樋口真吉の『幕末足軽物語(戊辰戦争従軍コラボ編)』
《
日記:戊辰戦争従軍より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP305>
◆慶応4年元旦 真吉54歳
土佐藩の主力部隊(=迅衝隊)結成のため
谷千城と下横目・唯三郎が本藩(土佐藩)に帰る。毛陽人(宿毛)・中村進一郎がかれらに従う。

伏見に会津兵が布陣している。

土佐藩(山内容堂)は「この戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘である」と日和見を決め込んでいたが、薩土密約から京都の土佐藩兵(真吉も参戦)が、伏見方面の戦闘に参加してしまう。(伏見戦争)
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP307>
慶応4年1月5日
真吉は、野戦砲一門、兵7、8人とともに出撃した。
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[融通無碍]

アームストロング砲と
スペンサー銃スペンサー銃のこと(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP311>
慶応4年1月6日

伏見戦争に敗れ、将軍・徳川慶喜が会津・松平容保を道連れに海路江戸に遁走した。
鳥羽・伏見の戦い(NHK動画)======
[融通無碍]
八重の桜(NHK/大河ドラマ)
NHK大河ドラマ/八重の桜徳川慶喜
『大坂が焦土と化し、我らが討ち死にするとも江戸に残った者たちが志を継ぎ戦い続けるであろう。大義は我らにある。最後の一騎となるまで戦い抜くぞ』
神保修理
『我が軍勢、兵の数こそ敵に勝っておりまするが、軍略が乏しくこのまま戦を続けては兵を失うばかりと拝察つかりまする』
徳川慶喜
『分かっておる。では、如何すればよい?申してみよ』
神保修理
『兵たちを率いて一旦江戸に戻り、戦略を立て直すべきかと存じまする』
慶喜は意を翻し、会津藩士とともに大阪に残るという松平容保に・・・
徳川慶喜
『ならぬ。そなたがここにいては会津兵はいつまで経っても戦を止めぬ。偽物とはいえ、錦旗が挙がった上は、兵を引かねば徳川は朝敵となるのだぞ。会津の家訓に徳川を朝敵にせよとの一条があるのか?』
松平容保
『・・・』
神保修理
『・・・』
かくして、総大将・徳川慶喜が会津藩主・松平容保を連れて、兵を捨てて逃げ出した。
大坂に残った神保修理は弁明の機会も与えられぬまま、後に「敗戦の責任」を取らされ切腹を命じられた。

神保修理
神保修理と伏見戦争(幕末足軽物語/関連話)
龍馬の手紙<三吉慎蔵宛て>(会津藩家老・神保修理に逢った)愛しき日々風の流れの激しさに
告げる想いも揺れ惑う
かたくなまでの ひとすじの道
愚か者だと笑いますか
もう少し時がゆらやかであったなら
会津に散った若き獅子たち/白虎隊(NHK動画)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP311>
慶応4年1月6日
将軍・慶喜が会津・松平容保を道連れに海路江戸に遁走した。満天下に赤恥を曝した。
薩長の兵は敵と淀川で交戦したが、賊は悉く敗走し手勢を失った慶喜は怖気づき、終に大坂を棄て、船で海上を走り江戸に奔<はし>る。
江戸より報あり『去る月(=12月)23/24日、酒井左ヱ門尉(=庄内藩主)と薩摩藩が交戦し薩摩邸が焼亡、江戸城二之丸もまた焼亡』とのこと。
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[融通無碍]
摩藩邸焼討事件(幕末足軽物語/関連話)**********
[幕末足軽物語/関連話]

イギリスのパークス公使
慶応4年<1868>1月、慶喜が大坂を脱出する直前に、イギリスのパークス公使と大阪城で会談している。
その会談の記録<外交機密文書>がイギリスにある。
パークス
「あなたは天皇に政治の実権を返上したはず」
パークス
「国内の政治情勢はますます混乱を極めている。あなたはこの事態を収拾できるのか」
徳川慶喜
「とにかく私の望みは、この混乱を平和的に解決することにある。そのためなら、この身はどうなっても構わぬ」
パークス
「賢明なご判断だ」
この会談の後、慶喜は新政府軍との戦い<伏見戦争>に敗れ、政治の表舞台から身を引くことになる。
新・幕末史/戊辰戦争(NHK)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP312>
1月11日

土佐に
錦旗が授与された
征討仰せ付けられ候に付き、御紋御旗(錦の御旗)二流下賜候事 正月
高松 松山 大垣 姫路
右四藩、従来天朝を軽蔑し奉る義、少なからず候処、剰あまつさえこのたび慶喜反逆に与力し、官軍に敵し候段大逆無道、これに依って征伐の師(軍勢)差し向けられ候事 正月十日
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[融通無碍]
土佐に錦旗が授与された(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP313>
1月13日
真吉は錦旗を守護して本藩に帰る予定で動き始める。
その一行は大監察・
本山只一郎、小監察・伴周吉、徒監察・
樋口真吉。その余は吉川捨吉、下横目・吉永良吉、濱田清蔵、本山左近九郎、脚子(足軽の意か)武市慶七、池本傳助、友松鏆兵衛など12人、京師を発して伏見で乗船し夜八頃(26時)大坂に着く。
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)======
[融通無碍]
土佐本藩では『
迅衝隊』が結成され、同隊に錦旗を届けるための帰藩であった。
迅衝隊(融通無碍/南史観<私観>)
(前列左から伴権太夫、
板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、
山地忠七。 中列、谷神兵衛、
谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田喜久馬<平左衛門>(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列、
片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)山地忠七(融通無碍/南史観<人物評伝>)谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>) 片岡健吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
1月14日
午後出発し同夜九つ過(24時過ぎ)神戸に着、過日ここを
備前侯一行が通行の際、夷人<いじん>(外国人)が不敬(無礼)を働き、備前藩兵が怒って斬り捨てたから、通行門が閉ざされ不通(通行止め状態)で夷人館の西側にある細道を通ることにした。
錦旗を守り抜いた(融通無碍/南史観<私観>)======
[融通無碍]
◆備前侯
備前池田家(石高:32万石)の当主は茂政。水戸斉昭(烈公)の子として生まれ、兄弟には水戸本家の当主、鳥取藩主、さらに15代将軍慶喜らがいる。烈公は子沢山で、名門水戸の血を諸家は競って欲しがった。ドッグショーで優勝した犬の仔は高値を呼ぶ。
一時他家に養子入りするも安政6年(1859)、安政の大獄で実父斉昭が処罰されると幕府意向を忖度した養家の隠居により廃嫡されて、元の水戸徳川家に復籍する。
文久3年(1863)2月、岡山藩主池田慶政の婿養子となり、池田修政と名乗る。
先代藩主・慶政はかれを選ぶに際し水戸烈公の子であることを重んじた。「ただの尊皇か、それとも尊皇攘夷か」の選択を迫られているなかでの決断だった。尊攘派の盟主・斉昭の息子を迎えることは藩論を尊皇攘夷に統一するという意思を内外に表明するもの。
慶応3年(1867)秋の大政奉還で、朝廷から尾張藩主の徳川慶勝らとともにを命令される。王政復古の大号令後の慶応4年(1868)、兄で15代将軍だった徳川慶喜の追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍(官軍として)に参加するように命じられるが慶喜の弟である茂政は兄を攻撃するこの軍列に加わらなかったが官軍の命に従い、軍勢を引き連れ神戸に入った。
岡山城を出るときから「道中、夷人が無礼を働けば即座に斬り捨てる」覚悟だった。それが攘夷行動というもの。予定通りの行動で騒動を起こしただけ。その直後に真吉らが来た。
この騒ぎの後の3月15日、かれは朝廷に隠退・養子届けを出し、家督を章政に譲って隠居した。筋は通す人だった。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP323>
2月11日
東征軍に動員する藩兵を全員集合させ、装備など点検する。
当初行軍経路は東海道の予定であったが朝廷の意向で東山道に繰り替えになる。
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[融通無碍]
整列した将兵を前に
山内容堂が短く訓示する。
曰く
「
天猶寒し、自愛せよ」
天猶寒し自愛せよ(融通無碍/南史観<私観>)山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP323>
2月14日

雨天であるが予定通り京師を発す。
官軍(東征軍)として関東へ
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[融通無碍]
真吉は、戊辰戦争に本格的に参入する。
真吉は、主として兵站(輜重)を担当。小荷駄裁判役となる。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーー
2月18日
雨。垂井、大垣で宿。
堺事件の一報が入る。
迅衝隊・裁判役の村松彦蔵が大坂からやって来た。言うには、
『去る14日、大坂・堺においてフランス人が乱暴を働き、土佐藩兵が駆けつて斬って追い払うと連中は狼狽し艀はしけに乗って逃げたそうだ』
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[融通無碍]

堺事件だ。仏人を斬殺し罪に問われ幸運にも切腹を免れた土佐藩の下士達の一部は土佐の幡多に流された。
堺事件と幡多(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP330>
3月5日
早発する。甲州入口には川があった。
幕府代官のいる甲府城を受け取り、城下の一蓮寺(山梨県甲府市太田町:時宗系寺院で山号は稲久山。一条道場とも呼ばれる)で休憩する。
夜半、東方に火の手が上がり段々とこちらに近づいて来る。賊徒らしい。
真吉らは野寺の市店に宿陣していたがここでは防御が難しいと判断し、接収した甲府城に拠ることにし、移動した。その移動が終わる頃、夜が明けた。
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[融通無碍]
◆甲州勝沼の戦い

錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』
甲州勝沼の戦い(融通無碍/南史観<私観>)この日記が記された頁の欄外に『巨魁・近藤勇 変名・大久保剛』とある。
【近藤勇】
京都で治安維持のため、
池田屋騒動などで勤皇志士たちを多数斬殺したあの
新撰組局長である。
池田屋騒動(融通無碍/南史観<脱線話>)この勝沼の戦いでは辛うじて戦線を離脱して再起を期したが、流山の戦いで官軍の本部に出頭して偽名(=大久保大和)を名乗るも顔見知りがいて正体が知れ、捕らわれて板橋で斬首された。
新撰組(融通無碍/南史観<私観>)真吉はこのことを知り、『逃げたあの群れの中に近藤がいたとは』と後日に加筆した。
・・・・・
[脱線話]
■京の都で、真吉と近藤勇の「沈黙の会話」?
近藤勇は、京では名の売れた剣豪であった。しかも『泣く子も黙る』新撰組局長であるから威風堂々と京の街を配下引き連れ闊歩していただろう。同時期、京にいた真吉もその姿を見ただろう。
老いたりとはいえ、真吉にも他を圧するような威厳が往時同様に漂っていただろう。勇は周辺の隊士に聞いたかもしれない。
(おい、あの長身の武家はなにものだ?)
(局長、土州の樋口真吉ですよ)
(あれがそうか。なるほど、修練とはすさまじいものだな。老いてなお、ではないか)
真吉は鋭い視線を通りの向こう側を歩く勇に注いだ訳ではない。かれも修羅場に身をおく境遇にあり警戒を怠らぬ剣士であれば自ずから真吉の発する雰囲気を感じ取っただろう。
真吉は
(あれが近藤か。寄る年波には勝てぬが歳を取ったから血気は失せ、その分無駄な動きも無くなる。抜きあえば、手数を使わず一撃で倒せる。一人を集団で囲み討ち取るのが、新撰組の戦法と聞いたが、京の白昼なら、壁を背にして戦えばこちらにも勝機は充分だ)
(ましてや、サシの勝負なら負けぬ)
こんな沈黙の会話が両者の間にあったかも知れないし、互いの立場を考えれば、あったとする方の可能性が高いと、筆者思う。

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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP336>
4月11日
期限は11日とした朝廷の命令通り黎明のころ、慶喜が江戸城を退く。

徒歩かちの家来を500人ばかり従え、上は平袖、下は小袴の高股を着用して(如何にも貧相で、尾羽打ち枯らした風体)、砲器(自衛の火器)は携えず、総髪(月代も剃らず、丁髷<ちょんまげ>を結ばず後で束ねた髪型)であった。
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[融通無碍]
◆江戸城の無血開城(慶応4年4月)

『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館蔵)
徳川の終焉(融通無碍/南史観<私観>)
「御本丸」と書かれた江戸城の写真
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP342>
4月1日
晴れ、「如来寺」(日光市今市、東武日光線の下今市駅の西北500mに所在)に輜重局本部を置くことにした。
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◆世界遺産を守った土佐兵・板垣退助
昨日、迅衝隊は敵を追って日光東照宮に迫ったが、その門前に2人の僧侶が飛び出して来て平身低頭して涙を流さんばかりに哀願する
「賊徒が山内(境内)に侵入しております。今、官軍がこれを追って攻撃しますとこの貴重な霊場が焦土と化すことはわれらにとって嘆息に堪えないことです。暫くのあいだ、お待ち下さい。帰山して凶徒どもを追い払い掃除も済ませて官軍をお迎えします」
確かに懇願は丁寧で理に適っている。僧侶は懇願を繰り返す。
迅衝隊内で相談の末、ひとまず引き返すことにした。
総督板垣退助の英断もあっただろう。日光東照宮という文化財はその後の戦火も免れて現在に至る。世界文化遺産である。

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[融通無碍]
総督たる上士・板垣退助には幕府を開いた家康に対する尊崇の念が有った筈だ。かれの地位の源泉は藩祖・山内一豊を厚遇した家康にあるから。家康あっての土佐藩だ。
もし総督が長宗我部侍の末裔であったら「憎き徳川の廟など・・・」かも知れぬ。
歴史に「もしも・・・」は禁物。
板垣退助、日光東照宮を守る(融通無碍/南史観<私観>)
日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
板垣退助と、甲府の断金隊(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP347>
5月6日
未明、東村(=芹沢である、と欄外に記入あり)の農民が来て言う、『昨夜から東村の近くに賊が屯<たむろ>している。今日あたり御陣を襲うつもりでは』
即座にかれを同行して本営に行き、その旨を報告する。
終わって、宿舎の如来寺に戻って碁をうつ。
(さあ、本営はどうするつもりか・・・・)
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[融通無碍]
第二次今市宿攻防戦<慶応4年5月6日>(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP349>
5月18日
江戸・上野戦争の勝利報告が届いた。

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[融通無碍]
上野戦争終結(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP357>
6月29日
真吉は江戸城に登城して、正五位を叙位されている土佐出身の高官・
清岡半四郎に面会する。
清岡半四郎は官軍の実質的な指揮官・
大村益二郎と真吉をひきあわせた。
真吉は軍資金不足を直訴する。
「手持ちの金では一月<ひとつき>半がやっとだ、天金がもらえないと負ける」
その答えに大村益二郎は
「降心(=安心)いたされよ。これ以後は兵事の差し支えに及ぶことは決してない」
最高の言質を得て、真吉は安堵と満足に浸りながら帰邸した。
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[融通無碍]

大村益次郎肖像画/国立国会図書館蔵
大村益二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)清岡半四郎は土佐東部・野根山で蜂起し(
野根山騒動)、奈半利川原で散った清岡道之助の実弟である。
野根山騒動結末記(融通無碍/南史観<私観>)ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP360>
7月10日
敵の領分を探索する。
5里圏内に敵影を見ない。しかし山林・渓谷中に放置された死骸の腐臭が酷く、鼻を被わないと通れないほどだった。今月1日の戦闘の跡だ。
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[融通無碍]
旧暦の7月1日は調べると、この年は8月18日だった。お盆を過ぎているから少し暑気も薄れたかも知れない。が相当高温だろう。
遺棄された死体が10日間放置されれば・・・・
目を覆う惨状(視覚)に腐臭(臭覚)が加わると・・・・
匂い付きの地獄絵を突きつけられたような思いがするだろうに。
うじ虫が遺体の上を這い回る音(聴覚)がザワザワと静かに聞こえる。何とも筆舌に尽くしがたい。
われわれは戦争の画像を時々見ることもあるが、画像から臭においは伝わらない。視覚に訴えても嗅覚には伝わらない。
戦争の悲惨さへの自分の想像力の欠如を思い知る。
戦争を煽る人々にこそ嗅がせたい臭いではないか。
思い知るべきだ、戦争が起ればどうなるか。
一度臭えば3日は忘れないとか聞いた。鼻についた悪臭の思い出で全く食欲を失うとも。
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◆磐城の戦い

磐城平の戦絵図(絵の中央当たり、大砲から弾が放たれ、絵の上にある磐城平城の城門が破壊される様子が描かれている。)
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP361>
7月16日
黎明、敵(仙台を主体とする)千人余りが城山を占領後、淺川に押し寄せた。
土佐藩と彦根藩がこれを迎えうつ。晨<そうちょう>から八ツ時(14時頃)に及ぶ激戦のすえ、敵はついに背を向け敗走した。この日、朝のうちは晴天であったが戦いが酣<たけなわ>の頃大雨になったから敵は甚だ困窮した。
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[融通無碍]
奥羽越列藩同盟の弱点(融通無碍/南史観<私観>)
奥羽越列藩同盟旗
奥羽列藩同盟との戦いーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP362>
7月24日
真吉らは棚倉を発し、2里行くとまだ戦闘の跡も生々しい淺川を見る。
ここは西側に原っぱや田んぼが広がっていて人家も多い所であった。
佐田、白川村を経由して石川に泊まる。石川は淺川から三里離れているが、ここでは官軍は先鋒を彦根藩、次に館林、薩摩、長州、そしてわが土佐、黒羽、最後に忍の順番に一日交代で宿陣する約束であったにも関わらず、この日は何故か全ての藩が宿泊しており、土佐藩兵の宿る人家がなかったから、大もめにもめた。
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[融通無碍]
混成・連合軍の宿命(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~
◆会津城の戦い

損傷した若松城(会津戦争後撮影)
旧幕府側の会津藩は若松城において約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。
会津藩が降伏(融通無碍/南史観<私観>)======
[融通無碍]
八重の桜(NHK/大河ドラマ)
NHK大河ドラマ/八重の桜ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP378>
11月1日

「御本丸」と書かれた江戸城の写真
晴れ、4時(10時ごろ)甲邸に出る。
諸隊勢揃いの上、皇居(=天皇のいる江戸城)に参内する。
下馬札の手前に銃器を置いてから登城する。回って庭先の少し下の段に刀を脱し、庭の上の土に蹲踞する。
大臣が周旋して御簾が高く巻き上げられ、隊長以下敬いて龍顔(天皇の顔)を拝したてまつる。
陛下は白い御衣を召しておられた。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP380>
12月1日
曇天、真吉の戊辰の年の旅はこうして終わった。
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[融通無碍]

土佐へ帰る直前に戊辰戦争凱旋記念として横浜で撮影された。
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◆一枚の写真が語る真吉
南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に面白い記述(四方山話)があります。
樋口真吉伝・・・・・・・・・・・
第一章 真吉の生きた時代
故郷における樋口家
一枚の写真が語る真吉
《「樋口真吉伝」ではP20~23》
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[余話<後日談>]
会津から江戸・京都、そして高知城での凱旋後、中村に戻ってきて妻・お兼や娘二人、そして跡取りの次男(長男・鵬丸は夭逝した)鵬二郎を引き連れて高知城の南、鏡川の北岸・築屋敷に引っ越した。
家の座敷からは、川向こうに筆山<ひつざん>(標高百十七m)が見える。

鏡川北岸から筆山を望む
ここは足軽には居住が許されなかった区域(藩の官舎)であったが、真吉が戊辰戦争の功績で「
新留主居役<しんるすいやく>」という上士最下位に昇任したから入居できた。
新留主居役(融通無碍/南史観<私観>)**************