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幕末足軽物語(南寿吉著)
[人物評伝]
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佐藤健之助(1843~1929)
樋口真吉(1815~1870)

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幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP292>
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慶応3年、長崎で
イカルス号水兵殺害事件が起きる。
イカルス号事件<英国水兵殺害事件>(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
慶応3年8月15日
佐々木三四郎(=高行)と才谷梅太郎(=坂本龍馬)は本藩高知から夕顔丸に乗船して長崎に行く。
この船に英国の通訳・
佐藤健之助(アーネスト・サトウ、佐藤愛之助とも号した)が加わり同乗した。
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◆佐藤健之助(アーネスト・サトウ)
イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
長崎で起きた
イカルス号水兵殺害事件の処理にあたる。
英国公使ハリー・パークスは、この事件を重要視した。
当初、犯人が土佐藩士(海援隊士)との情報(誤報であったが)があったため、長崎奉行所へ海援隊士の捕縛を要求。
長崎奉行所(融通無碍/関連話)海援隊(融通無碍/関連話)また、英国人貿易商人ウィリアム・オルトを通じて土佐商会主任の
岩崎弥太郎に談判に応じるよう要請し、二人は英国領事館で対峙するが、岩崎弥太郎は海援隊の無罪を断固主張した。
岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)このまま長崎奉行に任せていてもらちが明かないと判断したパークスは、幕府老中・永井玄蕃頭と交渉。土佐藩大監察の
佐々木高行らも巻き込み土佐(須崎)で交渉を行うことに。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)佐藤健之助は阿波経由で土佐に乗り込み直接土佐藩と談判する。土佐では主に
後藤象二郎を交渉相手とし、
山内容堂にも謁見している。
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)山内容堂(融通無碍/人物評伝)土佐・須崎で行なわれた協議は、「海援隊士の犯行でないことは実証されなかったが、ひとまず土佐藩とは関わりがない」という玉虫色の決着で終わっている。結局、結論は出ず、事件の再検証を行うべく再び長崎へ赴き審議することに。
佐藤健之助は龍馬、後藤象二郎らとともに土佐藩船「
夕顔丸」 で下関経由で長崎に向かい、20日、龍馬の紹介で
桂小五郎と初めて会った。
桂小五郎(=木戸孝允)(融通無碍/人物評伝) 
夕顔丸(慶応2年に後藤象二郎、ジョン万次郎、谷干城らが藩命で購入した土佐藩船)
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◆土佐藩の洋式艦船
土佐藩の洋式艦船は『源氏物語』の巻の名に因んで命名されている。
「夕顔」・「空蝉」・「若紫」の他に、「箒木」・「胡蝶」・「羽衣」・「乙女」・「紅葉賀」が知られている。

「夕顔丸」モニュメント(長崎市西浜町)/この船中で大政奉還に繋がる龍馬の「船中八策」が起草された。
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[余話](英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録より)
後藤象二郎は、サトウとのイカルス号事件の交渉で
「土佐藩は事件とは全く関係ない」と強行に主張している。
「英国を手本にして
国会と憲法とを作ろうと思っている。薩摩の西郷も相似た意見を持っている」と事件に関係ないことも述べている。
民撰議院設立建白書(幕末足軽物語/関連話)サトウは
「後藤はこれまで会った中で最も才智の優れた日本人である。余の考えでは、独り西郷だけが人物の点で後藤に優れていた。」と記述している。
後藤象二郎の長崎物語(融通無碍/第44話)ーーーーーーーー
長崎では、龍馬をはじめとする関係者一同が長崎奉行所において度重なる取り調べを受ける。約2ヶ月に及ぶ調べの結果、海援隊による犯行は実証されなかったが、長崎奉行は「お構いなし<海援隊は無罪>」の判決を下した。
この判決について、長崎奉行所に宛てた「龍馬の手紙」がある。
長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)龍馬の手紙(長崎奉行宛て)ーーーーーーーー
その後、龍馬は長崎で大量の銃を調達し、夕顔丸で高知経由で大政奉還を成すために京に行くことになる。
龍馬 最後の帰郷(NHK動画)
夕顔丸
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[史実<フリー百科事典『ウィキペディア>より]
英国水兵殺害事件(イカルス号事件)
慶応3年7月6日夜、長崎でイギリス軍艦イカルス号の水兵、ジョン・ホッチングとロバート・フォードの2人が泥酔し丸山の路上に寝込んでいるところを、通りすがりの筑前藩士金子才吉に殺害された。金子は8日に自刃していたが、筑前藩がこれを秘匿した。
現場近くで白木綿、筒袖姿の男(海援隊士)が飲んでいたという目撃情報、凶行数時間後の未明に長崎港内に碇泊していた土佐の帆船と汽船(龍馬の海援隊が運行)が相次いで突然出帆していたことなどから、イギリス領事館は土佐藩の
海援隊による犯行と判断した。
海援隊(幕末足軽物語/関連話)イギリス総領事パークスが大坂の幕府奉行所に直訴したり、公式代表団を土佐まで派遣するなどして躍起になって犯人探索に当たるが、当然ながら犯人は挙がらなかった。
明治元年10月27日に、犯人が金子だったことが判明し、被害者遺族に見舞金が支払われ、金子と同道していた6名の者が禁錮刑に処せられた。
なお、土佐藩はこの対応に時間をとられ、大政奉還の建白が遅れ薩土盟約が解消される一因になったといわれている。
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慶応3年12月23日
鳥羽伏見の戦いに先立ち、
陸奧宗光は大坂のイギリス公使館に
アーネスト・サトウを訪ね、新政府の承認問題について意見交換する。

アーネスト・サトウ
陸奧宗光(融通無碍/人物評伝)陸奥宗光は皇族の一人が大坂城内で外国公使と会見し、王政復古の布告を宣言することを提案、サトウの賛成を得ると、これに基づく意見書を議定・
岩倉具視に提出。

岩倉具視
岩倉具視(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応4年(明治元年)、明治新政府に出仕。岩倉具視の推挙により、外国事務局御用掛に任命される。
戊辰戦争に際し、局外中立を盾に引き渡しを拒否していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し交渉に成功、その際、未払金10万両があったが財政基盤の脆弱だった新政府には支払えなかった。
会計官権判事を兼任した陸奥はこれを大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受けることに成功、新政府の首脳陣に深い感銘を与える。
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)融通無碍/総集版*****************
2023.12.01.22.41