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土佐の森・文芸 幕末足軽物語(南寿吉著)
[関連話]
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振遠隊ーーーーーーーーーーーーー
それからの海援隊(長崎龍馬便り)海援隊が解散へと向かう慶応4年の出来事に触れている。奉行不在となった西役所(長崎奉行所)を海援隊士らが占拠した後、諸藩はすばやく奉行所に変わる行政機関「長崎会議所」を設立。ひと月後に派遣されてきた澤宣嘉(さわのぶよし)が長崎会議所改め長崎裁判所の総督に着任した。それは、龍馬の死後からちょうど3ヶ月後の慶応4年(1868)2月15日のことだった。

戊辰戦争(秋田戦争)に出征する奥州鎮撫・振遠隊。右半分の隊員は袴姿で刀を携えているのに対し、左半分の隊員は軍服をまとい銃を携行した洋風スタイル。西洋式の訓練を受け楽隊もあった。
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振遠隊は、幕末の長崎で市街、長崎港の警備を行なった。
幕末以前の江戸時代には、長崎市街、長崎港の警備は長崎奉行の配下で佐賀藩と福岡藩が隔年交代で行ってきたが、文化5年(1808)の
フェートン号事件を契機として、その警備の有り様に変化が生じてきた。
フェートン号事件(融通無碍/関連話<非公開>)幕末に、京都・江戸が勤皇浪士により騒然となると、幕府はそれを取り締まる組織(京には会津藩/
新撰組、江戸には庄内藩/新徴組)をつくり警備・警護を行なった。長崎でも同様の組織(長崎奉行/振遠隊)を結成して取り締まりを行なった。
新撰組(融通無碍/関連話)慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が官軍に大敗すると
長崎奉行・河津伊豆守祐邦は江戸に逃れてしまった。
長崎奉行(融通無碍/関連話)長崎奉行が逃亡(長崎龍馬便り)奉行が去った長崎奉行所には、土佐藩幹部の
佐々木高行・
海援隊が入り、市内の治安維持にあたった。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)海援隊(融通無碍/関連話)慶応4年2月、九州鎮撫総督澤宣嘉が下向し、長崎裁判所が置かれ、長崎奉行所の振遠隊は長崎裁判所が所管することになった。
総員300人以上の隊員はイギリス式の教練を受け西洋式の軍隊組織であった。
戊辰戦争が始まると振遠隊(隊長は海援隊士の
石田英吉<後の長崎県令>)は、九州諸藩兵が奥羽に出征する軍に参加、長崎港からイギリス船フィロン号に乗り組み、海路で秋田に向かった。海援隊からは
千屋寅之助(=菅野覚兵衛/司令官<軍監>)、
山本洪堂<医官>らが幹部として参加した。
石田英吉(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)山本洪堂(融通無碍/人物評伝)官軍として
秋田戦争に参加した。
7月19日、長崎港からイギリス船フィロン号に乗り組み、海路で秋田に。24日、秋田領船川に到着。秋田城下に入り角間川の戦いで、庄内藩の酒井忠篤の軍と戦ったものの敗走した。その後、盛岡藩降伏の報を受けて、雫石で雫石・橋場口の戦いを経て、10月には盛岡城へ入った。戦いを終え、長崎に凱旋したのは12月20日。
明治5年2月20日、振遠隊は解散した。
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◆秋田戦争
戊辰戦争時、
奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)が官軍と共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦い。秋田庄内戊辰戦争ともいう。
奥羽越列藩同盟(融通無碍/関連話)
秋田での戊辰戦争*****************
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