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[史料] HP/日本の歴史ガイドより
◆龍馬の手紙
住谷寅之助 宛
【原文】
尊札拝見仕候。寒気之節益御安泰、長途無御障り御修行、珍重之御儀奉存候。抑被越候御趣、何レ拝顔之上御相談可申上奉存候。然ニ奴儀無拠要用ニ相掛居申候間、明後出足ニ而其御許迄参上可仕奉存候。誠ニ偏境之地、殊ニ山中御滞留故、御徒然奉察候。恐惶謹言。十一月十九日坂本龍馬加藤於莵之介様菊地清兵衛様貴下
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【現代文】
お手紙拝見しました。
寒い季節ですが、ますますご安泰のようですね。
長い修行(遊説)にも障害ないようで、是非貴重なお話もして頂けたらと思っています。
さて、お越し頂きました内容ですが、何れお会いしてご相談させて頂けたらと思います。
それにも関らず、やむをえず必要な手続き(領内へ入る手続き)を掛け合っている最中ですので、明日貴方の許まで出向きたいと思います。
このような辺境の地へ、まして山中へ滞在して頂き、まことに退屈なことでしょう。
11月19日
坂本龍馬
住谷寅之助様 大胡聿蔵様
(2人とも水戸の勤皇家で高知まで遊説しにきていて龍馬に領内へ入れてもらえるよう頼んでいた。その返答の「龍馬の手紙」だ。)
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《日記・遣倦録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP225>
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文久3年3月16日
水戸藩・
隅谷寅之助と本国寺で会う。
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《融通無碍》
◆水戸藩の隅谷寅之助のこと
隅谷は公武合体の勤王論者だった。公武合体論を広げようと各地を遊説し、土佐にも来て龍馬とも接触した。
その印象記に
「龍馬は幕閣の名前すら知らない田舎者だった」とある。
土佐にも龍馬にも絶望して去った。
立川御殿の近くの荷宿で龍馬と会見した。
立川御殿(融通無碍/関連話)真吉と会ったときは、徳川慶篤の上京に随伴して京師警衛指揮役だった。
公武合体の持論を堅持するが、時代の流れは変わり、かれは孤立の様相を深めていた。
公武合体 (融通無碍/関連話)その後、慶応3年に土佐藩の山本らによって斬殺された。
明治になり、隅谷の息子が山本を殺し復仇したが、後年これは「最後の仇討ち」と言われる事件だった。その後法の整備により「仇討ちは蕃風で、以後厳禁」となったから。
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◆住谷の遊説
安政5年(1858年)10月、強圧的に幕府の実権を握る大老井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、住谷は大胡聿蔵らと共に土佐藩・宇和島藩・薩摩藩へ遊説に向った。
11月17日、土佐の立川関に到着し奥宮猪惣次と坂本龍馬に連絡を取り土佐入国の協力を求める。奥宮からは協力は難しいとの返事が来たが、
23日、龍馬が立川の宿屋を訪れた。住谷は龍馬と会談し、遊説の目的を論じて土佐入国の協力を要請した。龍馬は協力を約束して去ったが、その後龍馬からの連絡は無く、住谷らは宇和島へ向った。
住谷はこの時の龍馬の印象を「すこぶる愛すべき人物也」「誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らず」と記している。
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2023.2.1.20.45