日記:戊辰戦争従軍/樋口真吉(南寿吉著)

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◆明治元年
慶応4年(1868)戊辰の年、この慶応4年秋に改元され明治となる。
新日本の夜明け前だ。激動の年は明けた。
真吉、54歳。
明治元年(融通無碍/関連話)
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◆戊辰戦争(慶応4年/明治元年 ~ 明治2年)

王政復古(
大政奉還)を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧徳川幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。
大政奉還(融通無碍/関連話)意識を変えられない旧幕府高官、増長する新勢力。
関ヶ原から続いて来た旧構造が音をたたて崩壊している。
関ヶ原(融通無碍/関連話)戊辰戦争の名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、同政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなった。
明治の新政府(融通無碍/関連話)
明治新政府
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樋口真吉
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大政奉還で、将軍職を放棄し地方の一大名になったつもりの
徳川慶喜(旧幕府)、あくまでも倒幕を目論む薩摩・長州藩、その間で狼狽する朝廷、それぞれの思惑が絡んで鳥羽伏見で薩長軍と旧幕府軍(会津・桑名藩など)が戦闘状態になった。(鳥羽・伏見の戦い)
徳川慶喜(融通無碍/人物評伝)土佐藩(山内容堂)は「この戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘である」と日和見を決め込んでいたが、薩土盟約/薩土密約のもと在京の土佐藩兵(真吉も)が伏見方面の戦闘に参加してしまう。(伏見戦争)
◆伏見戦争始まる。

伏見に会津兵が布陣している。
鳥羽・伏見の戦い(NHK動画)・・・・・・・・・
慶応4年1月元旦
土佐藩の主力部隊=
迅衝隊を結成するため、
谷守部<千城>と下横目・唯三郎が本藩(土佐藩)に帰る。毛陽人(宿毛)・中村進一郎がかれらに従う。
迅衝隊(融通無碍/第56話)谷千城(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
2日
晩方、会津兵が大坂から伏見まで上り、京市中(いわゆる洛中)に投宿あるいは町奉行邸に集まるという情報がある。
対抗措置として薩摩藩・長州藩の兵が出る、土佐藩も(少ない手勢ながら)2、3の小隊を出動させる。
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3日
夕刻、伏見の兵が上げる火が天を焦がすように大きく見える。大小の銃砲声が大地を揺り動かす。
山内容堂公は皇居に参内、諸侯も追随する。御所内外<うちそと>は灯火に照らされ夜目にも明らか。山内容堂は三条殿邸へ入り次に御所に参内、さらに仁和寺宮邸に入る。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)真吉は山内容堂公の動きを見届けた後、斥候(状況把握のため)として御所から下僕・馬太郎を連れ伏見に直行する。
戦火は辺り一面に広がり、特に竹田街道周辺は砲弾の火が迸<ほとばしる>ようだ。
砲火の下をかい潜るようにして松下意興<小隊>の持ち場に着く。
松下は
「竹田街道方面では薩摩兵が勝ち、敵の台付き大砲を奪って戦利品とした。長州兵も激戦の真っ只中だ。土佐兵はまだ敵に接していない。現在、伏見の東で盛んに火勢が上がっている。その辺りに土佐兵も配置しているから必ず接戦になる」と言う。
その後、次第に砲声は途切れ勝ちになり、火炎も千切れ千切れになった。戦火は収まりつつある。
これまでの戦況を土佐本陣に戻って報告したのは日付けを越えた夜八ツ(26時)。
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[融通無碍]ウィキペディアより
山内容堂は在京の土佐藩兵に
「此度の戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘であると解するゆえ、何分の沙汰ある迄は、此度の戦闘に手出しすることを厳禁す」と伝令を通して告げた。しかし、伏見方面では土佐藩士・山田喜久馬、吉松速之助、山地元治、北村重頼、二川元助、松下意興らの諸隊は藩命を待たず、薩土密約に基づき戦闘に参加し、旧幕府軍に砲撃を加えた。(渋谷伝之助隊は迷った末、参戦せず)
これが効を奏し幕府軍は敗走。
土佐藩兵は勝利を挙げるが、北村重頼率いる砲兵隊は妙法院に呼び戻され、厳しく叱責を受け切腹を覚悟する中、錦の御旗が翻り、藩命違反の処分が留保される。
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慶応4年1月4日~5日
黎明の頃から鳥羽の方面に砲声がすさまじく、辺り一体に響きわたるのを聞く。いよいよこれからが決戦だ。
前将軍・徳川慶喜は予め決めた戦略どおり、会津・桑名藩の兵数千人を集結させ、淀城の軍勢を煽動する。朝廷に危害を加えようと邪悪な心で遂には大逆に及んだ。
真吉は土佐藩兵としての参陣、幕府直属軍と会津兵は交戦相手だからその立場上、相手側は非理の賊軍扱いされる。以後、この表現が続く。
この戦況を受け、朝廷は薩長と土佐に洛中の内外を巡回・偵察するよう命じた。
さらに命令を下す。その令に曰く
「慶喜は参内し、自ら恭順する(意思を表明)のが至当であるに、何故兵を擁して軍器を携えるのか。宜しく自軍を諭して引き上げるべきだ。そうでなければ、かれらは朝廷の敵である。国には決まった刑罰(法律)がありそれを執行して朝廷の権威を顕すことが肝要だ。」
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【薩長土3藩の結集始まる】
3藩は朝廷の命を受け、即座に西軍は続々と集合・結集するに至る。
発せられた命令の要点は
①伏見奉行の役宅を取り囲むこと
②鳥羽街道を上ること
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【薩摩兵の暴走、錦旗登場】
3藩の軍勢の熱気は洛中を呑み込む勢いで競い合って進む。
薩軍には、多くの諭しや制止が伝令されるも、これに従わず暴走を始める。
薩軍の攻撃で賊軍が応戦を始め、両軍から戦火が上がる。銃砲の音が天にこだまし、朝まで続く。
朝廷では仁和寺親王を征討将軍に任じ錦旗を授けた。

ただちに親王は東寺に赴き軍勢を陣頭指揮したから、兵は死力を尽くして戦う。
かくて賊軍の入洛は阻止された。
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[融通無碍]
日記は中途から突然漢文表記に変わったから、筆者往生するも、力を尽くして漢文の意訳に努めた。読者各位は読み辛く理解困難であろうが、筆する者とて同様だ。余りに意訳が過ぎると史実から乖離する。匙加減が難しい。
筆者の案内するのは、真吉56年の生涯を辿る旅だ。怪しい漢文通詞に遭遇したと思って許せ、とのみ云う。
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【真吉参陣】
天皇に味方する援軍が続々と押しかけたから、天兵(=倒幕軍)は益々奪い合うように競って進撃し賊軍は大敗した。橋を焼き、城を捨て退却する。
このとき真吉は八幡山下(京阪電鉄『八幡市駅』の近くか)を守備していたが、急遽、土佐藩・大仏邸に赴き、邸幹部に直訴して斥候となる。
野戦砲一門、兵7、8人とともに出撃した。

アームストロング砲と
スペンサー銃スペンサー銃のこと(融通無碍/関連話)兵と砲を引き連れ伏見まで来たところ、土佐兵は幕府側の高松藩の軍勢を打ち破った後であった。
敵は敗走するとき、砲車の撤退路をさえぎるように横たわる味方の戦死者を轢圧(踏みにじる)するように通過して行ったという。血も涙もない無慈悲で破廉恥な行状だ。

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実は今引用している日記の他に真吉は『
丁卯上京誌』という別本(引用している日記も「丁卯上京誌」も筆者は同じく樋口真吉だ。)を後世に残した。伏見戦争が勃発した前後を記録している。
丁卯上京誌(融通無碍/関連話)【以下、丁卯上京誌を引用する】
(この記録は1月4日と5日の分をまとめて書いている。)
未明、砲声が鳥羽の方角にすこぶる多い。昼九ツ前(12時前)になって仁和寺の宮様が勅命を奉じて、討征将軍に就任し錦旗を翻して下立売しもたちうり通り、油小路から南に下って東寺(=空海が開基した寺)に本陣を据えた(ただし5日のこと)。
まもなく砲声は途絶えたがまだ煙火は盛んに上がっている。大仏邸に行き、斥候の役を乞うて出る。野戦銃一門と手勢7、8人を連れて行くことの許しも求めた。許されたが、見届け役として小監察・淡中氏の同行が義務付けられた。
伏見から鳥羽の堤に向かう。そこには戦闘の末、土佐藩兵が高松藩の戦士を7、8人倒し、それらは遺骸となって路上にあったが、大敗を喫した賊軍の砲車は退却時に味方の骸上を乗り越え、押し潰しながら逃げたという。
鳥羽の土手に登ると薩摩の
吉井耕助に会った。聞くと
「今日の戦争、弊藩の戦死者は幸い少々であったが、長州は少ない戦力で難敵に当たったから死傷者が多い。賊はことごとく水西(伏見の西)に逃亡したから、ここには敵は一人もいない。うちの兵も疲れ切っている。ひとまず休息のため帰京するところだ。後の守備をお頼み申す」と言う。
耕助らを見送ったあと、土手を下りると勝利した天兵が続々と帰還して来る。真吉は安堵し、伏見を離れる。以後のことは自藩の砲隊長に託した。
吉井耕助(融通無碍/人物評伝)勝った大提督(朝廷側)の兵が東堤をこちら側に引き返して来たから、真吉らも砲車を引いて返す。伏見の町に入ると、毛利氏が馬に乗って来るのを見た。
市街は一面余燼がくすぶり、狼藉の跡も生々しい。
飯を食べてから砲車の管理を隊長に任せて、夜河原町の藩邸に帰る。
薩長は、日夜息つく間もなく戦って淀川を下って一気に淀城を攻め落とし、近傍の村落を焼き討ちにした。
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【会津藩が陣中に触れ出した書類】
○先般、建白これあり候ところ、あに図らんや松平修理大夫(=薩摩・島津久光)の家来共、幼帝を擁して公議を尽くさず。このため幼帝の出された勅が天下の乱階を醸し出し候(不調和)事件の数々は枚挙に暇もないほどだ。
ために別紙の二通を陛下の御許にお届けした(奏聞=陛下に側近が耳打ちする)。
○『大義』によって君側の悪臣を駆逐するわれらを助けるため速やかに駆け登って軍列に加わるべきだ。
《奏聞書》
慶喜、謹んで去年暮れの12月9日以来の事態を恐察致しますに、朝廷の御意思に基づかず、全ては松平修理大夫とその奸臣共の陰謀から出ていることは明々白である。
(薩摩藩は)殊に江戸、野州(下野<しもつけ>)、模州(相模)など処々において乱暴・強盗を働いており、修理大夫の家来が唱導し東西響合して皇国の混乱させる所業は、別紙の通り、天下万民の憎む所。前文の奸臣共を引渡すよう命令を頂きたい。万一採用されないときには、撲滅あるのみ。この段謹んで奏聞奉り候。
≪薩藩奸党の者ども罪状の事≫
皇国の一大事につき衆議を尽すと仰せ出だされましたが、去る月(=12月)9日、突然『非常の御変革』を口実にして幼帝を騙して諸藩(=薩長)が身勝手な私論を主張したこと
陛下がまだ幼少期にあるに、先の帝(=孝明天皇)が御委託なされた摂政殿下を廃し、幼帝が相談しようにも摂政殿下の参内を禁じたこと
私意を以って御所の幹部(陛下の御相談に預かる)公卿を差し替えしたこと
御所に通じる九門その他の警備という名目で、他藩の者を扇動して兵力と武器を以って逆に宮城に迫ることは、朝廷を憚らぬ『大不敬』にあたる
家来共が浮浪の徒を屋敷内に住まわせ江戸中で押込み強盗を働いているし酒井候(庄内藩主で江戸市中の取締りを担当)の手勢が鎮圧しようとすると逆に猛反撃を試みた結果、江戸の薩摩藩邸が焼亡したこと、さらに野州、相州などでの焼討・強盗の所業は証拠・証人もあり(犯人は)分明であること
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この他、賊軍・会津は土佐藩兵に依頼して嘆願書を差し出したりした(弁明を試みる)が、砲戦となり、挙げ句慶喜は大坂城を抜け出し諸賊(会津侯など)を従え伏見戦争と同様に逆謀を企てたが敗走して堺から乗船して江戸に逃げ帰る。
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6日

将軍・徳川慶喜が会津・
松平容保を道連れに海路江戸に遁走した。満天下に赤恥を曝した。
松平容保(融通無碍/人物評伝)薩長の兵は敵と淀川で交戦したが、賊は悉く敗走し手勢を失った徳川慶喜は怖気づき、終に大坂を棄て、船で海上を走り江戸に奔はしる。
江戸より報あり『去る月(=12月)23/24日、酒井左ヱ門尉(=庄内藩主)と薩藩が交戦し薩摩邸が焼亡、江戸城二之丸もまた焼亡』とのこと。
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[融通無碍]ウィキペディアより
大坂城にいた徳川慶喜は、緒戦での敗退の報とともに、薩長軍が錦の御旗を掲げた事を知った。これにより「徳川家と薩摩藩の私戦」という慶喜が描いていた構図は崩れた。
開戦に積極的でなかったといわれる徳川慶喜は自身が朝敵とされる事を恐れ、表では旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、裏ではその夜僅かな側近と老中・板倉勝静、老中・酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。
総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。
際して会津藩軍事総督の
神保修理は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして徳川慶喜と松平容保に恭順策を進言したとされ、これが徳川慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。
だが神保修理にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。
陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。
神保修理(融通無碍/人物評伝)========
[融通無碍]①
ことここに至って山内容堂の堪忍袋が破裂した。

愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
「徳川への義理立てはこれまでだ。クソクラエだ」
「新政権の樹立に向けて敵対する勢力を全力で駆逐する。慶喜も容保も葬り去れ」
「行け進軍だ」
余りに急な変心に側近中は全くの青天の霹靂、右往左往するばかり、側近としての仕事は放棄された状態に陥る。沈着な者が諌めに掛かる。
寺村左膳は側近中の側近だ。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝)「ご隠居様、どうぞ落ち着いて。動くには準備が必要。時間が掛かります」
「何を悠長なことをぬかす、焦眉の急とはこのこと。何を昼行灯のようなことをほざく」
「藩は大きな船。急に舵を切っても、直ぐに船体が対応できぬもの。櫓舟ならともかく蒸気船はそうは行きませぬ」
「船将はワシじゃ、つべこべぬかさずさっさと対応せよ」
「戦には戦費が必須。その準備から始めねばなりませぬ」
戦費調達(融通無碍/関連話)「何ぃ、金が要る? アホぬかせ。古来、戦は兵糧があれば出来るとしたもんじゃ。米さえ確保できれば後は何とでもなる」
あまりの無知、極楽トンボに側近たちは互いに顔を見合わす。
かくして舵は切られた。

土佐藩でも「土佐通宝」という地方貨を幕末に発行した。
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[融通無碍]②
が、お側役の寺田左膳はどういうものか容堂の変心・変節を知らなかった。
かれの仕事は
「倒幕を主張する過激な勤王党の連中を、殿のお側から遠ざけること」が主務だった。
押し掛けるかれらを身を挺して押し留める。愚直な人だった。
容堂の変心を既に知っていただろうかれらは激高する。
遂には、左膳の処分を要求する。
左膳は本藩に送還され、挙げ句土佐の東端野根に蟄居させられた。明治になって日野春草と名を改め、団体(華族会館、日本鉄道会社)の幹部として余生を送った。
もし、かれが記録を残せば『幕末維新の裏面史・容堂の真の姿』とでも言うべき傑作ができたであろうに。
かれは黙して語らず、あるいは語る機会が与えられなかったようだ。ついに墓まで持って行った。
「本当のこと、言うものは知らず、知る者は言わず」としみじみ思う。
やるせない
中年武士の悲哀を感じる。
中年武士の姿(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
慶応4年1月7日
朝廷において徳川慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。
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9日
新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。
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10日
土佐に錦旗が授与された
征討仰せ付けられ候に付き、御紋御旗(錦の御旗)二流下賜候事 正月
高松 松山 大垣 姫路
右四藩、従来天朝を軽蔑し奉る義、少なからず候処、剰あまつさえこのたび慶喜反逆に与力し、官軍に敵し候段大逆無道、これに依って征伐の師(軍勢)差し向けられ候事 正月十日
土佐に錦旗が授与された(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
13日
真吉は錦旗を守護して本藩に帰る予定で動き始める。
一行は大監察・
本山只一郎、徒監察・樋口真吉など12名。
本山只一郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
14日
勅命により錦旗を掲げて、四藩(高松、松山、大垣、姫路)に征伐の師(軍勢)を差し向ける。
午後出発し同夜九つ過(24時過ぎ)神戸に着、過日ここを備前侯一行が通行の際、夷人<いじん>(外国人)が不敬(無礼)を働き、備前藩兵が怒って斬り捨てたから、通行門が閉ざされ不通(通行止め状態)で夷人館の西側にある細道を通ることにした。
錦旗を守り抜いた/錦旗強奪騒動(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
15日
兵庫の西川富三郎方に着。
きのう、東久世卿が『外国掛』となって当港にお着きになったとのこと。
本山只一郎氏の下僕が午前中に帰り、清蔵も未刻(14時頃)に、これで必要人員は全員そろった。
錦旗強奪騒動で散逸した品がある、その事後処理のため伴氏が詰めている。
東久世卿に加え、『外国掛<かかり>』として長州・伊藤俊助(のちの博文)、薩摩・岩下左次衛門、同じく寺島陶蔵(のちの宗則)が就任する。
・・・・・・・・・
16日
午後出発して同夜九つ前(24時前)加古川に着く。姫路に異変ありと聞いて宿す
・・・・・・・・・
17日

朝七ツ時(4時頃)発途。姫路城から一里(4km)程離れた地点で砲声が響くのを聞きその原因を探りながら慎重に進む。
姫路城下は上へ下への大騒ぎで生活雑貨を乗せて城から逃げ出る者もいる。
隣の備前藩・家老の毛利図書の手の者が城を占領しようとしている。皆甲冑を着込み、武器は火縄銃。姫路城の東西城門は守備兵が固めている。
(何とも時代錯誤な、古風な軍ぶりなことよ)
これを傍目に見ながら先を急いで黄昏、室津に着す。
薩・高島左京も来て、同夜四ツ頃(22時頃)、四国に向けて出船する。
・・・・・・・・・
18日
午時丸亀に達す。
深尾丹波(土佐藩:佐川領主で一万石)が本藩から兵隊を約1500人引き連れ川ノ江に宿陣していると聞き、行軍を急がせるためそこに赴く。和田浜まで行ったときこの兵隊たちが来た。
迅衝隊である。
迅衝隊(融通無碍/第56話)・・・・・・・・・
19日
総勢、丸亀に着陣し高松征討隊がそろった。
使節を立て丸亀城主に交渉すると、相手側は降参を即座に同意し
①応援兵を4小隊
②大砲を3門提供することを申し出、
且、丸亀兵が調練不足で弱兵であるからその指揮を真吉に委嘱し、小舟30隻も差し出した。

丸亀城
・・・・・・・・・
20日
早朝、総勢で進発したが干潮で干潟が出来たが、ここは泥が粘り付くから思うように進めない。しかたなく真吉らは陸行した。
高松藩との境に来た。
藩の家臣はいずれも麻裃<あさかみしも>を着用し刀無しの(無条件降伏)姿でズラーと道端に頭を地面に擦りつけるように平伏している。みなみな嘆願書を懐中にして愁訴も受け取ることなく進む。民家は戸を閉ざし、真吉らが歩む道にはチリひとつない。
途中の寺で軍糧を使い(食事する)、城下に入る。
城下のとある寺で小休を取ったあと黄昏、高松城に乗り込む。
すでに藩主・松平頼総は城を抜けて一寺に入り謹慎している。家老が嘆願書を持ち出す。筆頭家老は割して謝罪していた。
錦旗を城中に立てた。警備に必要な人員のみ残して、ほかは城を出て高松藩の準備した米澤屋に泊す。

高松城
・・・・・・・・・
21日
城を受け取り、今まで建てていた制札を降ろし、新規のものに換える。
その真新しい制札には
『諸民は安心してこれまでの職業に戻るように』等と人心の混乱を避ける諸項目が列記されている。
この日七ツ過(17時頃)本山氏に後事を託し、真吉らは高松を発するが高松藩は馬を準備していたから皆これに乗って走る。村役人が道を灯りで照らし見送る。九ツ過ぎ(25時頃)丸亀に着。
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【高松に建てた制札(現在の『公報』のごときもの)】
高松は当分土州の預かり地とする。
このたび王命を以って朝敵追討のため当地へ兵隊を差し向けたところ、悔悟服罪の態度が確かであれば、当方は残忍な処置をするつもりはない。だから人民は安堵してそれぞれ元の産業(生業<なりわい>)を営むようにしなさい。慶応4年正月20日 土州大監察
さらに高松藩の応接家老・白井石見、周旋人・青木覚之助、他に前家老に対し左の通り申し聞かせた。
旧来の制札は取り除くこと。
領民は早々に元通りの産業に就くこと。
今般、旧来の政治を刷新し新政府が発足するが、当地はわれらが取り調べて結果を朝廷に報告する。追って朝廷からの指示があるまで、諸事は旧来通りと心得て、対処せよ。正月21日
・・・・・・・・・
22日
中村桂太郎が本藩から来る。小南と乾の両氏は明日乗船して上京の予定。
真吉は今まで既に徒士目付と貨殖掛を兼帯していたが高松城中で、輜重の役を兼帯するよう命ぜられる。
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[融通無碍]
真吉の役職は「
徒士目付<側近用務>」兼「
貨殖掛<財務>」兼「
輜重役<後方支援/武器弾薬食糧調達用務>」となったわけだ。
輜重役(融通無碍/関連話)貨殖掛(融通無碍/関連話)徒士目付は、身
辺警護も含む山内容堂の側近としての任務だ。

・・・・・・・・・
23日
『書付』を多聞院経由で金光院に渡す。
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【書付の内容】
朝敵・松平頼総を追討のうえ、その領国全てを当分土州預かりとするよう命ぜられた。従って今後は万事土州代官に申し出て措置を決めること。租税徴収・禁止事項は従前と同じと心得てよろしい。
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これらのことを領内の諸庄屋を呼び付けて「書付」を渡し、言い渡す。
高松藩領地のうち、元来は2700石(約270ha)は倉敷藩の預かり地であったが近年、高松預かりになったものだ。また金比羅の支配地は300石(約30ha)だ。
金比羅を発す。川ノ江藩(伊予の国=愛媛県)でも高松藩同様当分の間、土佐藩の預かり地となる旨の高札を建て、さらに関係筋には
①総人口
②田畑などの総土地面積
③従来からの租税収入額
を早急に取り調べの上、高松駐留の土佐代官役所に報告するよう指示した。
土佐藩の家老のうちの一人、桐間将監<しょうげん>氏が二つの小隊を率いて高松に向かった。高松代官となるためである。
この村で谷守部と岩崎伊三に逢って、今日新たに到着した2小隊を連れて誰が松山藩に行くかを相談する。
明日にはさらに五小隊が到着する予定。松山藩の重臣が嘆願書を持って来る。松山では火薬を地中に埋めている模様。
夜九ツ(24時)頃、川ノ江を発し、関所に着くころ夜が明けた。
・・・・・・・・・
24日
大町、小松、来見<くるみ>を経て中山に入るころ日が暮れた。それでも進行を止めず四里(16km)進軍して川上に着く。町役人・町野勘解由が来て、松山藩への取次を申し出る。
・・・・・・・・・
25日

道後温泉
夜明けに出発して二里(8km)、久米の駅に着き、やがて道後に着いた。
金子妙院(僧侶)が来て言うには
『小笠原氏が松山に使節として来る』
そこで五郎二郎を小笠原氏への連絡にやる。本山氏も松山へ行く。松山への使者は
小笠原只八と金子平十郎。
小笠原只八(融通無碍/人物評伝)松山藩内は物議騒然という。
宿毛の岩村が訪ねて来た。かれの主君である藩家老が松山との交渉役を命じられ松山藩の内情調べに来たのだ。用居口(仁淀川を遡って最上流域にある境番所、佐川町に最も近い)から押し来る兵隊の先鋒は佐川・深尾刑部が当たり、その総督は深尾左馬助、隊長は高屋左平である。
・・・・・・・・・
26日
大之進は久万の町へ、守丞は麻生へそれぞれ使いする。
・・・・・・・・・
27日
真吉らは錦旗を守って大洲領の麻生(愛媛県砥部町麻生)に至る。庄屋・川田浅五郎、大洲役方・豊川覚十郎、兵頭源兵衛、郡代・大橋采女と会う。
ここで御旗を建てるための棹を造る。本陣を南隣の寺に置くことに決す。
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【松山藩から提出された請書】
今般、御使者から仰せ聞かされた趣、謹んで承りました。私義このうえ如何なる体を仰せ付けらる共、聊かも朝命に違背し、王師に敵対仕る心底はなく、この段厚くお含み下さり、朝廷に向けて宜しく御取り成し下されたく、伏して懇祈奉ります。以上(松山藩主)松平定昭

松山城
・・・・・・・・・
28日
雨止む。昨晩土佐藩海軍の二小隊が三津浜港に着いて、直ちに松山に来る。
今日は長州兵が同じく港に着く。
(一日違いで悲劇は避けられた。もし長州勢が先に到着していたら、松山藩に長州征伐で受けた恨みを晴らすため長州軍は報復作戦を展開し、松山藩は大打撃を蒙った可能性があった。)
長州勢は着くや否や、港に繋留されていた松山藩の蒸気船を捕獲、海辺を占領し取り締まっている。土佐藩の2人の大監察が長州勢と談判するため三津浜に行き、制札を改めて掲げた。
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【制札の概略】
虚に乗じ、盗みを働く者は斬り捨てる。
公事・訴訟があれば土佐藩の担当官に申し出ずべし
当領一円は当分土州の預かりである(長州の干渉は許さず)
・・・・・・・・・
29日
原平四郎が御使者として上京する。真吉も、にわかに上京を命ぜられ夕顔丸に原とともに乗船する。このため2人は三津浜までの二里を夜行する。
夕顔丸の船将は由井桂三郎、諸差配は千屋八右衛門。

夕顔丸
・・・・・・・・・
慶応4年2月1日
夜来雨降り続く。早朝に抜錨して黄昏、下津井洋<なだ>(岡山県倉敷市児島地区)に停泊する。
・・・・・・・・・
3日
七ツ頃(16時頃)兵庫に着。夜九ツ頃(24時頃)兵庫発。
原氏と足軽・大之進が一緒に出発する。さきに高松に行く都合あって官僕をここに残し便船があればそれを利用して土佐に帰す予定であった。しかしそれもなかったから足軽の大之進はこの港で所在なげに滞留していたが真吉らの船が上京するから便乗した。大之進は土佐への帰国を望んでいたであろうに気の毒だ。
神戸の夷人館は薩長の兵で警護されている。西宮・備前への警戒のためである。
・・・・・・・・・
4日
京都守護職の副邸に着く。
真吉が緊急上京したのは、「松山藩の措置」を迅速に決定しないと不測の事態が起りかねない状況で、現況を長官に報告・相談するためであった。
小南五郎右衛門氏に逢い、詳細を説明すると、直ちに執政・山内隼人殿にも報告すべきだと指示され、即刻隼人殿に逢う。
この日、早追いで大石弥太郎が高松から上京した。高松にも問題発生か。
小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
5日
雨。真吉は松山追討の経緯・概要について
報告書を求められ、それを作成して提出する。
~~~~~~~~
【報告書の概要】
一、正月27日に総督・深尾左馬之助が先鋒となり、深尾刑部が錦旗を押し立てて追討が朝廷公許であることを誇示しながら総勢を引き連れ松山城を包囲し発砲攻撃するも、城内から応射・反撃はなく、沈黙したままだった。
然るに、砲撃に先立つ前日土佐藩の使節・金子平十郎と同小笠原只八が松山藩主・松平定昭の罪状を明らかにしてその責任を追及したところ、悔悟服罪するからにはどのような罰を受けようとも不服はない、決して朝命に違背しない、王師に敵対する意思など毛頭ない。家来も全く同じで異論はない旨を明言し、陳謝・懇望を申し出ていた。
一、同日先鋒・深尾氏は砲撃後、直ちに松山城本丸に乗り込み、総兵も三の丸に繰り込んだ。この夜、海路三津浜に着港した(土佐藩)海軍兵も合流して城に入ったこと
翌28日、城郭を残らず撤収したあと、建札して『松山藩の領分を当分土州預かりとする』旨を周知徹底したこと
藩主・松平定昭父子はすでに25日夜の時点で城を抜け、城下・浄信寺で謹慎していたから番兵を付け置いたこと
28日に長州海軍が三津浜港に着岸し松山藩所有の蒸気船一隻と大砲・砲台を押収・占拠したこと
29日には他藩領との境界を現地確認したこと
~~~~~~~~
この報告書は大監察に提出され、大監察は報告書に全く手を加えずそのままの内容が朝廷に奏功された。
同日大監察・上野耕作と
佐井寅二郎、
池知退蔵、大石俐左衛門が今後東征に必要な資金を早急に送るよう要請するため本藩に向けて出発する。
佐井寅二郎(融通無碍/人物評伝)池知退蔵(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【欄外に記された事項(=朝廷から発せられた勅命か)】
土佐少将
この度、御親征仰せ出され候に付き、藩の所有する軍艦一艘を御用に差し出すこと。諸事は総督の指揮を受けて勉励致すべきと沙汰があった(から従うように)。2月6日
土佐少将
この度、御親征仰せ出され候戦に東山道先鋒に任じられたので国力相当の人数(兵員)を差し出し、諸事は総督の指揮を受けて勉励するよう沙汰があった。2月6日
但し、2月15日までに桑名に総員が揃うようにと仰せ付けられ候
大総督・有栖川宮
東海道方面 橋本 柳原 島津
東山道方面 岩倉大夫 岩倉八千摩(麿)呂 薩長 土因(土佐と因幡<いなば>) 大垣 市橋 彦根 高須
北陸道方面 五条(四条?の誤りか)大夫
(以上欄外記入終わり)
*******************
◆東征軍の土佐勢(迅衝隊)は東山道を進む

・・・・・・・・・
慶応4年2月11日
東征軍に動員する藩兵を全員集合させ、装備など点検する。
当初行軍経路は東海道の予定であったが朝廷の意向で東山道に繰り替えになる。
整列した将兵を前に山内容堂が短く訓示する。
曰く
「
天猶寒し、自愛せよ」
天猶寒し自愛せよ(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
14日
雨天であるが予定通り京師を発す。
総兵員合わせて千1100余人(割り当て人数より若干少ない)宿継ぎ人足は300余人。三条橋を渡って行軍を続け、草津に陣する。
総督・
板垣退助(=乾退助、京師出発の時点で改姓したか)
輜重長(=輜重奉行)・
早碕兵吾《
真吉は輜重隊の裁判役<奉行補佐>、輜重長の早碕兵吾は後に敵前逃亡の罪で本藩送りの処分を受ける。》
板垣退助(融通無碍/人物評伝)真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/関連話)輜重奉行(早碕兵吾)(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~
◆東征軍の土佐勢(迅衝隊)の軍令
今度関東へ出陣(東征)を命ぜられ、軍令も申し聞かせたが、下々に至っては一時の勢いに乗じて、押し買い(不当な廉価を以って無理矢理商品を買い取ること)又は奪取の行為を為す者が出ることも予測しがたいが、もし万一心得違いをして逮捕されるとその者は厳科に処す。
迅衝隊/東征軍の軍令(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
15日~17日
守山で休み、武佐・鳥井・関ヶ原に宿陣する。行軍距離15里半六丁(63km)
関ヶ原(融通無碍/関連話)将兵の宿割りで問題が生じ、予約した部屋数では不足するため駕籠を走らせてやっと確保した。
輜重の任務は多岐に亘るから気苦労も多い。
・・・・・・・・・
18日
雨。垂井、大垣で宿。
迅衝隊・裁判役の村松彦蔵が大坂からやって来た。言うには
ーーーーーーーーーーー
【岩倉総督からの通達】
土州藩江
近江国にある徳川旗本の知行地と会津藩の旧領について土佐藩に取締りを命ずるのでこれに関係する士民を王化させるよう精々努めること。もし大事件が生じたらわたし(総督)の指揮を受け、対策を施行せよ 戊辰2月
別紙の通り仰せ出だされ候間、御達し申し入れ候 2月 総督府執事
ーーーーーーーーーーー
【堺事件の一報が入る】
『去る14日、大坂・堺においてフランス人が乱暴を働き、土佐藩兵が駆けつけて斬って追い払うと連中は狼狽し艀<はしけ>に乗って逃げたそうだ』。
堺事件(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
19日
大垣に滞留する。
大垣城主が土佐藩兵(官軍)に恭順の意を表し、酒肴を持って来た。

大垣城
・・・・・・・・・
20日
軍議を行なうため大垣に滞在する。
隊の上層部では、当然打ち合せ<軍議>があり、協議事項もあったと予想できるが真吉には参加資格がなかったか。参加したのに協議結果を故意に削ったか、日記には軍議についての記述はない。
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[融通無碍]
板垣退助は甲州攻めにあたり、みずからが甲斐武田家臣の由緒ある武将・板垣信方の子孫であることを示すため改名した。
退助は、土佐藩(迅衝隊)、因幡藩の兵を率いて甲府に入りする前に、徳川慶喜追討の詔勅と板垣信方の子孫であることを示し、甲府城代(徳川幕臣)・佐藤信崇(駿河守)に城明け渡し(開城)を迫った。
信崇は、勅命を畏み板垣の勧告に従い、甲府を開城。
退助は、間髪いれず、甲府領内の由緒ある武田浪人(旧武田家臣の子孫である浪士)や兼武神主(武装した神主)らに官軍への協力を呼びかける布告を行った。
その後、板垣らの部隊は甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊を撃破。これによって、板垣の名声は甲斐国中に知れ渡り、板垣の布告は、武田信玄を敬慕し甲府領内で徳川の圧政を快く思っていなかった甲斐の人心に広く浸透し、これらに呼応して続々と官軍への協力を志願する者が名乗り出た。
官軍への協力を志願する処士を集め、岩窪村の武田信玄廟所前で新部隊の結成式(「報国岩窪の盟約」)を行った。(後日、土佐藩の遊撃部隊として「
断金隊」と命名された。)
断金隊のこと(融通無碍/関連話)板垣退助と甲府の断金隊(融通無碍/関連話)その後、断金隊は会津戦争で土佐藩の遊撃隊として活躍、大捷を成し遂げ江戸に凱旋、明治2年3月3日に解役した。隊士は各々故郷に帰り功級を賜った。
・・・・・・・・・
21日
大垣を発し、美江寺(岐阜県瑞穂市美江寺)を経て河渡<ごうど>(岐阜県岐阜市河渡)に宿陣する。
岩倉総督は美江寺に御陣を構える。
======
[融通無碍]
この日、軍議の決定事項が周知されたと見える。
決定時は蚊帳の外だった真吉は、翌日に決定事項を日記に書いた。
ーーーーーー
一、巡邏の節、急変があれば土(佐)・因(幡)ともに本陣に申告すべし。但し本陣が分かり難い場合は因州と土州の宿に『本陣』札を立てておくこと
一、宿々で諸侯の宿泊箇所が入り組む場合は整然と左右に分割して宿配りすること。
一、原則として因州が左、土州は右とする。急変の場合もこの原則を守る
一、宿に着いたとき各隊長は各々その地形を頭に入れ、急変の際には直ちに防御のため本陣を背負って隊列を組み、要害の地(防御の容易な箇所)へ移動すること
一、因土両藩の合言葉(同士討ちを避けるため)を、今のところ『花<はな>・鳥<とり>』と決めた。
・・・・・・・・・
22日
土佐藩兵は鵜沼(岐阜県各務原市鵜沼)に宿陣する。夕刻から雨。
総督府が『
錦の袖印』を従軍者一統に配る。

======
[融通無碍]
◆錦の袖印
官軍側の兵士が、判別のために肩に付けたもの。官軍として討幕軍に加わる諸軍に対しては「錦旗」及び「錦布」を下賜し、これをもって正標に代えるよう布達された。錦布<きんきれ>と、「奥羽鎮撫総督」の印が押された白布があった。

・・・・・・・・・
23日
太田へ二里、木曽川を渡って伏見まで同じく二里。伏見に宿す。
因州の使者・伊田惣右ヱ門が来る。用件は先鋒総督府から『因土が合同で一小隊を結成しこれを斥候として本隊よりも一宿分先行させよ』と受命したからで、その打ち合せのためであった。
・・・・・・・・・
24日~29日
【宿陣地】
中津川(岐阜県中津川市)
妻籠(長野県南木曽町大妻籠)
須原(同県大桑村須原)
宮越(長野県木曽町日義宮ノ越)
贄<にえ>川(長野県塩尻市贄川)
厳しいことで有名な
福島の関所があった。だが、幕府の崩壊で警備も緩やかだ。何とも虚しく思える雨が降り落ちる。鳥井坂には雪が残っていた。

福島の関所
・・・・・・・・・
30日
桔梗原、眼前に広がる原野は西が高く東に流れている。塩尻に宿。
総督府からの通達などがある。
総督府からの通達=========
◆甲州勝沼の戦い(慶応4年3月)

錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』
甲州勝沼の戦い(融通無碍/関連話)勝沼古戦場(NHK動画)・・・・・・・・・
3月朔日
諏訪湖を越す。まだ氷の世界で雪氷が道を閉ざしている。兵隊の歩行は難しく、滑って転べば足裏が天を拝むことになる。
諏訪湖の水は眼下に横たわり、南のかたには富士山が突出する。最高の景色だ。

葛飾北斎の信州諏訪湖(富嶽三十六景)
兵隊は上諏訪に、中軍は下諏訪に陣どる。
さきに総督府から軍資金を交付されることに決定していたが、今日現金2千両を受領、真吉は中軍に納め、今夜はその駐留地に泊った。
・・・・・・・・・
2日
幹部連中で構成される中軍に滞在するうち、薩摩からの使者・平田九十郎と有馬藤太に会う。
京都からの報せが入る。
総督府からの通達(融通無碍/史料)・・・・・・・・・
3日
雨、蔦木<つたき>(長野県富士見町蔦木)に宿陣、行程6里ほど。
昨日、迅衝隊一番司令・日比虎作と隊員が当駅に来た。
夜半過ぎには、幕府の甲府代官・中山誠一郎の手代・川上半三郎と山口番人、それに地元の庄屋たちが来て『甲府への進軍を延期してくだされ』と陳情したと聞く。
・・・・・・・・・
4日
甲州の山口関門(山梨県北杜市白州町上教来石:甲州分から信州口を警備する国境の関所)があったが抵抗なく通過する。
円井<つぶらい>(山梨県韮崎市円野町)、韮崎を通過する。
雪は深く、溶けると泥となって行軍は難渋する。教石、石台ケ原、牧原まで泥路が続いた。行軍中は右に駒ケ岳がそびえ、左側は奇岩と洞窟の多い山々があった。川に沿って路を下る。梅の花が多い。

駒ヶ岳
・・・・・・・・・
5日
早発する。甲州入口には川があった。
幕府代官のいる甲府城を受け取り、城下の一蓮寺(山梨県甲府市太田町:時宗系寺院で山号は稲久山。一条道場とも呼ばれる)で休憩する。
夜半、東方に火の手が上がり段々とこちらに近づいて来る。賊徒らしい。
真吉らは野寺の市店に宿陣していたがここでは防御が難しいと判断し、接収した甲府城に拠ることにし、移動した。その移動が終わる頃、夜が明けた。

甲府城
・・・・・・・・・
6日
賊徒を撲滅するため、先手・
小笠原謙吉(迅衝隊三番小隊司令)、谷神兵衛(=
谷重喜/同四番小隊司令)と砲隊が東方へ押し出す。
小笠原謙吉(融通無碍/人物評伝)谷重喜(融通無碍/人物評伝)賊徒を勝沼(山梨県甲州市勝沼町)まで追い詰めたが賊徒らは鳥居の許もとに身を潜め、鳥居を楯に発砲反撃してくる。その抵抗は激しく、民家を焼き払い、橋を落とし、街路樹を路側に切り倒して我が進路を妨害する。周辺の松樹を集めて短く切って「逆茂木<さかもぎ>」とし、大砲を据える敷地を構築している。

逆茂木
大善寺付近で近藤勇・甲陽鎮撫隊が板垣退助の東征軍に駆逐され敗走した。
この日記が記された頁の欄外に『巨魁・
近藤勇 変名・大久保剛』とある。
近藤勇(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
◆近藤勇

京都で治安維持のため志士たちを多数斬殺(池田屋騒動)した、あの
新撰組局長である。
池田屋騒動(融通無碍/関連話)この勝沼の戦いでは辛うじて戦線を離脱して再起を期したが、流山の戦いで官軍の本部に出頭して偽名(=大久保大和)を名乗るも顔見知りがいて正体が知れ、捕らわれて板橋で斬首された。
新撰組(融通無碍/関連話)真吉はこのことを知り、『逃げたあの群れの中に近藤がいたとは』と後日に加筆した。
・・・・・・・・・
7日
晴れ。真吉は尾川新助ととも早発して勝沼におもむく。新助の倅・弼太郎が戦闘で負傷し、その出迎えのためだ。新助は途中で護送されて来た息子に出会い付き添って甲府の野戦病院に行った。
途中、谷守部(=谷千城)に逢うと『賊徒が各所に潜伏している』という。
四里歩いて勝沼に着きここに泊す。ここにも昨夜まで賊徒がいたという。甲府から見えたかがり火は、賊徒の燃やしていた松明<たいまつ>であった。
・・・・・・・・・
9日
晴れ。真吉も引き返して石和<いさわ>(山梨県笛吹市石和)に来たとき味方・因州勢がこちらに向かっているとの情報があり、それならと引き返すのをやめ再度勝沼に転じ途中の黒田で宿す。真吉の引き連れている
輜重兵団も同様だ。
======
[融通無碍]
真吉の引率する輜重兵団(=輜重隊)
は軍需物品の調達・輸送が主務であるから戦闘能力は正規軍より劣る。
しかし、戦況を予測して適期に適品を過不足なく適地に送るは至難である。余程の洞察力と経験と胆力が求められる。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/関連話)輜重奉行が敵前逃亡(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
10日
上野原(山梨県上野原)に宿陣する。
・・・・・・・・・
11日
関野、吉野、与瀬、小原、小仏峠を過ぎる。
小仏峠は賊の支配下にあるという説があったから警戒して進むも、人っ子一人おらず寂寥な気分で通過する。
高遠の内藤若狭守家来・小松多仲と高島の諏訪因幡守家来・藤森武右ヱ門の両名が贈り物を寄越し、尚且つ人足の調達を斡旋してくれた。
高遠藩(=内藤氏)と高島藩(=諏訪氏)は官軍に歯向かうことを選ばず、友好的な対応をした。
・・・・・・・・・
12日
八王子(東京都八王子市)に陣す。
日野に散在していた旧幕人と近藤勇らは勝浦で惨敗して逃亡、クモの子を散らすように逃げ、皆目行方不明である。
・・・・・・・・・
13日
府中に陣す。
大雨が降って終いには雷鳴まであったが、その後一転、見事な快晴となった。
======
[融通無碍]
この日、慶応4年3月14日は新暦に直すと4月4日だ。寒気は緩んだろうが、南国育ちの土佐兵たちにはまだまだ耐えがたい寒さだろう。
陣中苦を思う。空が晴れたら強風が吹くことが多い。
「
天猶寒し、自愛せよ」を贈りたい。
天猶寒し自愛せよ(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
14日
高井戸(東京都杉並区高井戸)に憩い、四谷の内藤邸に宿陣、行程6里ほど。
・・・・・・・・・・
15日
輜重奉行・早崎兵吾氏と江戸に出る。
土佐藩上屋敷(築邸)にて五味君(容堂の実弟)に謁見する。
かれは政情について巨細に尋ね、今日は土佐藩下屋敷(砂村邸)にお移りになる。
砂村邸(江東区北砂1丁目)は土佐藩下屋敷。藩お抱えの刀鍛冶・
左行秀が刀と銃を鍛えたこと、
ジョン万二郎が滞在したこと、でも知られる。
左行秀(融通無碍/人物評伝)真吉とジョン万二郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
下屋敷に移ったのは、上屋敷が旧幕府に返されたから。
何故、上屋敷が旧幕府に戻されたのか、その事情を真吉は理解に苦しんだろう。朝幕間の交渉で決まったことにせよ納得できない気分だったかも。
・・・・・・・・・・
16日
田中金助と池知退蔵、結城七郎らが甲府からの公金(=軍資金)を護送するために総勢16人でやって来た。かれらはそのまま下屋敷に留まる。
◆田中ら公金護送隊から聞いた情報
【堺事件のその後】
さきに大坂・堺の海辺でフランス兵士を征伐した土佐藩兵のうち、隊長を始め軽率(身分の軽い兵士)20余人が切腹を命ぜられた。切腹にフランスが立ち会うも(余りに残忍な光景に衝撃を受け)11人が切腹したところで、中止を要請したから、残る人数は助命された。
======
[融通無碍]
しかし、その後土佐藩主がついに仏船に移乗し御応接(謝罪・陳謝だろう)に及んだという。実に切歯泣血の極みで臣下の者にあってこれ以上の屈辱があろうことか。
堺事件と幡多(融通無碍/関連話)
堺事件・・・・・・・・・
18日
総勢が尾張藩の市谷邸(新宿区市谷:現在防衛省庁舎が建つ)に移る。
江戸市中は半分以上が戸を閉めて中身の家財は市外に送り出されていた。どこもここも騒然としている。官軍の侵攻を恐れているかのようだ。
江戸城は謹慎と公称するが、その実歩兵が城壁に登り警戒し、砲門を築き周りを巡回するなど、到底まったくの謹慎の姿には見えない。
これまでの進軍で東山道は概ね平穏だったから江戸にも期待したが江戸はまるで臨戦態勢にあった。
真吉は兜の緒を締め直す気分になっただろう。
東海道を進む官軍本隊と旧幕の主力が激突すれば江戸は焦土となる。回避する法はあるか。
・・・・・・・・・
22日
小笠原唯八が京師から来る。
【探索担当者からの情報】
会津と旧幕の勢力が280人ばかり利根川の市川八幡、船橋辺りに集結して「官軍歩兵どもの目に余る乱暴・狼藉を鎮撫する」と唱えている。
・・・・・・・・・
26日
麻布侯・薫君が市谷邸に来訪する。
麻布にあった土佐支藩の麻布家当主である山内薫は山内摂津守豊福の養子である。摂津守豊福<とよよし>は徳川家と土佐・山内本家の板挟みとなり、夫人とともに自刃した。
======
[融通無碍]
その前後の事情を述べる。
鳥羽伏見の戦いに惨敗して慶喜は江戸城に逃げ帰るが江戸城内で開かれた会議では主戦派がリードし豊福は雰囲気に呑まれ、抗戦に同意する。帰邸すると容堂から「土佐藩は倒幕に方向転換した」と通告する手紙が届いていた。
こうして1月12日夜、当主(豊福)自刃という悲劇を迎えた。
麻布藩邸はこれを秘して後継者選びに奔走し「末期養子」(臨終の際に藩主が後継指名するという体裁を整える)として薫(=豊誠<とよしげ>)が支藩藩主に就任した。
真吉が見た豊誠はまだ幕府公認を得ておらず宙ぶらりんの殿様であった。幕府の権威は失墜し混乱期でもあったからの珍事かも知れぬ。
支藩の麻布家当主としては本藩土佐の様子は気になるところ、移転お祝いを兼ねて土佐兵の士気などを見定めようと訪問したか。
昔、麻布の広尾に高知県の東京宿泊所があったから、この辺りに麻布家の邸があったやも知れぬ。
・・・・・・・・・
27日
13連発銃(=スペンサー銃)の代金600両を刀工・豊永久左ヱ門(=左行秀<さのゆきひで>)に渡す。
スペンサー銃の騎兵式は7連発で代金も一丁当たり30両余りが相場であったから、これは騎兵銃である可能性が高い。
両者の違いは重さと銃身の長さにある。
体躯の短小な日本人には歩兵式は重過ぎ長過ぎて使いずらい。一方騎兵式は軽くて短いから日本人に適した。ともに銃床の後方から弾込めする。
======
[融通無碍]
筆者は銃床(木製である)の外れた歩兵式を手にしたことがある。大き過ぎて使えそうになかった。
スペンサー銃のこと(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
30日
江戸城の兵5騎が官軍の証しである『錦の袖印』を無着用の兵7人と遭遇して喧嘩になり、江戸城側・騎馬の兵3人が討ち果たされ、無着用(偽官軍兵?)の連中は立ち去ったという。(旧幕への挑発行為か)
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◆江戸城の無血開城(慶応4年4月)

『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館蔵)
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[融通無碍]ウィキペディアより
江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。
橋本らは大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
そして9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去。11日には慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大総督府が接収した。
江戸城無血開城(NHK動画)
芝 西郷と勝 会見の地
・・・・・・・・・
慶応4年4月1日
東海道総督・柳原卿が甲州路を経由して江戸入り、有馬邸に御入りになる。
・・・・・・・・・
4日
柳原卿と橋本卿が江戸城に入る。勅命の内容を仰せ出だされた所、旧幕の重臣たは承服した。慶喜は一層恭順の実を顕す所存であるが、幕臣共の内には逆心を抱いてどんな暴挙に及ぶかも想像できず、諸軍一同は油断しないよう命令された。
お沙汰の後、両卿は即刻城を出て帰館された。
~~~~~~~~~~
田安中納言(=徳川慶頼<よしのり>)へ渡した別紙
【別紙】
徳川慶喜は天朝(朝廷)を欺き、始終言うべからざる所業をなし、宸襟しんきん(天皇の御心)を深く悩ませた。このため御親征され、海陸の諸道から軍を進ませられたが、(慶喜が)悔悟・謹慎を二念なく(必ず)実行する約束を聴き入れて御親征を止めた。皇愍<こうびん>(天皇の憐れみ・優しさ)の余り、別紙の通り仰せ下さったので謹んでお受けせよ。
当月11日までに必ず(謹慎を)実行することを条件に決定を下されたのであり、11日という期限は(時間的余裕もある)寛大な設定で、今後これ以上の嘆願・哀訴など断じて認めない。恩威を備えた措置であり、速やかに受け入れ、異議を唱えてはならない。
慶喜は去る12月以来天朝を欺き続け、剰<あまつさへ>(それのみか)兵力をもって皇都(天皇のいる都)を占領し、連日皇旗(=錦旗)に発砲したことは重罪である。
追討の官軍を差し向けたところ(慶喜の)心からの恭順・謹慎の実が顕われ(本人から)謝罪の申し出もあり、徳川家は祖宗(=徳川家康)以来200余年に及び治国の功績も少なくない。さらに故水戸贈大納言(=徳川斉昭)の勤王の志も深かったなども勘案して期限を守れば寛大な処分とすることにした。
第一条
徳川家を存続させる。慶喜の罪は本来死罪に当たるがこれを一等許し(慶喜は)水戸表に退き謹慎すべきこと
第二条
江戸城を明け渡し、美州(=美作<みまさか>=津山藩)に渡すこと
第三条
軍艦・鉄砲を引き渡すべし。その代金は追々(朝廷が)相当額を補償する
第四条
江戸城内に住む家従(家来など)は城外に出て謹慎すること
第五条
慶喜の叛謀(悪だくみ)を助けた者は重罪で本来は死罪に処すべきであるが罪一等を減じ死罪にはしない。本人から反省を踏まえた処分を申告せよ。
但し、万石以上の者は今後朝廷の裁きがある予定。
・・・・・・・・・・・・・
御意の書付は昨四日勅使(天皇の使者)から仰せ渡された。
恭順謹慎の件は天皇の叡聞<えいぶん>(天皇が報告を聞くこと)に達し、かくも寛大の処分が下されたことは誠に有り難いこと。もとより一同においても聖旨(天皇の気持ち・判断)を遵奉(守る)することは勿論で、もし心得違いの者あれば決して許さない。
右に述べた条々は前々から命じてきたこと、今更教誨(教え諭す)の必要もないが、猶なお又また厚く心得て叡旨を遵奉すべきだ。(辰四月)
一、兵を集合させる節に、太鼓を叩くことは厳禁する
一、夜中に変故あっても、大声を出し動揺することも厳禁する
一、同宿の幹部(兵を管理する上位者=将)が兵士の休憩所(兵が集合して寝る場所)へ直接出向いて指揮するから兵士は安心して眠り用意すること
・・・・・・・・・
7日
西郷吉之助(=西郷隆盛)を増上寺<ぞうじょうじ>に訪う。
大原卿が市谷邸(元尾張藩の上屋敷)にお入りになる。
西郷隆盛(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]

徳川将軍家とのゆかりが深い東京・芝にある増上寺
増上寺は徳川家の菩提寺であり、ここに薩摩の西郷隆盛が滞在しているとは…。偶々会見会場として使用されたのか、薩摩史に不案内な筆者は悩むところ。
・・・・・・・・・
慶応4年4月11日
(期限は11日とした朝廷の命令通り)黎明のころ、徳川慶喜が江戸城を退く。

徒歩<かち>の家来を500人ばかり従え、上は平袖、下は小袴の高股を着用して(如何にも貧相で、尾羽打ち枯らした風体)、砲器(自衛の火器)は携えず、総髪(月代も剃らず、丁髷<ちょんまげ>を結ばず後で束ねた髪型)であった。
徳川の終焉(融通無碍/関連話)勝てば官軍、負ければ・・・(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
4月13日
この日、官軍総督が江戸城に入る。
真吉らは江戸城に通じる市谷・四谷・喰違<くいちがい>の3門を警護した。

「御本丸」と書かれた江戸城の写真
朝、田安邸前に旧幕歩兵が500ばかり屯集していると聞き、急遽出兵するが虚報だった。
9日の夜には、(官軍の)因州人が四谷で暗殺された。さらに12日の鶏鳴の頃には、徳川人(旧幕臣)が駕籠に乗って帰る途中に官軍検問にかかり、尋問を受けた際暴言があり召し捕らえられた。
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《融通無碍》
意識を変えられない旧幕府高官、増長する新勢力。
関ヶ原から続いて来た旧構造が音をたたて崩壊している。
関が原の戦い(融通無碍/関連話)薩長にとって、かつて広大な版図を誇った一大勢力から辺境に押し込められる屈辱を味わい続けた250年を越す臥薪嘗胆の日々。
歴史の舞台は回り続けている。
時代の流れ、屈辱感と達成感がないまぜになってその接触面では衝突が起きる。
・・・・・・・・・
14日
前日に配置した3門警備の兵を引き上げた。
小笠原唯八が京都に帰る。
小笠原唯八(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
15日
真吉の門人で
迅衝隊第四小隊員・桑原倉之進と同・植田貞之助両名が京師から一万両の公金(軍資金)を護送して来た。
下代・柳兵衛が甲府から来る。
迅衝隊(融通無碍/第56話)・・・・・・・・・
16日
東海道大総督・有栖川宮<ありすがわみや>様が芝・増上寺に着いた。真吉と薩・西郷が面談したあの寺だ。
・・・・・・・・・
17日
真吉は江戸・市谷の元尾州邸にいて、前線から届いた情報を簡潔にまとめているから引用する。
【真吉がまとめた前線情報】(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
20日
夜半四谷から火が出たが、八ツ半(27時頃)に鎮火する。江戸はよく火事がある。「喧嘩と火事は江戸の花」とはよくいったもの。
・・・・・・・・・
21日
断金隊小頭(後の隊長)
美正貫一郎が甲府に戻る。薩兵が賊兵を討つこと200ばかりとか。美正貫一郎の身分は低いが勇猛果敢な戦士として注目されていた。
美正貫一郎(融通無碍/人物評伝)断金隊のこと(融通無碍/関連話)この夜九ツ時(24時ごろ)赤坂の方向で火事があった。

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◆奥州出陣、会津戦争に
会津戦争は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦い。現在の福島県会津地方が主戦場となった。
・・・・・・・・・
23日
前田権三郎が入隊する。岩倉卿(=
岩倉具視)が明日出発する。「総兵みな出発せよ」の陣触れが出る。
岩倉具視(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
24日
尾州邸にいた総兵力が進発する。千住まで2里。
三宅謙四郎、
川田乙四郎が戦傷して帰る。草加まで2里8丁(約9km)、越谷に1里28丁(7km)、粕壁まで2里28丁(11km)。真吉らは杉戸(埼玉県杉戸町)に宿陣する。
三宅謙四郎(融通無碍/人物評伝)川田乙四郎(融通無碍/人物評伝)輜重衛長・谷口傳八は兵卒37人を率い、麻布隊は63人で隊長が金子寛十郎。真吉の輜重局は30人ばかりだ。
真吉の役職は『小荷駄裁判役』が正式名称である。どういった職務内容なのかは判然としない。一般的に言えば真吉の年齢は実戦能力が青壮年には及ばない。だから後方支援にまわるだろう。
がかれには冷静沈着な判断と、経験に裏打ちされた深い洞察・予測力がある。実態として、真吉は身分差を乗り越え土佐藩兵の兵站部門の責任者だったようだ。
・・・・・・・・・
25日
幸手<さって>(埼玉県幸手市)へ1里半、栗橋へ2里8丁(9km足らず)。栗橋(埼玉県久喜市栗橋)に宿す。
筆者は幸運にも栗橋から真吉が出した手紙を見る機会を得た。嬉しい限りだ。読者の迷惑も顧みず引用する。
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26日
坂東太郎川(=利根川)を越す。中田、古河、野木、間々田ままだ(栃木県小山市間々田)で宿。
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27日
間々田での会戦で(官軍の)彦根藩兵は敗走した。勝った賊は大砲・銃を分捕ったものの、移動中にはこれが邪魔となって遂には大砲などを井戸に投げ込んだ。これを(物陰からこっそり見ていた)兵が夫卒に命じて引き揚げてもって来た。功労はその夫卒にあるから褒金(ほうび)を与えた。
昨日輜重隊を守衛する人々が到着した。
◆守衛人の名簿
宮川胡作、宮地午吉、遠近晋二郎、山崎広馬、佐田庫吉、木戸武士衛、沖恵之助、中屋格之助、土居民助、下代・多作
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《融通無碍》
筆者、これらの名前を一読して思う。その姓名は決して高い身分の人々とは思えない。さらに苗字は土佐の幡多に特徴的なものばかりである。遠近はまず幡多以外で耳にしない。佐田も沖も中屋もそうである。真吉が呼び寄せたのか、真吉を慕って志願して来たのか。心強かろう、軽装備で戦乱の中を味方の兵士のために駆け巡る輜重兵を守ってくれるのが知人・縁者であるとしたら。
「これは断じて脱線に非ず」とのみ言わせて下さい。
・・・・・・・・・
28日
大雨を衝いて迅衝隊の六隊が進み、壬生城に着す。
輜重奉行・早崎兵吾が安塚<やすづか>(栃木県壬生町安塚)の賊軍が来たと誤断し、輜重隊は動揺する。
しかも奉行たる早崎は臆病風に吹かれて(=『三舎を避けて』)姿をくらました。
輜重奉行が敵前逃亡(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
29日
晴れ、二連木(=栃木県鹿沼市楡木にれぎ)、鹿沼、今市いまいち(栃木県日光市今市)に着く。今市から廿丁ばかり(約2km)前方の瀬川(同・日光市瀬川)に敵が関門を作り、胸壁(防護の楯・土盛、塹壕)を築いていたが兵を進め攻撃すると敵は逃げ去った。跡には2人の死骸があった。真吉らの隊の被害は、手島金馬が戦死、負傷は荒尾常吉、田村傳八、吉川省作、金田弥太郎であった。
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◆今市の戦い(慶応4年4月~5月)

日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
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[融通無碍]ウィキペディアより
今市宿(現在の日光市今市)は江戸と日光を結ぶ日光街道、会津若松へ続く会津西街道、高崎へ続く日光例幣使街道、奥州街道の宿場町大田原宿へ続く日光北街道の集まる交通の結節点だった。
◆第一次今市の戦い
4月20日、旧幕府軍及び会津軍は兵力を2つに分け日光街道の東西両方向から今市へ攻撃を始めた。板垣率いる新政府軍は東西の旧幕府軍を各個撃破した。板垣は周囲の新政府側戦況の悪化を鑑み今市周辺に防御陣地を構築し、今市で旧幕府軍を迎え撃つ体制作りに着手した。
◆第二次今市の戦い
5月6日、旧幕府軍及び会津軍は今市の東側に兵力の大部分を集結し一斉攻撃を始めた。板垣は西側の守備隊を再編し旧幕府軍の南へ迂回し反撃を始めた。また宇都宮から急行してきた新政府軍が到着し、旧幕府軍側は敗走した。
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慶応4年4月1日
晴れ、「如来寺」(同・日光市今市、東武日光線の下今市駅の西北五百mに所在)に輜重局本部を置くことにした。
【世界遺産を守った土佐兵・板垣退助】
昨日、迅衝隊は敵を追って日光東照宮に迫ったが、その門前に二人の僧侶が飛び出して来て平身低頭して涙を流さんばかりに哀願する
「賊徒が山内(境内)に侵入しております。今、官軍がこれを追って攻撃しますとこの貴重な霊場が焦土と化すことはわれらにとって嘆息に堪えないことです。暫くのあいだ、お待ち下さい。帰山して凶徒どもを追い払い掃除も済ませて官軍をお迎えします」
確かに懇願は丁寧で理に適っている。僧侶は懇願を繰り返す。
迅衝隊内で相談の末、ひとまず引き返すことにした。
【板垣の英断】
総督板垣退助の英断もあっただろう。日光東照宮という文化財はその後の戦火も免れて現在に至る。世界文化遺産である。
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《融通無碍》
総督たる上士・板垣退助には幕府を開いた家康に対する尊崇の念が有った筈だ。かれの地位の源泉は藩祖・山内一豊を厚遇した家康にあるから。家康あっての土佐藩だ。
もし総督が長宗我部侍の末裔であったら「憎き徳川の廟など・・・」かも知れぬ。
歴史に「もしも・・・」は禁物。
板垣退助、日光東照宮を守る(融通無碍/関連話)
日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
板垣退助と、甲府の断金隊(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
5日
大沢を発し、今市に戻る。さきに甲府の人・旧井清左ヱ門という人が敵情を偵察するため日光に潜入したが発覚して滅多斬りにされたという。
滅多斬りにされた男(融通無碍/関連話)結城七郎は甲府で地元有志によって結成された断金隊(土佐にとっては外人部隊)の隊長であるが江戸で突然脱走した。
・・・・・・・・・
9日
戦闘に必須の軍夫の不足が深刻化してどうにもならない。
真吉はその募集のため本藩(高知)に派遣されることになった。
【4月9日~25日】
真吉、人集めのため奔走(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
(日記は4月20日以降記入がなく、一気に5月1日に飛ぶ)
・・・・・・・・・
5月1日は江戸甲邸(市谷にある旧尾州藩邸)に着いた、折からの大雨。真吉が高知からミアカに乗せて来た砲隊がこの夜、千住まで進む。
・・・・・・・・・
2日
江戸甲邸を発し連日の雨を衝いて古河まで足を伸ばし泊まる。同宿は谷頼助。
・・・・・・・・・
3日
壬生を経て今市に返る。
安岡亮太郎(=真吉門人、土佐中村の人)が江戸に行く。
安岡亮太郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
4日
賊が毘沙門の山(今市の北十kmにある山か?詳細不明)に旗を立てる。
先月18日、19日、21日の敵襲はことごとく撃退した。
真吉は『賊襲来、悉ことごとく撃って之を退しりぞく』と書いたが実情は大接戦で、辛うじて勝ちを収めた際どい戦いくさで、命拾いしたような有様であったらしい。この前後、真吉は江戸にいたから戦況の実態を知らなかったのか、「悉く」とは強がりを言ったか虚勢を張ったのか。
・・・・・・・・・
5日
事なく終わる。真吉が今市に戻る前の一昨日、迅衝隊は毘沙門山にたてこもる賊軍に発砲し攻撃を掛けたところ、賊は立ててあった旗(=旌)を巻いて後退したという。
・・・・・・・・・
5月6日
未明、東村(=芹沢である、と欄外に記入あり)の農民が来て言う、『昨夜から東村の近くに賊が屯たむろしている。今日あたり御陣を襲うつもりでは』。即座にかれを同行して本営に行き、その旨を報告する。終わって、宿舎の如来寺に戻って碁をうつ。
(さあ、本営はどうするつもりか・・・・)
このとき寺の南門の方から砲声が聞こえ、(進軍を促す)ラッパの音も追々響くなど慌しくなってきた。
(ラッパの音からすると敵は洋式訓練を受けている。強敵だな)
何局打ったか、頭に棋譜を残すかのようにざっと布石を見渡し石を碁笥<ごけ>に納め、立ち上がった。朝五つ(8時頃)である。
真吉、陣頭に立つ。
敵の軍勢は700人ばかりと思うが日光街道に立つ両側の巨大な杉並木の蔭に身を隠し、あるいは麦畑に伏せるなどしてその総数(多少)は分からない。このため敵を撹乱しようと十字架の形の棒に笠をかぶせ、蓑みのを着せて兵隊に見紛うように麦畑の中から突き出させることにした。雨天だから敵も識別は容易でないはず。
わが兵隊は最初堤の外側にいたから胸壁(身を隠す障害物)がない。このため背後の堤に後退させて安全を図る。後退したとみた敵は猛襲をかけて急迫し弾丸を雨、霰あられと降らせる。
真吉らが滞在している如来寺は街の中心部にあり、敵はこれが目指す本営と思ったようだ。しきりに発砲する。とうとう寺の境内になだれ込んで来たから、予備の弾丸を寺の空き部屋に運び入れた。
砲弾の直撃を受けた庭の樹が織物のように織り重なって倒れる。真吉らの兵隊は全力を尽して懸命に戦う。砲隊は東の川原から敵の側面を攻撃する。兵は鯨声(ときの声)を挙げ、敵を威嚇する。激闘続く。
戦いは七ツ時(16時ころ)に至り、敵の退却逃亡をもって終了した。
迅衝隊は勝ちに乗じて一里ばかりも追い討ちをかけた。
敵の首を獲ること26、傷を負って逃げる途中で敵・加藤麟三郎を生け捕りした。迅衝隊にも死傷者が出た。大砲一門を戦利品として分捕った。戦闘が終わったころ、南方にいた宇都宮兵(=土佐胡蝶隊と砲隊)が援軍に駆けつけた。
小野隼太が敵弾で戦死、「大沢」口でのことだ。「今市」口では谷本忠一郎、小松駒之助、小松克馬が戦死した。
右記の氏名を見ると、戦死者いずれもが幡多出身と思われる節がある。この推測が正しければ真吉は遺族に報告する備忘として記録したのか。
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とあるブログに、この日(慶応4年5月6日)の、土佐藩迅衝隊(板垣退助総督)と旧幕府伝習隊(大鳥圭介総監)・会津連合軍の戦い(第二次今市宿攻防戦)の詳細が掲載されていましたので勝手に引用させていただきました。
第二次今市宿攻防戦:慶応4年5月6日(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・
18日
江戸・上野戦争の勝利報告が届いた。
上野戦争終結(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
6月17日
昨夜横浜から戻った使者が言う。
「10連発銃が近日中に到着する見込みです」
その日のうちに、スイツ(スイス)に注文していた小銃50挺が届いたと連絡があった。真吉が待ち兼ねていた品物であった。
真吉、10連発銃を買う(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
28日
大雨。この24日に迅衝隊は薩長他と協力して棚倉(福島県棚倉町)の城を攻め落としたという。
真吉はこの日(深川・砂村の下屋敷に住む)
中濱万二郎を招いて飲む。
【真吉と
ジョン万二郎】
真吉が死ぬ(1870)まで両者は深い交遊を続けた。
嘉永5年(1852)の長崎奉行所での出会い以来延々18年。
真吉はジョン万の語る「米国の民主主義、博愛主義そして能力主義」に大きな感銘を受けた。正に我が意を得た気分だったろう。他人にはトンチンカンに聞こえたかも知れぬ話を一生懸命に聞いた。言葉(幡多弁)も性格(自由闊達、進取の気象)も一致した。
ジョン万にすれば日本帰国後初めて幡多弁で何憚ることなく会話を楽しめた真吉だ。もし真吉葬儀の参列者名簿が見付かれば必ずジョン万の名が記されているはず。
戊辰戦争の最中に真吉はジョン万を招いて飲んだ。この事実は筆者に大きな感銘を与える。命懸けで戦っている最中にもジョン万を忘れない。江戸には数多くの知人がいたはずだ。がその連中からかれを選んだ。別に今ジョン万が幕府役人になっていることなど無関係。ただ飲みたい、話をしたい一心で呼んだ友。
真吉の人柄が濃厚に滲み出た逸話。
ジョン万二郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
29日
真吉は江戸城に登城して正五位を叙位されている土佐出身の高官・
清岡半四郎に面会する。
清岡半四郎(融通無碍/人物評伝)かれは官軍の実質的な指揮官・
大村益二郎と真吉をひきあわせた。
真吉は軍資金不足を直訴する。
「手持ちの金では一月<ひとつき>半がやっとだ、天金がもらえないと負ける」
その答えに大村益二郎は
「降心(=安心)いたされよ。これ以後は兵事の差し支えに及ぶことは決してない」
最高の言質を得て、真吉は安堵と満足に浸りながら帰邸した。
大村益二郎(融通無碍/人物評伝)清岡半四郎は土佐東部・野根山で蜂起し(野根山騒動)、奈半利川原で散った
清岡道之助の実弟である。
清岡道之助(融通無碍/人物評伝)野根山騒動結末記(融通無碍/関連話)=========
◆磐城の戦い(慶応4年6月~8月)

磐城平の戦絵図(絵の中央当たり、大砲から弾が放たれ、絵の上にある磐城平城の城門が破壊される様子が描かれている。)
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[融通無碍]ウィキペディアより
後に磐城国として分離される地域(現在の福島県浜通り)で行われた、明治新政府軍と徳川旧幕府軍との一連の戦いの総称である。新政府軍の平潟上陸から中村藩の降伏まで続いた。戦闘の結果、奥羽越列藩同盟は浜通りを喪失すると共に、盟主仙台藩においては藩境に新政府軍を迎えることになった。
・・・・・・・・・
7月10日
敵の領分を探索する。
五里圏内に敵影を見ない。しかし山林・渓谷中に放置された死骸の腐臭が酷く、鼻を被わないと通れないほどだった。今月一日の戦闘の跡だ。
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《融通無碍》
旧暦の7月1日は調べるとこの年は8月18日だった。お盆を過ぎているから少し暑気も薄れたかも知れない。が相当高温だろう。
遺棄された死体が10日間放置されれば・・・・
目を覆う惨状(視覚)に腐臭(臭覚)が加わると・・・・
匂い付きの地獄絵を突きつけられたような思いがするだろうに。
うじ虫が遺体の上を這い回る音(聴覚)がザワザワと静かに聞こえる。何とも筆舌に尽くしがたい。
われわれは戦争の画像を時々見ることもあるが、画像から臭においは伝わらない。視覚に訴えても嗅覚には伝わらない。
戦争の悲惨さへの自分の想像力の欠如を思い知る。
戦争を煽る人々にこそ嗅がせたい臭いではないか。
思い知るべきだ、戦争が起ればどうなるか。
一度臭えば3日は忘れないとか聞いた。鼻についた悪臭の思い出で全く食欲を失うとも。
・・・・・・・・・
16日
黎明、敵(仙台を主体とする)千人余りが城山を占領後、淺川に押し寄せた。
土佐藩と彦根藩がこれを迎えうつ。晨<そうちょう>から八ツ時(14時頃)に及ぶ激戦のすえ、敵はついに背を向け敗走した。この日、朝のうちは晴天であったが戦いが酣<たけなわ>の頃大雨になったから敵は甚だ困窮した。
奥羽越列藩同盟の弱点(融通無碍/関連話)
奥羽越列藩同盟旗
・・・・・・・・・
24日
真吉らは棚倉を発し、二里行くとまだ戦闘の跡も生々しい淺川を見る。
ここは西側に原っぱや田んぼが広がっていて人家も多い所であった。
佐田、白川村を経由して石川に泊まる。石川は淺川から三里離れているが、ここでは官軍は先鋒を彦根藩、次に館林、薩摩、長州、そしてわが土佐、黒羽、最後に忍の順番に一日交代で宿陣する約束であったにも関わらず、この日は何故か全ての藩が宿泊しており、土佐藩兵の宿る人家がなかったから、大もめにもめた。
混成・連合軍の宿命(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
27日
迅衝隊の2、3、4、6の小隊が小浜(福島県二本松市小浜)に向かって進発した。敵は土佐兵の姿を見ると守っていた関所を捨て、持っていた銃器も投げ捨てて逃げる。本道をとった9、13の小隊は断金隊とともに早朝から敵を追って進んだが、敵は逃げながらも道ばたの家々を焼く。
断金隊小頭・美正<みしょう>貫一郎が敵を追って激流に身を入れ、後に続く者を手招きしなら進む。川の水は深くかれの肩が見えなくなるほど。これを見た岸の敵兵が狙撃する。やんぬるかな、一弾がかれを貫いた。姿はついに水中に没す。
惜しむべし。後続の我が兵は舟を探し出し、これに乗って対岸に渡った。敵は逃げ去った。
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《融通無碍》
大村益次郎の逸話を思い出す。
大村益次郎の逸話(融通無碍/関連話)甲府の断金隊(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
28日
三春を発した。敵は本宮(福島県本宮士市本宮)の陣営を四方から攻撃するが、ついに守り切って敵を撃退した。
【この戦いの人的損害】
金創(刀・槍による傷)=
山地忠七(=山地元治)
銃創(鉄砲による傷)=
五十嵐幾之助、別府勘助、武藤並枝、中野順二郎、弘田倉二
戦死=米倉丹三
深手(重傷)=井上彌太ヱ門
五十嵐幾之助(融通無碍/人物評伝)山地忠七(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
29日
先発組は二本松に進む。輜重隊がこの後に続く。
真吉の指揮する輜重隊は城中に入り、小憩する。
が、突然隣の部屋で大騒ぎが起きた。階上に敵一人が潜んでいたからだ。大勢でこの敵を取り囲むと敵も獅子奮迅の働きを見せて抵抗するから真吉も六連発銃を撃ち掛ける。薩兵も撃ったから敵は乱射の銃弾に倒れた。射殺された敵兵は会津兵であった。
真吉「我6連銃を発す」と記す。
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《融通無碍》
真吉も人に銃口を向けて発射したのは初めてだったようだ。多分拳銃だろう。冷静な男も興奮して記録したか。真吉、54歳。まだ若い。
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8月1日
真吉らは二本松に留まる。
忍藩の岡村留作が真吉の輜重隊を脱走した野村床二の手紙を持って来た。
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《融通無碍》
脱走兵がどのような手紙を書いて真吉の許に届けたのか。脱走に至る心境を吐露したか。
脱走は兵士にとって最重大犯。隊全体の士気に関わること、士気が落ちれば勝利は危うい。指揮官が最も恐れる事態だ。敵前逃亡なら即刻死罪だ。
真吉は何も記録を残さない。優しさのようなものを感じると言えば無理があるか。
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11日
弘田章三郎が高知へ帰る途中にこちらに向かって来る
谷干城に会ったから止めて留まる。この頃、谷干城は丁髷を切り落とした髪型であったという話も残っている。「止めて留まる」は意味が取りづらいが、弘田が谷に「どうも大きな戦闘が始まりそうで危険だから、行くのは止めて様子を見たほうがいい」と助言したところ、谷がそれに従ったということか。
弘田章三郎(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
【谷干城】
谷干城(四万十町HPより)
かれは文久2年秋に真吉と九州行きに同行した(干城は上士、真吉は足軽に毛の生えた程度の身分。正使が干城、付き添いが真吉だった)人物であり、学識も豊富で藩校の助教も勤めた。明治政府内では派閥を作らず藩閥にも属さなかった変わり者、是々非々とも言う。
上士だが高知城下でなく、窪川(高知県四万十町窪川)に生まれた野生児だった。窪川は四万十の最上流部に位置する盆地で多くの小川が流れる。
その小川で干城は水浴びをする、いつも一緒に遊ぶ悪ガキ共だが干城の泳ぐ場所の下手しもてにはその姿がない。高家のご嫡男だから敬遠したのではない。かれは風呂嫌いで垢だらけ、泳ぐと油膜のようなものが浮き、垢で濁った水が流れて来るから。
嘘だろうが言い伝えをそのままお伝えするしか筆者には能がない。
その硬骨漢が実は比類なき恐妻家であった。この恐妻がいたから西郷軍によって強いられた長期の籠城戦に耐えられたと干城自身が独白している。
「もし、西郷軍に降参でもしてみろ。アシがどれほど細君にしでられる(土佐弁で『厳しく叱責される』の意)ことか、思うても総身の毛が逆立つ」
さらに手記には
「われの人となりしは、わが父とわが師と、わが妻の恩なり」と書いたし、決定打は「余のもっとも恐るるは天子と地震とわが妻なり」であろう。
干城をして畏れ多くも天子と並べて畏敬の念を表わさしめ、現在もわれらの慢心(気を緩め警戒心を解く)を諌める筆頭の(突然襲う)地震と肩を並べる妻の名は、『くま子』であった。
くまではなく熊が適当ではないかと思うが、原典がこうだから筆者は改ざんする勇気もない。山中で熊に出逢えば、死んだふりをするに限るとか。
谷干城(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーーーー
軽卒(身分の低い兵卒)が苗字を公称することを許された。
慶応4年8月11日は記念すべき日になった。
苗字を持たない、苗字を名乗ることを許されなかった人々に戦時限定かも知れぬが苗字を公称することが正式に認められた。
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《融通無碍》
俗に「名無しの権兵衛」という。権兵衛ならありふれたどこにでもある呼び名だ。「○◎の権兵衛」となって、始めて個人を特定できるが、苗字は公称できないから住まいの場所名を付して清水の次郎長、森の石松となる。あるいは職業を頭につけて八百屋の丁兵衛とか植木屋の助六の例もあるだろう。
この時代、苗字と帯刀はセットになっていることが多かった。刀を身に帯びることは望まなくとも、自分が他のなにものでなく一人の人間であることを明らかにしたいという願望は切実なものがあっただろう。
アイデンティティーは個性だ。軍隊の規律保持や作戦遂行に当たって、同名の者が複数いては支障が生じるからこの目的のためだけに苗字を恩恵的に与えたようだ。
が貰った側は永年の宿望が叶えられたわけだから大喜びであったろう。親のくれた自分の名前の上に自分で選んだ苗字を書き添えてニヤニヤ笑う顔、その笑顔が彷彿とする。
真吉の父親でさえ、苗字を公称できるようになるまで時間が掛かったのだから。
高知県の大豊町に「○○屋」と屋号をつけて人を呼ぶ風習があったが、今はどうか。
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24日
真吉が交渉し調達した軍夫と馬が到着した。精米66俵を33匹の馬に駄して本宮へ送った。医生・生田喜善が出発して本宮へ向かう。夜になると池田氏と北代生がやって来た。
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《融通無碍》
氏と生、これを見ると『氏』は上士、『生』は自分と同等かそれ以下に付けているようだ。
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◆会津城の戦い(慶応4年8月~9月)

損傷した若松城(会津戦争後撮影)
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[融通無碍]ウィキペディアより
旧幕府側の会津藩は若松城において約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。
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8月30日
本宮を出る。石筵<いしむしろ>(福島県郡山市熱海町石筵)を通ったが深い泥路に馬の蹄(=脚)が抜き差しならぬ状態になり苦労した。
石筵は山の中の集落であった。小堂あり、真吉はここで休んだ。
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《融通無碍》
面白いことがあった。真吉らは水車利用の米搗こめつき小屋で休んだが、接待に出て来た愉快な婆さんが極めて丁寧にもてなしてくれ、真吉はかれら住民にとって八幡太郎義家のような存在で「八幡太郎義家様のお宿の世話をさせていただきまする」と言われた。照れくさいが悪い気はしない。
古昔、源義家がここ石筵から会津へ討ち入って占領したという吉例を現在に置き換えた才覚であろう。
石筵という地名も義家の敷いた筵の跡が石に刻まれて残ったから命名したという伝説もここにはある。
石筵は庄屋の家も民家も焼き尽くされていた。
◆源義家
平安後期の武将でこの地に縁がある。筆者も聞いたことのある名。詳しくないし、この物語の本筋ではないから省略する。
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9月5日
寺田知己之助が白河に行く。
昨夜若松城の方角が焼けた。真吉らの持ち場の前の空屋に潜んでいた敵が混乱させるためにこの空屋に火を放ち、折からの風に煽られ広がって、大垣藩兵の持ち場にも延焼した。 薩摩兵が急迫し、橋の破壊作業中の敵兵を狙い撃ちする。
寺田知己之助(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーーーー
《融通無碍》
薩摩の機敏な動きはこの戦いの第一級の功績と言うべきだ。三藩の兵が進み、土佐兵が先頭を切って若松城の城門をよじ登って乗り込む。死傷者は多数出たが城に肉薄して攻撃を加えた(土佐藩兵の)軍功は他に類を見ないだろう。
6月時点で、われらに下された一連の感状を拝見する。(感状=省略する)
黄昏から始まった戦闘は大垣藩の持ち場を主戦場にして半夜まで続いた。
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《融通無碍》
この5日の日記冒頭にある「寺田知己之助が白河に行く」の知己之助は後『利正』と改名する。物理学者寺田寅彦の父である。
実弟の切腹を介錯するなど辛い体験の経験者で藩下士である。維新後は軍人として戊辰戦争同様に兵站部門で働き、西南戦争でもそれを担当した。
寺田寅彦は夏目漱石の第五高等学校時代の教え子で、漱石の作品に登場する「寒月」なる書生のモデルとされる。豊富な自然科学の知識を踏まえた達意の随筆は今も読者が多い。「天災は忘れられた頃、来る」はかれの警句である。
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7日
今日は北越からの官軍が戦線に加わる予定である。
昨日、三宅謙四郎と曽和慎八郎が7連銃(
スペンサー銃だ)を護送して来た。
スペンサー銃のこと(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
17日夜来、砲戦盛ん。14番隊の新兵らが残賊を掃討するため青木に向かう。互いに死傷者が出たが敵は敗走する。
【青木での戦いの朝に聞いた話】
会津藩家老・内藤助左ヱ門は今月7日の戦いの前に城を抜け、とある寺に潜匿(身を隠す)したが、官軍来襲を聞いて自分の妻と幼い男児を刺殺し、屠腹(切腹)したという。年60ばかり。
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《融通無碍》
この話は誤報であった。日付も氏名も中身も全く事実に反する。戊辰戦争の初期に先陣訓が発せられ流言飛語に惑わされるな、と厳しく戒められた藩兵であるが戦時は情報が混乱するし兵士も平常心が保てない。真吉すらこの情報を書きとめた。訂正もしなかったのは真吉に残された時間が限られたからか。
決定的に違うのは、介右衛門は切腹せず維新後も生きて、明治3年の会津の青森県下北半島への転封で新設された斗南藩<となみはん>で開拓作業に従い、雨天には子弟に漢学を講じたようだ。明治3年(6月)に真吉は世を去るから知るよしもない。
斗南藩での山川大蔵(1845~1898)の逸話も勿論真吉は知らない。
◆山川大蔵と谷干城のこと
この新設斗南藩には1万7千人もの人々が移住したが、その中に会津戦争で名をはせた山川大蔵<おおくら>(後に浩と改名)もいた。
山川大蔵と谷干城(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
22日
(罪魁=賊の親玉)松平肥後守が降旗(=白旗)を捧げて陣頭に出て来た。降伏の応接(やりとり)を済ませた後、敵は一旦城に戻った。
七ツ時(16時頃)に藩主父子は駕籠に乗って出て来た。近習(側近)が駕籠を担いでいる。駕籠の周りを2、30人ばかり無刀で警戒しながら歩いていく。
その駕籠を先導するかのように薩摩勢が進み、真吉らの土佐兵勢は殿しんがり(最後尾)を固めた。藩主父子を瀧沢村にある妙国寺に幽閉した。瀧沢村の名主は田中冨七、同・地頭は大瀧勝次郎であった。
会津藩が降伏(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・
弘田章三郎は白河へ行き、東京から森村屋が来た。
弘田以下の記述は真吉の他の記録と突合すると23日であった可能性がある。
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《融通無碍》
《余話として》
冬将軍の到来を間近にし、新政府は会津との停戦の時期を模索していた。このため会津と良好な関係にあった土佐に着目した。会津降伏は米沢藩→土佐藩の線で進められた。
会津は藩公・松平容保が和平交渉団を密かに土佐に送っていた。その構成員の多くは
山川大蔵の知人だった。山川は和戦両様の構えだったが戦況から和平に傾いていた。
山川大蔵と谷干城のこと(融通無碍/人物評伝)和平交渉団から「藩主・松平容保を助命すること」を求められた土佐藩(=藩中枢にあり、会津攻撃の責任者=板垣退助)はこれを飲む。(が、板垣の独断で決裁できる問題ではない、裏で「薩摩幹部と長州幹部そして岩倉具視など公家衆との合意・承諾が既に成立していた」とみるが常識だ。)
土佐は会津降伏の筋書きを交渉団に示しその承諾を得た。
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26日
自力で歩ける負傷兵が白河に移る。医師の
田口文良が付き添う。
田口文良(融通無碍/人物評伝)小笠原八吉(彦彌)が足軽一人を従え御使者として高知に派遣された。
小笠原八吉(彦彌)(融通無碍/人物評伝)小笠原彦彌は小笠原3兄弟の末っ子である。
兄二人は若松城の攻防で同じ日(9月5日)に戦死したから小笠原家はかれ次第。
小笠原家廃絶を防ぐため迅衝隊幹部による温情派遣であったか。
しかし悲劇が続いた。明治3年に彦彌が留学生として海外派遣が決まってその壮行会の夜、他藩の警備兵と騒動を起こして自刃した。
長兄の
小笠原唯八も血気の人であった。土佐兵が前線で苦労しているのを座視できず、江戸での職務を擲<なげうち>、牧野群馬と改名して前線に飛び出した男。
若松城を攻めた際は当然のように陣頭に立ちはだかり銃弾を受け死んだ。
小笠原唯八(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
牧野群馬は、文久3年(1863)に土佐東部の勤王党の23人が土佐の野根山に決起し阿波に逃げ込んで最後は奈半利川原で斬首された時の現場責任者であった。
野根山騒動結末記(融通無碍/関連話)野根山騒動の処理には大きな苦悩を経験した。
小笠原唯八はその顛末を記したが、自筆記録を目にした者は小笠原唯八の動揺が忍ばれて頬を濡らした。
その記録は焼けてもう誰も見ることはできない。
「牧野群馬(=小笠原唯八)の事績が顕彰されないのは勤王党の面々を処断してせいで、かれは素晴らしい人物だった」と板垣退助が明治の終わりごろ、講演で語った。
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自由民権家として高名で日光東照宮の保全に功績があった板垣退助だがその行動に疑問符がつく場合もある。
板垣退助は以前は百円札になって銅像も各所にあるが、どうも筆者には身分制度から抜け出さなかった差別主義者的側面が引っ掛かる。
山内容堂のお気に入りの側近であり、真吉らも自分の視野から強制排除した人物だったかも。
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◆総兵引き揚げ。
会津城の戦いの後、土佐藩兵は総引き上げに。
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10月9日
総兵引き揚げとなる。
先手須賀川の本営は本宮に宿陣したが、真吉は本宮から三春に行く事を俄かに命ぜられ急行して深夜二字(26時)に着いた。
◆真吉の時刻表記
この日以降、真吉の記録は現在と同じ時刻制で表記されることが多くなる。一日を十二刻とし夏冬の日照時間の長短を無視した旧慣習とは異なり、真吉は時計を手に入れたのかも知れない。
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《融通無碍》
坂本龍馬が得意そうに腰の懐中時計を見せる写真が有名だが、裕福な郷士の次男坊で金に恵まれたかれとは違い、貧乏足軽で中村育ちの真吉に懐中時計は買えなかったろう。だが何時入手したか、記録はない。この記録の前後と見るべきか。
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11日
駄馬を買う。
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16日
白河を発して3字1点(午後3時15分か)佐久山に着いた。
第7字(午後7時)喜連川に着いて宿。16里ほど。
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《融通無碍》
11日に買ったばかりの駄馬だがさすがに馬は速い。健脚の真吉でもこの距離(16里)は未経験だろう。
真吉は本来騎乗できる身分ではない。戦争終結後の残務処理という事情が勘案されて特例的に駄馬を買い取る資金を渡されたのかも知れない。筆者の憶測に過ぎない。
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19日
人足300人余りを募集して白河へ送る。
輜重の護衛兵・保吾と浅吾が東京から来た。
その報に言う
「わが中納言(=山内容堂)公はすでに10日に着府(入京)している」
この頃、江戸は東京と改称されたか。府は(西)京から東京に移ったか。目まぐるしい動き。
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24日
午前中に東京に着いた。増上寺に入る。
東京に凱旋(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
25日
兵隊は残らず中納言様(=山内容堂)へ拝謁する。御酒料として200匹もらう。
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11月1日

「御本丸」と書かれた江戸城の写真
晴れ、4時(10時ごろ)甲邸に出る。
諸隊勢揃いの上、皇居(=天皇のいる江戸城)に参内する。
下馬札の手前に銃器を置いてから登城する。回って庭先の少し下の段に刀を脱し、庭の上の土に蹲踞する。
大臣が周旋して御簾が高く巻き上げられ、隊長以下敬いて龍顔(天皇の顔)を拝したてまつる。
陛下は白い御衣を召しておられた。
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11月3日
夜、真吉らの乗る予定の英国船が江戸に帰り来たる。
乗船前に横浜の写真館で写真を撮影。
真吉 写真をなす(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
4日
午時、英船に乗る。船名:アルヒヲン 第三字(午後3時)抜錨して出発する。
その乗組員は
真吉、寺田知己之助、川田敬之助、植田貞ノ助、廣井牛吉、村井清助、楠瀬直吉、亀谷傳介、松原宗碩、
軍卒500人、病者 通弁官 大庭源二兵衛 結城幸某
横浜役人1人
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5日
志洋灘(熊野灘)を過ぎて紀州洋に至る。
6日
紀洋を過ぎたが燃料の石炭が乏しく心配するが七字(午後7時)浦戸に着いた。
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7日
浦戸を発して幡多倉に着いた、帰った。
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14日
中村着。高知移住の荷物支度を済ませる。
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24日
懐かしい中村のわが家を引き払う。鞭で泊まる。
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25~28日
窪川、須崎、高岡に泊まり、28日九反田に着いた。
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12月朔(=1日)
曇天、真吉の戊辰の年の旅はこうして終わった。

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◆一枚の写真が語る真吉
南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に面白い記述(四方山話)があります。
樋口真吉伝・・・・・・・・・・・
第一章 真吉の生きた時代
故郷における樋口家
一枚の写真が語る真吉
《「樋口真吉伝」ではP20~23》
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《融通無碍》
◆余話<後日談>
会津から江戸・京都、そして高知城での凱旋後、中村に戻ってきて妻・お兼や娘2人、そして跡取りの次男(長男・鵬丸は夭逝した)鵬二郎を引き連れて高知城の南、鏡川の北岸・築屋敷に引っ越した。
家の座敷からは、川向こうに筆山<ひつざん>(標高117m)が見える。

鏡川北岸から筆山を望む
ここは足軽には居住が許されなかった区域(藩の官舎)であったが、真吉が戊辰戦争の功績で「
新留主居役<しんるすいやく>」という上士最下位に昇任したから入居できた。
新留主居役(融通無碍/関連話)**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2022.12.01.23.41.