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土佐の森・文芸 融通無碍
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[第52話]
五十人組◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP203>
◆五十人組
文久2年11月、土佐勤王党の郷士50人は、「江戸に在住する隠居・
山内容堂の身辺警護」を名目に願書を土佐藩に提出して江戸に向かった。
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[融通無碍]
◆身辺警護
慶応3年4月、真吉は徒士目付役格式御用人として、
山内容堂がいる京都に差し立てられた。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)身
辺警護も含む山内容堂の側近としての任務だ。

しかし、五十人組の連中はもともと許可を得る気はなく「届け捨て」での出国であった。50人が示し合わせての行動だった。
下士たちが徒党を組んで土佐藩庁に反抗した形だ。
この時代徒党を組んでの行動は御法度であり、まして集団脱藩となると藩としては看過できないことであった。
後の
佐川での集団脱藩、野根山での騒動(集団脱藩)では、土佐藩は厳罰に処している。
佐川のこと(融通無碍/関連話)野根山騒動(融通無碍/関連話)五十人組は山内容堂の身辺警護を掲げての行動であったため、対応に苦慮した土佐藩庁(大目付・
平井政実、
島村寿之助、
尾崎源八ら)は「事後承認」の形で事態を収拾した。
平井政実(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)尾崎源八(融通無碍/人物評伝)しかし、これを許した土佐藩庁には思惑があった。
文久2年4月頃、山内容堂は安政の
大獄で課せられた処分が撤回され自由な立場にあり、幕府からの要請もあり様々な提言をした。
安政の大獄で課せられた処分撤回(融通無碍/関連話)幕府も
山内容堂の藩主就任を認める際に例外的な恩典を与えたから
「山内容堂に限って幕政に不利な提言をするはずがない」と受け入れることが多かった。出来レースだった。
山内容堂が土佐藩主に(融通無碍/関連話)山内容堂の提案には
①『参勤交代制度の改革』
②『大名妻子を江戸に置く』の廃止があった。
参勤交代は一年毎に領地と江戸を往復する制度で功罪半ばする。多大な経費支出を諸藩に強いる反面、江戸の文化を地方に移植浸透させた。江戸文化の種が地方に運ばれ花開く。
この隔年交替を山内容堂の提案(福井藩の有力大名・松平春嶽も参勤交代の暖和をはかっていた)により3年に一度に変える。
山内容堂は提案のとき、参勤交代で浪費される国富を海防と殖産事業に回せば国力は回復すると訴えた。
この時期、山内容堂と同様、安政のの大獄で隠居させられ、復活した越前福井藩の藩主
松平春嶽も同様の提言をしている。
松平春嶽は幕府の大老(<新設の>政事総裁職)に復権すると、この提言を実行に移し、世に言う「文久の改革」を成し遂げた。
松平春嶽(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
しかし、その制度(幕制)の変更は(旧守派の過激な反発を招くとともに)江戸の消費を激減させる。諸藩の大名屋敷で働く江戸市民も多く、この制度改革で江戸は閑古鳥の啼く町になった。江戸市民は不満を抱く。怨嗟の声が高まっている。京都でも浪士(志士)らの争いが頻発する。
怨嗟の的はまずは「変更の提案者=山内容堂」に向かうと土佐人は考えた。無理からぬ推論だ。(本来ならば、改革を成し遂げた松平春嶽が本命であろうが。)
この時に当たり「江戸のご隠居様の警護」を掲げて五十人組が行動を起こした。認めざるを得ない。苦虫を噛み殺しなら判子を押す。本来なら土佐藩庁が身辺警護のため自前で護衛の手勢を派遣せねばならなかったから。苦虫の裏には笑顔がある。少し変った出来レース。
五十人組は徒党を組んで東海道を下り、京から江戸に向かっていた真吉と出会っている。
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幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP202>
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文久2年11月3日
藩の下横目・広田章次が伏見で斬殺される。広田章次は吉田東洋暗殺事件の下手人探しをしていたか。
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[融通無碍]
広田章次は五十人組が暗殺したとされている。8月には大坂で同様に
井上佐一郎が暗殺されている。さらにこの後、小田原でも五十人組の檜垣清治が足軽・坂本清平を害するの一件が起きている。
井上佐市郎(融通無碍/人物評伝)井上佐市郎暗殺事件・・・・・・・・・・
文久2年11月4日
中川氏の一件(中川侯、偉勅騒動)の顛末を江戸に報告するため東下(江戸に下る)の命を(真吉は)大監察・
横山覚馬から伝達される。
真吉は江戸へ、
谷干城は京に留まることになった。藩主(=
山内豊範)らは勅旨を守って京に滞在中だ。
黄昏、京を発し二更(22時)大津駅に至る。
横山覚馬(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)山内豊範(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP203>
文久2年11月6日
桑名に宿す。12里(48km)程。
高知から田所島太郎(=
田所壮輔<真吉の砲術の師・
田所左右次の息子>)ら50人の一行と同宿する。
田所壮輔(融通無碍/人物評伝)田所左右次(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
文久2年11月7日
五十人組と別れて真吉は馬を馳せて岡崎に入り、宿す。
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文久2年11月12日
小田原に至る。五十人組の先発・
檜垣清治が足軽・坂本清平を害するの一件を聞く。
檜垣清治(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
五十人組は徒党を組んで東海道を下り真吉と出逢った。
手短に両者は会話を交わしたか。
真吉も、多彩な人脈と剣の腕を買われ、常に「藩主を護衛する職務(今でいうSP?)」に就いていた事情もあり、阿吽の呼吸で「全て了解!」。不言黙識の世界である。
◆五十人組の結成
文久2年10月、勅使・
三条実美が江戸へ下る際、土佐藩主・
山内豊範がこれを護衛することになり、(山内豊範の江戸参勤に随行できなかった)土佐勤王党の同志(郷士)たちが大目付・平井政実、尾崎源八、島村寿之助の(資金援助を含めた)配慮をえて結成された警護部隊。武装集団だ。
三条実美(融通無碍/人物評伝)山内豊範(融通無碍/人物評伝)文久2年11月、前藩主・山内容堂の守衛の密命を受けて、大挙して江戸に向かった。
中岡慎太郎、
島村寿太郎、
望月亀弥太、
千屋寅之助、
安岡金馬、
近藤次郎太郎、
豊永斧馬、
森下幾馬、
坂本清次郎、
田所壮輔、
安岡斧太郎、
村田忠三郎、
河埜万寿彌、
柳井健次ら50人余の志士が参加した。
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中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)望月亀弥太(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)近藤次郎太郎(融通無碍/人物評伝)豊永斧馬(融通無碍/人物評伝)森下幾馬(融通無碍/人物評伝)坂本清次郎(融通無碍/人物評伝)田所壮輔(融通無碍/人物評伝)安岡斧太郎(融通無碍/人物評伝)村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝)柳井健次(融通無碍/人物評伝)宮川助五郎(融通無碍/人物評伝)曽和田伝左衛門(融通無碍/人物評伝)山本三治(融通無碍/人物評伝)北代忠吉(融通無碍/人物評伝)田内衛吉(融通無碍/人物評伝)仲彦太郎(融通無碍/人物評伝)石川菊馬(融通無碍/人物評伝)中村恵三郎(融通無碍/人物評伝)大利鼎吉(融通無碍/人物評伝)沖野平吉(融通無碍/人物評伝)依岡権吉(融通無碍/人物評伝)岡田啓吉(融通無碍/人物評伝)田所庄之助(融通無碍/人物評伝)尾崎幸之進(融通無碍/人物評伝)小畑五郎馬(融通無碍/人物評伝)檜垣清治(融通無碍/人物評伝)大石利左衛門(融通無碍/人物評伝)川久保健次(融通無碍/人物評伝)村田覚吾(融通無碍/人物評伝)今橋権助(融通無碍/人物評伝)長尾省吾(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
江戸では当初の予定通り山内容堂の護衛にあたった。
その後、勅命により山内容堂が上洛することになったが、五十人組の構成が過激な土佐勤王党(下士ばかり)であり、井上佐一郎、広田章次、坂本清平を暗殺したことに山内容堂が懸念を示した。
京都へ向けて出発する直前、側近の板垣退助に、
「土佐勤王党に代わる土佐藩上士による「勤王隊」を結成できないか」と問うと、板垣退助は即座に勤王の志のある上士50名の名を書き提出した。
板垣退助を筆頭に、
毛利恭助、小島勘兵衛、茨木源四郎、中山源太兵衛、板坂三右衛門、高屋佐兵衛、
小笠原唯八、
山地忠七、大黒銀次郎、武市八十衛らが名を連ねた。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)毛利恭助(融通無碍/人物評伝)小笠原唯八(融通無碍/人物評伝)山地忠七(融通無碍/人物評伝)土佐から来た五十人組に代わる「上士勤王隊<上士・五十人組>」が、江戸で結成された。(なおこの時、江戸におらず国許の土佐にいた者にも辞令が発せられ、大坂にて山内容堂を出迎えるよう指示を受けた。)
江戸にいた「下士・五十人組」は任を解かれ、自然解散した。
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中岡慎太郎は江戸に到着後、長州の久坂玄瑞と水戸で交わり親交を深めた。また、幕臣・
勝海舟も訪問している。さらに信州松代の
佐久間象山も訪問し国防・政治改革について議論している。さらに、
勝海舟(融通無碍/人物評伝)佐久間象山(融通無碍/人物評伝)
その後、土佐藩で土佐勤王党への弾圧が始まると弾圧対象の中岡慎太郎は脱藩し、文久3年9月長州藩に亡命。
以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となった。
招賢閣の会議員だ。
招賢閣(融通無碍/関連話)また、周防国三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり朝廷とも繋がりを持つことになる。

七卿落ちで三條実美ら公家7人が長州へ向かう
中岡慎太郎は、その後「
陸援隊」を結成することに。
陸援隊(融通無碍/関連話)
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2024.12.31.20.34