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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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三条実美(1837~1891)
樋口真吉(1815~1870)

天保8年、公卿・三条実万の四男として生まれる。土佐藩第16代(最後の)藩主・山内豊範は従弟にあたり、土佐とは縁が深い。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、
武市半平太が
土佐勤王党を結成し土佐藩を尊皇攘夷派にまとめると、三条実美は土佐藩を長州藩とともに薩摩藩に対抗するよう圧力をかけた。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)土佐勤王党(融通無碍/関連話)公武合体論者であったが、攘夷へと進まない幕府への不満が高まり、尊皇攘夷派の志士との交流を深める。
公武合体 (融通無碍/関連話)三条実美は姉小路公知など13名の公卿と連携して公武合体派の
岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾した。岩倉具視らは蟄居処分を受け失脚した。
岩倉具視(幕末足軽物語/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久2年、安政の大獄により江戸で隠居していた
山内容堂に働きかけ、土佐藩主・山内豊範を上洛させ、土佐藩(=山内容堂)を中央政界へ進出させる。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)三条実美は長州藩と土佐藩が企てた幕府への攘夷督促の勅使として姉小路公知とともに江戸へ赴く。
藩命で
清岡半四郎が衛士となる。
清岡半四郎(幕末足軽物語/人物評伝)その他、武市半平太ら参勤交代<
大名行列>で上洛した土佐勤王党の志士(
中平龍之助、
中平保太郎ら)、及び
中岡慎太郎ら山内容堂の警護で江戸へ下った
五十人組の土佐藩郷士が護衛にあたった。
中平龍之助(幕末足軽物語/人物評伝)中平保太郎(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(幕末足軽物語/人物評伝)大名行列(融通無碍/関連話)五十人組(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、薩摩の
島津久光が上洛したことを契機として三条実美は活発な活動を始める。
島津久光(融通無碍/人物評伝)三条実美は島津久光の「公武合体」を支持し、攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた。この時期には、尊皇攘夷派の志士とも交流を深めていた。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP233>
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文久3年7月12日
真吉は三条実美へ
上書を差し出す。
真吉の上書(融通無碍/関連話)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP235>
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文久3年8月23日
鶏鳴、京報が初めて届く。18日発出だ。8月18日の京での政変の報せが届いた。
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長州藩と朝廷内の尊皇攘夷派を排除するためのクーデター(
8月18日の政変/七郷落ち)で、三条実美は都落ちして長州へ。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)七郷落ち(融通無碍/関連話)三条実美らの都落ちには清岡半四郎、
土方久元らが衛士となり随行した。
土方久元(融通無碍/人物評伝)長州では、
千屋菊次郎が三条実美の命によりと水戸に赴いている。
千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)長州藩は七卿を賓客として迎え入れ、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を七郷の居館とした。
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[融通無碍]
◆招賢閣とは・・・
長州藩と朝廷内の尊皇攘夷派を排除するためのクーデター(
8月18日の政変/七郷落ち)で、三条実美をはじめ七卿が都落ちをして来た時の宿所であり、脱藩の志士達の議論の場となった場所。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)長州藩は七卿を賓客として迎え入れ、公邸である三田尻御茶屋の招賢閣を七郷の居館とした。
招賢閣(融通無碍/関連話)
白石正一郎旧宅跡<奇兵隊結成の地> (下関)
招賢閣は豪商・
白石正一郎の邸宅でもあり、当時は全国の脱藩の志士達がたむろする<情報を交換する、議論をする>場所になっていた。高杉晋作の奇兵隊が結成された場所としても知られる。
中岡慎太郎が、招賢閣会議員として尊皇攘夷派浪士たちの指導的役割を担う志士として活動していた。中岡慎太郎は土佐で土佐勤王党が排斥されたこともあり七卿の傘下として動くことになる。

白石正一郎と伝えられる人物(中央のヒゲの老人)
白石正一郎(融通無碍/人物評伝)七卿は招賢閣で長州藩の奇兵隊を護衛とし、高杉晋作らと武力上京について協議している。
また、中岡慎太郎は京都の公家と三条実美を提携させることを模索していた。
その連携相手の公家が、かつての政敵である岩倉具視であった。
三条実美は岩倉具視が「大姦物」であると難色を示したが、岩倉具視の縁戚である東久世通禧の説得で提携を受け入れた。
岩倉具視(NHK動画)招賢閣会議員の中岡慎太郎は、これを契機に三条実美の随臣(衛士)となり、朝廷とも繋がりを持つことになる。

七卿落ちで三條実美ら公家7人が長州へ向かう
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP232>
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文久3年7月3日
真吉は長官へ上書して、長州応援のことを言う。やはり真吉は長州ひいきのようだ。
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[融通無碍]
文久3年8月18日の政変で三条実美ら公家7人が長州へ向かうことになるが、その直前の7月3日、真吉が三条実美に出した
上申書がある。
真吉の三条実美への上書(文久3年7月3日)(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
元治元年、
禁門の変が発生し、京都の攘夷強行論者が一掃される。
禁門の変(融通無碍/関連話)蛤御門の変(NHK動画)第一次長州征伐で長州藩内の幕府恭順派が台頭すると、山口から逃れてきた五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、壬生基修)を長府の功山寺に潜居した。長州藩近習供頭役の
印藤聿が接待役として従った。
印藤聿(融通無碍/人物評伝)この五卿の功山寺入りが後の薩長和解の先鞭となった。
第一次長州征伐(融通無碍/関連話)下関戦争では長府の前田砲台が四国艦隊に砲撃され占領を受ける。

英国海軍陸戦隊によって占拠された前田砲台(山口県下関市前田)
長府の前田は三吉周亮の所領であり、この砲撃での地域住民の被害を私財で補償したという。
下関戦争(融通無碍/関連話)下関戦争の講和談判に際し、長州藩主毛利敬親から三吉周亮は本使、副使として高杉晋作が任命された。
高杉晋作らが功山寺挙兵を起こした際、三吉周亮は3000両の公金と銃器を拠出した。この件は長州征討の戦後処理の際、高杉晋作など諸隊と関係が深かったとして、長府藩主・毛利元周より切腹を命じられるも、三吉周亮は
西郷隆盛と直談判、高杉晋作との斡旋を受諾して薩長和解に努めた。
西郷隆盛(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応元年、三条実美は福岡藩の太宰府天満宮の別当延寿王院に幽閉される。学問や身体の鍛錬で日々を過ごした。
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慶応2年、
坂本龍馬や
中岡慎太郎の仲介もあって
薩長同盟が成立した。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)薩長同盟(融通無碍/第38話)・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編」ではP275>
慶応2年9月24日
佐々木高行は上京の内意がある山内容堂の命令で太宰府の
三条実美を訪ね、京師情勢を探索する。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)三条実美(融通無碍/人物評伝)中山左衛士、
毛利恭助、
島村寿太郎、
佐井寅次郎、
藤本淳七が同行した。
毛利恭助(融通無碍/人物評伝)島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)佐井寅次郎(融通無碍/人物評伝)藤本淳七(融通無碍/人物評伝)=====
[融通無碍]
この探索(情報/意見収集)は、7月20日に将軍・徳川家茂が死去したこと、長防との戦いがしばらく止戦したこと、十二鄕が建白したこと、福井の
松平春嶽侯が幕府を正道に戻す建言をしたこと、などを踏まえ行われた。
松平春嶽(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応3年、大政奉還がなされ、三条実美は復権(赦免・復位)した。長州藩を経て上洛する。
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)~~~~~~~~~~
慶応4年、参内・議定に任ぜられ、朝廷内における薩摩・長州の後ろ盾となった。
慶応4年の大活劇<伏見から戊辰戦争へ>(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~~~
明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。内閣発足以後の内閣総理大臣も兼任している。
明治元年、戊辰戦争においては、関東観察使として江戸へ赴き、彰義隊の討伐を目指す
大村益次郎を支持した。
大村益次郎(融通無碍/人物評伝)明治2年、岩倉具視とともに明治新政府の副総裁の一人となり、外国事務総督を兼ねることに。
明治24年、病没。享年53。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2023.02.01.22.43