孝明天皇は長州征討を休戦するよう勅命を出す。
徳川慶喜(融通無碍/人物評伝)このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵。(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)
幕府の求心力も地に堕ち、長州・薩摩・土佐らの倒幕の気運が高まることに。
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<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP275>
慶応2年9月24日
佐々木高行は上京の内意がある山内容堂の命令で太宰府の三条実美を訪ね、京師情勢を探索する。
中山左衛士、
毛利恭助、
島村寿太郎、
佐井寅次郎、
藤本淳七が同行した。
毛利恭助(融通無碍/人物評伝)島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)藤本淳七(融通無碍/人物評伝)=======
[融通無碍]
この探索(情報/意見収集)は、7月20日に将軍・徳川家茂が死去したこと、長防との戦いがしばらく止戦したこと、十二鄕が建白したこと、福井の
松平春嶽侯が幕府を正道に戻す建言をしたこと、などを踏まえ行われた。
松平春嶽(融通無碍/人物評伝)十二鄕の建白は不首尾に終わった、という。
佐々木、中山、毛利、藤本は10月に帰国。(その後、中山氏は小監察に就任、毛利と藤本は上京する。)
島村、佐井は土佐に帰らず、引き続き滞京した。
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幕府の
長州征伐のさいに藩主豊範が妻(長州藩主毛利敬親の娘)と離婚しようとしたため、これに猛反対し「竹鑓先生」とアダ名された。
長州征伐(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
慶応3年、長崎で後藤象二郎と坂本龍馬の会談がおこなわれた。
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慶応3年1月、
溝淵広之丞の仲介で龍馬と後藤の会談が実現した。会談の場所は
長崎清風亭。
溝淵広之丞(融通無碍/人物評伝) 清風亭会談(幕末足軽物語/関連話) この会談の結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、
亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬頃に亀山社中は「
海援隊」と改称した。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)海援隊(幕末足軽物語/関連話)~~~~~~~~~~~~
佐々木高行は、慶応3年に行なわれた龍馬と後藤象二郎との「
清風亭会談」、その後(大政奉還前に)龍馬が行なった長崎での最後の仕事(=土佐藩へ千挺の銃の売り込み)に深く関わっていた。
清風亭会談(長崎龍馬便り)長崎では、龍馬と頻繁に情報の交換をしており、多くの佐々木宛の「
龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(佐々木高行宛て)ーーーーーーーー
一方、京では、中岡慎太郎の仲介により薩土密約が締結された。
・・・・・・・・・・
慶応3年5月21日、
中岡慎太郎の仲介により薩摩藩士・小松帯刀邸にて、土佐藩の
板垣退助、
谷干城、
安岡亮太郎、毛利恭助らが薩摩藩の
西郷隆盛、
吉井幸輔、小松帯刀らと会談、「
薩土密約」を結んだ。
板垣退助は薩土密約を山内容堂に報告し軍制改革を行う旨の同意をとりつけた。さらに、大坂で武器を買いつけて帰藩した。
薩土密約 (融通無碍/関連話)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)安岡亮太郎(融通無碍/人物評伝)西郷隆盛(融通無碍/人物評伝)吉井幸輔(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
慶応3年5月29日
長崎に居た土佐藩大監察・佐々木高行は、坂本龍馬や
岩崎弥太郎とともに、
いろは丸事件問題で紀州藩と交渉し、償金8万3千両(後に7万両で妥協)の支払いを承知させた。
岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)いろは丸事件(融通無碍/関連話)いろは丸事件(NHK動画)
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP284>
・・・・・・・・・・
慶応3年6月20日
佐々木高行は
由比猪内、
毛利恭助と着京した。
由比猪内(融通無碍/人物評伝)毛利恭助(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・・
慶応3年6月22日
土佐藩の後藤象二郎、
福岡藤次らが三本樹にて薩摩の小松(藩家老)、西郷隆盛、大久保の諸氏に会う。
真吉が日記に記述した人物以外に、土佐側から坂本龍馬、中岡慎太郎、真辺栄三郎、山内容堂側近の
寺村左膳が参加していた。
薩土盟約の締結である。
薩土盟約(融通無碍/関連話)福岡藤次(融通無碍/人物評伝)寺村左膳(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
土佐藩は幕府を中心とする公議政体論を藩論として決定、大政奉還のため薩土盟約を締結する。
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、布告させるという「平和路線」だ。
その後も、この路線で武力討幕派に対抗したが、薩摩の二股膏薬(薩土密約)などもあり伏見戦争(戊辰戦争)でこの平和路線は霧散した。
土佐藩も佐幕派の筆頭・旧藩主の容堂の突然の「君子豹変」で、討幕運動に加わることになる。

腹の探り合い/薩土盟約
この盟約には背景がある。
幕府の命脈が尽きようとしていることは薩摩、土佐ともに明瞭に見えていた。問題はどう収拾を付けるか。
武力倒幕の薩摩、平和裏に政権交代を実現したい土佐が曖昧な形で妥協して生まれたものだ。だから契約が実効していた期間は極めて短い。
この7月22日(下旬)から9月上旬(明確な日付確定は困難だ)の間のたった2ヶ月半だった。
薩摩としては土佐を幕府側に立たせることは避けたい、その一心で妥協した産物だ。
この経緯を真吉は知っていたはずだが書いていない。
真吉は長州好きだった。薩長の対立と、変転極まりない薩摩の態度に嫌悪を感じていたか。そう考えておこう。

・・・・・・・・・・
慶応3年6月23日、
佐々木高行は成立した薩土盟約の意見を聞くために毛利恭助を同伴して坂本龍馬、中岡慎太郎と密会している。
佐々木高行の日記に
『借席松本ニ会議ス。大政返上云々ノ建白ヲ修正ス。夫ヨリ毛利恭助同伴ニテ才谷梅太郎(=坂本龍馬)、石川誠之助(=中岡慎太郎)両人ノ意見ヲ聞ク為メ、会々堂ニ密会ス』とある。
大政奉還へ向けての根回しを行なっている。
佐々木高行のこの動きについて兄・坂本権平宛てた「龍馬の手紙」がある。
『国家ニ心配仕候人々ハ後藤象次(二)郎、福岡藤次郎(=福岡孝弟)、佐々木三四郎(=高行)、毛利荒次郎(=恭助)ニて(略)天下の苦楽を共に致し申候』
ーーーーーーーー
僅か2ヶ月足らずの間に締結された薩土密約、薩土盟約は真逆(倒幕路線・大政奉還の平和路線)の内容であり土佐藩側は微妙に談判に関わった人物が異なっている。
両方に深く関わったのは中岡慎太郎であり。その締結内容については土佐藩吏として由比猪内、佐々木高行が確認をしている。
ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP288>
・・・・・・・・・
慶応3年7月27日
客兵(中岡慎太郎傘下の浪士達/26名=
陸援隊、後に田中健助<=
田中光顕>ら12名が追加加入/真吉はその名簿を入手していた)が白川邸に入る。土佐藩邸を陸援隊の屯所として使用させることに決定する。
中岡慎太郎の陸援隊本拠地を京都白川の土佐藩邸にあてる事については真吉と佐々木高行が相談して決めたが、最終的には京都土佐藩邸の幹部・
由比猪内の英断で決着している。
由比猪内(融通無碍/人物評伝) 陸援隊(幕末足軽物語/関連話)田中光顕(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
真吉は(佐々木高行に相談して)客兵を白川邸に入れる。長崎の坂本龍馬・海援隊と並び称される中岡慎太郎・陸援隊の誕生である。
土佐藩の京都藩邸/白川邸(現京都大学農学部構内にあった)は、前年の慶応2年に福岡孝弟により購入され、結果的には陸援隊の屯所となった。
福岡藤次(融通無碍/人物評伝)この決定については佐々木高行が
「他日、罪人となることは覚悟している」と日記に書くほど危険な行動だった。
佐々木高行の気概を見る思いがする。こういう人柄が友をつくる。
ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
白河邸に浪人を入れる/保古飛呂比(融通無碍/第62話)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP288>
慶応3年7月、長崎で「
英国イカルス号水夫殺害事件」が起こる。
イカルス号水夫殺害事件(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
慶応3年7月28日
この夜、長崎において土佐藩の夕顔丸の船員が英国人を殺害した事件(イカルス号事件)について本藩に確認と質問をするため、由比猪内と佐々木高行が大坂に下る。
この事件に関連して、幕府役人が英国の動きを制止し
「幕府自らが土佐藩を糾問する」と
永井玄蕃から土佐藩大坂屋敷の留守居役に連絡があった。
永井玄蕃<=尚志>(融通無碍/人物評伝)「事の詳細は、在坂の閣老・板倉伊賀守に直に逢って聞くべし」と言われ、2人は幕府の大坂奉行所に赴く。
ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
幕府と問答/保古飛呂比(融通無碍/関連話)=====
[融通無碍]
由比猪内と佐々木高行が幕府の役所に赴き、幕府役人と協議した結果、
「殺害の被害者・英国と加害者(と思われる)海援隊、そして幕府・土佐藩が一堂に会して審議(審判)を行なう」ことが決まった。
審議の場所は土佐(高知)の須崎、時期は直ちに。
英国は事によっては、
「(
生麦事件で薩摩を砲撃<薩英戦争>したように)土佐藩を武力攻撃することも辞さない」と脅す。
生麦事件(融通無碍/関連話)土佐藩にとっては戦争にも成りかねない一大事であった。
・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP292>
慶応3年8月15日
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件が、土佐の須崎で談判交渉される。
須崎での談判交渉後、後藤象二郎、坂本龍馬、佐々木高行らが、高知から土佐藩船・夕顔丸に乗船して長崎に行く。夕顔丸を運航していたのは幕臣・平野富次郎である。
平野富次郎(融通無碍/人物評伝)この船に英国の通訳・佐藤健之助(アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)も同乗した。
この時期は、大政奉還が土佐藩によって建白されようとしていた直前であり、この船中で新しい「国家像」の議論がなされたという。
当事者の海援隊/坂本龍馬、土佐藩の後藤象二郎、佐々木高行、板垣退助、英国の
アーネスト佐藤らが参加した須崎での審議では結論にいたらなかった。とどのつまり振り出しに戻り、再度関係者が長崎に集まり長崎奉行の差配で審議するということになった。
アーネスト・サトウ(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
◆佐藤健之助(アーネスト・サトウ)

イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、佐藤健之助は阿波経由で土佐に来ていた。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、山内容堂にも謁見した。
佐藤健之助は龍馬、後藤象二郎らとともに土佐藩船「
夕顔丸」 で下関経由で長崎に向かい、20日、龍馬の紹介で
桂小五郎と初めて会った。
桂小五郎(=木戸孝允)(融通無碍/人物評伝) 
夕顔丸(慶応2年に後藤象二郎、ジョン万次郎、谷干城らが藩命で購入した土佐藩船)
~~~~~~~~~
◆土佐藩の洋式艦船
土佐藩の洋式艦船は『源氏物語』の巻の名に因んで命名されている。
「夕顔」・「空蝉」・「若紫」の他に、「箒木」・「胡蝶」・「羽衣」・「乙女」・「紅葉賀」が知られている。

「夕顔丸」モニュメント(長崎市西浜町)/この船中で大政奉還に繋がる龍馬の「船中八策」が起草された。
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[融通無碍](英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録より)
後藤象二郎は、サトウとのイカルス号事件の交渉で
「土佐藩は事件とは全く関係ない」と強行に主張している。
「英国を手本にして
国会と憲法とを作ろうと思っている。薩摩の西郷も相似た意見を持っている」と事件に関係ないことも述べている。
民撰議院設立建白書(幕末足軽物語/関連話)サトウは
「後藤はこれまで会った中で最も才智の優れた日本人である。余の考えでは、独り西郷だけが人物の点で後藤に優れていた。」と記述している。
後藤象二郎の長崎物語(融通無碍/第44話)・・・・・・・・・
慶応3年8月20日
長崎に行く途中、下関に立ち寄り、アーネスト・サトウは龍馬の紹介で、長州の桂小五郎(木戸孝允)と会見している。
・・・・・・・・・
長崎へ戻り、9月まで英国公使パークスとの談判にあたった。
長崎で2カ月余の審議の末、
長崎奉行・河津伊豆守祐邦は犯人とされた海援隊士の犯行と認めることはなく「海援隊無罪」の判決を出し、事件は決着する。(犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた。)
長崎奉行・河津伊豆守(幕末足軽物語/関連話)龍馬はその判決を高く評価し、絶賛する「龍馬の手紙」を長崎奉行所に送っている。
龍馬の手紙(長崎奉行所宛て)ーーーーーーーーーー
海援隊の立上げ(土佐藩の公式機関として取り込み)に関わった土佐藩の重役としては
佐々木高行がいる。
佐々木高行は長崎で龍馬や亀山社中・海援隊と深く関わっている。
龍馬は長崎で女遊びに誘う手紙を佐々木に書き送ったり、下宿先にやって来ては自分の家のようにして宿泊するなど深い交流を重ねた。
のちに佐々木高行は、
「才谷(=龍馬)と自分との間には、随分面白い事が多く、今思へば実に抱腹する事もあった」と回顧している。
龍馬没後は海援隊を手厚く保護し、海援隊士らも深く佐々木高行を信頼していた。
~~~~~~~~~~
◆龍馬の手紙
慶応3年8月25日から9月18日までの間、佐々木高行宛ての12通の「龍馬の手紙」ある。それらの宛名には「佐々木先生」や「佐々木大将軍」といった敬称が使われている。龍馬がいかに佐々木高行を頼りにしていたかが伺える。
「8月28日、長崎奉行所の10万両を一朝起れば奪いとる計画を佐々木と相談。此頃より佐々木をしばしば訪問、時に起居を共にして、論談大いに発す」とある。
場合によっては、長崎奉行所を占拠して討幕の行動を起こす計画を共に考えていたようだ。(なお、長崎奉行所の占拠は翌慶応4年1月伏見戦争が始まると直ちに、佐々木高行によって実行された。)
◆佐々木高行宛て
佐々木高行 宛て①佐々木高行 宛て②佐々木高行 宛て③長崎で、龍馬は女遊びに誘う手紙を送ったり、下宿先にやって来ては自分の家のようにして宿泊するなど、佐々木とは深い交流を重ねている。後に佐々木は「龍馬と自分との間には、随分面白い事が多く、今思へば実に抱腹する事もあった」と回顧している。
~~~~~~~~~~
戸田雅楽が
三条実美の指示により長崎に赴き、
佐々木高行と会談した。
戸田雅楽(融通無碍/人物評伝)三条実美(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
戸田雅楽は佐々木高行の紹介で
坂本龍馬・
中島信行らと親交を結び、(酒を酌み交わしての交流を頻繁に行ない)意見・情報の交換をしている。飲み会に誘う「龍馬のくだけた手紙」が多数残されている。
龍馬の手紙(佐々木高行 宛て②)一方で、龍馬、佐々木高行、
桂小五郎が「薩土密約」による武力倒幕の準備もすすめていたことをうかがわせる「龍馬の真面目な手紙」も残されている。
龍馬の手紙(佐々木高行 宛て③)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)中島信行(融通無碍/人物評伝)桂小五郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
長崎での、佐々木高行の厚情に対する戸田雅楽の礼状がある。
『寒さが日々ます折り、いよいよご清祥のこととお喜び申し上げます。さて、先ごろは(私が)長崎に出ました際、いろいろとご厄介になり、深く感謝しております。そのみぎりに(佐々木様が)少々ご病気であられましたが、その後いかがなされたかと、とても心配しておりましたが、最近はますますご壮健とのことを拝承しまして、遠方から悦んでおりました。なおますますのご療養が専一と存じます。あれ以来、あちこち漂白しまして、尊藩(土佐藩)ではいろいろとご厄介になり、ありがたく存じ奉ります。その後は久しくご無沙汰しまして、失敬の至り、何とぞお許しください。今般、幸い(長崎への)便がありましたので、取り敢えず右の御礼御伺いかたがた乱筆で記しました。他は再会を期しまして、草々頓首、拝啓。慶応3年冬至 戸田雅楽 佐々木三四郞さま』
・・・・・・・・・・
慶応3年9月2日
桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗っていた)から龍馬宛に手紙がきた。龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を1000丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めた。
・・・・・・・・・・
慶応3年9月6日
大監察に復職した板垣退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、勤王党の幹部らが議して、板垣退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市半平太の土佐勤王党を板垣退助が事実上引き継ぐことになる。土佐藩の正規軍「
迅衝隊」だ。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)武市半平太(融通無碍/人物評伝)迅衝隊(融通無碍/第56話)・・・・・・・・・・
慶応3年9月9日
龍馬はグラバー商会で鉄砲千挺取り揃えて、土佐へ向かうことを決断した。
長崎に駐在している土佐藩重役・佐々木高行に報告した手紙がある。
龍馬の手紙(佐々木高行宛て①)・・・・・・・・・・
慶応3年9月14日
海援隊名義でハットマン商社からライフル銃1300挺の購入契約を結ぶ。
・・・・・・・・・・
慶応3年9月18日
岡内俊太郎・
戸田雅楽・
千屋寅之助らと震天丸に乗船し、長崎を出帆。土佐へ。
岡内俊太郎(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
慶応3年9月11日
土佐藩士・島村雄二郎(海援隊士)が英米水夫傷害事件(長崎江戸町異人斬り)を起こした。島村は、自分に殺意はなく防御のための抜刀であったと主張。佐々木高行は龍馬と謀りその正当性を主張し事件を収拾した。
ーーーーーーーー
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
・・・・・・・・・・・
慶応3年10月1日
龍馬は震天丸で浦戸を出航したが、途中、風浪で船が破損し、須崎の港に舞い戻った。土佐藩横目職(=警察的役職)で海援隊士・岡内俊太郎に交渉させて土佐藩船・空蝉丸(原名・胡蝶丸)に乗換えて5日に大政奉還が目前に迫っている京に向けて出航した。(京には10日に入る。)
岡内俊太郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
交渉を任された岡内俊太郎がその経緯を纏めて報告した佐々木高行宛ての手紙がある。
◆佐々木高行宛岡内俊太郎書簡(10月14日付け)
慶応3年10月8日 、夫より大坂に著し、上陸して、同志と面談しました。
野本平吉殿は直に京都に出る事にて、私(=岡内俊太郎)、龍馬、戸田雅楽、千屋寅之助らは薩摩薩邸の前に薩摩屋といふ一小家ありて、此家に行き、高松太郎、白峯駿馬、長谷部卓爾ら等居合せて居り、将来の事を戒め含め置き、大坂を発して京都に上り・・・云々
野本平吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・
慶応3年11月15日
坂本龍馬が暗殺される。
龍馬暗殺(融通無碍/融通無碍)・・・・・・・・・
慶応3年11月27日
坂本龍馬が暗殺された知らせが長崎に届いた。
佐々木高行は日記で
「坂本、石川を祭る折節、風にてありけるに、君がためこぼれる月のかげくらくなみだは雨とふりしきりつゝ」と嘆いている。
~~~~~~~~~~
[
佐々木高行/日記「保古飛呂比」
魚の目<魚住昭>より]
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
[日記:保古飛呂比]
空蝉船が入港して、坂本龍馬・石川誠之助(中岡慎太郎のこと)が害されたとの報知あり。
すぐさま海援隊に知らせた。また後藤象二郎より海援隊あての書簡を海援隊士の
渡辺剛八に届けさせた。
渡辺剛八(融通無碍/人物評伝)渡辺剛八が来て、大いに憤怒し、
「すぐさま上京して仇討ちをする」と言う。そのとき自分が言った。
「今日の天下、一人の仇討ちの時ではない。大仇討ちの策が必要なのだ」と、理をもって諭し、渡辺剛八はようやく承服した。
松井周助・岩崎彌太郎・橋本喜之助が長崎に帰ってきた。
松井から
真辺栄三郎の書簡、後藤象二郎の覚え書きなどを受け取った。
佐々木高行が受取った手紙(融通無碍/関連話)夜、藤屋に集会して、上国(京都の近くの国々)のことを相談した。
佐々木高行は海援隊士が生活するための費用を土佐藩の資金から流用するなどして面倒をみることに。
・・・・・・・・・
慶応3年12月
佐々木高行は土佐藩庁から召喚(帰国)の命を受けた。
海援隊士らは、後ろ楯をなくすと大いに驚き
「乳児の母に離れ候如く、身に致し方を失ひ果て候」との書状を佐々木高行に送っている。
しかし、事故のため佐々木高行の帰国が延期となり、大晦日(みそか) に、いろは丸事件の賠償金の1万5千両余を海援隊に分配した。
~~~~~~~~~~
慶応4年、京都で
鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍が敗れたとの一報が長崎に届いた。
鳥羽伏見の戦い(幕末足軽物語/日記:戊辰戦争従軍) 龍馬亡き後、海援隊を統括していた土佐藩重役・佐々木高行は、薩摩藩や大村藩と連絡を取り合いながら、長崎奉行・河津伊豆守祐邦と交渉を行ない奉行所の動きを伺っていた。
・・・・・・・・・
慶応4年1月13日
佐々木高行は長崎奉行と会い、幕府は諸外国の応援を求めることなく、堂々と戦うことを申し入れた。
・・・・・・・・・
慶応4年1月14日
長崎で、まさかの出来事が起こる。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍の敗北の報に接した
長崎奉行・河津伊豆守が長崎を退去、江戸へ逃走したのだ。
長崎奉行所(融通無碍/関連話)佐々木高行が海援隊士を引き連れて奉行所へ出掛けてみると、恐れをなしたのか長崎奉行・河津伊豆守の一行は湾内の英国船へと逃げ込んでいた。
長崎奉行が逃亡(長崎龍馬便り)河津伊豆守の行動は、実に手の込んだものだった。
その日、奉行所の引っ越しが行なわれるという噂が町中を飛び交い、西役所(現長崎県庁)から立山役所(現長崎歴史文化博物館)までの一直線の道には、大八車や用心籠、牛車の列がひっきりなしに行き交いした。
引っ越しの理由は、なにぶん物騒な世情ゆえ海岸に近い西役所は危険、というもの。
引っ越し先の立山役所では、夜に引っ越し祝いがあるといい、出入りの仕出し屋に260人分もの仕出しの注文が入った。しかし、夜遅くにその注文はすべてキャンセルとなり、そのことは町にもれ「何かが起きる!」と町中がざわめいたという。
引っ越しは見せかけで、河津伊豆守が脱走するとにらんだ佐々木高行は、
沢村惣之丞ら海援隊士を率いて長崎奉行所に向かう。
沢村惣之丞(融通無碍/人物評伝)すでに河津伊豆守は退去した後で奉行所の中には地役人の岡田吉太夫(後に長崎県小参事となり県政に尽力)がいたが、佐々木高行らはそのまま奉行所を占拠した。
奉行所に山内家の家紋の幔幕(まんまく)を引き回し、門前に土佐商会の高張提灯を掲げ、長崎奉行所に代わって長崎の町と港を警備することに。
奉行所を占拠する際、海援隊士の沢村惣之丞が酒を帯びた暴漢を射殺したが、後にこれが友好関係にあった薩摩藩士・川端平助だったことが判明した。
沢村惣之丞は薩摩藩との軋轢を恐れ、海援隊本部で、薩摩藩関係者の制止にもかかわらず割腹して果てた。享年26。
龍馬の片腕、沢村惣之丞の悲劇(長崎龍馬便り)佐々木高行は、長崎奉行所に駆けつけた薩摩藩・松方助左衛門(後の元老公爵松方正義)と共に地役人、及び長崎に屋敷を置く諸藩の18藩の代表を集め、今後の長崎表政治の策を決定し、政府から責任者が派遣されるまで諸事を行なうための協議体(長崎会議所)を作り、長崎奉行所西役所(後の長崎県庁)をその役所とした。
長崎奉行所の配下で、長崎の警備・警護を行なっていた「遊撃隊」も佐々木高行らが引き継いだ。
長崎奉行所を探査すると金庫には一文もなかった。奉行が持ち逃げしていたのだ。
使者を奉行の所に派遣し、1万7千両余を封印したまま取り戻すことができた。その折、奉行の懐具合を配慮した使者が3千5百両を差し出したが、奉行はその金の中から千両を返却、謝意を表したという。
長崎に在留する諸藩の代表が集まり、奉行所を長崎会議所と改め、発足することに。会議所では長崎の人々の動揺を抑えるため、奉行所の公金のうち8千両と共に、7歳以上の男女全てに米5千石を支給した。
・・・・・・・・・・・
慶応4年2月15日
新政府から派遣されてきた澤宣嘉が長崎会議所改め長崎裁判所の総督に着任。
・・・・・・・・・・・
慶応4年3月
佐々木高行は会議所の参謀に任ぜられ、外交事務を円滑に処理したり、市政に尽力。
佐々木高行の指揮の下、海援隊士らは、長崎のみならず天草方面の治安維持にも務めた。
長崎奉行所を占拠直後に天領だった天草富岡代官所襲撃事件が発生したが、その鎮撫に
吉井源馬、
山本洪堂らを派遣した。派遣隊は一発の銃砲も射つことなく鎮め、見事にその重責を果たした。
吉井源馬(融通無碍/人物評伝)山本洪堂(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応4年4月19日
九州鎮撫総督兼長崎裁判所総督・澤宣嘉の指令で、長崎奉行所が町の治安を守るために組織していた「遊撃隊」を「
振遠隊」に改編する。
長崎振遠隊(融通無碍/融通無碍)その後の戊辰戦争で振遠隊は、土佐藩の
石田英吉<振遠隊長>、
千屋寅之助らの海援隊士が率いて
秋田戦争に従軍した。
石田英吉(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)
戊辰戦争(秋田戦争)に出征する奥州鎮撫振遠隊。右半分の隊員は袴姿で刀を携えているのに対し、左半分の隊員は軍服をまとい銃を携行した洋風スタイル。西洋式の訓練を受け楽隊もあった。
・・・・・・・・
慶応4年7月19日
振遠隊は長崎港からイギリス船フィロン号に乗り組み、海路で秋田に。
======
[融通無碍]
◆秋田戦争
戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が官軍と共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦い。秋田庄内戊辰戦争ともいう。
秋田での戊辰戦争秋田の戊辰戦争~~~~~~~~~~
明治4年、
岩倉使節団の一員として欧米各国を巡る。その後、宮中や元老院で
谷干城、元田永孚らともに「天皇親政運動」を主導。
岩倉具視(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)明治10年、
板垣退助ら立志社、及び古勤王党(
大石弥太郎、
安岡権馬ら)が西南戦争に呼応して挙兵を企てた。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)安岡権馬(融通無碍/人物評伝)この反政府活動を取り締まるため中央政府の佐々木高行司法大輔の命令で
北村重頼が派遣され、
今橋権助らの協力で挙兵計画を阻止した。
北村重頼(融通無碍/人物評伝)今橋権助(融通無碍/人物評伝)明治43年没、享年79。
===============
[融通無碍]樋口真吉伝/南寿吉著
佐々木高行考/幕末足軽物語・関連話
高知県高知市横浜東町
ーーーーーーーー
土佐三伯(融通無碍/融通無碍)◆幕末足軽物語/融通無碍/関連話
《佐々木高行/日記「保古飛呂比」より<出典:
魚の目/魚住昭>》
佐々木高行が受取った手紙①佐々木高行が受取った手紙②佐々木高行が受取った手紙③
魚住昭氏
第256回 現代語訳・保古飛呂比 その79*************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2021.08.01.23.59