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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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本間精一郎(1834~1862)
樋口真吉(1815~1870)

天保5年、越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)の商人・本間辻右衛門の長子として生まれる。
嘉永6年、江戸に出て勘定奉行・川路聖謨の中小姓となり、昌平黌で安積艮斎に学ぶ。
安政5年、川路聖謨に従って上洛、勤王派の志士と交わる。
安政の大獄で入獄した。出獄後は勤王攘夷志士として活動を開始。青蓮院宮家に出入りして諸国浪士と交わり、長州、四国、九州に遊説する。
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文久2年、土佐に入り一番に武市半平太への接触を試みるが果たせず、次目標として高知県西部の盟主と目される真吉との対面をしようと幡多入りした。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP169>
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文久2年3月10日
伝助が帰って言う
「名張良蔵は7日に(藩境の)西ヶ方(現四万十市西土佐)に泊まった」
名張良蔵(=本間精一郎)は勤王思想に基づいて全国を遊説した越後の浪人。
国境で津野山郷(梼原)の
那須信吾と合い、那須宅へ潜伏した。
那須信吾(融通無碍/人物評伝) 武市半平太は
河埜万寿彌と
上田楠次を梼原村に派遣した。
河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝) 上田楠次(融通無碍/人物評伝)同郷の
吉村寅太郎が
武市半平太の書簡を長州へ届けた経緯などを話す。が、武市半平太との面会は出来なかった。
吉村寅太郎(融通無碍/人物評伝)武市半平太(融通無碍/人物評伝)本間精一郎は次に
樋口真吉との接触を試みたが、すれ違いで樋口真吉とも会えずに土佐を去っている。
樋口真吉(融通無碍/人物評伝)その行動は不可解な点が多く最終的には京四条河原に屍<しかばね>を曝して生涯を閉じた。
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[融通無碍]
本間は軽挙が多く、挙動に不審な点があり次第に勤王の仲間から孤立した。
大坂・堺の土佐藩陣屋にも郷士・
吉村寅太郎を伴って姿を現わし大言を吐くなどして陣屋幹部の顰蹙を買っていた。
吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーー
本間精一郎は京坂で志士と交わり、急進的な活動を展開した。しかし藩に属さない活動は薩摩や土佐の志士から反感を買い、さらにその酒色に溺れた生活に悪評が立った。島原遊廓からの帰途を薩摩の田中新兵衛,土佐の岡田以蔵らに斬られ,梟首された。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP186>
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文久2年8月20日
「あやつ<本間精一郎>の行動は目に余るし、どうやら二股膏薬の臭いもする。始末せよ」と、武市派と憤激を募らせていた薩摩の過激派が暗殺を実行することに。(暗殺者は土佐の
岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛という)
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝) その惨殺の有様を描いた絵があり、筆者はその写しを見ながら拙稿を書く。決して気持ちのいい絵ではない。

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文久2年8月21日
昨夜、本間精一郎が先斗<ぽんと>町で横死する。四条河原に首がさらされ、胴体は高瀬川に投げ込まれた。
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[融通無碍]保古飛呂比/佐々木高行日記
京都で浪人の本間精一郎が大奸物であるとして、
平井収次郎、
松山深蔵、
弘瀬健太、
岡田以蔵、
佐井寅次郎、
島村衛吉、薩摩の田中新兵衛らが示し合わせ、暗殺した。
平井収二郎(融通無碍/人物評伝)松山深蔵(融通無碍/人物評伝)弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
本間精一郎が横死。享年28。
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2023.06.01.22.33