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土佐の森・文芸 幕末足軽物語/融通無碍
[人物評伝]
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山内容堂(1827~1872)
樋口真吉(1815~1870)

文政10年、土佐藩の分家であった南屋敷(南邸)の山内豊著の長子として生まれる。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、山内容堂は分家のため高知城下で生まれ育った。
嘉永元年、山内容堂は15代目の土佐藩主に襲封(後任藩主と認可されること)された。
山内容堂が土佐藩主に(融通無碍/関連話)土佐藩は鉢植え大名(融通無碍/関連話)山内神社(NHK動画)嘉永元年、山内容堂が第15代土佐藩主として実権を握ると、
武市半平太、
小南五郎右衛門、
渡辺弥久馬、
平井政実ら尊皇派が藩庁に登用された。
武市半平太(融通無碍/<人物評伝>) 小南五郎右衛門(融通無碍/<人物評伝>) 渡辺弥久馬(融通無碍/<人物評伝>) 平井政実(融通無碍/<人物評伝>) 
高知城
土佐藩のお城下・高知も元は河内<かわうち>(河内が転じて「こうち」になった)であり、二つの川に挟まれている。
河内の地だから水害が頻発する。
高知のお城と水害(融通無碍/関連話)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP108~114>
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嘉永5年6月19日
長崎奉行所で取り調べを受けている(
ジョン万次郎ら)土佐の漂流人3名の身柄引き取りのための一行が土佐から到着した。
ジョン万次郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
嘉永5年6月25日
漂客受け取り人たちが万次郎を連れて土佐に帰国する。
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[融通無碍]
高知城下において
吉田東洋らにより藩の取り調べを受けた。聞き取りに当たった
河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』(ひょうそんきりゃく)を記した。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)河田小龍(融通無碍/人物評伝)漂巽紀略
漂巽紀畧に描かれているジョン万次郎
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安政6年、安政の大獄で隠居処分となったため、家督を
山内豊範継承した。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久2年、江戸で謹慎(隠居)している山内容堂の身辺警護と称して
五十人組が土佐藩の非合法な組織として結成され、
中岡慎太郎ら50人が江戸に向かった。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)五十人組(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P203》
文久2年11月6日
桑名に宿す。12里(48km)程。
高知から田所島太郎(=
田所壮輔/真吉の砲術の師・
田所左右次の息子)ら50人の一行(
五十人組)と同宿する。
田所壮輔(融通無碍/人物評伝田所左右次(融通無碍/人物評伝=====
[融通無碍]
◆五十人組
文久2年10月、勅使・
三条実美が江戸へ下る際、土佐藩主・
山内豊範がこれを護衛することになり、山内t範の江戸参勤交代に随行できなかった土佐勤王党の同志(郷士)たちが
島村寿之助らの資金援助をえて結成された警護部隊、武装集団だ。
三条実美(融通無碍/人物評伝)山内豊範(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)文久2年11月、前藩主・山内容堂の守衛の藩命を受けて江戸に向かった。
このなかには、
中岡慎太郎、
望月亀弥太、
千屋寅之助、
安岡金馬らがいた。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)望月亀弥太(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎は江戸に来た後、
勝海舟を訪問、長州の久坂玄瑞と水戸で交わり、さらに信州松代の
佐久間象山も訪問し国防・政治改革について議論している。
勝海舟(融通無碍/人物評伝)佐久間象山(融通無碍/人物評伝)
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◆薩摩と容堂と長州
薩摩と容堂と長州(融通無碍/関連話)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版)《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P205》
・・・・・・・・・
文久2年11月13日
品川で休憩し、江戸鍛冶屋橋・江戸屋敷上邸に着く。松岡達八と同宿になる。
この夜、長州の一部(久坂玄瑞ら)に
横浜異人館襲撃計画があって、薩摩の密告を受けた山内容堂が、長州侯にこれを囁いたから暴発寸前でこの暴挙は抑圧された。
夷人館襲撃未遂事件(融通無碍/関連話)この横浜の夷人館襲撃未遂事件は思わぬ余波を生む。
江戸蒲田の梅屋敷で酒に酔った長州・周布政之助が、この事件での容堂の行動を批判して
「容堂公は勤王運動を愚弄する(その文言内容には諸説ある)」と暴言したから、この宴席に居合わせた血気にはやる土州藩士・
山地忠七が抜刀してその場で周布を討ち果たそうとするが、高杉晋作らの機転で周布はその場を逃れた。
山地忠七(融通無碍/人物評伝)
梅屋敷騒動(この絵巻物は、周布に暴言を浴びせられた土佐藩の諏訪重中が事件を語る際に作ったものとされている。/坂本龍馬記念館HPより)
梅屋敷騒動(融通無碍/関連話)======
《融通無碍》
周布政之助は自分を公然愚弄した男だ、許さない。
「君辱められば臣死す、じゃ」
杯を離さない酔眼朦朧の人から報復命令が出た。即座に土佐の討手隊(上士主体で構成)が目を真っ赤にして長州屋敷へ押し掛ける。
が、長州侯直々の慰撫に怒りの矛を収め、手打ち(和解)式に臨む。
討手隊は宴席に並んだ豪華料理飲み食いして藩邸に帰る。そして老侯に
「後刻、長州侯がご隠居様に直に謝罪に参上します」と復命。
不思議なことに大酒飲みの隠居も納得して一件落着。
容堂にはむかっ腹を立てては、さらに失敗を繰り返す傾向がある。
怒りは選択肢を少なくするが酔漢・容堂は明くる朝にその泥酔態を完全に忘却している。覚えていれば酔態を演じることは無くなる。
かれにあるのは宿酔<ふつかよい>の苦しさから「今日は酒を控えよう」と思うだけで昨晩演じた醜態は省みることなし。せめて反省あれば周囲も救われるが。
だが「後悔」はかれの字書にはない。
ーーーーーーーー
梅屋敷事件以来、容堂は長州の体質・気質に辟易していた。
では、薩摩好きかというとそうでもない。親しかった宇和島の伊達侯への書簡では、薩摩を芋野郎<いもやろう>・呼ばわりしていた。
過度の飲酒の影響かもしれない。
要するに定見(一定した見解・哲学)なく、酔えば勤王、醒めれば左幕を常とする君主だったようだ。
長州と薩摩に対する対抗意識のみ強く、主導権争いを好むという行動パターンを有する殿様、目立ちたがり屋と言えば過言に過ぎるか。
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文久3年、山内容堂は伊豆下田の宝福寺で勝海舟と会談した。
《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P210》
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文久3年1月15日
伊豆下田・宝福寺で行なわれた土佐藩主山内容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)との会談で坂本龍馬は前年3月に犯した脱藩の罪を許された。赦免である。

【写真】伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)・・・・・・・・・
文久3年1月22日
隠居(容堂)は大坂屋敷に御滞座になる。
大鵬丸は風を恐れて兵庫へ逃げる。
夜、容堂のお書付を拝見する。
◆容堂の御書付
至誠の心、暫時かたときも不可忘の事
諸藩の者へ応接の節、出位(分を越し出過ぎた言動)の議論致す間敷まじき事
且、無益の往来(外部との接触)もまた禁ずべき事
洛中に於いて、吾が威権を以って人民を嚇し候義、最も慎むべき事
要約すれば
1.至誠が肝心
2.下士も上士も身分をわきまえ外部の者と勝手に議論するな
3.無益な外出は厳禁する
4.京都市内で乱暴な言動をして市民を脅すような行為を慎め。
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◆山内容堂との「お目通り仰せ付けられる」
《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P219》
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文久3年2月22日
真吉は容堂との「お目通り仰せ付けられる」
日記に真吉は「御目通り仰せ付けられる」と書いた。もちろん、御目通りの相手は隠居・容堂だ。
どんな御目通りだったのか。
日記には何も書かれてない。が態々<わざわざ>書いたから理由があろう。
御目通りなら側近・
寺村左膳がお側に詰めていた可能性もある。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝)では、同日の「左膳日記」を見てみよう。
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【寺村左膳日記】
文久3年2月22日
坂本龍馬の事
此者郷士也、先年勤王論を以御国出奔、薩長之間を奔走し、頗すこぶル浪士輩之名望アリト云当時勢ニ而召返され可然と云之論有り
(坂本龍馬は郷士である。先年勤王論で国を出奔したが、薩長の間を走り回って意見調整し、浪士達の間で評価が高いという。今の時勢であるからこの男を土佐に召し返すのが当然だという意見がある)
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《融通無碍》
真吉が容堂との「お目通り」で「坂本龍馬の事」を意見したと思われる。土佐に召し返すことは叶わず、竜馬暗殺後に、このくだりを削除したのではなかろうか。
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◆容堂は馬好きだが駕籠は嫌い

《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P226》
容堂は馬好きだが駕籠は嫌い(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
文久3年3月26日
隠居が御帰馬する。大仏前でお休み。見送りに兵之助様が御来臨される。伏見で御泊まり。
「御帰馬」が目を引く。乗り物酔いがひどい容堂は駕籠を嫌い、馬に乗って移動することを好んだ。
今回の土佐への帰国は安政3年の参勤交代で江戸入りして以来7年ぶりだ。
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《融通無碍》
藩主就任を江戸で幕府の承認を得た後、初の御国入りの際も騎馬姿だった。若々しい新藩主の颯爽たる姿に庶民らは喝采したがその実情は「駕籠嫌い」が原因だった。
容堂の乗り物嫌いの逸話は諸書に残るが誰も言わないのは何故かと思う。かれの風貌と言動が「乗り物酔い」の対極にあるせいか。
禁忌を避けずに歴史を語りたい。
履歴書なら「趣味欄に」注目する。「性格の自己分析欄」を見て関連質問をしてみたい。失敗談を聞きたい。
既に述べたが、龍馬の寝小便のこと。この性癖を以って幼少の頃の龍馬が大物でなかったことの証左とする向きがある。
では夜尿症を持つ子供は大したことない子供か。その後龍馬は大したことになり(?)帳消しになったからいいようなものの、もし無名に没したなら・・・。
あたかも「栴檀は双葉より芳し」の事例を推奨するような逸話ではないか。
考えてもみるがいい。膀胱という循環器系の臓器と頭脳にどんな関連があるというのか。
この逸話も相当に粗雑な頭脳の持ち主による空想でないか、と筆者は思う。噂の出所も見当が付きそうだ。
飲酒した後、寝床を小便で濡らす大人も決して少数ではないだろう。その傾向があるからといってその人格、頭脳まで云々する向きは決して健全と評価されないだろう。
筆者敢えて言う
「素朴な疑問を持ってものごとを見ましょうや。素人が専門家(権威者)の講演を眉につばしながら聞いてもあながち無礼でもないでしょ」
素人と専門家(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
◆武市半平太が土佐勤王党を結成。
武市半平太が土佐勤王党を結成した頃の土佐藩は、山内容堂の信任厚い参政・
吉田東洋と配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)故に藩論は吉田東洋の唱える「開国・公武合体」であり、また初代・
山内一豊が徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。尊皇攘夷思想の入りこむ余地はなかった。

初代土佐藩主・山内一豊
山内一豊(融通無碍/人物評伝)それでも、武市半平太は藩論を刷新すべく大監察・
福岡藤次および大崎健蔵に進言するが書生論であると退けられた。
福岡藤次(融通無碍/人物評伝)武市半平太は、なおも吉田東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、吉田東洋は
「そこもとは(水戸)浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と徳川幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した。
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◆武市半平太と山内容堂
真吉と武市半平太による「土佐勤王党結成」の動きは、下士の糾合という点からすれば奏功したが、上士には僅少の例外のほか加盟者はなく、土佐藩の大勢(上士)はこの動きを無視している。
挙藩体勢の構築という観点からすれば明らかな失敗だ。体制派に改革意識は少ない。もしそれがあったとしても表立つことはまれである。
現体制から得られる安楽は、身を焦がすような不安感がよぎっても長くは続かず認識が行動に結びつくことはありえない。
(下士連中が勤王のこころざしと言うても、なんぞ裏がある。それに乗ってたまるか)
そもそも今、「徒党を組むこと」自体が藩の禁忌である。
皆、一様に主君(
土佐藩)に仕える身であるから、「忠」以外の思想などに事寄せて集まることはご法度であった。
武市半平太と山内容堂~~~~~~~~~~~
土佐藩による土佐勤王党弾圧で、
岡田以蔵らの自白はあったものの武市半平太が一連の容疑を否認し続けたため、土佐藩庁監察府は勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝) 業を煮やした山内容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、武市半平太は切腹を命じられる。
即日刑が執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。
切腹を命じられた武市半平太は体を清めて正装し、南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から2名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37。
辞世の句は、
ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
武市半平太の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。
武市半平太が切腹(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
土佐勤王党(融通無碍/関連話)
月様、 雨が・・・(新国劇『月形半平太』で、土佐藩の志士/武市半平太(武市瑞山)が京三条の宿を出るときに、舞妓の雛菊が傘をさしかけてくる時の台詞。)
春雨じゃ濡れて行こう・・・武市半平太(NHK動画)瑞山神社(NHK動画)ーーーーーーーー
維新後、木戸孝允が山内容堂との酒席で酔った勢いで
「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と詰めたが、彼は
「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。
しかし、病に臥せた晩年の容堂は、武市を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、
「半平太ゆるせ、ゆるせ」と、うわ言を言っていたとも伝えられる。
・・・・・・・・・
《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P228》
文久3年5月29日
真吉は思うところを山内容堂に上書した。
この度京師にて5月20日、姉小路様が凶変に遇われたそうで誠に申す言葉がなく畏れいっております。
これまで薩長土の3藩は別して苦心し、ようやく尊王の兆しも見え始め喜んでおりましたに、このような始末に。何者の仕業なのかは存じませんが、こんな事件は将軍家が常々怠りなく身辺を警備して防ぐべきでありますのに、防げなかったことは幕府の御心を伺い知ることができません。
このような状態では朝廷の存続は申すまでもなく、帝の御身辺も安全にお守りすることもかないますまい。
以前から朝廷に親兵を設置することはこのような事件が起こらないようにとの叡慮(天皇の意思)ではないかと恐察するところ。
しかし未だに朝廷に御親兵の備えもない状態では尊王のためにいかに勤労しても空しいことになるがと、心配しております。
今からはきっと尊慮をめぐらされ、それに違うことがないように願います。
恐々、不敬を犯し言上奉ります。 謹言
「姉小路卿が遭難殉死したのは幕府の責任だ。今後は幕府任せを改め、薩長土の3藩合同で親兵(近衛兵)を編成して不時に備えよ」との主張を婉曲に述べている。
《真吉の「薩長土の3藩合同で親兵(近衛兵)を編成して不時に備えよ」との具申は、慶応年間になって3藩それぞれが京に藩兵を大量に送り込むことで具現化された。結果的に倒幕・戊辰戦争のための軍隊となり、さらに明治新政府の基盤を支える軍隊となった。》
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慶応3年、時局打開のため薩摩藩が提唱する
四侯会議が開かれた。
四侯会議(融通無碍/関連話)《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P277》
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慶応3年2月15日
西郷吉之助(=隆盛)が蒸気船に乗って高知に来た。
薩摩の実力者・西郷隆盛が海路高知に入る。隠居・山内容堂に時局打開のための
四侯会議への参加を懸命に口説く。
山内容堂はこれに応じ参加を決心した。
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《融通無碍》
山内容堂は西郷隆盛に
「よし、ワシは今回は東山の土になる積もりで行く」と決意を披瀝した。決心の固さは分かったが行動が伴ったか・・・・。
薩摩の西郷が高知へ(京みやげ臆病湯)(融通無碍/関連話)慶応4年、戊辰戦争が始まった。
《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P311》
・・・・・・・・・
慶応4年1月

伏見戦争に敗れ、将軍・
徳川慶喜が会津・
松平容保を道連れに海路江戸に遁走した。満天下に赤恥を曝した。
将軍・徳川慶喜が遁走(融通無碍/第43話)徳川慶喜(融通無碍/人物評伝)松平容保(融通無碍/人物評伝)鳥羽・伏見の戦い(NHK動画)ことここに至って山内容堂の堪忍袋が破裂した。
戊辰戦争が鳥羽伏見の戦いから始まり幕府軍の愚行を見て容堂は左幕から倒幕に変心した。
『徳川への義理立てはこれまでだ。
クソクラエだ』
『新政権の樹立に向けて敵対する勢力を全力で駆逐する。慶喜も容保も葬り去れ』
『行け進軍だ』
岡林信康のくそくらえ節
《2022流行語大賞は「村神様」、こちらは「フォークの神様」だ。》
余りに急な変心に側近らは全くの青天の霹靂、右往左往するばかり、仕事は放棄された状態に陥る。
沈着な側近・寺村左膳が諌めに掛かる。
『ご隠居様、どうぞ落ち着いて。動くには準備が必要。時間が掛かります』
『何を悠長なことをぬかす、焦眉の急とはこのこと。何を昼行灯のようなことをほざく』
『藩は大きな船。急に舵を切っても、直ぐに船体が対応できぬもの。櫓舟ならともかく蒸気船はそうは行きませぬ』
『船将はワシじゃ、つべこべぬかさずさっさと対応せよ』
「徳川家への旧恩に報いる」ことに専心した男が、全く正反対の向こう岸に飛び移った、大嫌いな船も使わず。取り巻きたちは仰天する。
容堂は言い放つ。
『やると決めた以上、即刻やる。やれ!』
側近は戦費調達問題を持ち出して説得する。
『なにぃ、金がないだとー。お前たちはアホか』
『昔から戦は兵糧さえ確保できたら武将は即刻戦を始めたもんだ』
『腹さえ満たせば戦はできる』
『戦費がないから戦えぬ、そんなことは聞いたことがない』
戦費調達(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
山内容堂は佐幕から倒幕へ突然転換する。
これは当然事前に側近に漏らしておくべきことだった。
容堂の唐突な変節・変心を知らぬ側近の
寺村左膳は戊辰戦争での戦功を焦る勤王過激派連中(=武市の残党)の餌食となった。
容堂が倒幕戦争に参戦するとは夢想しなかったかれは好戦的な連中を容堂の身辺に近づけないのが側近の役目と考えていた。
だから逆に左膳は側近の立場を奪われ土佐に強制送還、追放刑を受け土佐の東端で阿波との境の僻村、甲浦<かんのうら>に閉塞された。
赦免されたあと、日野春草と改名し江戸に出て最後は日本赤十字の幹部となって江戸に歿した。
当時の心境を聞いてみたいが決して語るまい。追い込んで問えば「当時は色々ありましたね・・・」くらいは答えてくれようか。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝)容堂の配慮のなさ、思いやりの浅さを思う。
貴人は薄情というがその典型だったかもしれぬ。大法螺を吹く前にその影響を考えるような冷静さは持ち合わせていなかった。
聞いたこと、思ったことをそのまま口にする「口耳四寸の知」の輩だった。
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◆東征軍(土佐藩)は東山道を進む
《『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』では、P323》
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慶応4年2月11日
東征軍に動員する藩兵を全員集合させ、装備などを点検する。
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《融通無碍》
戊辰戦争で東征軍(総督・板垣退助)として出陣する藩兵に訓示した山内容堂の送別の辞。
整列した将兵を前に容堂が短く訓示する。
曰く
「天猶寒し、自愛せよ」
天猶寒し自愛せよ(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー

土佐藩は錦旗を掲げ官軍(東征軍)として関東へ
総兵員合わせて1100余人(割り当て人数より若干少ない)宿継ぎ人足は300余人。
総督・板垣退助
輜重長(=輜重奉行)・早碕兵吾
《真吉は輜重隊の裁判役、輜重長の早碕兵吾は後に敵前逃亡の罪で本藩送りの処分を受ける。》
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/関連話)輜重奉行が敵前逃亡(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
この容堂の「送別の辞」は素晴らしい気の利いた文言だと思って、筆者もいっときうなったが調べてみると僧・良寛の募金活動に出る関係者に贈った言葉だった。
再度「ウーン」と首を傾げながらうなった。

良寛書簡碑(天寒自愛碑)/新潟県長岡市与板町
君欲求蔵
経遠離故
園地吁嗟吾
何道天寒自愛
君蔵経を求めんと欲して
遠く故園の地(ふるさと)を離る
嗚嗟吾れ何をか道わん
天寒し自愛せよ
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◆会津戦争に勝利して、東京に凱旋
《「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP377》
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慶応4年10月24日
午前中に東京に着いた。増上寺に入る。
東京に凱旋(融通無碍/関連話)
徳川将軍家とのゆかりが深い東京・芝にある増上寺
兵隊は残らず中納言様(=山内容堂)へ拝謁する。御酒料として200匹もらう。
【中納言様御意の写し】
今春以来、東北に出陣しいずれも勉励・奮戦の段はその時々に報告をうけて承知しており、予が満足はこれ以上ないほどだ。
いささかであるが、慰労のためこの酒肴を遣わす

愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
悪酔いして顔面蒼白の隠居・容堂。
『真吉、お前の刀は長すぎるぞ』
そう言う視点の定まらぬ酔眼。
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[融通無碍]
山内容堂に長すぎるといわれた真吉の佩刀は幕末の名工・
左行秀の作。
◆左行秀
左行秀は土佐藩で御鉄道具御用兼藩工の職に就き(藩より支給された禄は3人扶持)作刀および武器(鉄砲)の製造に従事した。真吉と幡多の中村時代から親交があった人物。
九州の産だが縁あって土佐に来て、幡多(旧西土佐村・西ヶ方で、ついで旧大方町・加持)で盛んに鍛刀したから、真吉の佩刀も行秀の作である。大石流の長い刀である。
行秀は気骨の人であったらしい。幕末期は江戸の砂村(江東区)の土佐藩別邸で藩工として作刀し銃も作った。維新後、大阪で没した。

左行秀の刀は土佐正宗の異名を持ち、真吉、
近藤長次郎の長刀をはじめ、山内容堂 (「土佐正宗」の名付け親)、
板垣退助、
吉田東洋、坂本権平(龍馬の兄)などが佩刀していたという。
左行秀(融通無碍/人物評伝)近藤長次郎(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
◆近藤長次郎

行秀が作刀した長刀を差し、拳銃を握っている。
近藤長次郎は龍馬とともに海援隊の前身である
亀山社中を設立。
亀山社中(融通無碍/関連話)元は高知・上町の饅頭屋の倅で、家業で働いていたが、その饅頭屋近くで鍛刀していた下戸で甘党(饅頭好き)の左行秀に見い出され、援助を受け江戸に行く。
後に、長崎で龍馬の結成した亀山社中の規則に触れたとして自裁する。
亀山社中(NHK動画)近藤長次郎(NHK動画)~~~~~~~~~~
明治維新後は名誉職の内国事務総裁に就いたが、旧幕期は家臣や領民だったような身分の者と馴染むことができず、明治2年に辞職した。しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては新政府の将来などについて語り合ったという。
木戸孝允(融通無碍/人物評伝)明治5年、病没。享年46。
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[融通無碍]
山内容堂考(幕末足軽物語/関連話)**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2021.04.01.23.59