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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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那須信吾(1831~1863)
樋口真吉(1815~1870)

文政12年、土佐藩の家老を務める深尾家々臣である浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、梼原の郷士・
那須俊平の娘婿となる。
田中光顕の叔父にあたる。
那須俊平(融通無碍/人物評伝)田中光顕(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、
武市半平太に深く傾倒し土佐勤王党に加わった。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、親交があった
坂本龍馬が脱藩した。龍馬は梼原村の那須邸に立ち寄っている。那須親子と熱く語り合い、翌日には那須信吾が国境の韮ヶ峠まで道案内をした。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)龍馬、脱藩!(融通無碍/関連話) 
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越後浪人・
本間精一郎が土佐に入り、国境で那須信吾と会して 梼原村の那須邸へ潜伏した。
本間精一郎(融通無碍/人物評伝)武市半平太の指示で、
上田楠次、
河埜万寿彌が梼原村に赴き面談をしている。
京の
吉村寅太郎から依頼で土佐勤王党の武力蜂起を促す用件であったが、武市半平太は拒否した。
上田楠次(融通無碍/人物評伝) 河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝) 吉村寅太郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー

武市半平太の指示により
安岡嘉助や
大石団蔵らと共に、尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える
吉田東洋を暗殺した。
安岡嘉助(融通無碍/人物評伝) 大石団蔵(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
吉田東洋は藩主・山内豊範への講義を終え、下城する途中で3人(那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵)の刺客に襲われた。
吉田東洋の首級は思案橋辺りで河埜万寿彌、
川原塚茂太郎、
柳井健次が受け取り、雁切(吉田東洋の首がさらされた現場)へ運び晒された。
川原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝) 柳井健次(融通無碍/人物評伝)3人はそのまま脱藩して京都の長州藩邸に逃げ込み、久坂玄瑞に保護されている。路用のため、武市半平太から金子を渡されたという。
那須信吾・安岡嘉助は
天誅組に参加、吉村虎太郎と行動をともにすることになるが、大石団蔵は天誅組には参加せず薩摩藩邸に移り薩摩藩の保護下に入っている。
天誅組(融通無碍/関連話)その後、大石団蔵は薩摩藩士・奈良原繁の養子となり、薩摩藩士として活動することに。名前も「高見弥市」と改名した。
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[融通無碍/]
脱藩後の那須信吾に、養父・那須俊平から手紙が届いた。
「父母、妻子のことは、露ばかりも心にかけず、一心不乱に、一命をわが大君の御為に捧げまつれよ。」と伝えてきた。
那須信吾は、これを受取り喜びを感じ、ただちに返事をしたためた。
この度の厚意を謝し、今までの父に何も言わなかった心の中も打ち明け、吉田暗殺のことをくわしく書いて、今度は、同じ心で国に尽くすべきことなど、こまごまと書いた。
那須俊平は、信吾の手紙によって天下の事情に明るくなり、土佐勤王党はもとより諸般の志士と気脈を通じて、国のために尽力することになる。
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文久3年、
《
日記・遣倦録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP236>
◆天誅組の変(真吉の上書より/文久3年9月11日)
大和義挙(天誅組の変)は放置できない。使者を出し
「勅命である。暴行は許されない。追って沙汰あるまで遠慮せよ。その地の寺院に閑居せよ」と命ずべきだ。
不束なことがないようきっとせよ。
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那須信吾は先に土佐藩を脱藩していた
吉村虎太郎らと
天誅組の変に参加、大和五條代官所を襲撃して「五條御政府」の樹立を宣言した。
吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝) 天誅組の変(融通無碍/関連話)京で政変(
8.18の政変)が起こり追放される。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)大和十津川郷(奈良県東吉野村)で、幕府軍との「鷲家口の戦い」で銃撃を受け絶命した。
那須信吾の首は京都に運ばれ、吉村寅太郎ら12名の隊士の首と共に粟田口に晒された。享年35。
吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝) 天誅組(融通無碍/関連話) 
脱藩/那須俊平と那須信吾、玉川壮吉(高知県梼原町)
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元治元年、那須信吾戦死の報を受け、那須俊平は脱藩の決心を固める。
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP249>
元治元年6月14日
那須俊平と玉川壮吉(いずれも梼原出身者)が当月8日亡命したようだ。
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那須俊平は武市半平太が切腹する直前の元治元年6月8日に脱藩し、長州へ。
脱藩後は長州の浪士結社部隊・忠勇隊の傘下に入り京へ進軍した。
池内蔵太らとともに京へ流れ込み薩摩、会津藩らと凄まじい攻防戦(禁門の変)の末に討死する。享年57。
池内蔵太(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーー
[脱線話]
◆那須信吾は馬より早い健脚であった
那須信吾は武勇に優れた怪力の持ち主で、身長は六尺(約180cm)近くあり、「天狗様」と称されたという。
走ることにおいては馬より速いとまで噂されたといい、梼原から片道2日かかる高知城下まで25里の道程を1日で駆けたとの逸話がある。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP204>
文久2年11月10日
鞠子で
谷千城氏が早追いの馬に乗って駆けて来るのに出会う。追い抜かれる。吉原に宿す。十五里(60km)
谷千城(融通無碍/人物評伝)=======
《融通無碍》
◆馬の早さと人間の歩く距離
22歳年下の上士・谷干城の乗った馬に追い越されて真吉は・・・・、想像するしかない。
が、真吉の歩く早さも驚異的だ。<文末の「十五里」はその日に歩いた距離>
日記引用開始の冒頭で書いたように「一時間に一里が人間の歩く距離の標準」だ。
土佐・梼原の郷士である那須信吾(吉田東洋暗殺団の一員、天誅組の軍監)の健脚も巷間著名だが、あれは史料的裏付けがない。
梼原は不思議な地域(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
那須親子は坂本龍馬とも親交があり、文久2年3月に龍馬が脱藩する際には、那須邸に宿泊し、那須信吾が国境の韮ヶ峠まで道案内をしている。
脱藩する龍馬(NHK動画) 昭和51年、那須慎吾生誕の地である高知県檮原町と、最期の地である奈良県東吉野村は友好町村盟約を結んでいる。
東吉野村ーーーーーーーー
筆者も地図上で真吉の歩いた距離を確認はしていないから、<史料的裏付けがない>同類項か。
ただ、筆者16歳の頃、高知→松山、130kmを野宿しながら歩いた経験がある。
この時、筆者ごとき普通人は一日に40kmが歩く限界のように感じた。
無論これは凡人に言えることで、鍛錬を積んだ苦労人は別世界の住人だからその限界は、はるか先にある。
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[融通無碍]
昭和51年、那須慎吾生誕の地である高知県檮原町と、最期の地である奈良県
東吉野村は友好町村盟約を結んだ。
また、東吉野村は、吉村虎太郎の出身地である高知県津野町とは姉妹村提携を結んでいる。
東吉野村
大和殉難烈士之碑(明治28年12月、大和天誅組義挙から33年後の天誅組三十三回忌の際に
石田英吉らの主唱により建てられた。ブログ「南国土佐へ来てみいや」より)
石田英吉(融通無碍/人物評伝)
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那須信吾戦死の碑
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土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)**************
「土佐梼原勤王烈士列伝」より
「維新の門」の那須信吾(中央先頭)
2021.10.01.23.58