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土佐の森・文芸 融通無碍
[関連話]
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◆丁卯上京誌(あらすじ)
慶応3年(1867)は丁卯の年、
慶応4年=明治元年(1868)は戊辰の年<戊辰戦争>
幕末から明治維新の時代は激動の「混乱期」であった。
幕末、明治維新の混乱期(融通無碍/関連話)『丁卯上京誌』は、
慶応3年の「
真吉日記の別本」である。
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)ーーーーーーーーーーーー
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP277~>
慶応3年2月15日、
西郷吉之助(=
西郷隆盛)が蒸気船に乗って高知に来た。
西郷隆盛(融通無碍/人物評伝)用件は
山内容堂への京都で開催を目論んでいる
四侯会議への参加要請だ。山内容堂は応じ「我ら今度皇国ののために云々」という不退転の覚悟で上洛した。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)四侯会議(融通無碍/関連話)慶応3年3月6日、
真吉は幡多への異動を命じられる。土佐勤王党弾圧の余波で、冬の時代を過ごす真吉への左遷人事だった。
しかし、3月30日に、一転して不思議な辞令が出された。降格の人事異動が取り消されたのみならず、昇格の辞令と京都への差し立て(京都藩邸勤務)だ。(山内容堂の奉護のための徒武士目付役)
裏でどのような動きがあったのか、とにかく真吉は復活し、激動の京に向かうことに。
・・・・・・・・・
【慶応3年4月】
真吉は徒士目付役格式御用人として、山内容堂がいる京都に差し立てられた。
身
辺警護(SPとしての任務)も含む山内容堂の側近としての任務だ。

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慶応3年5月5日
高知の浦戸で藩船・空蝉<うつせみ>に乗船、京都へ。

翌日、浪華(浪速=大坂)長堀の藩邸に着いた。
真吉に小観察(小目付)・岩崎仁蔵が付いている。下横目・仲三郎、下使・喜代二も。山内容堂の御側につくのが真吉の任務。重要任務には付け人が付くのが慣例だった。
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5月11日
雨上がり晴れる。殿下が将軍を召して言う
「以前から言ってきたことだが、戎服・胡服(=洋服)姿の者が帝都を徘徊し、大阪湾にも異国船が入っている。大坂市中を勝手気ままに歩き、その上(神聖な)岩清水の神廟を覗くなど言うべき語を失う。帝都警衛のため設置した関門を無理矢理通行するなど一体誰が認めたのだ。これを知らないとは言わせないぞ。28人の異人どもが先達<せんだって>から入洛しておるはずだ。これらのことをとくと相糾<あいただし>、結果を報告せよ」
殿下が将軍を詰問した。
殿下とは(のちに明治天皇の摂政に就任した)二条斉敬<なりゆき>(=関白)である。将軍は
徳川慶喜<よしのぶ>。
徳川慶喜(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
この頃、徳川慶喜は朝廷への対抗意識を燃やし、大坂城で各国の公使と対面(謁見)して自分が日本の実質的な統治を行なう権力者であることを誇示していた。その証しとして「兵庫の開港」も確約したから朝廷側の反発を招いていた。
まだ流動する世界で主導権を握って実績を積み上げて諸外国の支援を得ようとする姿勢が攘夷派を刺激し倒幕運動の火を一段と燃え上がらせた。
徳川の終わりの始まりだ。
徳川の終焉(融通無碍/関連話)
徳川慶喜
ーーーーーーーーー
5月12日
石川清之助及び
高松太郎と逢う。
高松太郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
高松太郎は真吉と親交のあった高知県東部安田の医師・
高松順蔵と龍馬の長姉夫婦の間に生まれた子、龍馬の甥にあたる。子供の無かった龍馬の養子となって龍馬家を受け継いだ。
石川清之助は北川村出身の
中岡慎太郎の変名である。京都では「横山勘三」という変名も用いていた。
高松順蔵(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
5月15日
乾退助(=
板垣退助)が江戸から京都に来る。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)板垣退助は一時期、老公(=山内容堂)に嫌われ江戸藩邸で閑日を過ごしていたが、風雲急を告げる京に老公が入ったことを聞いて動いたようだ。
福岡孝弟(藤次)、中岡慎太郎らと武力倒幕の密議を交わした。その後、中岡慎太郎の仲介によって西郷隆盛と板垣退助の間で『
薩土密約』が締結された。
福岡孝弟(藤次)(融通無碍/人物評伝)薩土密約(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
5月21日
真吉は藩邸門の出入りのため印鑑を作る。
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[融通無碍]
世情不安のため藩邸への出入検査は厳重だった。容堂側近で警護に当たる真吉にも印鑑を押させる場面があったようだ。例外を認めないのが警備の仕事。
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5月22日
板垣退助は容堂に謁し
「今倒幕に積極的に動かねば、いずれ薩長の手下同然になり後塵を拝する」と脅し、薩土密約を承認させる。
板垣退助は山内容堂にこれを稟申して承認を得るが、この「薩摩との密約及び山内容堂の承認」を知るものはごく限られていた。
======
[融通無碍]
決断のつかない山内容堂は悩み苦しむ。
退助の激情は死んだ
吉田東洋以上かもしれないが、山内容堂は直言を好んだ。但し上士による直言である。真吉ら下士(郷士)がこれを行えば「分を超えた行為≒処罰対象」と見なされる。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)が、山内容堂今回はその真吉を連れての入洛だ。
伊豆下田の遠州灘でのあわやの遭難経験が心に刻まれているのか。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)「焼け跡の釘くぎ拾い」という言葉がある。消火活動に出遅れたら(混乱に乗じ、めぼしい物を盗む「火事場泥棒」も出来ず)ショボショボと金目<かねめ>ともいえぬ焼け釘を漁あさること。
戦働<いくさばたらき>には平時の正義は無用で、早い者勝ちだ。
徳川を倒したあとの世界にこそ出番ありと意気ごむ板垣退助、徳川を倒すなど夢想もしない山内容堂。
世は動いている。
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5月26日
「大洲船を借りて器機を長崎から運ぶ途中、箱の岬で紀州船と衝突して沈められた」という報せが届いた。
4月23日夜の事故。龍馬が大洲藩から借りた「
いろは丸」が紀州船と衝突したのだ。
いろは丸事件(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
5月27日
四侯会議決裂で、老公が乗馬で帰国の途に就く。伏見で御宿を取ったあと大坂に1日滞在し、蒸気船に乗って高知・浦戸に着船の予定だ。
山内容堂は、徳川への義理立てと、倒幕への世の流れの間で苦悩し、なにも決断しないまま早々に京都から遁走した。
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[融通無碍]

当時、京童<きょうわらべ>歌に
「見えた 見えたよ 三条の橋に 丸に三つ葉の 尾が見えた」というのがある。
丸に三つ葉は土佐山内の家紋である。尾は乗馬姿の容堂を揶揄したものか。逃げて行く後ろ姿も大勢に目撃され京雀の噂になったか。
これとは別の関連する逸話がある。
臆病湯と書かれた徳利の話である。
この年の2月、山内容堂は混迷する時局の打開を薩摩の西郷隆盛から要請され、ふたつ返事で「よし、ワシが解決する」と大見得を切って京都にやってきたが・・・
臆病湯と書かれた徳利(融通無碍/関連話)
内原野焼きの酒徳利
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慶応3年6月3日
相国寺前の旅宿に西郷吉之助を訪ねて会う。
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[融通無碍]
中岡慎太郎の同日の日記に「樋口と西郷に至る」とあり、この会見は中岡慎太郎の紹介によるものか。
相国寺の前には薩摩藩の二本松藩邸もあった。この薩摩屋敷こそ、龍馬暗殺1カ月前に、龍馬が友人望月清平に送った書簡(
届かなかった手紙)にある「薩摩が勧める緊急避難先」だった。
届かなかった手紙(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
6月8日
祇園にて
真写をなす。西山平馬も同じく写す。
真写をなす(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
6月13日
後藤象二郎が着京した。薩摩の人・田中耕助が来る。坂本龍馬も来る。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
後藤象二郎は龍馬とともに、土佐藩船・夕顔丸で長崎から着京した。その船中で龍馬が後藤象二郎に新国家の構想=「
船中八策」を示したとされる。(異説有り)
田中耕助はかってロンドンに3カ月間留学した経験があるという。
残念ながら、何を話したかの記録はない。

夕顔丸
船中八策(NHK動画)ーーーーーーーーー
6月22日
土佐藩の後藤象二郎、
福岡藤次らが三本樹にて薩摩の小松(藩家老)、西郷、大久保の諸氏に会う。
真吉が日記に記述した人物以外に、土佐側から坂本龍馬、中岡慎太郎、
真辺栄三郎、山内容堂側近の
寺村左膳が参加していた。
薩土盟約の締結である。
福岡藤次(融通無碍/人物評伝)真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝)寺村左膳(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
慶応3年(1867)、土佐藩は幕府を中心とする公議政体論を藩論として決定、大政奉還のため
薩土盟約を締結する。
将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧告、布告させるという「平和路線」だ。
その後も、この路線で武力討幕派に対抗したが、薩摩の二股膏薬(薩土密約)などもあり伏見戦争(戊辰戦争)でこの平和路線は霧散した。
土佐藩も佐幕派の筆頭・旧藩主の山内容堂の突然の「君子豹変」で、討幕運動に加わることになる。
薩土盟約(融通無碍/関連話)薩土盟約(NHK動画)
腹の探り合い/薩土盟約
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慶応3年7月3日
この日、後藤象二郎が帰国する。
後藤象二郎と同行帰国したのは寺村左膳らであった。平和路線が薩摩の理解を得たとして高知に帰り隠居・山内容堂に「大政奉還建白」の相談をするための帰国だった。
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7月4日
才谷梅太郎(=坂本龍馬)が後藤象二郎氏の見送り(平和路線<大政奉還>の最終調整)のため大坂に行く。(その後、
英国人殺害事件に関連し、龍馬も高知に急遽出向くことに。)
イカルス号事件/英国人殺害事件(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
7月27日
客兵(中岡慎太郎傘下の浪士達/26名=陸援隊、後に田中健助<=
田中光顕>ら12名が追加加入/真吉はその名簿を入手していた)を白川邸入り(陸援隊の屯所として使用)させることが決定する。
田中光顕(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
真吉は
佐々木三四郎と相談して客兵を白川邸に入れる。長崎の坂本龍馬・海援隊と並び称される中岡慎太郎・陸援隊の誕生である。
佐々木三四郎<=高行>(融通無碍/人物評伝)陸援隊(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
客兵を白川邸に入れる[保古飛呂比/佐々木高行日記より]
(出典:
魚の目<魚住昭>)
客兵を白川邸に入れる(融通無碍/第62話)ーーーーーーーー
土佐藩の京都藩邸・白川邸(現京都大学農学部構内にあった)は、前年の慶応2年に福岡藤次により購入され、結果的には陸援隊の屯所となった。
この決定について佐々木高行が「他日罪人となることは覚悟している」と日記に書く危険な行動だった。佐々木高行の気概を見る思いがする。こういう人柄が友をつくる。
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7月28日
夜、佐々木高行と
由比猪内が大坂に下る。用務は、長崎において土佐藩の夕顔丸(龍馬が運行)の船員(海援隊士)が英国人を殺害した事件について本藩に確認と質問をするためだ。
由比猪内(融通無碍/人物評伝)(これに関連して)大坂の幕府役人が英国からの直訴もあり、とりあえず英国の動きを制止し「幕府自らが我が藩(=土佐)を糾問する」と幕吏・永井玄蕃(=
永井尚志)から土佐藩大坂屋敷の留守居役に連絡があった。事の詳細は「在坂の閣老・板倉伊賀守に直に逢って聞くべし」と言われ、2人は幕府役所に赴く。
永井尚志(融通無碍/人物評伝)
夕顔丸
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慶応3年8月15日
佐々木高行と才谷梅太郎(=坂本龍馬)が、イカルス号事件の談判を終え、高知から土佐藩船・夕顔丸に乗船して長崎に行く。
この船に英国の通訳・佐藤健之助(
アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)が加わり同乗した。
アーネスト・サトウ(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
◆佐藤健之助(アーネスト・サトウ)

イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、佐藤健之助は阿波経由で土佐に向かうこととなり、土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、山内容堂にも謁見した。
関係者との協議で、イカルス号水夫殺害事件における海援隊員の犯行でないことは実証されなかったが、ひとまず土佐藩とは関わりがないということで決着した。
佐藤健之助は龍馬とともに土佐藩船「夕顔」 で下関経由で長崎に向かい、龍馬の紹介で桂小五郎(=
木戸孝允)と初めて会った。
木戸孝允(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
8月22日
故有って解印(辞職)の願いを出すも、不肯<うべなわず>して(辞職は認められず)返し来る。
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[融通無碍]
薩土盟約で、龍馬・後藤象二郎らがすすめる平和路線<大政奉還>に土佐藩が傾注し、あくまでも(薩土密約での)倒幕を目指す中岡慎太郎との親交が土佐藩庁幹部に知れ、真吉は窮地に立ったか。(平和路線の龍馬との間には大きい溝が出来たことになる。)
真吉は既に「幕府を温存しては新しい世の中は来ない」と思うに至っていたのではないか。真吉は砲術を学ぶうちに、その技術を支える合理的精神に触れ、悟るところがあったか。
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慶応3年9月9日
この日、江戸から豊永行秀(=
左行秀<さのゆきひで>)が来た。
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[融通無碍]
左行秀は江戸藩邸での板垣退助の行動に反発していた。板垣退助は諸藩の浪士を藩邸に住まわせ秩序を乱している。それを本藩に告発すべく江戸から京都へ来て、真吉らとも相談のうえ高知に向かう。
左行秀は刀工だったが、龍馬の兄・坂本権平とも親しく、真吉の愛刀は左行秀の作。
板垣退助の裏事情(尊皇攘夷派浪士をかこい込む)を知る真吉は、左行秀の「真正直<愚直>な行動」を黙認したのか。制止するが、止められなかったのか。
左行秀(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーー
9月11日
「外交掛かり御用」を命じられた。
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[融通無碍]
職務の詳しいことは分らないが、外交だから他藩との交渉に当たるのが役目か。真吉は薩摩をはじめとする各藩の動向(あわせて幕府、朝廷の思惑)などの情報収集に努める。
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9月29日
西郷隆盛を訪う。西郷言う。
「5日以内に薩軍勢が本国から上京する。芸州も同様だ。幕府内の混雑(混乱)もあり、もし長州が上京すれば朝幕ともこの行為に対し寛大な所置を探るだろう」云々
西郷隆盛と頻繁に行き来する。
芸州の若君(安芸藩の世子・浅野茂もち勲こと)が帰国する。大隅守(=
島津久光)も帰国する。島津備後(忠鑑<ただあき>=久光の三男)が上京。会津の若君が帰国。中川勢と彦根そして会津藩の軍勢が上京。
島津久光(融通無碍/人物評伝)芸州、薩摩、会津などの動きが活発になる。
この月の上旬(9月8日)に京都で薩摩・大久保と西郷、長州・広沢真臣と品川弥二郎、芸州・辻が会い、出兵協定である三藩(薩長芸)盟約を結んだ。
これで薩摩は土佐の力がなくとも倒幕に見通しがついたと判断、薩土盟約の意義が失われつつある。
薩摩は、建前では平和路線、本音は武力討幕の方向に舵を切ったが、土佐はそれを知らない。
一連に動きから「どうも薩摩と安芸・広島の動きが怪しい」と真吉は感じていた。薩土盟約がどうなるか。
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10月10日
才谷梅太郎(=坂本龍馬)が長州、土佐を経て上京した。
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10月13日
幕府は二条城に諸藩を集める。集まった諸大名、その数40余りであった。王政復古(
大政奉還)を布告する。
大政奉還(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
10月19日
望月清平が勅書を持って帰国する。前日(18日)に、望月清平は真吉への伝言がある龍馬からの
手紙を受け取っていたが、真吉へ伝言することなく帰国した。
望月清平(融通無碍/人物評伝) 届かなかった手紙(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
10月24日
才谷梅太郎(=坂本龍馬)が下横目・
岡本健三郎に見張られながら越前に行く。越前の動きは。
岡本健三郎(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーーー
10月29日
真吉は大原卿の家に行き、帰り道に薩摩藩邸の
吉井耕助を訪ねる。三条侍従卿にも拝謁した。
吉井耕助(融通無碍/人物評伝) この頃京都市中に神仏の名号(御札おふだ)が降る。その騒ぎが喧やかましい程だ。(群集は)日夜踊り狂って止まない。
えじゃないか(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
11月6日
真吉は貨殖掛りとの兼帯を命じられる。
贋金作りが横行(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
11月15日
龍馬と慎太郎が刺客に攻撃され
龍馬は即死、中岡慎太郎は3日後に死んだ。
真吉はその死に様をだれかから聞いて書き残した。
龍馬暗殺(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
11月16日
吉井耕助が土佐藩邸に来て言う
「大久保一蔵から手紙が来た。それによると、先手の人数が17日に薩摩を発する、老侯(=島津久光)は23日に発駕するそうだ」
ーーーーーーーーー
11月21日
後藤象二郎(執政)が着京する。
後藤象二郎は大政奉還の功で昇進していた。しかし、このときはまだ山内容堂の幕府擁護の姿勢は崩れておらず、後藤象二郎の率いる手勢は僅か2小隊に過ぎなかったから薩長の冷笑を買った。
「土佐は頼むに足らず」となり、戊辰戦争でも重要な戦線は任されなかった。
土佐兵は奮戦したが、転戦先でこんなざれ歌があったのを思い出す。
『土佐の侍 上州縮ちぢみ(=反物) 見掛けは強いが 来て(着て)みりゃ弱い』
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11月24日
薩侯が着京する。土佐兵も着京した。
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12月7日
この夜、紀州の大奸・
三浦休太郎を討つも死ななかった。
三浦休太郎(融通無碍/人物評伝) 竜馬暗殺復仇隊(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
12月9日
この夜、今まで会津が担当していた蛤御門の守備が土佐藩に入れ替わった。会津兵は二条城を固める。
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12月12日
会津、桑名、大垣が大坂に下る。真吉は兵庫行きを命じられる。
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12月13日
将軍・徳川慶喜も大坂に下る。加賀が上京する。
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12月14日
雨、真吉は出京して伏見まで南下する。徳川の歩兵が土手を歩いて大坂に向かっているのを見る。
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12月17日
真吉は陸行して西宮に宿す。
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12月19日
豪商・北風庄右衛門を訪問する。北風庄右衛門が土佐に米を500石献上する約束が出来た。兵糧だ。
《真吉はこの後の戊辰戦争で土佐藩の迅衝隊(総督・板垣退助/大軍監・谷干城)輜重隊の実質的な責任者(輜重奉行は敵前逃亡した
早崎兵吾)として参戦する。》
早崎兵吾(融通無碍/人物評伝) 真吉が引率するのは輜重隊(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーー
12月20日
小舟に乗って外国船を見る。異人のコンシュルが天保山沖で端船を出すが大風と激浪で船が沈没して溺死者が出る。その死骸14を神戸の砂浜に埋めるのを見た。13日の風波の時に転覆して水死した者か。人々は「天誅だ」と愉快を唱える。兵庫の町は「えじゃないか」踊りが盛んである。神戸に停泊する外国船は米、英、仏で20隻ばかり。兵庫に停泊する蒸気船は15くらいで全てわが国のものだ。
小林喜七が来て最近の幕府人事を教えてくれる。
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12月24日
帰京する。
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12月27日
政変で追放されていた五卿が京都に戻った。
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12月28日
高札を改正する。三条殿(=
三条実美)に喝し一書を呈上する。大原卿に拝喝した。
三条実美(融通無碍/人物評伝) この日、薩土密約に基づき薩摩の西郷隆盛が
谷干城に京都で合戦が始まることを告げる。いよいよ倒幕の戦が始まる。
このことを高知本藩に伝えるため、急遽谷守部<千城>が早馬で向かうことに。
谷干城(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーーー
大晦日
宿毛の
齋原治一郎が高野山から上京する。齋原は宿毛の人、後の大江卓である。
齋原治一郎(融通無碍/人物評伝) ****************
◆鳥羽・伏見の戦い
大政奉還で一大名になったつもりの徳川慶喜(旧幕府)、あくまでも倒幕を目論む薩摩・長州藩、その間で狼狽する朝廷、それぞれの思惑が絡んで鳥羽伏見で薩長軍と旧幕府軍(会津・桑名藩など)が戦闘状態になった。<鳥羽・伏見の戦い>
土佐藩(山内容堂)は
「この戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘である」と日和見を決め込んでいたが、『薩土密約』から京都の土佐藩兵(真吉も)が、伏見方面の戦闘に参加してしまう。

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慶応3年が終わった。
明くる戊辰の年(慶応4年=明治元年)は、戦乱が待ち構えている。戊辰戦争だ。
真吉と戊辰戦争(融通無碍/関連話)ーーーーーーーーーーーーーーーー
慶応4年1月元旦
谷守部<千城>と下横目・
森脇唯三郎が本藩(土佐藩)に帰る。毛陽人(宿毛の人)・中村進一郎がかれらに従う。
森脇唯三郎(融通無碍/人物評伝) 1月2日
晩方、会津兵が大坂から伏見まで上り、京市中(いわゆる洛中)に投宿あるいは町奉行邸に集まるという情報がある。
対抗措置として薩摩藩・長州藩の兵が出る、土佐藩も(少ない手勢ながら)2、3の小隊を出動させる。
1月3日
夕刻、伏見の兵が上げる火が天を焦がすように大きく見える。大小の銃砲声が大地を揺り動かす。
山内容堂公は皇居に参内、諸侯も追随する。御所内外<うちそと>は灯火に照らされ夜目にも明らか。山内容堂は三条殿邸へ入り次に御所に参内、さらに仁和寺宮邸に入る。
1月4日~5日

黎明の頃から鳥羽の方面に砲声がすさまじく、辺り一体に響きわたるのを聞く。いよいよこれからが決戦だ。
前将軍・徳川慶喜は予め決めた戦略どおり、会津・桑名の兵数千人を集結させ、淀城の軍勢を煽動する。朝廷に危害を加えようと邪悪な心で遂には大逆に及んだ。
真吉は土佐藩兵としての参陣、幕府直属軍と会津兵は交戦相手だからその立場上、相手側は非理の賊軍扱いされる。以後、この表現が続く。
この戦況を受け、朝廷は薩長と土佐に洛中の内外を巡回・偵察するよう命じた。さらに命令を下す。その令に曰く
「徳川慶喜は参内し、自ら恭順する(意思を表明)のが至当であるに、何故兵を擁して軍器を携えるのか。宜しく自軍を諭して引き上げるべきだ。そうでなければ、かれらは朝廷の敵である。国には決まった刑罰(法律)がありそれを執行して朝廷の権威を顕すことが肝要だ。」
【薩長土3藩の結集始まる】
3藩はこれを受け、即座に西軍は続々と集合・結集するに至る。
発せられた命令の要点は
*伏見奉行の役宅を取り囲むこと
*鳥羽街道を上ること
【薩摩兵の暴走、錦旗登場】
三藩の軍勢の熱気は洛中を呑み込む勢いで競い合って進む。
薩軍には多くの諭<しや>制止が伝令されるも、これに従わず暴走を始める。薩軍の攻撃で賊軍が応戦を始め、両軍から戦火が上がる。銃砲の音が天にこだまし、朝まで続く。
朝廷では仁和寺親王を征討将軍に任じ錦旗を授けた。

ただちに親王は東寺に赴き、軍勢を陣頭指揮したから兵は死力を尽くして戦う。かくて賊軍の入洛は阻止された。
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[融通無碍]
日記は中途から突然漢文表記に変わったから、筆者往生するも、力を尽くして漢文の意訳に努めた。
読者各位は読み辛く理解困難であろうが、筆する者とて同様だ。余りに意訳が過ぎると史実から乖離する。匙加減が難しい。
筆者の案内するのは、真吉56年の生涯を辿る旅だ。怪しい漢文通詞に遭遇したと思って許せ、とのみ云う。
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【真吉参陣】
天皇に味方する援軍が続々と押しかけたから、天兵(=倒幕軍)は益々奪い合うように競って進撃し賊軍は大敗した。橋を焼き、城を捨て退却する。
このとき真吉は八幡山下(京阪電鉄『八幡市駅』の近くか)を守備していたが、急遽、土佐藩・大仏邸に赴き、邸幹部に直訴して斥候となる。
野戦砲一門、兵7、8人とともに出撃した。

アームストロング砲と
スペンサー銃スペンサー銃のこと(融通無碍/関連話)兵と砲を引き連れ伏見まで来たところ、土佐兵は幕府側の高松藩の軍勢を打ち破った後であった。敵は敗走するとき、砲車の撤退路をさえぎるように横たわる味方の戦死者を轢圧(踏みにじる)するように通過して行ったという。血も涙もない無慈悲で破廉恥な行状だ。
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[融通無碍]
実は今引用している日記の他に真吉は『丁卯上京誌』という別本(引用している日記も丁卯上京誌も筆者は同じく真吉)を後世に残した。
伏見戦争勃発時の前後を和文で記録しているから読者の理解に(筆者が分かりもしない漢文を解釈するという苦境を脱するため)役立てるため、ここに掲げる
【以下、丁卯上京誌を引用する】
(この記録は4日と5日の分をまとめて書いているから混乱しやすい)
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未明、砲声が鳥羽の方角にすこぶる多い。昼九ツ前(12時前)になって仁和寺の宮様が勅命を奉じて、討征将軍に就任し錦旗を翻して下立売しもたちうり通り、油小路から南に下って東寺(=空海が開基した寺)に本陣を据えた(ただし5日のこと)。
まもなく砲声は途絶えたがまだ煙火は盛んに上がっている。大仏邸に行き、斥候の役を乞うて出る。野戦銃一門と手勢7、8人を連れて行くことの許しも求めた。許されたが、見届け役として小監察・淡中氏の同行が義務付けられた。
伏見から鳥羽の堤に向かう。そこには戦闘の末、土佐藩兵が高松藩の戦士を7、8人倒し、それらは遺骸となって路上にあったが、大敗を喫した賊軍の砲車は退却時に味方の骸上を乗り越え、押し潰しながら逃げたという。
鳥羽の土手に登ると薩摩・
吉井耕助に会った。聞くと
「今日の戦争、弊藩の戦死者は幸い少々であったが、長州は少ない戦力で難敵に当たったから死傷者が多い。賊はことごとく水西(伏見の西)に逃亡したから、ここには敵は一人もいない。うちの兵も疲れ切っている。ひとまず休息のため帰京するところだ。後の守備をお頼み申す」と言う。
耕助らを見送ったあと、土手を下りると勝利した天兵が続々と帰還して来る。真吉は安堵し、伏見を離れる。以後のことは自藩の砲隊長に託した。
吉井耕助(融通無碍/人物評伝)勝った大提督(朝廷側)の兵が東堤をこちら側に引き返して来たから、真吉らも砲車を引いて返す。伏見の町に入ると、毛利氏が馬に乗って来るのを見た。
市街は一面余燼がくすぶり、狼藉の跡も生々しい。飯を食べてから砲車の管理を隊長に任せて、夜河原町の藩邸に帰る。薩長は、日夜息つく間もなく戦って淀川を下って一気に淀城を攻め落とし、近傍の村落を焼き討ちした。
【会津藩が陣中に触れ出した書類】
○先般、建白これあり候ところ、あに図らんや松平修理大夫(=薩摩・島津久光)の家来共、幼帝を擁して公議を尽くさず。このため幼帝の出された勅が天下の乱階を醸し出し候(不調和)事件の数々は枚挙に暇もないほどだ。
ために別紙の二通を陛下の御許にお届けした(奏聞=陛下に側近が耳打ちする)。
○『大義』によって君側の悪臣を駆逐するわれらを助けるため速やかに駆け登って軍列に加わるべきだ。
《奏聞書》
慶喜、謹んで去年暮れの12月9日以来の事態を恐察致しますに、朝廷の御意思に基づかず、全ては松平修理大夫とその奸臣共の陰謀から出ていることは明々白である。
(薩摩藩は)殊に江戸、野州(下野<しもつけ>)、模州(相模)など処々において乱暴・強盗を働いており、修理大夫の家来が唱導し東西響合して皇国の混乱させる所業は、別紙の通り、天下万民の憎む所。前文の奸臣共を引渡すよう命令を頂きたい。万一採用されないときには、撲滅あるのみ。この段謹んで奏聞奉り候。
《薩藩奸党の者ども罪状の事》
皇国の一大事につき衆議を尽すと仰せ出だされましたが、去る月(=12月)9日、突然『非常の御変革』を口実にして幼帝を騙して諸藩(=薩長)が身勝手な私論を主張したこと
陛下がまだ幼少期にあるに、先の帝(=孝明天皇)が御委託なされた摂政殿下を廃し、幼帝が相談しようにも摂政殿下の参内を禁じたこと
私意を以って御所の幹部(陛下の御相談に預かる)公卿を差し替えしたこと
御所に通じる九門その他の警備という名目で、他藩の者を扇動して兵力と武器を以って逆に宮城に迫ることは、朝廷を憚らぬ『大不敬』にあたる
家来共が浮浪の徒を屋敷内に住まわせ江戸中で押込み強盗を働いているし酒井候(庄内藩主で江戸市中の取締りを担当)の手勢が鎮圧しようとすると逆に猛反撃を試みた結果、江戸の薩邸が焼亡したこと、さらに野州、相州などでの焼討・強盗の所業は証拠・証人もあり(犯人は)分明であること
この他、賊軍・会津は土佐藩兵に依頼して嘆願書を差し出したりした(弁明を試みる)が、砲戦となり、挙げ句慶喜は大坂城を抜け出し諸賊(会津侯など)を従え伏見戦争と同様に逆謀を企てたが敗走して堺から乗船して江戸に逃げ帰る。

伏見戦争に敗れ、将軍・徳川慶喜が会津・松平容保を道連れに海路江戸に遁走した。
将軍・徳川慶喜が遁走(融通無碍/第43話)鳥羽・伏見の戦い(NHK動画)【山内容堂、突如変心する】
将軍・徳川慶喜が会津・松平容保を道連れに海路江戸に遁走した。満天下に赤恥を曝した。
ことここに至って、容堂の堪忍袋が破裂した。
「徳川への義理立てはこれまでだ。
クソクラエだ!!」
岡林信康のくそくらえ節
「新政権の樹立に向けて敵対する勢力を全力で駆逐する。慶喜も容保も葬り去れ!」
「行け進軍だ!!」
余りに急な変心に側近中は全くの青天の霹靂、右往左往するばかり、側近としての仕事は放棄された状態に陥る。
沈着な者が諌めに掛かる。寺村左膳は側近中の側近だ。
「ご隠居様、どうぞ落ち着いて。動くには準備が必要。時間が掛かります」
「何を悠長なことをぬかす、焦眉の急とはこのこと。何を昼行灯のようなことをほざく!」
「藩は大きな船。急に舵を切っても、直ぐに船体が対応できぬもの。櫓舟ならともかく蒸気船はそうは行きませぬ」
「船将はワシじゃ、つべこべぬかさずさっさと対応せよ!」
「戦には戦費が必須。その準備から始めねばなりませぬ」
「何ぃ、金が要る? アホぬかせ。古来、戦は兵糧があれば出来るとしたもんじゃ。米さえ確保できれば後は何とでもなる」
あまりの無知、極楽トンボに側近たちは互いに顔を見合わす。
かくして、舵は切られた。
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[融通無碍]
お側役の筆頭、寺村左膳はどういうものか山内容堂の変心・変節を全く知らなかった。
かれの仕事は
「倒幕を主張する過激な勤王党の連中を、殿のお側から遠ざけること」が主務だった。
押し掛けるかれらを身を挺して押し留める。愚直な人だった。
山内容堂の変心を既に知っていただろう倒幕派のかれらは激高する。
遂には、寺村左膳の処分を要求する。
寺村左膳は本藩に送還され、挙げ句土佐の東端野根に蟄居させられた。明治になって日野春草と名を改め、団体の幹部として余生を送った。
もし、かれが記録を残せば『幕末維新の裏面史・山内容堂の真の姿』とでも言うべき傑作ができたであろうに。
しかし、かれは黙して語らず、あるいは語る機会が与えられなかったようだ。ついに墓まで持って行った。
「本当のこと、言うものは知らず、知る者は言わず」としみじみ思う。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝)やるせない
中年武士の悲哀を感じる。
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慶応3年/丁卯上京誌(融通無碍/第27話)**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)融通無碍/総集版2023.03.06.22.09