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土佐の森・文芸 幕末足軽物語/融通無碍編
[人物評伝]
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中岡慎太郎(1838~1867)
樋口真吉(1815~1870)
天保9年、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の北川村柏木)に、大庄屋・中岡小傳次の長男として生まれる。
学問を漢方医島村策吾(四書)、
間崎哲馬(=滄浪)(五経)、竹村東馬(南学)、そして剣術を
武市半平太(号:端山)に師事する。
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文久元年、
武市半平太の武術や見識に心酔して、早くから彼の結成した
土佐勤王党に加盟<血判盟約書の17番目>した。
間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)武市半平太(融通無碍/人物評伝)土佐勤王党(融通無碍/関連話)
土佐勤王党(NHK動画)~~~~~~~~~~
文久2年、安芸郡奉行の田野学館で学ぶ。砲術家・
田所左右次の門下生となり
島村寿之肋、平安佐輔(=
安岡金馬)らと時勢を論じている。
田所左右次(融通無碍/人物評伝)島村寿之肋(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
藩主護衛のため
五十人組の6番組伍長として参加、配下に
千屋寅之助、
村田角吾近藤次郎太郎、
安岡斧太郎らがいた。京都と江戸の間を往来して国事に奔走した。
五十人組(融通無碍/関連話)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)村田角吾(融通無碍/人物評伝)近藤次郎太郎(融通無碍/人物評伝)安岡斧太郎(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)この間、長州の久坂玄瑞らとともに、信州に
佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに見識を高めている。
文久2年のことども(融通無碍/関連話)五十人組(融通無碍/関連話)佐久間象山(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久3年、京都で「
8.18の政変」がおこると土佐藩内で尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まり、土佐勤王党シンパの板垣退助が失脚した。その直後に中岡慎太郎が板垣退助を訪ねている。
8月18日の政変(融通無碍/関聨話)板垣退助は中岡慎太郎に
「君(中岡慎太郎)が私に会いに来たのは、私が失脚したから、その真意を探る気になったからであろう。その話に移る前に、以前、君は京都で私(板垣退助)の暗殺を企てた事があっただろう」と尋ねた。
中岡慎太郎は
「滅相もございません」とシラを切った。
「いや、天下の事を考えればこそ、あるいは斬ろうとする。あるいは共に協力しようとする。その肚があるのが真の男だ。中岡慎太郎は、男であろう」と迫られたため、
「いかにも、あなたを斬ろうとした」と堂々と正直に打ち明けたところ、板垣退助に度胸を気にいられ
「それでこそ、天下国家の話が出来る」と、互いに胸襟を開いて話せる仲となった。板垣退助は上士ではあったが、土佐勤王党・中岡慎太郎の尊皇攘夷論、討幕論などに理解を示している
その後、中岡慎太郎は脱藩して長州へ渡った。

中岡慎太郎
土佐勤王党への弾圧が始まるとそれを逃れて脱藩し、長州に身をよせ高杉晋作と意気投合。
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文久3年9月
土佐藩で土佐勤王党への弾圧が始まると弾圧対象の中岡慎太郎は脱藩、長州藩の招賢閣に亡命した。
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[融通無碍]
◆招賢閣とは・・・
長州藩と朝廷内の尊皇攘夷派を排除するためのクーデター(8月18日の政変/七郷落ち)で、三条実美をはじめ七卿が都落ちをして来た時の宿所であり、脱藩の志士達の議論の場となった場所。
蛤御門の変(NHK動画)長州藩は七卿を賓客として迎え入れ、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を七郷の居館とした。
招賢閣(融通無碍/関連話)
白石正一郎旧宅跡<奇兵隊結成の地> (下関)
招賢閣は豪商・
白石正一郎の邸宅でもあり、当時は全国の脱藩の志士達がたむろする<情報を交換する、議論をする>場所になっていた。高杉晋作の奇兵隊が結成された場所としても知られる。
中岡慎太郎が、招賢閣会議員として尊皇攘夷派浪士たちの指導的役割を担う志士として活動していた。慎太郎は土佐で土佐勤王党が排斥されたこともあり七卿の傘下として動くことになる。

白石正一郎と伝えられる人物(中央のヒゲの老人)
白石正一郎(融通無碍/人物評伝)七卿は招賢閣で長州藩の奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議している。
また、中岡慎太郎は京都の公家と三条実美を提携させることを模索していた。
その連携相手の公家が、かつての政敵である
岩倉具視であった。
岩倉具視(融通無碍/人物評伝)三条実美は岩倉具視がかつての「大姦物」であると難色を示したが、岩倉の縁戚である東久世通禧の説得で提携を受け入れた。
岩倉具視(NHK動画)慎太郎は、これを契機に
三条実美の随臣(衛士)となり、朝廷とも繋がりを持つことになる。
三条実美(融通無碍/人物評伝)
七卿落ちで三條実美ら公家7人が長州へ向かう
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元治元年<文久4年>、
・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP241>
文久4年1月
中岡慎太郎は長州で招賢閣にとどまり、同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役になった。
招賢閣の会議員になって、尊皇攘夷派浪士たちの指導的役割を担う志士として本格的な活動を行っていった。
招賢閣(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP244>
文久4年1月
京都で参与会議が始まった。
参与会議(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
この参与会議の有様を誰かから聞いたのか、想像もあろうが中岡慎太郎が書面にして学習院に送っている。
この愉快で愚かな参与たちの内幕を暴露した書面の写しが真吉の日記「遍警雑記」に載っている。
【中岡慎太郎が学習院に送った書状の写し=真吉の「邊警雑記12」<引用>】
―参予会議に参加しているメンバーたちの某月某日―
(出演:一ツ橋慶喜 宇和島侯 春嶽侯 島津久光 松平容保 容堂は欠席 <中川宮>)
(場所:中川宮邸)
(時刻:不明だが夕刻か)
辻褄の合わぬ論議に業を煮やした一ツ橋が一杯引っ掛けて(原文通り)中川宮邸に押し掛けて居合わせた容堂を除いた参予たちを面罵する。
一ツ橋の闖入<ちんにゅう>に驚いた中川宮は着替えも時候の挨拶も出来ずうろたえる。
宇和島、春嶽、(薩摩の島津)三郎などは言葉を失って退室するという有様。
一ツ橋慶喜の怒りの本当の矛先<ほこさき>は、酔って参予会議に出席し暴言を吐く容堂にあったかも知れぬ。
さらに帰宿後、慶喜は側近に
「今日は愉快。今後何があっても今夜の愉快があれば堪えられる」と漏らした。
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招賢閣で尊皇攘夷派浪士たちと交流する中で、中岡慎太郎は当時対立していた「長州藩と薩摩藩の連合こそ新しい国づくりを進展できる」と確信し、実行に動いた。
時を同じくして同じ考えを持っていた龍馬と組み、薩長両藩の代表者を説得、慶応2年(1866)、ついに
薩長同盟を成立させた。
薩長同盟(融通無碍/第38話)~~~~~~~
慶応2年、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ
薩長同盟のため東奔西走、
坂本龍馬と共に幕末の殺伐たる動乱の中を駆け抜けた。
薩長同盟(融通無碍/第38話)薩長同盟(NHK動画)~~~~~~~
慶応3年、薩土密約、薩土盟約がなされ、大政奉還へと続き、坂本龍馬とともに中岡慎太郎が暗殺される激動の年だ。
坂本龍馬は
海援隊(
亀山社中/海運・商業活動)を、中岡慎太郎は
陸援隊(謀報機関・軍隊)を結成した。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)海援隊(幕末足軽物語/関連話)陸援隊(幕末足軽物語/関連話)・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP280>
・・・・・・・・・
慶応3年5月12日
真吉は
石川清之助、
高松太郎と逢う。
石川清之助は中岡慎太郎の変名、京都では「横山勘三」という変名も用いた。
高松太郎は真吉と親交のあった土佐東部/安田の・
高松順三と龍馬の長姉(千鶴)夫婦の間に生まれた長男。
高松太郎(融通無碍/人物評伝) 高松順三(融通無碍/人物評伝) 
旧高松順三邸(高知県安田町)
この日、薩摩と越前と宇和島の
三侯が土佐藩邸に来る。(
四侯会議の打ち合わせ)
四侯会議 (融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
慶応3年5月21日
中岡慎太郎の仲介によって京都(御花畑)の薩摩藩家老・小松帯刀寓居(京都市上京区)で、土佐藩の板垣退助、
谷干城、毛利恭助、中岡慎太郎ららとともに、薩摩藩の西郷吉之助(=隆盛)、
吉井耕助、小松帯刀らと武力討幕を議し、大意を確認し薩土密約を結ぶ。
薩摩藩と土佐藩の実力者間で交わされた武力討幕のための軍事同盟=『
薩土密約』だ。薩土密約は「武力倒幕路線」で、後の戊辰戦争に繋がる。薩土密約後、土佐藩は中岡慎太郎に新式銃(アルミニー銃)の購入を命じた。陸援隊の近代兵器武備だ。
薩土密約 (幕末足軽物語/関連話)
谷干城(四万十町HPより)
谷千城(融通無碍/人物評伝)
吉井耕助
吉井耕助(融通無碍/人物評伝) また、この密約には江戸の土佐藩邸に匿われていた水戸浪士の身柄を薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれていた。後の
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件に繋がる。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)
薩摩藩邸焼討事件絵図(松山文化伝承館蔵)
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP283>
慶応3年6月3日
樋口真吉と相国寺前の旅宿に西郷吉之助を訪ねて会う。
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[融通無碍]
中岡慎太郎日記には、同日の記録として「樋口と西郷に至る」とあり、この会見は中岡の紹介によるものか。
相国寺の前には薩摩藩の二本松藩邸があった。
この二本松にある薩摩屋敷こそ
龍馬暗殺の一月<ひとつき>前に、龍馬が友人望月清平に送った書簡中にある「薩摩が勧める緊急避難先」だった。
龍馬暗殺 (融通無碍/関連話)
二本松の薩摩藩邸跡、現在は同志社大学の今出川キャンパス
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP284>
慶応3年6月22日
土佐藩の後藤象二郎、
福岡藤次らが三本樹にて薩摩の小松(藩家老)、西郷、大久保の諸氏に会う。
福岡藤次(融通無碍/人物評伝)真吉が日記に記述した人物以外に、土佐側から坂本龍馬、中岡慎太郎、真辺栄三郎、
山内容堂側近の
寺村左膳が参加していた。
薩土盟約の締結である。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)寺村左膳(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
慶応3年(1867)、土佐藩は幕府を中心とする公議政体論を藩論として決定、大政奉還のため
薩土盟約を締結する。
薩土盟約 (幕末足軽物語/関連話)将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、布告させるという「平和路線」だ。
その後も、この路線で武力討幕派に対抗したが、薩摩の二股膏薬(薩土密約と薩土盟約)などもあり、伏見戦争(戊辰戦争)でこの平和路線は霧散した。
土佐藩も佐幕派の筆頭・旧藩主の山内容堂の突然の「君子豹変」で、討幕運動に加わることになる。
薩土盟約薩土盟約(NHK動画)
腹の探り合い/薩土盟約
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慶応3年7月27日
客兵(中岡慎太郎傘下の浪士達/26名=
陸援隊、後に田中健助<=
田中光顕>ら12名が追加加入/真吉はその名簿を入手していた)を白川邸入り(陸援隊の屯所として使用)させることが決定する。
陸援隊(幕末足軽物語/関連話)田中光顕(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
真吉は
佐々木三四郎と相談して客兵を白川邸に入れる決断をする。
中岡慎太郎の陸援隊本拠地を京都白川の土佐藩邸にあてる事については最終的には京都土佐藩邸の幹部・
由比猪内の英断で決着した。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝) 由比猪内(融通無碍/人物評伝) 長崎の坂本龍馬・
海援隊と並び称される中岡慎太郎・陸援隊の誕生である。
海援隊(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーーーーーーーーー
[保古飛呂比/佐々木高行・日記]
(出典:
魚の目<魚住昭>)
客兵を白川邸に入れる(融通無碍/第62話)・・・・・・・・・・
慶応3年10月15日
15代将軍・徳川慶喜による大政奉還が勅許された。
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP300>
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慶応3年11月15日(慎太郎と龍馬が暗殺された日)
この夜、才谷梅太郎(坂本龍馬)の宿へ横山勘蔵(中岡慎太郎)が行き(2人で)談話中のところに下婢が「度津川人の手紙が来ました」と言いながら(二人のいる)2階に上がり来たる。
両人がその書を燈火に閲する時、賊2人が襲来して矢庭<やにわ>に両人に斬り掛かる。
真吉日記・日新録<龍馬暗殺の日>(融通無碍/関連話)
龍馬と慎太郎が暗殺された夜、真吉は京都の土佐藩邸にいた。
龍馬&慎太郎暗殺(融通無碍/関連話)それを聞いた岩倉卿は「ああ、何者の鬼怪が麿の一臂(片腕)を奪うてしもうたか」と落涙したという。
龍馬は意見の相違を越えた信頼を慎太郎に寄せていた。
墓は京都市東山区霊山護国神社内にあり、龍馬とともに並んで眠る。享年29歳。
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本山只一郎宛ての 中岡慎太郎書状(霊山歴史館蔵<京都東山>)
本山只一郎(融通無碍/人物評伝)龍馬&慎太郎の手紙(youtube)龍馬の手紙では、この手紙が書かれた時期には、本山只一郎は土佐藩の大監察という重役に就いていた。
文中、龍馬は
「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」
「長崎から運んできたライフル銃の購入を決めてほしい」と、本山をせかしている。
慎太郎の手紙では、土佐藩も大政奉還に向けて行動をおこすことを促している。
龍馬/慎太郎暗殺ーーーーーーーー
◆真吉と慎太郎
大政奉還の前後、真吉は京の土佐藩邸を中心に動き回った。
特に中岡慎太郎とは頻繁に会っているが、6月以降はそのことを記録していない。
しかし、慎太郎日記を読めば、変わらず会っていることが判明する。
慎太郎との交遊を意識して秘匿したらしい。
真吉は西郷隆盛にも相国寺前の旅宿で数回面談している。東奔西走する龍馬とも数回会っている。お互い知らぬふりをしていたのかも知れぬ。会った場所も土佐藩邸内ではないはずだ。
慶応3年8月には真吉は藩に対して突然辞職を申し入れたが、聞き入れられなかった。
時局は土壇場に来ていた。
大政奉還である。
それも平和裏に終わればいいが、慎太郎を中心とする陸援隊はもうこの時期武力倒幕を目指すようになっていた。
陸援隊員たちを京の白川にある藩邸に収容するよう積極的に動いたのは、真吉と武者修行の旅(
日本漫遊の旅)の経験のある
佐々木三四郎であった。
日本漫遊の旅(融通無碍/第12話)佐々木三四郎(融通無碍/人物評伝)京伏見での戦となれば陸戦が主体となる。長崎を本拠地とする海援隊の出番はあるまい。
9月初めに慎太郎は隊舎内に集積した武器弾薬類を真吉に見せたのではないか。
国内には戦争に備えて武器が充満していた。攻撃する自衛するにも武備は必要だ。諸藩が懸命に新武器を購入し実戦に備えて藩士を鍛えている。
幕府も大量の武器を抱えたままである。平穏のうちに政権交代が行われる可能性は低い。せめて考えられるのは江戸市中での戦闘を避けることである。
15代将軍慶喜による大政奉還が勅許されたのはこの年10月15日のことであった。
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)大政奉還(NHK大河ドラマ/坂本龍馬)そして、龍馬と慎太郎はその1カ月後、11月15日夜近江屋において同時に暗殺された。享年30。
大政奉還から龍馬&慎太郎暗殺まで(融通無碍/関連話)
慎太郎&龍馬の墓(京都市東山区霊山護国神社)
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[融通無碍]
中岡慎太郎考(融通無碍/関連話)
中岡慎太郎館(高知県北川村)
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[融通無碍]慎太郎伝/片岡正法著
◆北川郷の風土とエピソード

若き慎太郎を育んだ北川郷は、高知県東部に位置し、馬路村魚梁瀬の奥山を源流とする奈半利川が、現在の北川村を経て奈半利町、田野町に挟まれて流れ、土佐湾にそそいでいる。年間平均降水量4000mmを越える気象条件下で、この川はしばしば暴れ川と化し、両岸に展開する狭小な田畑に幾度も甚大な被害を与えていた。
病気になった父親小伝次から、大庄屋を継いだ若き慎太郎は、まずこの奈半利川の抜本的な洪水対策として、郷中の人々に金穀を貸し付け、山林整備を行わせ、伐採の跡には必ず植林(杉)を実行させるように推奨した。今でも鳥ケ森、上杉、島、二又、小川などにその植林の跡が残っているという。
そして、田畑の開墾、整備も奨励し、高知城下より優良品種を取り寄せ、これを無償配布して作物栽培の指導を行うと同時に、飢饉や災害に備えるため、共同倉庫を造らせ食料を貯蔵させたりもした。また調味用としても換金性の高いユズの植樹も村人に勧めている。
これらを現代風に言えば、治水、森林保全、農業基盤整備、営農普及、自主防災組織づくり、特産品育成などに該当し、本来の庄屋業務を越えた八面六肘の指導者ぶりである。
中でもユズ栽培はその後も受け継がれ、現在北川村(人口約1500人)の全農業産出額51億円のシェア50%を占める基幹作物にまで成長している。
高知県は柚子の生産量が日本の半分を占める日本一屈指の割合となり、柚子の消費を高める観光PRとして暗殺された中岡を弔うかのように10月の下旬頃に「慎太郎とゆずの郷祭」が開催されている。

この頃、北川郷では地震や飢饉のため食糧不足に苦しむ人々が多く、慎太郎は、自分の土地を売ってサツマ芋を買い込み、村人達に配っている。
それでも不足して、高知城下の家老桐間宅に、藩の備蓄米をわけてもらうように陳情。遅い時刻だったため、門前払いにされたが、眠ることなく門前に座り続け、夜が明けるのを待ち続けた。
そんな思いが伝わり、明くる朝、家老は米を慎太郎にすんなり分け与えることにしたとのエピソードが残っている。
これらの彼の行動は、庄屋という仕事が「村人の生活を守り、平和な生活ができるようにする」という信念に由来する。
中岡慎太郎(NHK動画)◆慎太郎が行なった田畑区画整理の概要
さて、この奈半利川の中流域ハモド地区で、洪水による災害を契機として、藩の補助を受け、慎太郎の指揮の下、水田の区画整理が整然となされている。
日本での田畑区画整理の本格的なものは、明治5年(1872)の静岡県田原村での畦畔改良(静岡方式)、あるいは明治21年の石川県上安原村の石川式田区改正とされているが、慎太郎の指揮した区画整理は幕末であり、それらに先行すること遙か以前である。
これにより水管理や耕起など営農作業の効率性、生産性は、著しく高まったはずである。
時はまさしく、父親の病気により慎太郎が江戸より土佐に帰り、大庄屋見習いとなった安政4年(1857)から安政6年までの2年間のことだった。
生家の対岸にある農地の区画整理を、若き20歳前後の大庄屋見習いが指導して行ったことが、卓見と評価される。
地元の古老達は慎太郎のこの功績を今も感謝して語り継ぎ、また生家近くに建つ村営の中岡慎太郎館内では、地元有志達が製作した区画整理の模型を展示して顕彰している。

中岡慎太郎館(北川村柏木)
区画整理面積は5町3反、総筆数153筆、一筆の面積は3畝から1反。内訳は、水田5町2反、畑8畝及び農道3畝。現況から推測して、幹線道路沿いに用排兼用水路(地元に残る古文書には「溝」の表現が残っている)があったと思われる。一筆あたりの面積に大小はあるものの、短冊形の矩形で構成されている。
郷土史家によると、従前の分散している土地を個人ごとに集める「換地」は当然なされただろうとのこと。

蛇行した奈半利川に沿う三日月型の耕地のため、変則的な筆が一部生じるのは仕方ないとしても、またその後の隣接県道拡幅工事などで形状は若干変わっているが、がっちりとした築堤に囲まれた現地をじっくりと眺めて見ると、150年前の換地配分や石礫除去の苦労が今でも充分実感できる。

剣術で胆力を鍛え、また「時勢論」などの著書もあり、龍馬よりも理論的だったと言う慎太郎は、大庄屋見習いというわずかな期間で、経世済民の実践的基礎力を磨いていったように見える。
犬猿の仲だった薩長両藩の同盟に向け、西郷隆盛、
木戸孝允らを精力的に粘り強く説得していったこのパワーの源は、わずか20歳の頃の、区画整理の合理的な立案、計画、実施で培われたのではないだろうか。
木戸孝允(融通無碍/人物評伝)特に資金捻出の苦労や煩雑な換地業務の実務経験で、説得力や調整力を磨き、自信を付けたのが大きかったのではと農業土木技術者の私は贔屓目に推測する。そうした観点で現地の奈半利川岸辺に立つと、このわずか5町の区画整理が、大げさながら日本の維新回天につながったと感慨を覚えるのである。
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
2024.09.01.23.54