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幕末足軽物語(南寿吉著)
[人物評伝]
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大石弥太郎(1829~1916)
樋口真吉(1815~1870)

文政12年、土佐国香美郡野市村横井(現・高知県香南市)に生まれる。
谷作七(=谷方正)は弟、
大石団蔵は従兄弟。(真吉より14歳年下、武市半平太と同い歳)
谷作七(融通無碍/人物評伝)大石団蔵(融通無碍/人物評伝)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP353>
大石弥太郎は変わった経歴の主である。土佐の裕福な郷士の家に生まれ、頭脳優秀で剣術を学び一方藩命で江戸留学(文久元年)もして諸藩の有志と交遊して勤王思想に傾倒する。
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安政3年8月、
武市半平太が藩から江戸での剣術修行が許され、鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門した。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)は武市半平太に同行して江戸に赴いた同行者は、
岡田以蔵、
五十嵐文吉、多田三十五郎、
多田哲馬、
阿部多司馬らであった。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)五十嵐文吉(融通無碍/人物評伝)多田哲馬(融通無碍/人物評伝)阿部多司馬(融通無碍/人物評伝)9月には江戸剣術修業が許された大石彌太郎、
小笠原保馬、
坂本龍馬も江戸に到着、とともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。
小笠原保馬(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
万延元年、大石弥太郎は藩命により大坂陣屋詰となる。
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文久元年、大石弥太郎は洋学修業の命を受け江戸に遊学する。江戸では勝海舟の塾に入門、航海術や砲術を学ぶ。長州藩の久坂玄瑞や、薩摩・水戸など諸藩の志士と交わり、尊王攘夷の志を深めた。
武市半平太を剣術修行の名目で江戸に招請し、長州藩の桂小五郎(=
木戸孝允)や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流させた。
木戸孝允(融通無碍/人物評伝)武市半平太はこれに大きな刺激を受け感化され、土佐勤王党の結成につながることになる。
大石弥太郎は武市半平太とともに築地の土佐藩中屋敷で江戸遊学中の少数の同志(
岡田以蔵、
吉村虎太郎、
池内蔵太ら)と密かに土佐勤王党を結成した。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝) 吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝) 池内蔵太(融通無碍/人物評伝) 大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(
山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた。
大石弥太郎の署名順番は武市半平太に次ぐ2番目だった。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)だが、体制派的な側面も有したから、是々非々を貫いて藩庁から処分を受ける行動を慎み、慶応3年には郷士身分から一気に上士・小姓組へ抜擢された。(土佐勤王党への弾圧で処罰されることもなかった。)

土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)従兄弟の大石団蔵は
吉田東洋暗殺の実行犯の一人。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)大石団蔵は吉田東洋を暗殺した後、数奇な運命をたどることになる。
大石団蔵(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久2年、江戸より帰国。藩より中国・九州諸藩の情報収集を命じられ、長州藩など各藩を訪問した。その後長崎にも派遣されている。
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文久3年、長州で下関戦争が勃発。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP230>
文久3年6月15日

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
馬関戰争に参戦(探索?)していた、時山直八と
佐々木三四郎らは下関戦争現場から戦闘服装備のまま帰藩、用井口(高知県仁淀町池川用井、ここに国境番所があった)番所に。番所は差し止め入国を許さなかった。
佐々木三四郎(融通無碍/人物評伝) 藩は内外に緘口令を敷いたようだ。馬関戦争を知る者を土佐に入れず、土佐側からの接触も禁じた。
(武市の指示で)
大石彌太郎と岡本二郎(=
岡本八之助)が密かに用井口に派遣され佐々木らとの接触を試みたが、やはり藩命が厳しくを面談を許さなかったという。
岡本八之助(融通無碍/人物評伝) =======
《融通無碍》
◆馬関戦争
長州による攘夷実行である。
幕府は朝廷に攘夷を決行すると約束をしたが、諸藩の見るところ『実行は不可能』であったから皆、様子見を決め込んで静観していたところ、建前と理屈好きの長州が敢然と外国船に砲撃を加えた。
馬関戰争(
下関戦争)である。
下関戦争(融通無碍/関連話)その後、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が下関の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
下関海峡の砲台を連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化することになる。同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と共に倒幕への道を進むことになる。

英国海軍陸戦隊によって占拠された前田砲台(山口県下関市前田)
また、薩摩藩も薩英戦争により、島津斉彬の集成館事業(近代化路線)が復活した。
薩英戦争(鹿児島県公式動画)~~~~~~~~~~
元治元年、獄中の土佐勤王党関係者(
武市半平太ら)の救出が関係者間で懸命に模索された。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)=======
《融通無碍》
各地の勤王志士の指導的立場に立つ者が高知城下に集結して「武市半平太らの解放」を協議することなった。「
小高坂密談」と云われている。
この密談には土佐東部の勤王党の首領清岡道之助も参加している。
清岡は真吉ほか同志に過激な提案をするが受け入れられず、これが結果的に「野根山騒動」に繋がることになる。
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◆小高坂密談(元治元年5月)
土佐藩の東西の有志(各郡から2・3名の代表者)が将来の運動の方向を定めるために、高知に集まり協議することになった。
安芸郡は、清岡道之助、清岡治之助
清岡道之助(融通無碍/人物評伝)清岡治之助(融通無碍/人物評伝)香美郡は、
大石弥太郎、
谷作七、
森助太郎大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)森助太郎(融通無碍/人物評伝)長岡郡は池地退蔵
池知退蔵(融通無碍/人物評伝)土佐吾川郡は
曽和伝左衛門、小笠原忠五郎、
河原塚茂太郎、
望月清平、西山直次郎
曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)河原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)望月清平(融通無碍/人物評伝)高岡郡は片岡団四郎
幡多郡は
樋口真吉、
田辺剛次郎樋口真吉(融通無碍/人物評伝)田辺剛次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
清岡道之助は、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張した。
《藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。》
樋口真吉は、今は黙して時節を待つにこしたことはないと主張した。
《今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市半平太は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。》
清岡道之助から
「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたが、真吉は頑として清岡道之助の主張には同調しなかった。
大石弥太郎ら土佐勤王党の多数派も、清岡道之助の主張は過激すぎる、また武市半平太は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP248>
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元治元年6月5日
嘆願書について衆議が一致せず、藩庁への提出を断念する。
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《融通無碍》
◆嘆願書とは?
この時期、獄中の勤王党関係者の救出が関係者間で懸命に模索されていた。
特に首領格の武市半平太を早急に釈放させることは喫緊の課題だった。
獄中にあった半平太への監視は厳重でなく緩やかだった。外部との手紙の交換は牢番人を介して行なわれたほどで、かれが獄中で書いた書簡は相当な量が今に伝わる。その中には
『藩庁の尋問に対し樋口真吉も同盟者であると答えてしまった。次回の尋問で取り消すから真吉に謝っておいてくれ』という内容のもある。(真吉は同盟者ではない。)
が、この嘆願書の提出が見送られて土佐東部で騒動が起きる、とのみ言っておこう。(騒動は野根山事件だ)
野根山騒動始末記・・・・・・・・・
元治元年6月13日
総勢27名で(武市半平太らの救出)嘆願書を風憲(監察)に出す。(これに応対したのは大監察・
小八木五衛兵、
横山覚馬それに板坂、若尾の諸氏だった。)
小八木五衛兵(融通無碍/人物評伝)横山覚馬(融通無碍/人物評伝)=======
《融通無碍》
◆嘆願書に署名した者
大石彌太郎、
門田為之助、岡本恒之助、
上田楠次、片岡孫五郎、沖野平吉、北川源五郎、山本四郎、
村田馬太郎、森助太郎、岡本猪之助、
谷作七、
川原塚茂太郎、田処庄之助、
池知退蔵、
佐井寅次郎、平石六五郎、阿部多司馬、三原惣彌太、仲彦太郎、中平喜久馬、権馬、四郎馬、瀧馬など
門田為之助(融通無碍/人物評伝)岡本恒之助(融通無碍/人物評伝)上田楠次(融通無碍/人物評伝)村田馬太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)川原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)池知退蔵(融通無碍/人物評伝)佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)嘆願書には嘆願者名が記される。問題はその順で、筆頭者は嘆願の頭目とみなされる。年功序列社会であったが、この時ばかりは別で、若年でも実力者先導者であれば、筆頭にすえられる。土佐勤王党の血盤盟約の署名では武市半平太に次ぐ2番目だった大石彌太郎が筆頭になった。
提出された嘆願書の真意・背景を探ろうと筆頭の大石弥太郎とその次の門田為之助の両人が風憲(=監察)に呼び出される。(提出した建白の詳細を尋問されるようだ。)
土佐勤王党での序列は盟主・武市半平太に次ぐ2番目だったが、処分はなかった。
それでも真吉と同様に土佐勤王党のシンパということで、「土佐勤王党の獄」によって「冬の時代」を過ごしていた。
板垣退助による土佐勤王党員の釈放により、大石弥太郎も土佐藩の職務に復帰した。(後の戊辰戦争も真吉と同じく板垣退助の下で動いた。)
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慶応元年、武市半平太が切腹後、大石弥太郎は、
五十嵐幾之助、
多田哲馬らと遺骸を引き取り新町田淵の屋敷に運び、吹井の里へ葬っている。
大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)五十嵐幾之助(融通無碍/人物評伝)多田哲馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応3年、土佐藩の軍備役に任じられ、上士の小姓組に編入されるという破格の抜擢を受けた。板垣退助のもと従来の階級的意識を除いた土佐藩の兵制の改革に尽力する。
イカルス号事件では英国公使パークスが須崎に到着した際には、板垣退助らとともに現場での警備にあたっている。
イカルス号事件<英国水兵殺害事件>(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
慶応4年(明治元年)、大石弥太郎は、戊辰戦争で
迅衝隊(総督・板垣退助)の小軍監/参謀・小目付として従軍、甲州勝沼の戦いを主導したほか、会津若松城の攻略等で数々の功を立てている。
甲州勝沼の戦い(融通無碍/関連話)会津藩が降伏(融通無碍/関連話)
損傷した若松城(会津戦争後撮影)
迅衝隊(融通無碍/第56話)「真吉日記・戊辰戦争従軍」には、真吉が人集めで一時高知に帰った際、江戸で
ジョン万次郎と会談した記録がある。
その前日に大石弥太郎の江戸での動向の記述がある。真吉と行動(軍夫と武器弾薬・食糧の調達)をともにしていたか。
ジョン万次郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP321>
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慶応4年2月4日
京都守護職の副邸に着く。真吉が緊急上京したのは、松山藩の措置を迅速に決定しないと不測の事態が起こりかねない状況で、現況を長官に報告・相談するためであった。
小南五郎右衛門氏に会い、詳細を説明すると直ちに執政・山内隼人殿にも報告すべきだと指示され、即刻隼人殿に会う。
この日、早追いで大石弥太郎が髙松から上京した。髙松にも問題発生か。
小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP353>
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慶応4年6月27日
大石弥太郎が奥州に戻る。
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慶応4年6月28日
真吉はこの日、深川・砂村の下屋敷に住む中濱(ジョン)万次郎を招いて飲む。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP364ー365>
慶応4年7月28日
三春を発した。敵は本宮(福島県本宮士市本宮)の陣営を四方から攻撃するが、ついに守り切って敵を撃退した。この戦闘は五ツ時(8時ころ)始まって午時(12時頃)に及んだが、敗残兵を追って村々を焼き払いながら一里半進んだ。会津軍は須賀川に逃げ、仙台と二本松勢は二本松に通じる街道を逃げた。
宇都宮の軍夫・総兵ともに本宮に着いた。南の方角の火は敵の見張りの灯火で大きく燃え盛っている。こちらも警戒と対抗のため、夜にはかがり火をどんどん燃やし四方を明るくした。

【この戦いの人的損害】
金創(刀・槍による傷)=
山地忠七(=山地元治)
銃創(鉄砲による傷)=
五十嵐幾之助、別府勘助、武藤並枝、中野順二郎、弘田倉二
戦死=米倉丹三
深手(重傷)=井上彌太ヱ門
山地忠七(融通無碍/人物評伝)五十嵐幾之助(融通無碍/人物評伝)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP365>
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慶応4年7月29日
先発組は二本松に進む。輜重隊がこの後に続く。二本松まで二里。二本松城主・丹羽左京大夫は城を棄て逃げていたが、徹底抗戦を決意した勢力は大手門外に出て迎え撃つ態勢だ。
(戦いが始まった)この戦いで小兵の
大石弥太郎が敵と組み打ちとなったがおおかたの予想に反し、大兵の敵を組み敷き見事に首級を揚げた。
(城を出て戦ったから)城を占領された敵は逆に大手門を破って侵入し、ついに城に火を放つ。敵は多くの死傷者を出した。真吉の指揮する輜重隊は城中に入り、小憩する。

二本松城
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【真吉、6連銃を発す】
城中に入り、小憩していると、突然隣の部屋で大騒ぎが起きた。階上に敵1人が潜んでいたからだ。
大勢でこの敵を取り囲むと敵も獅子奮迅の働きを見せて抵抗するから真吉も
6連発銃を撃ち掛ける。薩兵も撃ったから敵は乱射の銃弾に倒れた。射殺された敵兵は会津兵であった。この騒ぎで大垣兵が1人戦死した。
真吉も人に銃口を向けて発射したのは初めてだったようだ。多分拳銃だろう。冷静な男も興奮して記録したか。真吉54歳。まだ若い。
6連発銃(融通無碍/関連話)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP376>
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慶応4年10月14日
御使者・生駒助一郎と仙石又兵衛が到着する。
大石弥太郎は病気のため二本松に残したが、回復して今日元気な姿を見せた。
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明治4年、天皇警護の御親兵の創設に大石弥太郎は異を唱えて下野。以後は、中央政界からは離れ高知で静かに暮らしたが、高知政界においては「古勤王党派」の中心人物として影響力を有していた。
安岡権馬の反政府活動には弟・
谷作七らと参加していた。
安岡権馬(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)明治7年、征韓論に敗れ下野した板垣退助を中心にした政治結社・立志社が出来ると、大石弥太郎は、
森助太郎、
池知退蔵らと嶺南社を興した。
森助太郎(融通無碍/人物評伝)池知退蔵(融通無碍/人物評伝)明治10年、板垣退助ら立志社、及び古勤王党(大石弥太郎、安岡権馬ら)が西南戦争に呼応して挙兵を企てた。
この反政府活動を取り締まるため中央政府の
佐々木高行司法大輔の命令で
北村重頼が派遣され、
今橋権助らの協力で挙兵計画を阻止した。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)北村重頼(融通無碍/人物評伝)今橋権助(融通無碍/人物評伝)明治11年、安岡権馬とともに反政府活動容疑で逮捕され、松山の監獄に留置せられた。
安岡逓次郎が獄中の安岡権馬に面会している。(その時、安岡権馬39歳、安岡逓次郎19歳。/大石弥太郎の獄中記より)
安岡逓次郎(融通無碍/人物評伝)
安岡権馬が獄中から安岡逓次郎に宛てた手紙。
《御祖母の健康を気遣い、自分は大丈夫だと伝えるように依頼している。》
2人は9ヶ月後に釈放されたが、安岡権馬は釈放の翌日、病死した。
明治12年に行なわれた
第一回高知県会議員選挙で当選しているが、1か月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して県会議長の
片岡健吉とともに辞職した。
片岡健吉(融通無碍/人物評伝)
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[閑話休題] 高知県議会HPより
◆第一回高知県会議員選挙
明治11年7月、政府が公布した府県会規則に基づいて、県会(当時は「県議会」ではなく「県会」でした。)が設置されることになり、翌明治12年1月に議員定数58名(土佐国27名、阿波国31名)が定められ、2月に初めての選挙が行われました。(その後、明治13年3月に阿波国が分離されて徳島県が設置されたため、県会は土佐国7郡の選出議員27名で構成されることになりました。)
10月には第1回の県会が招集され、立志社で自由民権運動に力を注いだ片岡健吉(土佐国選出)が初代議長に、磯部為吉(阿波国選出)が初代副議長に選出されました。
当時の県会議員選挙法は、満20歳以上の男子で年間5円以上の地租税を納める者に選挙権を、満25歳以上の男子で年間10円以上の地租税を納める者に被選挙権を与えることを定めていました。
片岡健吉は、このような制限選挙では、民意を公正に県会に反映することができないとして、第1回の県会に議員選挙法の改正案を提出しましたが、混乱の中、改正案は採否が決定されず、県会内部の情勢に絶望した片岡は11月に議員を辞職し、代わって副議長磯部為吉が第2代議長に就任しました。
このように、紛争で幕を開けた高知県会は、以降もしばしば県令(県知事)と衝突するなどし、全国的にもまれな難治県として注視されることになりました。

高知県議会議事堂
大正5年、没。享年88。
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2024.11.01.22.59