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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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西郷隆盛(1828~1877)
樋口真吉(1815~1870)

文政10年、薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれる。
元来寡黙な性格で、深い穴から呟くようにその意をもらすことが多く、口を開けばその言には信があり、行動すれば必ず結果を残すという不言実行型の人であった。
眼で語る人物だから、口角泡を飛ばす理屈屋の多い長州人とは肌合いがよろしくない。剛毅木訥の直情屋の多い土佐人とは肌合いがよろしい。
西郷隆盛は『言わぬとも分かる。分からぬ連中には言っても無駄だ』あるいは『言う者は知らず、知る者は言わず』とばかりに仏頂面をおし通す。
西郷どん(NHK大河ドラマ)~~~~~~~~~~
文久2年、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え萩へ来訪、
久坂玄瑞と面談した。
久坂玄瑞(融通無碍/人物評伝)馬関の豪商・
白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の
吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。
白石正一郎(融通無碍/人物評伝)吉村寅太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治元年、蛤御門の変が勃発し、長州征伐へと続く。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP254>

蛤御門の変(元治元年<1864>7月19日)
蛤御門の変(NHK動画)蛤御門の変の責任は長州にあり、特に天皇の住まいする御所(禁門)に砲撃をかけたことは許されることではない。
蛤御門の変(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・
元治元年7月23日
朝議で
長州征伐が決まった。
ところが征長軍の体勢が整わない。間延びした時間が過ぎていく。ようやく前備州藩主・徳川慶勝が総督に決し、西郷隆盛が征長軍参謀となった。
西郷隆盛は最初は本気で長州対罰を考えていた。
ところが勝海舟との面談で、幕府体勢の荒廃堕落振りを知って長州追討の熱意を失ってしまう。
総攻撃期日の直前、西郷は水面下で長州と交渉を開始した。つまり征長軍による実戦攻撃ではなく、穏健な収拾策を模索し始めたのだ。
征長軍内には強硬論もあったが、西郷隆盛がこれらを抑えた。
長州征伐(融通無碍/関連話) ーーーーーーーー
長州征伐では、長州藩謝罪恭順のため、
高崎猪太郎に周旋を指示した。
高崎猪太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治2年、長府藩士・
三吉周亮の斡旋で西郷隆盛と高杉晋作の会談が下関で実現する。
三吉周亮(融通無碍/人物評伝)三吉周亮は越前藩より小倉への出頭を命じられ、本陣において越前藩主・松平茂昭(長州征討副総督)、薩摩藩の西郷隆盛、福岡藩家老・加藤司書らの連席の上、尋問を受けるが西郷、加藤らのとりなしにより切腹の下命は取り消され、松平茂昭より長州諸隊の鎮撫を命じられた。
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慶応2年、幕府は再び長州征伐の命令を諸藩に出したが、西郷隆盛は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り京都情勢を薩摩藩首脳に報告した後、長州征伐は拒否すべしと説いて薩摩藩論をまとめた。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
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慶応2年1月21日
京都の薩摩・小松邸で
坂本龍馬や
中岡慎太郎を介して、薩摩藩(
西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、
吉井友実ら)と長州藩(木戸孝允、品川弥次郎、三好軍太郎ら)の「薩長同盟」が成立した。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(幕末足軽物語/人物評伝)吉井友実(融通無碍/人物評伝)長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。
薩長同盟(融通無碍/第38話)・・・・・・・・・・
慶応2年1月22日
薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、木戸孝允(=桂小五郎)はこれを了承した。
これにより薩長両藩は後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。
盟約成立後、木戸孝允は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという「
龍馬の手紙(返書)」を受け取っている。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」/宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。
龍馬の手紙<木戸孝允宛て①>(幕末足軽物語/関連話)木戸孝允(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
慶応2年5月、
西郷隆盛は長州再征反対の建白を起草し、薩摩藩主名で幕府へ提出した。
その後、西郷隆盛は坂本龍馬、中岡慎太郎らを介して長州の桂小五郎に接近、その結果、薩長同盟・薩土密約と「武力での倒幕路線」へと駒を進めることになる。
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慶応2年6月
幕府は(紀州藩主・徳川茂承以下16藩の)10万を超える兵力を投入して、長州を攻撃するため幕府軍が出発する。
第二次長州征伐だ。
上関・周防大島に幕府軍艦が攻撃を開始して開戦。
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、また諸藩の寄せ集めのため指揮統制も拙劣だった。
高杉晋作、
大村益次郎らの活躍で長州は連戦連勝、幕府軍は惨敗続きであった。
大村益次郎(融通無碍/人物評伝)第二次長州征伐(融通無碍/関連話)
高杉晋作/戦場で三味線
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慶応2年6月16日
龍馬は鹿児島から
ユニオン号に乗って下関に帰港、長州藩の求めにより幕府軍との戦いに参戦することになる。
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号の指揮官(艦長は
千屋寅之助、砲手長は
石田英吉)として、最初で最後の実戦(戦争=海戦)を経験した。
千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)石田英吉(融通無碍/人物評伝)
下関海戦図(手前の山は下関市の火の山で現在展望台があり、そこへ登るとこの通りに見える。龍馬は最初門司の半島右側からの攻撃に参加したが、のち下船して火の山に登り、大砲を使って援護射撃をした。「戦のはなしはやった者でなければ分からない」「鉄砲の音がゴマを煎るように聞こえる」など、絵の海部分いっぱいに感想を書いている。/高知県立坂本龍馬記念館より)
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慶応3年、薩摩の西郷隆盛が土佐にやってきて「慶応3年の大芝居」が開幕する。
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP277>
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慶応3年2月15日
西郷吉之助が蒸気船に乗って高知に来た。
龍馬は西郷隆盛が高知にやってきて、山内容堂と会見した情報をつかんでおり、そのことを長州藩士・
三吉慎蔵に伝えた「
龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)三吉慎蔵(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
◆薩摩の西郷隆盛が高知へ
薩摩の実力者・西郷が海路高知に入る。
隠居・
山内容堂に時局打開のための
四侯会議への参加を懸命に口説く。

愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
山内容堂(融通無碍/人物評伝)四侯会議(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
西郷隆盛の要請に応じ、四侯会議への参加を決心した山内容堂は
「よし、ワシは今回は東山の土になる積もりで行く」と上洛の決意を披瀝した。(山内容堂の決心の固さは分かるが、その後の行動が伴ったか・・・・。)
西郷隆盛の訪問は土佐藩では大事件で、藩は豪商・川崎(=田村屋)の邸宅をその宿舎に当てもてなした。(泊まったときに西郷隆盛が使った下駄が今も残っている。)
薩摩の西郷が高知へ (融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
慶応3年2月21日
西郷帰る。
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[融通無碍]
西郷隆盛は高知を離れたあと西へ。四国西端の足摺岬を回って宇和島に向かう。
山内容堂と同じく
四侯会議の参加メンバーとして期待される宇和島・伊達侯(伊達宗城)を説得し、成功した。
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京の土佐藩邸では四侯会議の準備が慌ただしく行われた。
真吉は、
安岡権馬、
毛利恭助らと頻繁に
中岡慎太郎と合い、また4月1日には薩摩藩留守居役・遠武橘次とも会っている。
安岡権馬(融通無碍/人物評伝)毛利恭助(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)福岡孝弟、
谷干城、
寺村左膳、
秋沢貞之、
小笠原唯八、
真辺栄三郎ら土佐藩の幹部藩士らは土佐藩艦船(蒸気船)夕顔丸・空蝉丸で京都と土佐を頻繁に行き来した。
福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)寺村左膳(融通無碍/人物評伝)秋沢貞之(融通無碍/人物評伝)小笠原唯八(融通無碍/人物評伝)真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP279>
慶応3年5月4日
山内容堂が土佐藩船・夕顔丸で土佐を出発。真吉ら随行の下級藩士は空蝉丸で追走して京都へ。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP280>
慶応3年5月14日
ようやく西郷隆盛の主張する四侯会議のメンバーが京都に出そろった。
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[融通無碍]
◆四侯会議とは?
薩摩藩の主導のもとに成立した四侯会議は、京都において設置された諸侯による会議。有力な四侯による合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。
慶応3年5月初旬から中旬にわたり8回にわたって京都で開催された。
薩摩藩国父・島津久光、越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城が、直面する二つの政治課題「長州処分(赦免)」と「兵庫開港」について話し合い、将軍徳川慶喜との交渉に臨んだ。
5月14日の初会合では、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。
徳川慶喜たっての要請で四侯は二条城で記念写真に応じた。写真が趣味の慶喜が自ら撮ったという。

四侯会議の際に徳川慶喜が撮影したとされる写真。(右上から時計回りに)島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
四侯会議(かごしま明治維新特集/南日本新聞)島津久光(融通無碍/人物評伝)伊達宗城(融通無碍/人物評伝)松平春嶽(融通無碍/人物評伝)丁々発止の会議が行われたが、
徳川慶喜の横やり(謀略)で会議は決裂した。
徳川慶喜(融通無碍/人物評伝)薩摩藩はこの四侯会議を機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした
公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、幕府(=徳川慶喜)との政局に敗れ、薩摩藩の目論見は挫折した。
公武合体 (融通無碍/関連話)その結果、薩摩は完全に倒幕路線に舵を切ることになり、明治維新までの幕末物語(=大芝居)が始まる。
慶応3年の大芝居 (融通無碍/第39話)・・・・・・・・・・
慶応3年5月21日、
中岡慎太郎の仲介により薩摩藩士・小松帯刀邸にて、土佐藩の
板垣退助、
谷干城、
安岡亮太郎、
毛利恭助らが薩摩藩の西郷隆盛、
吉井幸輔、小松帯刀らと会談、「
薩土密約」を結んだ。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)谷干城(融通無碍/人物評伝)安岡亮太郎(融通無碍/人物評伝)毛利恭助(融通無碍/人物評伝)吉井幸輔(融通無碍/人物評伝)板垣退助は、翌22日に山内容堂に報告し軍制改革を行う旨の同意をとりつけた。さらに、大坂で大量に武器を買いつけて帰藩した。
薩土密約(幕末足軽物語/関連話)薩摩藩と土佐藩の実力者間で交わされた武力討幕のための軍事同盟=『薩土密約』だ。薩土密約は「武力倒幕路線」で、後の戊辰戦争に繋がる。(後の薩土盟約は「大政奉還の平和路線」)
また、この密約には江戸の土佐藩邸に匿われていた水戸浪士の身柄を薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれていた。後の「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」に繋がる。
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慶応3年5月22日
(四侯会議で幕府と朝廷の間に立つ)山内容堂は、病気と称して御暇を願い立てる。(舞台から降りるか?)
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板垣退助は容堂に謁し
「今倒幕に積極的に動かねば、いずれ薩長の手下同然になり後塵を拝する」となかば脅し、密約を承認させる。
この「薩摩との密約・容堂の承認」を知るものはごく限られていた。山内容堂の側近中の側近、
寺村左膳にも知らされてなかった。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝)決断のつかない山内容堂は悩み苦しむ。
板垣退助の激情は死んだ
吉田東洋以上かもしれない。が、山内容堂は直言を好んだ。

吉田東洋
吉田東洋(融通無碍/人物評伝) 但し、上士による直言である。真吉ら下士(郷士)がこれを行えば「分を超えた行為≒処罰対象」と見なされる。が、山内容堂、今回はその真吉も連れての入洛だ。
伊豆・下田の遠州灘でのあわやの遭難経験が心に刻まれているのか。

伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話) ======
[融通無碍]
「焼け跡の釘<くぎ>拾い」という言葉がある。
消火活動に出遅れたら(混乱に乗じ、めぼしい物を盗む「火事場泥棒」も出来ず)ショボショボと金目<かねめ>ともいえぬ焼け釘を漁<あさる>こと。戦働<いくさばたらき>には平時の正義は無用で、早い者勝ちだ。
徳川を倒したあとの世界にこそ出番あり、と意気ごむ板垣退助、徳川を倒すなど夢想だにしない山内容堂。
世は動いている。
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板垣退助は薩摩藩と締結した密約及び水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿している事を山内容堂に稟申。
山内容堂は板垣退助の勢いに圧される形で、この密約を承認、水戸浪士を江戸土佐藩邸に隠匿させていることも黙認した。そのうえで板垣退助に土佐藩の軍制改革を命じた。
山内容堂の鶴の一声で板垣退助を筆頭として、土佐藩は軍制改革(軍備の近代化)を行うことを決定。中岡慎太郎らにアルミニー銃の購入を命じた。
一方、薩摩藩側も薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。
中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため、薩摩藩と土佐藩の間で武力討幕の密約が締結されたことを土佐勤王党の同志に知らせた。
「天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である。」と「檄文」を飛ばした。
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板垣退助は西郷隆盛と薩土討幕の密約を結んだあと、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放した。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の党員ら300余名が板垣退助のもとで近代式練兵を行なうことになった。(土佐勤王党員ではないが、真吉もそのひとり)
結果的に、
武市半平太が率いた
土佐勤王党を、板垣退助が土佐藩兵(=
迅衝隊)として引き継ぎ、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。

武市半平太
武市半平太(融通無碍/人物評伝)土佐勤王党(融通無碍/関連話) 迅衝隊(融通無碍/第56話)また一方では、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が、土佐藩・参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導した。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP282>
慶応3年5月27日
老公(=山内容堂)が乗馬で帰国の途に就く。
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慶応3年6月3日
真吉が相国寺前の旅宿に西郷吉之助を訪ねて逢う。
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[融通無碍]
◆真吉が西郷隆盛と逢う
中岡慎太郎日記には、同日の記録として「樋口と西郷に至る」とあり、この会見は中岡慎太郎の紹介によるものか。
相国寺の前には薩摩藩の二本松藩邸があった。
この二本松にある薩摩屋敷こそ
龍馬暗殺の一月<ひとつき>前に、龍馬が友人
望月清平に送った書簡中にある「薩摩が勧める緊急避難先」だった。
望月清平(融通無碍/人物評伝)龍馬暗殺 (融通無碍/関連話)
二本松の薩摩藩邸跡、現在は同志社大学の今出川キャンパス
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慶応3年6月22日

坂本龍馬
大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、薩摩藩と薩土盟約を結ぶ。
5月には薩土密約が成立しており、そのため一歩出遅れた後藤象二郎らは大坂で藩重臣らと協議し大政奉還論を藩論とするよう求める他なかった。
土佐側は坂本龍馬、中岡慎太郎、
寺村左膳、後藤象二郎、
福岡孝弟、
真辺栄三郎が、薩摩側は
西郷隆盛、大久保一蔵、小松帯刀が代表となり、龍馬の進言に基づいた王政復古を目標となす
薩土盟約が成立した。
寺村左膳(融通無碍/人物評伝) 福岡孝弟(融通無碍/人物評伝) 真辺栄三郎(融通無碍/人物評伝) 薩土盟約 (融通無碍/関連話)薩土盟約は「武力によらない平和的路線」、その後の大政奉還/公議政体へと繋がる。
一方、1カ月前の5月に成立した薩土密約は「武力倒幕路線」で、後の戊辰戦争に繋がる。
《当初、板垣退助には薩土盟約、寺村左膳、後藤象二郎には薩土密約の存在が伏せられた。盟約、密約の両方に関わった中岡慎太郎の差配か。》
真吉は、表向き(職務上)は薩土盟約に関わったと見られ、その経緯を日記にも記述して残している。
しかし、裏では薩土密約にも深く関わっていたようで、5月21日の密約締結の場には、真吉の一番弟子とも言える
安岡亮太郎を参加させている。薩土密約のことは、日記にはいっさい記録していない。
安岡亮太郎(融通無碍/人物評伝)後藤象二郎は薩摩との盟約を成立させると、土佐に帰って山内容堂に(大政奉還の)上書を行なった。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
慶応3年、土佐藩は幕府を中心とする公議政体論を藩論として決定、大政奉還のため薩土盟約を締結する。
将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、布告させるという「平和路線」だ。
その後も、この路線で武力討幕派に対抗したが、薩摩の二股膏薬(薩土密約)などもあり伏見戦争(戊辰戦争)でこの平和路線は霧散した。
土佐藩も佐幕派の筆頭・旧藩主の山内容堂の突然の「君子豹変」で、討幕運動に加わることになる。

腹の探り合い/薩土盟約
この盟約には背景がある。
幕府の命脈が尽きようとしていることは薩摩、土佐ともに明瞭に見えていた。問題はどう収拾を付けるか。
武力倒幕の薩摩、平和裏に政権交代を実現したい土佐が曖昧な形で妥協して生まれたものだ。
だから契約が実効していた期間は極めて短い。
この6月22日(下旬)から9月上旬(明確な日付確定は困難だ)の間のたった2ヶ月半だった。
薩摩としては土佐を幕府側に立たせることは避けたい、その一心で妥協した産物だ。
この経緯を真吉は知っていたはずだが、日記には書いていない。
真吉は長州好きだった。薩長の対立と、変転極まりない薩摩の態度に嫌悪を感じていたか。そう考えておこう。
薩土盟約薩土盟約が締結された前後のことを長州藩士・三吉慎蔵に伝えた「
龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)・・・・・・・・・・
慶応3年6月26日
芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
慶応3年9月29日
西郷吉之助を訪う。西郷言う。
「5日以内に薩軍勢が本国から上京する。芸州も同様だ。幕府内の混雑(混乱)もあり、もし長州が上京すれば朝幕ともこの行為に対し寛大な所置を採るだろう」云々
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP297>
慶応3年10月13日
幕府は二条城に諸藩を集める。将軍・徳川慶喜が直接、王政奉還(大政奉還)のことを述べた。
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慶応3年10月15日
15代将軍・徳川慶喜による大政奉還が勅許された。
大政奉還(NHK大河ドラマ/徳川慶喜)そして龍馬と慎太郎はその1カ月後、11月15日夜近江屋において同時に暗殺された。
徳川幕府を倒して新しい国家を築く目前に、京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎は会談中刺客に襲われ、その生涯を閉じた。
大政奉還から龍馬&慎太郎暗殺まで(融通無碍/関連話)この日、真吉は高知の同志(島村祐四郎、桑原介馬、<中村の>諸君)に、京師の情報(大政奉還の諸事情<手紙>)を送っている。
真吉が送った手紙<大政奉還!!>(融通無碍/関連話)
(土佐山内家宝物資料館蔵)
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慶応3年12月9日、

薩摩を中心とする倒幕派の画策によって、
王政復古の大号令が出され、一部の公家と5藩(薩摩・土佐・安芸・尾張・越前)に長州藩を加えた有力者が主導する新政府が樹立された。
王政復古の大号令(融通無碍/第40話)
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慶応3年12月25日、

薩摩藩邸焼討事件絵図(松山文化伝承館蔵)
薩摩の
西郷隆盛の謀略で「
江戸薩摩藩邸焼討事件」が起こる。
江戸薩摩藩邸焼討事件(幕末足軽物語/関連話)庄内藩が薩摩藩邸の浪士の引き渡しを要求、薩摩藩は拒否して、一触即発の事態になる。
ついには、庄内藩・新徴組らによって襲撃が開始され、薩摩屋敷は焼け落ちた。
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[融通無碍]
この事件には西郷隆盛や大久保利通などの薩摩藩士が関与しており、事件の背後には薩摩藩と幕府との対立が存在し、外国政策や政治体制改革に対する意見の違いが影響している。
事件の詳細が大坂城の徳川家の幹部の元へ伝わると、対薩強硬派として知られる若年寄
永井尚志、大目付滝川具挙、前将軍徳川慶喜は沸きあがる「薩摩討つべし」の声を抑えることができなかった。
永井尚志(幕末足軽物語/人物評伝)薩摩藩(西郷隆盛)の目論見通り、旧幕府は討薩への意志を固める。土佐藩の山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、西郷隆盛は土佐藩士・
谷干城へ薩摩・長州・安芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、
板垣退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。
谷千城(融通無碍/人物評伝)板垣退助(融通無碍/人物評伝)戊辰戦争後、この事件(
江戸薩摩藩邸の焼討事件)を西郷隆盛と板垣退助は次の様に評している。
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板垣退助
私(=板垣退助)が戊辰戦争後に、再び西郷隆盛君と会ふた時、西郷君は
『板垣さんと云ふ人は恐ろしい人よ。他人(ひと)の所へあんな物騒な浪士を放り込んで、戦争をおツ初めさせるとは、深慮遠謀。… 何とも恐ろしい人よ』と茶化して私に言ふので
『それはさてさて、人聞きが悪い。近頃迷惑千万な話ぢやが、之を統御された先生(西郷)こそ随分と危険な御仁であつたやうに思ひまする。・・・とにかく首尾は上々、あれは好機幕開けでござりましたな』と申し上げたら、西郷君は呵々大笑したのを覚へてをります。
(中略)
あの(江戸での)浪士騒ぎが、戊辰戦争の幕開け(前哨戦)であつたと思ふてをります。(板垣退助/維新前後経歴談より)
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慶応4年、斯くして、伏見戦争が始まり、戊辰戦争へと繋がる。
<「幕末足軽物語
樋口真吉伝完結編」ではP336>
江戸城の無血開城(慶応4年4月)

『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館蔵)
西郷隆盛は勝海舟・大久保一翁らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷隆盛らが兵を率いて江戸城へ入城した。
橋本実梁らは大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
そして9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去。11日には徳川慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大総督府が接収した。
江戸城無血開城(NHK動画)
芝 西郷隆盛と
勝海舟 会見の地
勝海舟(NHK大河ドラマ/前編)《徳川泰平の世に動乱の響きを感じる幕末、無役の御家人・勝小吉の長男、麟太郎(りんたろう・海舟)は剣術の修行に励む一方、海外事情や兵学に強い興味を持ち、蘭学者・永井青崖(せいがい)に弟子入りします。嘉永6年(1853)、黒船が来航すると、幕府は外国との対応に揺れ、海軍の必要性を説く勝に
長崎海軍伝習所の生徒監を命じます。前編は、父・小吉や家族とのきずな、恋や結婚を交えた、若き日の勝海舟を描きます。》
長崎海軍伝習所(幕末足軽物語/関連話)勝海舟(NHK大河ドラマ/後編)《勝海舟は咸臨丸で渡米して以来、開国論者と見られていました。日本中に尊皇攘夷の嵐が吹き荒れると、勝は坂本龍馬らに命を狙われますが、世界情勢と海軍の必要性を語って龍馬らを説き伏せてしまい、感服した龍馬らを弟子にします。後編は、勝が幕府の要職を務めながら、龍馬暗殺に泣き、徳川慶喜の処遇に配慮し、西郷隆盛を説得して江戸無血開城の大役を果たすまでを描きます。》
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<「幕末足軽物語
樋口真吉伝完結編」ではP334>
慶応4年4月7日
真吉は西郷吉之助を増上寺に訪う。
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[融通無碍]

徳川将軍家とのゆかりが深い東京・芝にある増上寺
増上寺は徳川家の菩提寺であり、ここに薩摩の西郷が滞在しているとは…。偶々会見会場として使用されたのか、薩摩史に不案内な筆者は悩むところ。
<「幕末足軽物語
樋口真吉伝完結編」ではP336>
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慶応4年4月11日
(期限は11日とした朝廷の命令通り)黎明のころ、徳川慶喜が江戸城を退く。

徳川慶喜
徒歩<かち>の家来を500人ばかり従え、上は平袖、下は小袴の高股を着用して(如何にも貧相で、尾羽打ち枯らした風体)、砲器(自衛の火器)は携えず、総髪(月代も剃らず、丁髷<ちょんまげ>を結ばず後で束ねた髪型)であった。
徳川の終焉(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~~
明治2年、真吉は薩摩・長州への謝恩の旅にでる
<「幕末足軽物語
樋口真吉伝完結編」ではP380>

明治2年2月から4月にかけて真吉は薩長(薩摩及び長州)に藩命を帯びて旅行する。
一行は大監察兼大隊司令・長屋孫四郎とその従僕二人、小笠原忠五郎と従卒・河野辰衛の5人と真吉、合わせて6人である。
この旅行目的は先の戦争で薩長からの応援を得て土佐藩は勝利を収めたから、その恩を謝するための使い(土佐藩庁の公務)だった。真吉55歳。
公務故、日記は復命のための備忘録か。
日記:薩長への謝恩の旅(融通無碍/第29話)<「幕末足軽物語
樋口真吉伝完結編」ではP397>
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明治2年4月4日
真吉は薩摩で
西郷隆盛と会談をした。
10時過ぎ、西郷が来る。談論は2時頃に終わった。
西郷吉之助と談論(融通無碍/関連話)======
[融通無碍]
この頃西郷隆盛は参政・一代寄合となって、藩政の改革 や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行なっていた。戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消にもつとめていた。
さらに5月には、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた。
明治新政府の首脳たちは政府公人でありながら、出身藩の幹部でもあったから悩みは大きい。
かれらは新しい『政府という小舟』と、古い『幕藩体制をそっくり真似た母藩の古舟』に片足ずつ乗せ、その平衡を取るのに苦労していた。
倒幕という共通目的で集まったが、その実態は烏合の衆だ。 新政府中枢は「てんでばらばら」で、時代認識も描く理想像もまちまちだ。 潰れかかった中小企業の集合体が再建策を決定する。だがその集合体である新政府の運営には諸藩の供出した人材が分担している。大まかな合意らしきものはあるが、細部は煮詰まっていないから同床異夢の場面が続出する。
新政府首脳はその個人の性癖に加え、出身藩の伝統、血を色濃く残ながら政府首脳として公務を果たす。薩摩も長州も土佐も同様だ。
同床異夢は微妙な対立を生み、ギクシャク感が政府内に充満する。
西郷隆盛などは早々に不平を鳴らし辞官、鹿児島に去った。板垣退助、
江藤新平も去った。
江藤新平(幕末足軽物語/人物評伝)~~~~~~~~~~~
明治10年、西郷隆盛は西南戦争で鹿児島の城山で没。享年51。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)*****************
2024.11.01.23.56