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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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千屋寅之助(=菅野覚兵衛)(1842~1893)
樋口真吉(1815~1870)

天保13年、土佐の東部・
和食(わじき、現安芸郡芸西村和食)の庄屋・千屋民五郎の三男として生まれる。
幕末足軽物語/関連話<和食のこと>)~~~~~~~~~~
文久元年、
武市半平太の土佐勤王党に加盟し<血判盟約書の34番目>、勤王活動を始める。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、真吉は谷干城と九州へ。西国筋探索御用を命じられた。
谷千城(融通無碍/人物評伝) 西国筋探索御用(融通無碍/関連話)この西国探索は肥後・熊本藩を朝廷側に引き寄せるための工作活動で、真吉らは三条公(
三条実美)から熊本藩主への直書を携行する。
この旅行の裏に
武市半平太の画策があったようだ。
この使者の正使は上士・谷守部(後の
谷干城)で、真吉は副使、付添いのような立場であった。
三条実美(融通無碍/人物評伝)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP186>
文久2年閏8月23日、
昨夜、九条家の諸大夫・宇郷玄蕃頭を討ち取り、松原河原に梟首<きゅうしゅ>された。
脇に建てた札には、
「玄蕃は島田左兵衛と組んで悪巧みして主家(主人=九条尚忠)を不義に陥れたからその姦悪さは主家より悪質である。よって天誅を蒙らしめる」と書かれていた。
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[融通無碍]
千屋寅之助が関わった天誅事件
◆京都町奉行所与力暗殺事件(江州石部事件)
文久2年9月23日早朝、土佐藩士12名(
清岡治之助、
弘瀬健太、
山本喜三之進、
堀内賢之助、
川田乙四郎、
千屋菊次郎、
千屋熊太郎、
中平保太郎、
筒井米吉、
平井収二郎、
千屋寅之助、
小笠原保馬)、長州藩士10名(久坂玄瑞、寺島忠三郎ら)および薩摩藩士2名の総勢24名が幕府与力・渡邊金三郎(京都町奉行所与力) 、同心・大河原重蔵らを近江国・石部で襲撃、殺害し、その首を粟田口に梟した。(武市半平太の日記によると、土佐藩の刺客には岡田以蔵の名はない。)
清岡治之助(融通無碍/人物評伝)弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)堀内賢之助(融通無碍/人物評伝)川田乙四郎(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)千屋熊太郎(融通無碍/人物評伝)中平保太郎(融通無碍/人物評伝)筒井米吉(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)小笠原保馬(融通無碍/人物評伝)◆平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し事件。
文久2年10月9日、
岡田以蔵、
千屋寅之助、
五十嵐幾之助、長州の寺島忠三郎らが実行したとされる。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)五十嵐幾之助(融通無碍/人物評伝) ・・・・・・・・・・
文久2年11月15日
多田帯刀暗殺事件。実行犯は長州の楢崎八十槌、土佐の千屋寅之助、
河野万寿弥、
依岡権吉、
小畑孫三郎ら。
河野万寿弥(融通無碍/人物評伝)依岡権吉(融通無碍/人物評伝) 小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝) このうち、依岡権吉は大正まで存命して、この事件を語り遺している。それによると
岡田以蔵も加わっていたとされているが、この時岡田以蔵は副勅使護衛の任務で江戸に滞在しており、事件には関与していないというのが真実と思われる。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久2年11月、江戸で蟄居している前土佐藩主
山内容堂を警護する
五十人組に参加。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)五十人組(融通無碍/関連話)中岡慎太郎、
望月亀弥太、
安岡金馬らと江戸へ。
中岡慎太郎(融通無碍//人物評伝)望月亀弥太(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助は江戸で
勝海舟の私塾に入門、勝海舟の弟子となる。
髙松太郎と知己になる。
勝海舟(融通無碍/人物評伝)高松太郎(融通無碍/人物評伝)その後、勝海舟の進言によって幕府が神戸に設置した
神戸海軍操練所に参加。そこで
坂本龍馬と出会い、それ以後、龍馬の右腕となり行動をともにすることに。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)神戸海軍操練所(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~~
文久3年、伊豆・下田/宝福寺で、前土佐藩主・山内容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)との会談が行なわれた。
千屋寅之助はこの会談に、勝海舟の随行者として
高松太郎、望月亀彌太とともに同席している。
高松太郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP209>
文久3年1月15日、
滞泊する。真吉は蓮代寺温泉(静岡県下田市蓮台寺温泉)温泉に浸かる。
攝海(大阪湾)を出航した蒸気式幕船(=順動丸)が入港して来た。この船は勝麟太郎が乗り組んでいる。わが藩の①高松太郎②千屋虎之助③望月亀彌太も航海術修行のためこの船に乗っている。

伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)~~~~~~~~~~~~
慶応元年、神戸海軍操練所が閉鎖される。
千屋寅之助は龍馬や
陸奥宗光らと行動を共にして、長崎での
亀山社中(のちの
海援隊)の結成に尽力する。
陸奥宗光(融通無碍/人物評伝)亀山社中(融通無碍/関連話)海援隊(融通無碍/関連話) 
海援隊(左から
長岡謙吉、
溝渕広之丞、坂本龍馬、
山本洪堂、
千屋寅之助、
白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)溝渕広之丞(融通無碍/人物評伝)山本洪堂(融通無碍/人物評伝)白峰駿馬(融通無碍/人物評伝)
日本造船界の先駆者 白峰駿馬
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第二次長州征討(四境戦争/下関海戦)では、
ユニオン号の艦長(砲手長は
石田英吉)となって龍馬とともに実戦に加わり、高杉晋作の長州藩海軍を支援して幕府軍を撃破した。その後も、海援隊の幹部として八面六腑の活躍をする。
第二次長州征討(融通無碍/関連話)ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)石田英吉(融通無碍/人物評伝)龍馬は、この戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・権平に書き送っている

下関海戦図(手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいに感想を書いている。/高知県立坂本龍馬記念館より)

高杉晋作/戦場で三味線
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慶応3年、千屋寅之助は龍馬らと土佐へ、引き続き京都へと赴く。その京都では、10月16日には大政奉還。11月15日には龍馬暗殺の渦中に。
大政奉還~龍馬暗殺まで(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・
慶応3年9月9日
龍馬はグラバー商会で鉄砲千挺取り揃えて、土佐へ向かうことを決断した。
長崎に駐在している土佐藩重役・佐々木高行に報告した手紙がある。
龍馬の手紙(佐々木高行宛て①)佐々木高行(=三四郎)(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
慶応3年9月14日
海援隊名義でハットマン商社からライフル銃1300挺の購入契約を結ぶ。
・・・・・・・・・・
慶応3年9月18日
千屋寅之助は坂本龍馬、
岡内俊太郎・
戸田雅楽らとライフル銃1300挺を積み込んだ震天丸に乗船し、長崎を出帆。土佐へ。
岡内俊太郎(融通無碍/人物評伝)戸田雅楽(融通無碍/人物評伝)=====
[融通無碍]
慶応3年8月26日、戸田雅楽は三条実美の指示により長崎に赴く。8月30日、佐々木高行を訪ね、紹介された坂本龍馬と意気投合する。9月18日、龍馬とともに土佐へ行き、その後ともに京都へ。10月16日、大政奉還後の職制案を龍馬に示す。この職制案が龍馬から
後藤象二郎の手を経て
岩倉具視に渡り、王政復古後の職制の原型となったといわれている。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)岩倉具視(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~~~
慶応4年、戊辰戦争が勃発する。
千屋寅之助は
長崎振遠隊の幹部として、海援隊の同志・石田英吉(長崎振遠隊長)、
渡辺剛八らとともに
戊辰戦争/秋田戦争に従軍した。

長崎振遠隊
渡辺剛八(融通無碍/人物評伝)(福井藩士で海援隊士の渡辺剛八は千屋寅之助と君江の結婚では仲人をしている。)
長崎振遠隊(融通無碍/関連話)◆秋田戦争
戊辰戦争時、
奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が官軍とともに、庄内藩・盛岡藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦い。秋田庄内戊辰戦争ともいう。
奥羽越列藩同盟(融通無碍/関連話)慶応4年7月19日に長崎港からイギリス船フィロン号に乗り組み、海路で秋田に。同月24日に秋田領船川に到着した。秋田城下に入り角間川の戦いで、庄内藩の酒井忠篤の軍と戦ったものの敗走した。その後盛岡藩降伏の報を受けて、雫石で雫石・橋場口の戦いを経て、10月に盛岡城へ入った。
秋田での戊辰戦争ーーーーーーー
千屋寅之助は長崎で(生前の龍馬の希望でもあった)龍馬の妻・お龍の妹・君江と結婚する。

千屋寅之助夫妻
千屋寅之助の実家(高知県和食<わじき>)には一時お龍も同居しており、和食の琴ヶ浜松原には「お龍・君江姉妹像」の銅像がある。

お龍・君枝姉妹像(高知県芸西村和食)
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明治元年、千屋寅之助は海援隊の同志・白峰駿馬とともにアメリカ合衆国に渡りニュージャージー州のラトガース大学に留学。

アメリカ・ラトガース大学へ留学中の日本人学生(後列右端が千屋寅之助、右から4人目が白峰駿馬)
アメリカから帰国後は、勝海舟の紹介で海軍省に入省、海軍少佐となる。
退官後は、
北添佶磨、坂本龍馬らと抱いた北地開拓の夢の実現のため、とりあえず福島県郡山市の安積原野に入植、開拓事業に携わり滅私奉公(ボランティア)の活動をする。
北添佶磨(融通無碍/人物評伝)しかし、病のため倒れ、北地開拓の夢は道半ばで頓挫する。
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明治26年、死去。享年52。
****************
千屋寅之助の故郷は土佐東部の
和食。(現・高知県芸西村和食)
幕末には多くの勤王の志士を輩出している。
芸西村和食出身の維新志士*安岡金馬は、五十人組で江戸へ、中岡慎太郎と行動をともにする。馬関海峡戦で龍馬に誘われ、海援隊が組織されると参加している。
*
野老山吾吉郎は、北添佶磨、望月亀弥太とともに
池田屋騒動に巻き込まれたが、脱出に成功している。北添佶磨は
新撰組に惨殺され、望月亀弥太は自刃した。
野老山吾吉郎(融通無碍/人物評伝)池田屋騒動(融通無碍/関連話)新撰組(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
また、和食には樋口真吉の妹が嫁いでいる。
真吉は東部方面へ出掛けるときには、必ず和食の妹宅に立ち寄っている。この時、和食の勤王志士と交流があったものと思われるが記録にはない。
◆和食の妹
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP265>
・・・・・・・・・・・・
元治2年1月17日
芸西の和食(実妹が嫁いでいる)に行く。
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[融通無碍]
◆和食川
筆者が気になるのは芸西の和食川だ。集中豪雨でまれに氾濫することもあるが、普段はごく小さな川幅も狭い川だ。
和食川(融通無碍/関連話)高知から、てくてくと歩いて来ると
手結山の峠(有名な茶屋餅あり)を越え降りて来ると一筋の流れにぶつかる。和食川だ。
融通無碍/第7話・峠
《シバテン - 令和の現在の和食川にゃ河童が棲んじゅう?》
夏なら履いていた草履を脱いで両手に持ちこの川を渡る。
夏川を 渡る楽しさ 手に草履
読者諸賢も芸西の和食川を夏に訪れ、ニコニコしながら川を渡る真吉の姿を思い描いてたのしむべし。筆者すでに何度も足を運び、毎度この空想をしてはニヤニヤする。
入道雲がモコモコ大きくなる。そうでなくとも暑い。川がある。入れば涼しい。向こう岸に目的地がある。渡らねばならぬし、渡りたい。草履も道中で少し傷んだ。ひょいと脱いで左右の手に持つ。ジャバジャバ音を立てて小川を渡る。川辺の黄色いハマボウの花が鮮やかだ。

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[史料] HP/日本の歴史ガイドより
◆龍馬の手紙
菅野覚兵衛(=千屋寅之助)宛て
【原文】
拝啓。然に大極丸は後藤象二郎引受くれ申候。そして小弟をして海援長と致し、諸君其ま〃御修行被成候よふ、つがふ付呉候。是西郷吉が老侯にとき候所と存候。福岡藤次郎此儀お国より以て承り申候。然に此度土州イロハ丸かり受候て、大坂まで急に送り申候所、不計も四月廿三日夜十一時頃、備後鞆の近方、箱の岬と申所にて、紀州の船真横より乗かけられ、吾船は沈没致し、又是より長崎へ帰り申候。何れ血を不見ばなるまいと存居候。
其後の応接書は西郷まで送りしなれば、早々御覧可被成候。航海日記写書送り申候間、御覧可被成候。此航海日記と長崎にて議論すみ候までは、他人には見せぬ方が宜と存候。西郷に送りし応接書は早々天下の耳に入候得ば、自然一戦争致候時、他人以て我も尤と存くれ候。惣じて紀州人は我々共及便船人をして、荷物も何にも失しものを、唯鞆の港になげあげ主用あり急ぐとて長崎に出候。鞆の港に居合せよと申事ならん。実に怨み報ぜざるべからず。早々頓首。四月二十八日才谷龍菅野覚兵衛様多賀松太郎様追而船代の外二千金かりし所、是は必代金御周旋にて御下被成るよふ御頼み申候。
別紙ハ航海日記、応接一冊を西郷ニ送らんと記せしが猶思ふに諸君御覧の後、早々西、小松などの本ニ御廻、付てハ、石川清の助などにも御見せ奉願候。又だきにて御一見の後、御とゞおき被成候てハ、不安候間、御らん後、西郷あたりニ早々御見せ可被下候。実ハ一戦仕りと存候間、天下の人ニよく為知て置度存候。早々。四月廿八日龍菅野様多賀様
【現代文】
①大極丸の件
拝啓、大極丸(海援隊で使うための船)の件は
後藤象二郎が引き受けてくれることになりました。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)私を海援隊隊長とし、諸君も修行(海運業・交易)することの都合をつけて下さい。これは西郷吉之助(
西郷隆盛)が山内容堂に説いた話です。
西郷隆盛(融通無碍/人物評伝)福岡藤次郎(=福岡孝悌)がこの話をお国(土佐)からもってきた。
福岡藤次郎(福岡孝悌)(融通無碍/人物評伝)②いろは丸の件
また、土佐藩が
いろは丸を借り受けて大阪まで急行したいと申したが、はからずも4月23日の夜11時頃、備後の鞆の浦近くの箱の岬(現在の六浦)という場所で紀州藩の船が横から乗りかかってきて、我々の船は沈没しました。
いろは丸事件(融通無碍/関連話)これからまた長崎へ参ります。
何にしても血を見ることになるでしょう。
この後の応接書は西郷まで送りましたので早々にご覧下さい。
航海日誌と写真を送りますのでそれもご覧下さい。この航海日誌は長崎にての示談が済むまでは他人には見せない方がいいと思います。
さらに紀州人は我々と同じように輸送船なので、こちらは荷物も全て失ったと言うのに鞆の浦の港に投げ上げて、主用があるため急ぐと言い長崎に向かいました。鞆の浦の港に居て下さいと申してました。実に恨み深いことです。
慶応3年4月28日
菅野覚兵衛様(海援隊士)
高松太郎様(海援隊士:龍馬の甥)
別紙は航海日誌、応接一冊を西郷に送ろうと記したが、思うに諸君がご覧のあと、早々に西郷、小松などへお回し下さい。
また、中岡慎太郎にも見せて下さい。
また、この件についてはまだ整理が付かず、不安でもあるので西郷あたりに早々に見せて下さい。
この件については一戦も交える覚悟ということを、天下の人に知らせておこうと思います。

いろは丸事件
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP282>
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慶応3年5月26日
「大洲船を借りて器械を長崎から運ぶ途中、箱の岬で紀州船と衝突して沈められた」という報せが届いた。
4月23日夜の事故。龍馬が大洲藩から借りたいろは丸が紀州船と衝突した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[龍馬の手紙<
印藤聿 宛>]慶応3年3月6日
先日から病気なので引きこもってますので、この手紙を書きます。
下の件は、長い物語ですが、通常の手紙では何分わかりがたいと思いますので、箇条書き(第一段から第十段まで)の方が宜しいかと思いますので、元よりご了承くださいませ。
印藤聿(融通無碍/人物評伝)*****************
第六段
長崎で、
いろは丸を3月15日から4月1日までの間、借り入れる旨の定約を定めました。
それゆえ、近いうちにこの期限も来てしまう。
いろは丸事件(融通無碍/関連話)3月の初めから長崎に来て大洲藩の船が来るのを待つうちに、私は先日、中風(手足のしびれ)になり床に伏せっており自由に動けない状態でしたが、かれこれするうちに、大洲藩の船と共に長崎を巡りたいと思うようになりました。
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[関連話]
◆いろは丸
慶応3年、長崎から大坂へ小銃・弾薬を輸送する必要が生じていた土佐藩がいろは丸の貸与を大洲藩に求めた。土佐藩への貸与が成立し、大洲藩士にかわって坂本龍馬ら海援隊員が乗り組んで長崎を出港した。
慶応3年4月、瀬戸内海を航行中に紀州藩の明光丸と衝突し、鞆の浦まで曳航中に沈没した。
事故の直後、
千屋寅之助(=菅野覚兵衛/海援隊士)、高松太郎(龍馬の甥/海援隊士)に宛てた「
龍馬の手紙」に記述がある。
龍馬の手紙(千屋寅之助 宛て)<慶応3年4月>(いろは丸が沈没した!)

その後、経緯など、龍馬は頻繁に手紙を書いている。
高柳楠之助 宛て(いろは丸事件)
下関の豪商・伊藤助太夫 宛て(いろは丸事件の経緯)
小谷耕蔵&渡辺剛八 宛て(いろは丸事件が決着)
妻・お龍宛て(いろは丸事件、その後)
渡辺剛八(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~

中央が千屋寅之助。両脇は親戚筋の
千屋熊太郎、
千屋金策、
千屋菊次郎かといわれる。
千屋熊太郎(融通無碍/人物評伝)千屋金策(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2021.04.01.23.54