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土佐の森・文芸 融通無碍
[関連話]
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■吉田東洋の鶴田塾
文久元年、真吉が職を辞して中村に帰る前後、藩にあって権勢を振るうのは執政吉田東洋であった。かれの先祖は「長宗我部治世下の経歴に照らし歴史地理に明るく戦略立案と運営能力に長けている者」と認められたから、郷士ではなく最初から「上士」となった。
長宗我部の没落後、土佐を出た遺臣には他藩に2千石クラスの新幹部として迎えられた者もいるにはいたが、大部分は帰農した。
そのなかにあって吉田氏は上士となったのだから異例であった。
一領具足の一部が郷士となったのは「上士にするほど能力がない」という山内の冷徹な評価によるもので、大部分は郷士にもなれなかった。
一領具足(融通無碍/関連話) 山内氏は入部後しばらく経ってから一定面積以上の土地を所有耕作しているもの先祖縁者に悪人(?)がいないことなどを条件に新規郷士に取り立てるなど、長宗我部残党の不平解消と藩体制の充実のため手も尽くした。
(同じ一領具足の血脈なのに、吉田は上士で俺たちは郷士)郷士連中の妬視が東洋には注がれていた。この際、能力の卓越劣敗は無視される。
血なのか、能力なのか。
連中の心持は矛盾しすっきりとしていなかった。
上士の多くが「掛川衆」で構成される藩上層にあって、土着の血脈をもつ上士吉田家は白眼視されていた。
蝙蝠<こうもり>は獣類から疎外され、鳥類から排斥される。鳥でなし、獣でもない存在である。
東洋はいわば蝙蝠であり微妙な立場なのだが彼は意に介さない。
山内容堂は藩主、吉田東洋は上士、
武市半平太は白札、樋口真吉は下士(
足軽)、岩崎弥太郎は地下浪人。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)武市半平太(融通無碍/人物評伝)足軽(融通無碍/関連話) 真吉は得がたい才幹として東洋を評価していた。積極果敢な才能の弾けた男だからだ。
かつて彼が江戸藩邸で大騒ぎを起こして土佐へ送り返され、家名断絶寸前の窮地に陥ったことがある。
藩主容堂が親戚筋の旗本松下某を招いて宴席を設けたとき、松下某が酔うて、しきりに東洋の頭を叩く。暫時は我慢するも、堪忍袋がぶち切れる。
「ええ加減になされ。わしの頭は殿に仕えるもの。お手前に叩かれる筋合いはない」言い放つが早いか某の襟首をつかみ、縁側に引きずり出し庭に投げて捨てた。持ち前の癇癖が破裂した。
容堂様は必死になってとめた。
「東洋、いかんぞ。それはいかんぞ。」
高知に送還された後、城下西郊の朝倉に逼塞、さらに山を越えて飛ばされ、南郊の海辺の町=長浜にわび住まいを余儀なくされた。
長浜というところ、比較的開けた地形であるが、どこからも町の北にある山並みが視界をさえぎって、高知城は見えない。城の見えるところで生まれ育ったもの(=東洋)には辛い場所であったろう。
高知は城を中心とする城下町で、長浜はお寺を核にした門前町で町の雰囲気からして違う。
(お城が見えんくへ飛ばされた)
一時の落胆は大きかったが、気づいたことがある。
海だ。

城の前の内海(浦戸湾)でなく、この町では太平洋(土佐湾)が眼前に広がる。
兼ねて海防の必要性は痛感していたが、お城からみる内海と長浜のそれはまったく異なる印象を彼に与えた。
(海防やるべし。砲台築くべし。機あらば洋上決戦すべし。軍艦買うべし、人育つべし。藩主容堂自身「九十九洋」と号するほど、我が土佐は長い海岸線をもつのだ)
東洋は再開した。
学塾を開いて若い衆を学問で鍛える。その合い間には塾の西、歩いて10分と掛からぬ雪渓寺(臨済宗、四国霊場33番札所)で自身を練る。切磋琢磨の日々を過ごした。
塾は字名<あざめい>をとって「鶴田<つるた>塾(少林塾とも)」と名づけ、若い俊秀が雲霞のごと集まった。
吉田東洋の鶴田塾(NHK動画)上士、下士の別なく、
野中太内、
後藤象二郎、
板垣退助、
福岡藤次、
真辺栄三郎、
由比猪内、安芸の地下浪人
岩崎弥太郎、そして真吉と親しい郷士
間崎哲馬もお城下から宇津野の坂を越えて通った。
野中太内(融通無碍/人物評伝)後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝)由比猪内(融通無碍/人物評伝)岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)長浜は寺町から学問の町に変貌しつつあった。
間崎哲馬

(秀才として知られ、勤王党の理論構築を担う論客であった。酒と詩と睡眠を好む変人でもあった。)
後に鶴田塾生らが藩内の一大勢力となり(土佐藩の非公式派閥で「おこぜ組」とよばれた)、幕末土佐藩の動向に大きな影響を与えた。多くの藩政改革を強力に推進し、後年土佐藩が中央政界で活躍する経済的基盤を築きあげた。
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東洋が許される時がきた。
元来、東洋が得がたい人材であることは周知であったが、予想外に早く赦免の知らせが届いた。藩庁にしてみれば予定の執行であった。
(謹慎させられながらも若者の薫陶に努めている。朝倉からさらに長浜に飛ばされて腐るような奴なら、先の見込みなしと試練を与えてみた。期待通りだ。赦免の時期だ)
真吉は詩を賦してこの赦免を祝った。
(あなたは大きな樹だ。あなたの下には民草が茂る。そのあなたが藩の責めを受けて枯れかかるとは・・心を痛めておった。そこへ赦免の知らせが来た。あなたの復活で再び民は生を娯<たの>しめる。喜び、これに勝るものなし)
真吉は生来、全てのことに対し含むところは持たない。
人を見るに、血脈家柄は念頭にないし経歴にも関心がない。あるのは今の姿だ。注視するのはただ一点、その人物のうちに「役割の自覚」が見て取れるか、だけだ。志の有無だ。
人は一生に仕事をひとつ。それで十分だ。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝) 吉田東洋考(融通無碍/関連話) 
鶴田塾跡/高知市長浜
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