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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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後藤 象二郎(1838~1897)
樋口真吉(1815~1870)

天保9年、高知城下片町に土佐藩馬廻格/150石・後藤正晴の長男として生まれる。
遠縁の
板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
また、
片岡健吉、
二川元助などとは家が近所だったこともあり、ともに幼友達であった。
これら幼友達の遊び場は鏡川や潮江天満宮あたりで、駆け回って遊んだという。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)片岡健吉(融通無碍/人物評伝)二川元助(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
嘉永元年、後藤象二郎が11歳の時、江戸藩邸で父が病死すると、義理の叔父・
吉田東洋が養育を扶助して育つ。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)のちに吉田東洋が開いた
鶴田塾に学ぶ。また、真吉が免許皆伝を受けた筑後柳川藩士・
大石進の神影流剣術を学ぶ。
吉田東洋の鶴田塾(融通無碍/関連話)吉田東洋の鶴田塾(NHK動画)大石進(融通無碍/南史観<人物評伝>)
大石流の諸国門人姓名録(土佐藩)に、寺田忠次、吉田元吉(=吉田東洋)、
由比猪内、
真辺栄三郎、後藤保弥太(=後藤象二郎)らが記載されている。
由比猪内(融通無碍/人物評伝)真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~~
安政3年、後藤象二郎は、
吉田東洋の
鶴田塾の門下生として
福岡孝弟や
板垣退助、
間崎哲馬、
岩崎弥太郎らと学び薫陶をうけた。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)吉田東洋の鶴田塾(融通無碍/関連話)福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
安政4年、
寺田忠次の道場に入門し、大石神影流剣術を修行した。
寺田忠次(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
安政5年、吉田東洋の推挙によって幡多郡奉行に就任した。
吉田東洋の復権に伴う異動で、土佐藩・幡多奉行所に復職した樋口真吉とともに幡多での「吉田東洋の藩政改革」を推し進めることになった。
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万延元年、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行として大坂へ。
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文久元年、土佐藩御近習目付になり藩政を取り仕切る。
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文久2年、吉田東洋が暗殺されると任を解かれ失脚。
~~~~~~~~~~
文久2年、
吉田東洋の暗殺事件がおこる。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)
武市半平太の指示により暗殺は那須信吾、
安岡嘉助、
大石団蔵が実行したが、楠瀬六衛も深く関わっていた。
那須信吾(融通無碍/人物評伝) 安岡嘉助(融通無碍/人物評伝) 大石団蔵(融通無碍/人物評伝)暗殺後、当局の探索が厳しく事後処理について土佐勤王党内部で議論が沸騰し、刺客だけではなく集団で脱藩する動きさえあった。
武市半平太は
楠瀬六衛に密書を持たせ土佐勤王党に理解があり協力的な山内容堂の弟・
山内豊誉に働きかけを行った。
楠瀬六衛(融通無碍/人物評伝)山内豊誉(融通無碍/人物評伝)その結果、山内豊誉は吉田東洋の暗殺で混乱に陥った土佐藩の収拾に乗り出し、尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える吉田東洋の派閥「新おこぜ組」の重役(
後藤象二郎ら)を更迭、保守派政権を復活させた。
後藤象二郎は任を解かれ失脚した。
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文久3年、江戸に遊学。開成所で幕臣の大鳥圭介に英語を学び、会津藩士の高橋金兵衛に航海術を学んだ。
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元治元年、藩政に復帰。前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て大監察・参政に就き、公武合体派の急先鋒として辣腕を奮う。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP252>
元治元年7月9日
福岡藤次(=
福岡孝弟)が御用役に、後藤良輔(=後藤象二郎)と森権二が大監察に、岩崎二三と
野中太内が小監察に就任。
福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)野中太内(融通無碍/人物評伝)後藤象二郎を大監察に登用するなど土佐勤王党を弾圧するための陣容強化が進んでいる。
山内容堂の信頼を得て大監察・参政に抜擢され藩政に復帰した。
公武合体派の急先鋒として活躍することに。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)公武合体(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
慶応元年、土佐勤王党の獄を断行、
武市半平太を獄に断じる。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応2年、京都において薩長が和解したという風評があり、山内容堂の命で土薩融和の使者として
小笠原唯八と鹿児島に赴き、
島津久光と会見する。
島津久光(融通無碍/人物評伝) 小笠原唯八(融通無碍/人物評伝) 土佐藩校の開成館が設立されるとその教授に就任、藩兵の洋式化や樟脳などの産業・専売制などにより藩財政力の充実につとめる。
ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
(出典:
魚の目<魚住昭>)
薩長が和解した/保古飛呂比(融通無碍/関連話)佐々木高行(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
慶応2年2月15日、薩摩藩の動静を探るため、後藤象次郞・小笠原唯八の両人が鹿児島に派遣された。
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後藤象二郎は
吉田東洋の遺策である開成館を創設、土佐藩・参政/開成館奉行に昇格した。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)開成館は、洋式汽船購入に伴い蒸気学や航海学の西洋知識を導入する機関、国産品を統制する機関等を置いた。
殖産興業政策を展開して積極的に貿易を行い、富国強兵を図ろうとした。
土佐藩の殖産興業<木材>(融通無碍/関連話)土佐藩の殖産興業<樟脳>(融通無碍/関連話)土佐藩の殖産興業<養蚕>(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
後藤象二郎は開成館を創設するにあたり開成館奉行として、多くの部下を引き連れて長崎に出張した。
高知から
谷干城、
ジョン万次郎、
池道之助、
北代忠吉(長崎出張御用金方)ら30名余が同行している。
谷干城(融通無碍/人物評伝)ジョン万次郎(融通無碍/人物評伝)池道之助(融通無碍/人物評伝)北代忠吉(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
長崎では土佐商会を設立して土佐藩の商活動を展開する。さらに上海を視察して海外貿易を研究、土佐帆船「夕顔丸」などを購入した。
土佐商会(NHK)また、長崎では
亀山社中の坂本龍馬と深く交わる。
後に、亀山社中を土佐藩の組織に取り込み「
海援隊」と改編する。
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)海援隊(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
後藤象次郞が長崎へ(融通無碍/関連話)佐々木高行(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーーーーーー
◆後藤象二郎と龍馬と海援隊
長崎で龍馬と会談したときの後藤と龍馬との関係は、
「土佐藩からの公式な支援が欲しい龍馬。が、後藤は土佐勤王党を弾圧した張本人、建前上は逢いたくない、逢えない人物」
「龍馬の人脈と組織を土佐藩に取り込みたい象二郎。が、龍馬は脱藩の罪を犯した犯罪人、建前上は逢うことができない人物、逢えない人物」
この両者の思惑と感情を、土佐藩士であり海援隊士でもある
溝渕広之丞が調整する役割を果たした。
溝渕広之丞(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~
慶応3年、長崎で起きた
イギリス水兵殺害事件では、土佐藩家老・
渡辺弥久馬とともにイギリス公使ハリー・パークスと交渉して補償問題を解決した。
イカルス号事件<英国水兵殺害事件>(融通無碍/関連話)渡辺弥久馬(幕末足軽物語/人物評伝)・・・・・・・・
慶応3年1月13日
航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は溝淵広之丞、松井周助を介して龍馬と接触を取り、龍馬と土佐藩大監察・参政の後藤象二郎が会談した。(
清風亭会談)
清風亭会談(幕末足軽物語/関連話) 長崎清風亭会談清風亭の対決(NHK/龍馬伝)《“長崎で商売をするには龍馬(福山雅治)の力が必要だ”と悩む
岩崎弥太郎(香川照之)。そこに土佐の山内容堂(近藤正臣)から、後藤象二郎(青木崇高)のもとに「ひそかに薩長とつながりを持て」という命が届く。象二郎は薩長を結んだ龍馬と会う決心をする。馬関での戦いから長崎に戻った龍馬は、弥太郎に会い「大政奉還を目指して、土佐を薩長に取り組むために象二郎と会う」と言う。ついに土佐での因縁を抱えた2人が対決するが…。》
岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)龍馬が後藤象二郎の印象を記述した、三吉慎蔵宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
三吉慎蔵宛て(後藤象二郎は面白い人)
この会談の結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊長は
坂本龍馬、隊士は土佐藩士(
千屋寅之助、
沢村惣之丞、
高松太郎、
安岡金馬、
新宮馬之助、
長岡謙吉、
溝渕広之丞、
石田英吉、
中島作太郎、
吉井源馬、
島村要、
宮地彦三郎)および他藩出身者(紀州藩の
陸奥宗光、越後長岡藩の
白峰駿馬、福井藩の
渡辺剛八、讃岐国の
佐柳高次)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)沢村惣之丞(融通無碍/人物評伝)高松太郎(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)新宮馬之助(融通無碍/人物評伝)長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)石田英吉(融通無碍/人物評伝)中島作太郎(融通無碍/人物評伝)吉井源馬(融通無碍/人物評伝)島村要(融通無碍/人物評伝)宮地彦三郎(融通無碍/人物評伝) 渡辺剛八(融通無碍/人物評伝)佐柳高次(融通無碍/人物評伝)陸奧宗光(融通無碍/人物評伝)白峰駿馬(融通無碍/人物評伝) 同時期、
中岡慎太郎が
陸援隊を結成している。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)陸援隊(幕末足軽物語/関連話) この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」

5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。
海援隊日史京都国立博物館
ーーーーーー
亀山社中は坂本龍馬が隊長となり海援隊と名を改め、正式に土佐藩公認の外郭機関(商業・海運/有事には海軍として活動)になった。
以後、海援隊が商売することになり、商才に長けた陸奥宗光が主導して行なった。
龍馬が「海援隊が商売する話」を記述した、陸奥宗光宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙(陸奥宗光宛て)ーーーーーー
土佐藩は将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。土佐藩の在京幹部である寺村左膳、福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し薩土盟約を締結した。(6月22日)
《
日記・遣倦録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP283>
・・・・・・・・・・・・
慶応3年6月13日
参政・後藤象二郎が着京した。
田中耕助が来る。
坂本龍馬が来る。
======
[融通無碍]
後藤象二郎が長崎から帰京した日、真吉は龍馬と田中耕助に会っている。
後藤象二郎は龍馬とともに、土佐藩船・夕顔丸で長崎から着京した。その船中で龍馬が後藤に新国家の構想=「
船中八策」を示したとされる。(異説有り)
田中耕助は薩摩藩士、かってロンドンに3カ月間留学した経験がある。
残念ながら、真吉と後藤、田中、龍馬が何を話したかの記録はない。

夕顔丸
船中八策(NHK動画)・・・・・・・・・・・・
慶応3年6月22日
土佐藩の後藤象二郎、
福岡藤次らが三本樹にて薩摩の小松(藩家老)、西郷隆盛、大久保の諸氏に会う。
真吉が日記に記述した人物以外に、土佐側から坂本龍馬、中岡慎太郎、真辺栄三郎、山内容堂側近の
寺村左膳が参加していた。
薩土盟約の締結である。
薩土盟約(融通無碍/関連話)福岡藤次(融通無碍/人物評伝)寺村左膳(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
土佐藩は幕府を中心とする公議政体論を藩論として決定、大政奉還のため薩土盟約を締結する。
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、布告させるという「平和路線」だ。
その後も、この路線で武力討幕派に対抗したが、薩摩の二股膏薬(薩土密約)などもあり伏見戦争(戊辰戦争)でこの平和路線は霧散した。
土佐藩も佐幕派の筆頭・旧藩主の容堂の突然の「君子豹変」で、討幕運動に加わることになる。

腹の探り合い/薩土盟約
この盟約には背景がある。
幕府の命脈が尽きようとしていることは薩摩、土佐ともに明瞭に見えていた。問題はどう収拾を付けるか。
武力倒幕の薩摩、平和裏に政権交代を実現したい土佐が曖昧な形で妥協して生まれたものだ。だから契約が実効していた期間は極めて短い。
この7月22日(下旬)から9月上旬(明確な日付確定は困難だ)の間のたった2ヶ月半だった。
薩摩としては土佐を幕府側に立たせることは避けたい、その一心で妥協した産物だ。
この経緯を真吉は知っていたはずだが書いていない。
真吉は長州好きだった。薩長の対立と、変転極まりない薩摩の態度に嫌悪を感じていたか。そう考えておこう。

・・・・・・・・・
慶応3年7月3日
*後藤象二郎氏が帰国する。
後藤象二郎と同行帰国したのは寺村左膳らであった。
平和路線が薩摩の理解を得たとして高知に帰り、隠居・山内容堂に「大政奉還建白」の相談をするための帰国だった。
・・・・・・・・・
慶応3年7月4日
*才谷梅太郎(坂本龍馬)が後藤象二郎氏の見送り(平和路線の最終調整)のため大坂に行く。(その後、長崎で海援隊の隊員が英国人を殺害した事件<
イカルス号事件>)に関連し、龍馬も高知に急遽出向くことに。)
イカルス号事件<英国水兵殺害事件>(融通無碍/関連話)イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉で時間を消耗したが、大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。
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[余話](英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録より)
英国公使パークスの通訳/サトウとの交渉で後藤象二郎は
「土佐藩は事件とは全く関係ない」と論じている。
「英国を手本にして
国会と憲法とを作ろうと思っている。薩摩の西郷も相似た意見を持っている」とも述べている。
幕末足軽物語/関連話<民撰議院設立建白書>サトウは
「後藤はこれまで会った中で最も才智の優れた日本人である。余の考えでは、独り西郷だけが人物の点で後藤に優れていた。」と記述している。

佐藤健之助(アーネスト・サトウ)/イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
・・・・・・・・・・・・
慶応3年10月3日
後藤象二郎と
福岡藤次の両氏が建白書(=大政奉還)を閣老・板倉周防守に提出する。
福岡藤次(融通無碍/人物評伝)=======
[融通無碍]
後藤象二郎が大政奉還の建白書を提出するにあたって、龍馬は「破談になれば国(土佐藩)から兵を出し、その兵の圧力で話をまとめよう」という激しい檄を飛ばしている。
龍馬の決意(心意気)を後藤に伝える「
龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(後藤象二郎宛て)・・・・・・・・・・・・
慶応3年10月4日
寺村左膳と神山左多衛が摂政・二条家に同じ内容の建白書を差し上げる。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・・
慶応3年10月5日
寺村左膳が立帰り(任務終了次第戻る)で帰国し本藩に京師情報を伝えることになった。
真吉と龍馬と寺村左膳(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
慶応3年10月8日
後藤氏らが幕府・板倉閣老に建白書の趣旨を説明するため出向く。
・・・・・・・・・・・・
慶応3年10月10日
才谷楳太郎(=坂本龍馬)が長崎から長州、土佐を経て上京した。
ーーーーーーーー

龍馬は長崎で買い込んだ大量の新式銃を蒸気船・震天丸に載せ長州に寄港した後、四国の西南端の足摺岬を回り高知の浦戸湾に船を停泊。
土佐藩は平和路線を取っているも、事態はどう転ぶか予測できない。和にしろ戦にしろ武器は必要だった。
龍馬は、9月に土佐藩の大目付(大監察)
本山只一郎に「銃の購入と土佐藩の藩論を統一すること」を求めて手紙を出している。

本山只一郎宛の坂本龍馬 書状(霊山歴史館蔵<京都東山>)
文中、龍馬は
「薩長が藩論を統一したので、土佐藩も早く藩論を統一してほしい」
「運んできたライフル銃の購入を決めてほしい」と、本山をせかしている。
本山只一郎(融通無碍/人物評伝)龍馬は藩幹部・渡辺と接触して好感触を得たから、直接交渉に踏み切り五台山下の料亭で懇談。結果、藩の銃購入が決まった。
渡辺は龍馬に帰宅を勧める。脱藩以来初めての帰宅だった。
売却代金の他に謝礼も追加され自宅で開かれた龍馬帰郷の祝いの席で、姉・乙女らに気前良く分け与えた。脱藩者が秘密裏に、公然に近い形で帰郷した。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)その後龍馬は上京するが船の故障もあって須崎に舞い戻り別船に乗り換える等予定を狂わせながら大坂へ入港を果たす。
11月15日に京都で暗殺されるから、長崎から始まり大坂で終わるこの船旅は途中高知を経由したとなる。死の直前に福井に行くがこれは陸路だった。龍馬は死ぬために京都に入った。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP298>
慶応3年10月14日
徳川慶喜が大政奉還を行った。
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[融通無碍]
※『大政奉還』は『政権返上』でいい。今に残る皇国史観用語。
大政奉還(YouTube)大政奉還~竜馬暗殺まで日本を今一度洗濯いたし申し候(NHK動画)ーーーーーーーー
◆日本を今一度洗濯いたし申候

原文
龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本タイホンをたて、夫より江戸の同志(はたもと大名其余段々)と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本ニツポンを今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ガンニて候。
意味・訳
龍馬は2,3の大名(福井藩の松平春嶽)と固い約束をして、同志を集めて、朝廷っもまずこの神の国を滅ぼさぬ大方針を立て、江戸の同志旗本大名そのほかと心をあわせて、いまいった悪い役人と一度戦って撃ち殺し、この日本をもう一度洗濯しようということを神様にお願いしたい気持ちです。
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10月14日付けの真吉の手紙がある。

(土佐山内家宝物資料館蔵)
真吉が大政奉還の情勢に鑑み土佐の同志(島村祐四郎、
桑原介馬、<中村の>諸君)宛てた「奮発」を促す手紙であった。
桑原介馬は土佐藩郷士で真吉の弟子、江戸への長途(
日本漫遊の旅)に同行した人である。
桑原介馬(融通無碍/人物評伝)融通無碍/第12話(日本漫遊の旅)ーーーーーーーー
真吉がこの手紙を書いた前日(13日)、幕府<
徳川慶喜>は二条城へ諸藩の重役を呼んだ。その数40余藩に及んだ。王政復古(=大政奉還)を布告する紙面が参集者に配られる。
徳川慶喜(融通無碍/人物評伝)
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)その席で後藤象二郎が将軍徳川慶喜に
「明日すみやかに参内して勅許を得るべし」と迫る。
徳川慶喜は
「15日に参内して勅許を得たい」と抵抗、後藤象二郎は
「それでは遅い。今夜中に摂関家に行き、明日には参内すべきだ」と追い詰めるが、逃げられた。
(結局、将軍・徳川慶喜は14日に(摂政・二条家にか?)辞表を出し、15日に御所に参内した。)
大政奉還と龍馬(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
この様子を詳細に報じた後、真吉は同志の奮発を促したのだ。
言う。
『この度こそ御因循無く 御登京の御機会 顕然にござ候あいだ、きっと御尽力ひとえに冀い奉り候。御同志方もこの度のお供には御奮発ひとえに願い奉り候。』
この報せは、蒸気船に乗って、すぐに中村の同士(真吉の弟子達)に届いた。
そして、中村にいた真吉の一番弟子ともいえる
安岡亮太郎を先頭に40人余りが集まり自費で武装し、朝廷守護の名目で上京しようとして、高知城下まで押し寄せたのである。
高知で
桑原介馬と合流し、藩庁に働きかけた。
安岡亮太郎(融通無碍/人物評伝)桑原介馬(融通無碍/人物評伝)藩はその対応に苦慮し、結果、藩主の名を以って、連中を慰撫し、その暴走を防いだ。
土佐の藩論はいまだに幕府救済にあったからだ。
真吉の促した「奮発」は阻止された。
だが真吉の手紙は幡多の中村の志士たちを奮発させた。
大政奉還(NHK大河ドラマ/龍馬伝)大政奉還の建白書を受け取り、動揺する徳川慶喜(田中哲司)。龍馬(福山雅治)は、慶喜に近い
永井尚志(石橋蓮司)に「徳川家を残すには、これしかない」と説く。そして、時流を悟った慶喜は大政奉還を決意。勝海舟(武田鉄矢)は龍馬に「自分は幕府の後始末をする」と告げた。しかし、幕府を終わらせた龍馬に危機が迫る。一方、
岩崎弥太郎(香川照之)は銃を買い占めていたが、龍馬が大政奉還を成し遂げ、戦がなくなると考え、銃を売りに転じる。
永井尚志(融通無碍/人物評伝)岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応3年10月15日、
徳川慶喜が御所に参内する。
・・・・・・・・・・・
慶応3年10月17日、
小松、西郷、大久保、薩摩の大立役者3人が帰国する。
この日、後藤象二郎は長崎の佐々木高行に情勢報告の手紙を書いている。
ーーーーーーーー
[保古飛呂比/
佐々木高行日記]
(出典:
魚の目<魚住昭>)
《後藤象二郎氏よりの書簡、次の通り。》
先日来は、たびたびお手紙をいただきながら、始終お答えも申し上げず、失敬万々をお許しください。
まことに長期にわたるご奉職のご苦心を察し奉ります。私も再度の上京以来、ことのほか繁忙で、母体を出てからこれほど苦心したことはなく、結局そのような訳でその都度お答えも申さず、万々お許しくださるよう願い奉ります。
このたびは、長崎での商取引担当(長崎土佐商会)を受任されたとのこと、ご苦心千万と存じます。なにぶんとも悪しからずご周旋ください。
山崎直之進も、ようやく4、5日前に大坂に着き、御地(長崎)の状況は承りました。
「商法償金」(※
いろは丸事件の賠償金か)の件については、だんだん解決に近づいていることも承知しました。
いろは丸事件(融通無碍/関連話)いろは丸事件(NHK動画)
これは是非適切な処置なくてはとても参らぬことと存じ、一策を思いついたのですが、書簡では説明しがたいので、このたび松井周助に言い含めて御地に差し向けました。それまでのところは、万々ご配慮よろしくご処置をお願いします。
思いがけなくも国許で(大政奉還の)建策を採用になり、政権はことごとく朝廷に帰すということになり、老公(=
山内容堂)にも速やかにご上京ということになり、万々天下の為に感激の至りに堪えません。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)この件で僕もいま2カ月ばかりはどうも出崎(長崎に行くこと)は難しく、これよりまたまた国許に馳せ帰り、老公のお供をして再上京し、その上で(老公の)許しをもらって、出崎するつもりですので、万々ご承知ください。
そのうえで万々ご相談申し上げますが、右の事情を悪しからずご承知くださり、英人「ヲールト」ほかの人々によろしくお伝えくださり、(私の)近々の出崎のこともお知らせください。
いずれ松井周助も遠からず長崎に着いたら、まずこの策について貴兄の同意を早々に得たいと思います。
この(手紙の)便は小松帯刀らが帰国し、隅州公(
島津久光)の上京を促すためです。その便のついでにこのことを申し上げておきます。
島津久光(融通無碍/人物評伝)かれこれと万々ご配慮をくだされたく、まずは以上のことだけを慌ただしく申し上げます。頓首。
10月17日 後藤象二郎
佐々木三四郞(佐々木高行)兄
ーーーーーーーー
御国の建白書をご覧のため差し上げ奉ります。密かに流行させるのは、先生のご判断しだいです。
勅許を幕府が求める奏聞書は、薩人より借りてお読みください。
勝って兜の緒をしめよ。先日来、風邪で、今日もまだ熱がひきませんが、客の訪問が多く、人を待たせておいてこの手紙を書いてます.再読の暇はありません。お察しください。
・・・・・・・・・・・
慶応3年10月19日、
望月清平が勅書を持って帰国する。下横目・
岡内俊太郎も同行する。
望月清平(融通無碍/人物評伝)岡内俊太郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
慶応3年10月24日、
龍馬が下横目・
岡本健三郎に見張られながら越前福井藩へ向けて出発。
岡本健三郎(融通無碍/人物評伝)龍馬の目的は、大政奉還後の政治体制について
松平春嶽の考えを聞くことと、新政府の財政問題の解決方法を三岡八郎(=
由利公正)に聞くこと。
松平春嶽(融通無碍/人物評伝)由利公正(融通無碍/人物評伝)新国家には松平春嶽の力が必須であるため、本来なら後藤象二郎が行くべきところだった。しかし、後藤象二郎は大政奉還の顛末を山内容堂へ報告するため帰国しなければならず、代わりに龍馬を派遣したのだ。
福井から帰った龍馬が、福井藩での会談内容を復命した「後藤に宛てた龍馬の手紙」がある。
龍馬書簡(慶応3年11月初旬)

土佐藩参政・後藤象二郎に、越前福井藩を訪れた内容を報告した書簡。
龍馬の手紙<後藤象二郎 宛て②>(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP299>
慶応3年11月3日
後藤象二郎が帰国する。
龍馬の手紙はそのままに。

吉井幸助に送った龍馬の手紙がある。
龍馬の手紙(吉井耕輔 宛て)・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP302>
慶応3年11月21日
後藤象二郎(執政)が着京する。
後藤象二郎は大政奉還の功で昇進していた。
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[融通無碍]
大政奉還の功で昇進した
後藤象二郎が薩土盟約に基づき、京を警護する土佐藩兵を引き連れて上洛した。
上田官吉が小隊嚮導として同行する。
上田官吉(融通無碍/人物評伝)しかし、このときはまだ山内容堂の幕府擁護の姿勢は崩れておらず、後藤象二郎の率いる手勢は僅か二小隊に過ぎなかったから薩長の冷笑を買った。
「土佐は頼むに足らず」となり、戊辰戦争でも重要な戦線は任されなかった。
土佐兵は奮戦したが、転戦先でこんなざれ歌があったのを思い出す。
「土佐の侍 上州縮<ちぢみ> 見掛けは強いが 来て(着て)みりゃ弱い」
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慶応4年、天皇謁見に向かうイギリス外交官・パークス一行の護衛を勤め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合い、そのうち一人の朱雀操を討ち取る。この事件の功によりイギリスのヴィクトリア女王から恩賜のサーベルが後藤象二郎に進呈された。
パークス英ビクトリア女王から後藤象二郎に贈呈のサーベル(NHK)
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明治7年、
征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野、その後、板垣退助、江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し「
民撰議院設立建白書」の署名人となる。(署名人は
板垣退助、後藤象二郎、岡本健三郎、
古沢迂郎、小室信夫、
由利公正、
江藤新平、
副島種臣の8人)
幕末足軽物語/関連話<民撰議院設立建白書>板垣退助(融通無碍/人物評伝)古沢迂郎(幕末足軽物語/人物評伝) 由利公正(融通無碍/人物評伝)江藤新平(幕末足軽物語/人物評伝)副島種臣(幕末足軽物語/人物評伝) 江藤新平が佐賀の乱を起こした際に、大久保利通は捜査に江藤の写真を用いる事を考え、後藤が江藤の写真を持っていることがわかり、警視庁から写真の差出しを頼まれたが、「友人を縛する手掛かりに、おれの記念せる写真を差し出せとは真平御免なり。如何なる処分でも仕切るというのなら勝手にするがよい」と一喝して、写真の差出しを拒否した。
江藤逮捕の後、 副島種臣・板垣退助らと共に、自己の功と引き換えに、江藤の減刑を政府に訴え出ている。(が甲斐なく、江藤は死刑<斬首・晒首>に処せられた。)
◆後藤象二郎と長崎、
後藤象二郎の長崎物語(融通無碍/第44話)明治7年に板垣退助らと「民撰議院設立建白書」を提出した後、政治資金を調達するため長崎で商社・蓬萊社を設立。政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営に乗り出す。が、炭鉱経営は困難を極めた。
後藤の政治的素質を惜しんだ福澤諭吉は、高島炭鉱を三菱が譲り受ける形で三菱造船所の創設者である岩崎弥太郎に経営を託した。後藤は企業経営から離れ、政界に復帰した。
後藤の長崎での旧宅跡は現在テレビ長崎の社屋となっており、脇に後藤象二郎邸跡を示す石碑が建っている。
後藤象二郎と岩崎彌太郎
後藤象二郎邸跡(長崎市金屋町)
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[「長崎龍馬便り」より]
後藤象二郎という男中岡慎太郎が後藤象二郎という男について語っている。
「西郷は一日に15里歩むといえば必ず15里歩み、後藤は20里歩むと大法螺を吹いて、実は16里しか歩けない。しかし、結局において、後藤は西郷よりも1里多く歩む人間だ」
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◆土佐三伯
幕末・明治に活躍した土佐出身の人物として、
板垣退助、後藤象二郎、
佐々木高行が「土佐三伯」と称されている。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)板垣退助考(融通無碍/人物評伝)
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)佐々木高行考/幕末足軽物語・関連話後藤象二郎の長崎物語(融通無碍/第44話)(長崎で佐々木高行と龍馬を含めて土佐藩官吏として活躍した。)
後藤象二郎は板垣退助と親戚関係にあり、且つ竹馬の友で「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
また、佐々木高行とは真吉を含めて土佐藩官吏として山内容堂にかわいがられ、ともに側近として土佐藩政に尽力している。
大正4年、板垣退助が坂本龍馬を顕彰する銅像はおろか一柱の石碑も存在しないことを憂い、龍馬生誕地近くに
土方久元の龍馬を弔う七言絶句の詩を彫記した『阪本龍馬君顕彰碑』を建立した。
土方久元(融通無碍/人物評伝)のちに、坂本家の子孫が板垣家を訪れたとき
「今日の板垣があるのは、坂本龍馬、中岡慎太郎両先生のお蔭でございます。世間では兎角(武市)瑞山先生の陰に隠れてしまつてをりますが、就中<なかんずく>坂本先生の事績を広く正しく世間の人に知つて貰いたいと思ふてをります」と深々と礼をしたという。
この碑はのちに、桂浜の坂本龍馬銅像が建立されたときに桂浜に移転されている。

(高知市桂浜/坂本龍馬像脇)
「東走西奔身を顧みず、長山薩海往来頻りなり、奇勲未だ奏せざるに期奇禍に羅う、遺恨千秋鬼神を泣かしむ」(土方久元)
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)*****************
2024.08.01.23.59