◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
土佐の森・文芸 融通無碍
【第52話】
龍馬書簡のこと◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<令和7年4月5日発信>
南寿吉著『幕末足軽物語』
足かけ4年間に遺稿・幕末足軽物語を編纂・編集する過程の中で、幕末物語のキーパーソン・坂本龍馬の書簡に関する多くの情報を入手しました。(真吉は幕末の動静を日記<手紙は少ない>で記録したが、龍馬は手紙で記録した、ということか。)
樋口真吉と直接的に関係するものはわずかですが、「龍馬の手紙」の多くが「幕末足軽物語」とは何らかの関連性があり、関連箇所にリンクすることでこの物語の幅・奥行きが広がったものと勝手に解釈しています。
~~~~~~~~~~~~~
龍馬と鳥の絵
樋口真吉伝・・・・・・・・・
第五章 激動の時代
幕末維新の混乱期の中で
樋口家の龍馬文書と「鳥」
《「樋口真吉伝」ではP165~167》
・・・・・・・・・・・・・
[融通無碍/南史観<私観>]
◆鳥の絵を描いた手紙
嘉永3年暮れ、龍馬は
中村での仕事を済ませ高知に帰った。
土佐の中村(融通無碍/関連話)中村での仕事とは「土佐藩直轄の四万十川改修工事」である。
この改修工事に藩庁の動員令が下り、ひとりの若者が
四万十川(土佐藩幡多奉行所)に派遣された。
若者の名は坂本龍馬、若干16歳であった。
竜馬四万十川にゆく(南寿吉著)真吉はその生涯を通じて日記をつけていた可能性があるが、残念ながらそれは見つかっていない。
あれば中村(四万十川)での龍馬との出会いなどが克明に記されていたかもしれない。
======
[融通無碍]
◆竜馬と四万十川

昼寝をする竜馬像
坂本龍馬が「四万十川へ来た」という、いわゆる「一次資料」は無い。
しかし、地元(高知県中村<現四万十市>)では、脱藩する前の龍馬が土佐藩が行なった四万十川の河川改修工事の現場監督として、はるばる高知からやってきたという伝承がある。
維新土佐勤王史(瑞山会編纂)にその記述があり、それを根拠に『竜馬の四万十川伝説』が生まれた。
竜馬の四万十川伝説(幕末足軽物語/関連話)◆竜馬と四万十川河川改修工事
NHK大河ドラマ「龍馬伝」2回目の放送で、若き坂本龍馬が、高知市の久万川での河川工事の差配役(現場監督)をするシーンがあった。
龍馬伝(NHK)第2回《龍馬<福山雅治>は江戸行きを父八平<児玉清>に願いでるが、八平は聞き入れず堤防工事の差配役を命じる。工事は百姓たちの争いで遅々として進まず、龍馬大苦戦。》
「維新土佐勤王史」には、龍馬は16歳になるや、四万十川の工事を督して幡多郡に出張する・・・とある。
また、「幕末にかがやく星~坂本龍馬~」<木暮正夫著>には、龍馬が四万十川の堤防工事の監督を頼まれて、荒くれ人足たちの心をすっかりとらえて、まとめました・・・ともある。
どうせ「一次資料」が無いから伝説ということなら、NHKもせめて「久万川ではなく四万十川」にして欲しかったもの。
龍馬伝(NHK)~~~~~~~~~~~~~
しかし、樋口家には龍馬の手紙が多数あったから、真吉は龍馬と手紙のやりとりはしていたかもしれない。
平成25年(2013)に逝去された真吉・ひ孫の樋口文太郎氏によれば、生まれ育った実家には多くの龍馬の手紙が残っていたという。
それらを見たころ、文太郎氏は旧制中学生で古文書が読めず内容を理解できなかったから記憶には残らなかった。
ただ鳥の絵があったことは覚えていると筆者に語った。
絵とは不思議なもので一度見るとその記憶、印象は容易に消えない。
文太郎氏が見た手紙の絵は、子共好きで気さくな性格の龍馬ならさしずめ真吉の子供たち宛てに描かれたものかも。もしかしたら弟・甚内の子供宛かも知れぬ。
◆龍馬と鳥の絵
龍馬は鳥の絵を描くのが得意で子供も喜んだらしい。
暗殺される直前に高知に帰ったとき、旧知の友人が訪ねて来た。
その友人は孫を連れてきており、その孫が龍馬の行動、印象を後年語っている。
いわく
①風呂に入る際龍馬の体についた刀傷を見たこと。
②男は刀を怖がってはいけないと言われたこと。
③早く帰りたくてむずがったら『あとでおんちゃんが面白い鳥の絵を描いちゃるき、堪えて待っちょりや』と言われたこと。
文太郎氏の話と符合する。
かれは龍馬の鳥絵を描くことが得意とは全く知らなかったから、生家にあったという竜馬書簡の存在は相当に信憑性が高い。
その後、鳥の絵を含む手紙類は高知城の西北部あるいは仁淀川筋に所在が移ったらしい。
移動先も具体的に聞いたが、ここでは触れない。
*******************
[龍馬書簡]

◆届かなかった手紙

龍馬暗殺の直前、安全な宿の確保を真吉に頼んでいるが、手紙は届かなかった・・・。
届かなかった龍馬の手紙(融通無碍/関連話)
樋口真吉伝・・・・・・・・・・・・
暗殺8日前の手紙・・・・・・・・・・・・
◆新国家
暗殺5日前の手紙(解説は尾崎前高知県知事)
龍馬暗殺5日前の「龍馬の手紙」(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
北方開拓計画(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
◆日本を今一度洗濯いたし申候

原文
龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本タイホンをたて、夫より江戸の同志(はたもと大名其余段々)と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本ニツポンを今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ガンニて候。
意味・訳
龍馬は2,3の大名(福井藩の松平春嶽)と固い約束をして、同志を集めて、朝廷っもまずこの神の国を滅ぼさぬ大方針を立て、江戸の同志旗本大名そのほかと心をあわせて、いまいった悪い役人と一度戦って撃ち殺し、この日本をもう一度洗濯しようということを神様にお願いしたい気持ちです。
・・・・・・・・・・・・
◆龍馬の「新婚旅行の手紙」(京都国立博物館所蔵<国重要文化財指定>)
お龍のことや鹿児島への旅の様子を絵入りで姉乙女に知らせた手紙である。霧島山登山について述べている。
ーーーーーーーーーーーーー
[坂本龍馬記念館HPより]

慶応2年12月4日 姉乙女宛
通称「新婚旅行の手紙」。寺田屋で襲われた龍馬と妻のお龍は薩摩藩にかくまわれ、薩摩の船で鹿児島へ行くことになった。その年の暮れ、お龍のことや鹿児島への旅の様子を絵入りで姉乙女に知らせたのがこの手紙である。龍馬は寺田屋での出来事を「龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり」と書き、続いて鹿児島での霧島山登山について絵入りで述べている。(真物は京都国立博物館所蔵/国重要文化財指定)
・・・・・・・・・・・・
◆イカルス号事件関連の手紙
慶応3年7月6日
長崎で英艦イカルス号水夫2人が殺害され、その嫌疑が海援隊士に及ぶ(冤罪)という「
イカルス号事件」が起こる。
イカルス号事件(融通無碍/関連話)龍馬は土佐須崎に赴き、須崎湾に浮かぶ土佐藩船・夕顔丸で英公使・バークスと談判し、海援隊士は関係がないことを認めさせた。
~~~~~~~~~~~~~
[京都国立博物館HPより]
◆龍馬の手紙

慶応3年8月5日 長岡謙吉あて
慶応3年(1867)6月には海援隊によって大政奉還策が土佐藩や薩摩藩に示され、龍馬はそれに向かって活動を行なっていた。
しかし、長崎で英国船イカルス号船員の殺傷事件がおき、海援隊士が犯人として疑われていた。その事件処理が長引き、龍馬は土佐藩と英国側との交渉の席に立ち会うため予定を変更して土佐へ向かわねばならなくなった。
その時に、龍馬が自分の行動予定を長岡謙吉に知らせた短い手紙である。

イカルス号水夫殺害の嫌疑が海援隊にかかり、その交渉が土佐に移され、薩摩船三邦丸で須崎港に着いた事を伝える。(国立京都博物館蔵)
長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~~~~
兄・坂本権平宛の「龍馬の手紙」

浦戸より須崎に逆航(波風の為、震天丸が破損)空蝉(原名胡蝶丸)に乗り換え10月9日大阪に着いた消息を兄権平に伝えている。
・・・・・・・・・・・・

本山只一郎宛の坂本龍馬 書状(霊山歴史館蔵<京都東山>)
龍馬の手紙(youtube)この手紙が書かれた時期には、
本山只一郎は土佐藩の大監察という重役に就いていた。文中、龍馬は「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」、「運んできたライフル銃の購入を決めてほしい」と、本山をせかしている。
本山只一郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~~
◆龍馬の手紙(HP/日本の歴史ガイドより)
(慶応3年9月27日)
一筆書かせて頂きます。
先日じかに申し上げた件ですが、何卒明朝から夜にかけて返事を頂戴したい。
龍馬の手紙/本山只一郎宛て・・・・・・・・・・・・
◆薩長同盟から大政奉還に関連した書簡
慶応2年1月21日
坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介もあって薩長同盟が成立し、長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。
この直後、龍馬は伏見・寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負うが薩摩藩邸に逃れる。
その後鹿児島に渡る。勝海舟の神戸の海軍塾が閉鎖された際にも塾生らの身柄は薩摩に引き取られたこともある。
この事件と、その後の経過が真吉にどう映ったか。
薩長の仲介は良いとしても、その後薩摩の保護下に入りさらに薩摩入りしたという事は
「龍馬は何を考えているのか。まるで薩摩の手下じゃないか」と思ったとしても無理ないかも知れぬ。
・・・・・・・・・・・・
慶応2年1月22日
薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。
これにより薩長両藩は後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。
盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙<木戸孝允宛て①>(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
慶応2年6月16日
ユニオン号に乗って下関に帰港した龍馬は長州藩の求めにより幕府軍との戦いに参戦することになる。
高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬は
ユニオン号を指揮して最初で最後の実戦(海戦)を経験した。

高杉晋作/戦場で三味線

下関海戦図(手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいに感想を書いている。/高知県立坂本龍馬記念館より)
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。
幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。
思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した。(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)
帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ喪失、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、
亀山社中には船がなくなってしまった。
亀山社中(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
慶応2年7月28日
三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「
大極丸」を亀山社中に供与した。
三吉慎蔵(融通無碍/人物評伝)龍馬の手紙<三吉慎蔵宛て①>(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーーーー
◆大極丸のこと
大極丸はユニオン号の艦長
千屋寅之助の相方・
白峰駿馬が船将として運航された。
千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)白峰駿馬(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・・
慶応2年8月1日
小倉城が落城。
高杉晋作が指揮した小倉藩への渡海作戦で、龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の海戦を経験した。
この小倉藩への渡海作戦の状況を
三吉真蔵に報告した
龍馬の手紙がある。(慶応2年8月16日付け)
三吉慎蔵(融通無碍/人物評伝)龍馬の手紙<三吉慎蔵宛て②>(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・・
◆真吉の手紙
慶応3年(1867)10月14日付けの真吉の手紙がある。

(土佐山内家宝物資料館蔵)
真吉が大政奉還の情勢に鑑み土佐の同志(島村祐四郎、桑原介馬、<中村の>諸君)宛てた「奮発」を促す手紙であった。桑原介馬は真吉の弟子で江戸への長途に同行した人である。
この前日(13日)幕府<徳川慶喜>は二条城へ諸藩の重役を呼んだ。その数四十余藩に及んだ。王政復古(=大政奉還)を布告する紙面が参集者に配られる。
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)その席で後藤象二郎が将軍慶喜に
「明日すみやかに参内して勅許を得るべし」と迫る。
慶喜は
「15日に参内して勅許を得たい」と抵抗、後藤は
「それでは遅い。今夜中に摂関家に行き、明日には参内すべきだ」と追い詰めるが、逃げられた。
(結局、将軍・慶喜は14日に(摂政・二条家にか?)辞表を出し、15日に御所に参内した。)
大政奉還と龍馬(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・・
この様子を詳細に報じた後、真吉は同志の奮発を促したのだ。
言う。
『この度こそ御因循無く 御登京の御機会 顕然にござ候あいだ、きっと御尽力ひとえに冀い奉り候。御同志方もこの度のお供には御奮発ひとえに願い奉り候。』
この報せは、蒸気船に乗って、すぐに中村の同士(真吉の弟子達)に届いた。
そして、中村にいた真吉の一番弟子ともいえる
安岡亮太郎を先頭に四十人余りが集まり自費で武装し、朝廷守護の名目で上京しようとして、高知城下まで押し寄せたのである。
安岡亮太郎(融通無碍/人物評伝)高知で桑原介馬と合流し、藩庁に働きかけた。
藩はその対応に苦慮し、結果、藩主の名を以って、連中を慰撫し、その暴走を防いだ。
土佐の藩論はいまだに幕府救済にあったからだ。
真吉の促した「奮発」は阻止された。
だが真吉の手紙は幡多の中村の志士たちを奮発させた。
大政奉還(NHK大河ドラマ/龍馬伝)・・・・・・・・・・・・・
◆龍馬、福井藩を訪れる(慶応3年11月)

「越行の記」
大政奉還直後の慶応3年10月24日、龍馬は越前福井藩を訪れています。
龍馬の目的は、
①大政奉還後の政治体制について松平春嶽の考えを聞くこと。
②新政府の財政問題の解決方法を三岡八郎に聞くこと。
その会談内容を
後藤象二郎に報告した手紙がある。
龍馬の手紙<後藤象二郎宛て>後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・・・
暗殺2日前の「龍馬の手紙」
現存する中で、龍馬の最後の手紙。海援隊士陸奥との刀談議。
慶応3年11月13日
龍馬楳太郎(龍馬変名)
奥陸元二郎様(陸奥宗光:海援隊士)
一、差し上げると言った脇差は、まだ大阪の便が帰ってこないのでわからない。
一、持たせた短刀(差し上げると話した)は私のものよりはるかに良いものです。ただし、茎(なかご:刀身の柄に被われる部分)の銘は型に及ぶものです。これはまさしく確かなものです。けれど、大阪から刀研ぎが帰ってきたら見せて下さい。
一、私の長い脇差をご覧になりたいとのことなのでご覧に入れます。
13日
陸奥老台(陸奥宗光)
自然堂(龍馬変名)

慶応3年11月13日 陸奥宗光宛
暗殺2日前の日付で、現存するなかでは最後の手紙。内容は海援隊の中で龍馬が期待をかけていた陸奥との刀談義で、この時期にしてはのどかな話だが、龍馬の刀剣趣味は並々ではなかったという。自然堂は慶応3年から龍馬とお龍が住んだ下関の豪商・
伊藤助太夫邸で、そこから慶応3年と推定。
伊藤助太夫(幕末足軽物語/人物評伝)~~~~~~~~~~~~~

紀州藩士時代の陸奥宗光
陸奥宗光(幕末足軽物語<人物評伝>)ーーーーーーーーーーーーー
[坂本龍馬記念館HPより]

慶応3年4月7日 姉乙女宛
慶応3年(1867)年4月から龍馬は脱藩を許され、土佐藩に戻り海援隊長になった。その嬉しさから、以前に奉行所役人に踏み込まれ、大けがをした寺田屋に泊まって、今度こそ「伏見奉行を恐れさせてやりたい」と言っている。(個人寄託)

新政府綱領八策/慶応3(1867)年11月初め
龍馬が作製。現在二通残っており、一通は国立国会図書館、もう一通は下関市立歴史博物館が所蔵。
後藤象二郎とまとめた「船中八策」が原形である。

元治元年6月28日 姉・乙女宛
物事にはすべて道理があり、ねぶと(腫れ物)を治すには、痛くても腫れ始めには我慢をし、腫れてしまってから針を刺さないと膿も出てこない。世の中を変えるには要はじっくりチャンスを持つことだ、と潮時を見極める大切さを説いています。後段では姪春猪(おやべ)の出産を気遣っています。(高知県立高知城歴史博物館所蔵)

姉・乙女宛の「龍馬の手紙」
(人間と云うものは世の中のかきがらの中にすんでいると人生論を展開している。)

慶応3年6月24日/姉・乙女、おやべ宛
姉乙女から来ている手紙がたまっていたのか、それに細かく答えています。
養子清次郎の頼りなさを訴え、海援隊は商売ばかり......と言うが、どこからも金が入らぬから仕方がない、
後藤象二郎は悪い役人というが、今は大政奉還に向けて一番の同志であること、
京都へ出ていきたいという乙女に、思い留まらせる説得など、
かなりの項目があり、長さは5メートルにも及びます。
この中で「今や500人や700人の人を率いるより二十四万石(土佐藩)を率いて天下国家に尽くすのがよい(意訳)」と自分が土佐一国を動かすという自負もうかがえます。(京都国立博物館所蔵/国指定重要文化財)
ーーーーーーーーーーーー
[「長崎龍馬便り」より]
龍馬が長崎でしたためた手紙
長崎ランタンフェスティバルに 龍馬とお龍の巨大オブジェ登場
・・・・・・・・・・・・・
◆北方開拓計画
龍馬の"新国家"構想の一つである「北方開拓計画」は
北添佶磨の発案とされている。
北添佶磨(融通無碍/人物評伝)北添佶磨がこの計画を発案するにあたり、当時の蝦夷地事情に精通した松浦武四郎に蝦夷地情報を求めている。

「北添佶磨書簡 文久3年8月2日 松浦武四郎宛」(松浦武四郎記念館所蔵)

「坂本龍馬書簡 慶応3年2月14日 河田左久馬宛」(個人所蔵 鳥取県立博物館寄託)
《蝦夷地行きの準備が整いつつあることを、龍馬が意気揚々と報告する内容》
ーーーーーーーーーーーーー
[坂本龍馬記念館HPより]
企画展=========================
[幕末足軽物語/関連話] HP/日本の歴史ガイドより
龍馬の手紙(融通無碍/第53話)
幕末足軽物語/関連話<龍馬の手紙>千屋寅之助 宛て(いろは丸の件)
三吉慎蔵 宛て①(亀山社中の近況)
三吉慎蔵 宛て②(小倉城が落城)
三吉慎蔵 宛て③(万が一のときお龍を頼む)
三吉慎蔵 宛て④(後藤象二郎は面白い人)
坂本乙女 宛て①(勝海舟の弟子になった)
坂本乙女 宛て②(天誅組の失敗をあわれむ)
坂本乙女 宛て③(池内蔵太のこと)
坂本乙女 宛て④(平井収二郎の切腹)
坂本乙女 宛て⑤(下関戦争)
坂本乙女 宛て⑥(池内蔵太の近況)
坂本乙女 宛て⑦(勝海舟の門人になり、エヘン!)
望月清平 宛て(届かなかった手紙)
本山只一郎 宛て(銃を購入して欲しい)
高松太郎 宛て①(池内蔵太のこと)
高松太郎 宛て②(寺田屋の借金)
長岡謙吉 宛て(万国公法)
後藤 象二郎 宛て①(大政奉還のこと)
後藤象二郎 宛て②>(越行の記)
溝渕広之丞 宛て①(龍馬の思い)
溝渕広之丞 宛て②(騎銃の価格)
住谷寅之助 宛て(辺境の地へようこそ)
池内蔵太 宛て①(貴方に会いたい)
池内蔵太 宛て②(京都の様子)
木戸孝允 宛て①(薩長同盟の裏書き)
木戸孝允 宛て②(寺田屋遭難)
桂小五郎 宛て①(
慶応3年の大芝居)
桂小五郎 宛て②(年賀状)
桂小五郎 宛て③(土佐の国は一新の希望が)
桂小五郎 宛て④(近況報告)
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)
坂本権平 宛て①(池田屋遭難)
坂本権平 宛て②(池内蔵太のこと)
坂本権平 宛て③(小倉戦争)
坂本権平 宛て④(天下の人物)
坂本権平 宛て⑤(桂小五郎のこと)
坂本権平 宛て⑥(上京した)
坂本権平 宛て⑦(溝渕広之丞)
坂本権平 宛て⑧(お登勢、小五郎のこと)
坂本権平 宛て⑨(上田宗虎のこと)
坂本権平 宛て⑩(戦の流儀)
坂本八平 宛て(ペリー艦隊)
岡本健三郎 宛て(大政奉還後、龍馬と福井へ)
吉井耕輔 宛て(池田屋遭難のお礼に刀を贈る)
渡辺弥久馬 宛て(土佐藩が銃千挺を購入)
佐々木高行 宛て①(鉄砲千挺取り揃えた)
佐々木高行 宛て②(飲み会の誘い)
佐々木高行 宛て③(小五郎の手紙)
河田左久馬 宛て<慶応3年3月>(北方開拓計画)
村田巳三郎 宛て<慶応3年11月>(龍馬暗殺8日前)
渡辺昇 宛て(勝海舟の動静)
長崎奉行所 宛て(イカルス号事件の処理)
陸奧宗光 宛て(商売する話)
林謙三 宛て(お命を大事に)
永井尚志 宛て(幕府の内乱)
龍馬と永井尚志<大政奉還~伏見戦争>(幕末足軽物語/関連話)高柳楠之助 宛て(いろは丸事件)
下関の豪商・伊藤助太夫 宛て(いろは丸事件の経緯)
小谷耕蔵&渡辺剛八 宛て(いろは丸事件が決着)
妻・お龍 宛て(いろは丸事件、その後)
印藤聿 宛て(薩長同盟について)
渋谷彦助 宛て(「将軍進発」の情報)

**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
**************

元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2025.。04.05.12.00