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土佐の森・文芸 融通無碍
[関連話]
佐久間象山の「五月塾」◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

嘉永四年(1851年)象山は江戸の木挽町に「五月塾」を開き西洋砲術・兵学を教えた。
佐久間象山(融通無碍/人物評伝)真吉が入門した「五月塾」には、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している。
さらに門弟には
小林虎三郎《長岡藩士・23歳の時に藩命で江戸に遊学し佐久間象山の門下に入る。戊辰戦争が始まり、新政府軍が至るという報が入ると、長岡藩では小林が起草した嘆願書を提出することを決定する。この嘆願書の内容は、当時としては珍しく法学の理論から徳川慶喜の赦免を訴えたものであった。「米百俵」の逸話で知られる。》
米百俵 ・・・・・・・・・・
河井継之助《長岡藩士・嘉永5年(1852年)の秋、江戸に遊学。佐久間象山の塾に入門。象山には砲術の教えを受けた。ただし象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。
戊辰戦争(1868年)が始まると大坂を警衛していた継之助らは旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻り、藩主らを長岡へ帰させ江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却。
その金でスイツ(=スイス)国の商人・ハーブルなどから、アームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。
特にガトリング砲は当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持していた。

1865年型ガトリング砲
真吉、十連発銃を買う(融通無碍/関連話)北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。》
峠/最後のサムライ(司馬遼太郎)・・・・・・・・・・
橋本左内《安政元年(1854)に江戸に遊学し五月塾に入門。
同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。
益友には、次の5つを目安とする。
① 厳格で意思が強く、正しい人であるか、
②温和で人情に篤く、誠実な人であるか、
③勇気があり、果断な人であるか、
④才知が冴えわたっているか、
⑤細かいことに拘らず、度量が広い人であるか。
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岡見清熙《中津藩上級藩士。藩士十数名と共に佐久間象山(象山書院)に入門、洋式砲術を学ぶ。
福澤諭吉の片腕となり、塾の運営や活字を買い入れてオランダ語の辞書の翻刻を行ったことが知られ、横浜に店を持って生糸の輸出、外国雑貨の輸入などを試みた。》
加藤弘之《但馬国出石<現・兵庫県豊岡市>藩士・嘉永五年(1852)江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出。》
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山本覚馬《会津藩士・22歳で江戸に出て武田斐三郎、勝海舟らと佐久間象山の塾に入る。
元治元年(1864)砲兵隊を率いて参戦した禁門の変において勲功を挙げ、公用人に任ぜられる。これにより幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え、活動範囲を広げる。
暗殺された象山の遺児の三浦啓之助の世話を勝から頼まれて引き受け、新選組に入れた。》
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武田斐三郎《伊予大洲藩士・24歳のとき藩主・加藤泰幹に願い出て佐久間象山に入門。洋学・兵学、砲学まで学んだ。箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。

五稜郭(北海道函館)
戊辰戦争が始まると、兄で儒学者の武田敬孝(のちに宮内省官僚)が指導した大洲藩が討幕派だったことから斐三郎も疑われて、御徒町の自宅が襲われ、恩師・象山の故郷である松代藩に匿われ、藩の兵制士官学校の教官を務めた。
明治維新後は新政府に出仕し、日本軍の近代兵制、装備、運用を含め、明治の科学技術方面の指導者となり、フランス軍事顧問団との厳しい折衝を経て、明治8年(1875)に陸軍士官学校を開校させた。》
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北沢正誠
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および他にも多数の日本を担う人材(真吉もそのひとりか)を輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えた。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーー