◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
土佐の森・文芸 融通無碍
[関連話]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
◆吉田東洋の藩政改革
吉田東洋は現状を改革しようとする。
その手法には批判非難もあるし同調賛同する者もいる。しかし表面に現われるのは反対の声であるのも常態。
正しい現状認識から出発し、対応策の樹立と確実な実行、そして結果の検証。どれが欠けても改革は完結しない。
東洋はその中途で悲運に倒れた、前のめりの姿で。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)土佐藩の砲術などの遅れは深刻であった。大砲など関ヶ原以来、殆ど停滞したままの化石の世界で、進歩は少しもなかった。それどころか口伝の肝腎部分が欠落して意味をなさないという笑い話のような実話がある。
土佐藩の砲術(融通無碍/関連話)実用されない技術は発展どころか加速度的に劣化する。
世界的に見れば欧州の混乱した情勢は砲術を飛躍的に向上させ、集団戦の戦法もどんどん進化充実している。
実戦での結果を反映し改良を加えた技術は日進月歩だ。
武市半平太が土佐勤王党の結成を謀り、土佐藩の改革として藩是を勤王攘夷にすべく、ときの土佐藩参政・吉田東洋の説得にあたったときのことである。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)武市は「吉田東洋は改革派だ。その点では我々土佐勤王党と同じ立場で、認識が同じなら説得は可能だ」と判断した。
土佐藩の前藩主(実質的には現藩主)・
山内容堂は、一ツ橋家の徳川慶喜を次期将軍(14代)に推し積極的に江戸で動いたから、14代将軍が大老井伊直弼などの画策で別人(徳川家茂)に決まったとき、当然のように弾圧を受けた。「安政の大獄」だ。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)容堂は、隠居させられ逼塞状態にあり、江戸鮫津の藩邸で大酒を飲み、暮らしていた。近頃、処分は少し緩んだが外出も、土佐への帰国も禁止されたままであった。
しかし、吉田東洋は隠居の信が篤いから参政の座に居座り、藩政をとり仕切っていた。
今の藩主(=山内豊範<とよのり>)すら吉田東洋には反論できない。
「殿、お控えをなされませ」と言われれば頭を垂れる有様だ。
改革派の彼は、重代の家老職の家柄の連中に対して減石を強行して、守旧派の勢力を削ぐという荒療治までやってのけた。
城下の西十里ほどの距離にある
佐川の深尾家は土居つき家老で一万石を誇ったが、九千石(後に七千石)に削り取られた。この千石の違いは大きい。
幕府では一万石以上は一応「大名」で、一万石は侍たるものの目標の数値だ。
藩内部のことゆえ、深尾は大名扱いはされないが、過去には藩主を送り出し、本家から当主を受け入れたこともある名門だ。
佐川には深尾家に雇われた侍(陪臣)もいる。しかも減石のすえ、当主は館(土居)を出て長者村の山奥にわび住まいしていた。
佐川組の集団脱藩(融通無碍/関連話)
佐川(高知県佐川町)は仁淀川の中流域にある小京都的な町である。
吉田東洋に対する上下の怨嗟の声は国中に満ちる。
上士からも郷士からも、そして倹約と献金を強いられる町衆からも。東洋の専横は目に余ると多くの者が考えていた。
~~~~~~~~~~
「そちが首謀者か、郷士を集めて何を企てておる!?」
武市半平太は懸命に説得するが、半平太の勤王実践論に吉田東洋(藩庁)は動かなかった。
藩政改革は必要だが、勤王とは直接結びつかない。これが吉田東洋の論で、武市半平太を阻害し土佐勤王党弾圧へとつづいた。
この頃、泉州堺に造営された土佐の陣屋があった。幕命を受けて摂海を航行する外国船の見張り番をするためのものであった。郷士を含めた多くの藩士がここに駐留していた。
この陣屋を建てるにあたり資材(石材から材木、瓦に至るまで)と、職人は土佐から送られたから(どえらいもん、土州様がおったてたでぇ)大坂中の評判となったほどだ。
東洋は
(幕命を奉じて立派な建物を建立することがご、隠居様<山内容堂>の復権につながる)と信じて疑わなかった。
改革にかかる費用のおおくは藩士の給与削減と町衆から無理やり取り立てて調達するしかなかった。