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土佐の森・文芸 幕末足軽物語/融通無碍
[人物評伝]
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間崎哲馬(1834~1863)
樋口真吉(1815~1870)

天保5年、高知城下種崎町で医業の間崎総之亮の嫡子として生まれる。家は代々幡多郡間崎の庄屋で郷士。
幼少より神童の誉が高く、早くより才覚を表し、三菱グループ創始者の
岩崎弥太郎の従兄弟の
岩崎馬之助、
細川潤次郎とともに「土佐の三奇童」の一人と称された。
岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)岩崎馬之助(融通無碍/人物評伝)細川潤次郎(融通無碍/人物評伝)30歳。名は則弘。字(あざな)は士毅。通称は哲馬。」】
嘉永2年、江戸に出て安積艮斎の安積塾に学び、経史詩文に通じ塾頭に抜擢された。
嘉永5年、帰国し土佐藩へ出仕、徒士、文武下役に就く。須崎浦や郡の藩吏、土佐藩校・田野学館では教鞭をとった。豪放磊落の人で俗吏と意見があわず失職したが、意に介さなかった。
江ノ口村小川淵で私塾を開き、子弟の教育にも力を注いだ。
塾には門下生が数百人集まったといわれ、その中には
中岡慎太郎、
吉村虎太郎、
島本審次郎、
安東真之助、
沢村惣之丞、
能勢達太郎、
武政左喜馬、
宮地宜蔵ら幕末の政治運動で活躍した人物が多々いた。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝)島本審次郎(融通無碍/人物評伝)安東真之助(融通無碍/人物評伝)沢村惣之丞(融通無碍/人物評伝)能勢達太郎(融通無碍/人物評伝)武政左喜馬(融通無碍/人物評伝)宮地宜蔵(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
安政3年、
吉田東洋が
鶴田塾を開く。
土佐藩の俊英が集まり、間崎哲馬ら門下生が藩内の一大勢力となり(土佐藩の非公式派閥で「新おこぜ組」とよばれた)、幕末土佐藩の動向に大きな影響を与えた。
多くの藩政改革を強力に推進し、後年土佐藩が中央政界で活躍する経済的基盤を築きあげた。間崎哲馬も吉田東洋の少林塾に学んでいる。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝) 鶴田塾(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
鶴田塾の門下生
板垣退助(融通無碍/人物評伝)福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝)由比猪内(融通無碍/人物評伝)岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)吉田東洋の鶴田塾(NHK動画)新おこぜ組(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久元年、江戸に出て、安積の塾に入門。同門の清河八郎・山岡鉄太郎と親交を深める。清河八郎とは常に手紙のやりとりを行い、尊皇攘夷の志を交わしていた。江戸に出て来た武市半平太と意気投合、勤王同盟(土佐勤王党)を企てる。勤王党の理論構築を担う論客であったが酒と詩と睡眠を好む変人でもあった。土佐勤王党の血判書には4番目に署名している。

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文久2年、間崎哲馬は江戸で
上田楠次、
坂本龍馬、
門田為之助らと交流している。ともに国事などに奔走していた様子が、文久2年9月10日の間崎哲馬の書簡に見られるほか、酒宴で間崎哲馬の詠んだ詩も残っている。
上田楠次(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)門田為之助(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
間崎哲馬は、土佐勤王党(武市半平太)による土佐藩政改革/尊皇攘夷論化を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動していた。
これに呼応し、12月に佐幕派の中川宮朝彦親王が令旨を発したが、このことが「土佐藩主の権威を失墜させる越権行為、不遜の極み」であると山内容堂の逆鱗にふれた。
「高貴の方に近づくことは越権だ」として山内容堂は3人に切腹を申し渡した。
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《融通無碍》
間崎切腹の因となった「中川宮の令旨」が、中川宮が積極的に出したものか、強要によるのか、熱意で出したのか、出させたのか、史実には検証が必要だ。
令旨の発行元の中川宮は青蓮院宮と改名したり他にも色んな名前を持つひと癖もふた癖ものある人物だ。これ以前にも「
中川侯違勅騒動」を起こしている。
イカを干せばスルメになる。スルメも元を正せばイカ。同じものに変わりはない。
スルメになる前の生乾きを土佐では「一日干し=ヒイトイボシ」と呼んで珍重する。
筆者は中川宮の人格に疑問符をつける。薩摩との関連で後に詳しく述べる。
中川侯違勅騒動(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、勤王党への本格的弾圧始まる
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP229>
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文久3年6月8日
昨夜、
弘瀬健太と
平井収二郎と間崎哲馬が賜死(切腹)した。間崎哲馬、享年30。
弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
弘瀬健太、平井収二郎、間崎哲馬の3人が高知で切腹した。
ともに真吉と親しい人々だった。
とくに、間崎哲馬との親交は同じ中村出身という地縁もあり深かった。
遣倦録中にも間崎哲馬の名は度々出て来る。
真吉の九州から江戸に至る長旅(
日本漫遊の旅)の同行者・
石山孫六は江戸で間崎哲馬から「土佐に行けば必ず樋口真吉にあうべし。大器量の持ち主だ」と紹介されていた。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)石山孫六(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
間崎哲馬は平井収二郎、弘瀬健太とともに切腹し、「土佐勤王党の獄」の犠牲者第1号となった。
土佐藩(
山内容堂・
吉田東洋の改革路線)による土佐勤王党への本格的弾圧の始まりだ。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
間崎の自死は、当人の名誉を重んじて「切腹」だ。(後の
武市半平太も切腹。)
だから真吉も「賜死」と書いた。切腹は名誉の自死で、斬首は処刑。(後の
岡田以蔵は処刑。)
◆武市半平太と岡田以蔵
武市半平太(融通無碍/人物評伝)岡田以蔵(融通無碍/人物評伝) <「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP271>
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慶応元年5月11日
岡田以蔵が牢屋において斬首された。
武市半平太は屠腹<とふく>(=切腹)を命じられた。

月様、 雨が・・・(新国劇『月形半平太』で、土佐藩の志士/
武市半平太(武市瑞山)が京三条の宿を出るときに、舞妓の雛菊が傘をさしかけてくる時の台詞。)
春雨じゃ濡れて行こう・・・武市半平太(NHK動画)瑞山神社(NHK動画)
真説 岡田以蔵歴史の中に埋もれた以蔵(NHK動画)======
《融通無碍》
武市半平太の切腹は武士道に叶う見事なもの。
一方、間崎哲馬の切腹は見苦しく、介錯人が脇から刺して殺したらしい。
介錯したのは間崎哲馬の歳上の従兄弟(間崎琢馬<たくま>)だった。間崎哲馬には2歳の娘(=雪)が残された。琢馬はその娘を育てあげた後、自分の息子と娶わせ間崎哲馬の血脈を守った。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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2023.02.01.22.49