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土佐の森・文芸 融通無碍
[幕末足軽物語/関連話]
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<令和6年8月5日発信>
【第44話】
後藤象二郎の長崎物語
後藤象二郎邸跡(長崎市金屋町)
後藤象二郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
慶応2年、後藤象二郎は、
吉田東洋の遺策である開成館を創設、土佐藩・参政/開成館奉行に昇格した。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)開成館は、洋式汽船購入に伴い蒸気学や航海学の西洋知識を導入する機関、国産品を統制する機関等を置いた。
殖産興業政策を展開して積極的に貿易を行い、富国強兵を図ろうとした。
土佐藩の殖産興業<木材>(融通無碍/関連話)土佐藩の殖産興業<樟脳>(融通無碍/関連話)土佐藩の殖産興業<養蚕>(融通無碍/関連話)後藤象二郎は開成館を創設するにあたり開成館奉行として、多くの部下を引き連れて長崎に出張した。
この出張には、高知から
谷干城、
ジョン万次郎、
池道之助ら30名余が同行している。
谷干城(融通無碍/人物評伝)ジョン万次郎(融通無碍/人物評伝)池道之助(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・・
慶応2年7月、
後藤象二郎を頭に土佐藩の長崎派遣団は高知城下を出発、宇和島(7月12日着)を経由して長崎へ。
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慶応2年7月26日
長崎に着く。長崎到着の翌日より公務に着手、船舶・武器弾薬の買い付けのための視察や交渉を活発に行なう。
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道之助日記「思出艸」より
7月28日 中浜万次郎氏同道にて五つ時(朝8時)出立。
古川町姫路屋久右衛門かたへ行き、その後オランダレーマンの宅に行き二階に上がり酒など馳走になる。
色々鉄砲を見物をする。40、50あまりの筒の売買をすると聞く。
その座敷のよいこと、実に美を尽くせり。
出島というこの所でめがねを買い、向かいの尾浦を眺めるとイギリス・オランダ色々の家並みが見え、実に異国同様の様子である。
湊には唐人、イギリス、アメリカ、オランダ舟20隻あまり停泊見事である。
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池道之助は藩から測量学修行の名目で九州へ行く許可を得て、ジョン万次郎に同行した。
道之助は慶応4年1月まで長崎に滞在し、その間の出来事や見聞きしたことを絵入りで記録している。
絵は「ジシヤク」(右の絵は日本語と英語を対比した方位表、「北」を「ノウス」とカタカナで記している。

「思出艸」は池道之助自筆の日記(慶応2年3月25日から明治元年1月13日)で、ジョン万次郎とともに高知城下(真吉と面談している)及び長崎の旅(後藤象二郎に随行)をしたときの様々な出来事がまとめられている。

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後藤象二郎は長崎で土佐藩の商事会社「長崎土佐商会(=土佐開成館貨殖局長崎出張所)」を設立した。
新たに開設された長崎土佐商会は、後藤象二郎が初代、岩崎弥太郎が2代目の責任者(主任・長崎留守役)に任命された。
出島など居留地の外国商社に樟脳などの土佐の産品を売り、銃砲・弾薬や洋式船舶を購入した。
土佐商会(NHK)長崎ではプロシャ商人クニフラーから法外な値段でライフル銃300丁を買い付け、イギリス商人オールトから蒸気船・夕顔丸と風帆船・羽衣丸を購入、さらに、ジョン万次郎らを引き連れて上海に密航した。(長崎から上海に渡ったメンバーは、後藤象二郎、ジョン万次郎、高橋勝蔵、森田幾七<万次郎従者>、由比珪三良、松井周助の6人)、上海ではイギリス商人グラバーの仲介により小型砲艦・若紫丸を上海で建造した。
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◆土佐藩の洋式艦船
土佐藩の洋式艦船は『源氏物語』の巻の名に因んで命名されている。
「夕顔」・「羽衣」・「若紫」の他に、「乙女」・「空蝉」・「箒木」・「胡蝶」・「紅葉賀」が知られている。

夕顔丸モニュメント(長崎市西浜町)/土佐藩がオールト商会から洋銀15万5000ドルで購入した。
土佐商会は蒸気船5隻、風帆船3隻を購入したが、それを運行する人材が不足していた。
そのため、龍馬の亀山社中を取り込み、社員に月々金5両を支給したほか、運用資金の調達など金銭面での支援を行い、その代償として運輸や貿易などで協力させることにした。後には土佐藩の外部組織として海援隊と改編した。
さらに、蒸気船運行については、幕府の長崎製鉄所から
長崎奉行所配下の幕臣・
平野富次郎ら熟達技術者を招聘した。
長崎奉行所(幕末足軽物語/関連話)平野富次郎(幕末足軽物語/人物評伝)平野富次郎は土佐藩船・夕顔丸など複数の蒸気船を運航、慶応3年/幕末の動乱期(
慶応3年の大芝居)における坂本龍馬や後藤象二郎ら土佐藩志士の東奔西走の活動(パフォーマンス)を支えた。
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)慶応4年に伏見戦争が勃発、長崎奉行所が土佐藩の支配下になると土佐藩参政・
佐々木高行の配慮(辞令)で平野富次郎は土佐藩を離れ幕府の長崎製鉄所に復帰した。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~
慶応2年、土佐商会が長崎で行なった一連の船舶や武器弾薬の購入代金の決済には、イギリス商人オールトから18万両という多額の借金をして賄った。
後藤象二郎の所謂「武家の商法(放漫経営)」により、土佐商会は財政的危機状態であったという。
慶応3年3月、土佐藩の重役・
福岡孝弟と
岩崎弥太郎が長崎にやって来た。
福岡孝弟(融通無碍/人物評伝)岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)二人は、長崎土佐商会の経営を立て直すこと、及び龍馬の亀山社中を土佐藩の組織に取り込むことの藩命(=勝海舟との
伊豆・下田会談で龍馬のことをよく知る
山内容堂の密命)を受けての長崎入りであった。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)融通無碍/第4話(伊豆・下田でのこと)
伊豆・下田の宝福寺
長崎に藩命で遊学していた
溝淵広之丞の仲介で、後藤象二郎と坂本龍馬の「春風亭会談」が準備されたが・・・。
溝淵広之丞(融通無碍/人物評伝)清風亭の対決(NHK/龍馬伝)《長崎で商売をするには龍馬(福山雅治)の力が必要だ”と悩む岩崎弥太郎(香川照之)。そこに土佐の山内容堂(近藤正臣)から後藤象二郎(青木崇高)のもとに「ひそかに薩長とつながりを持て」という命が届く。象二郎は薩長を結んだ龍馬と会う決心をする。馬関での戦いから長崎に戻った龍馬は、弥太郎に会い「大政奉還を目指して、土佐を薩長に取り組むために象二郎と会う」と言う。ついに土佐での因縁を抱えた2人が対決する》
対決後、龍馬が後藤象二郎の印象を記述した三吉慎蔵宛ての「龍馬の手紙」が残されている。
龍馬の手紙/三吉慎蔵宛て(後藤象二郎は面白い人)
三吉 慎蔵(融通無碍/人物評伝)~~~~~~
この時の、後藤象二郎と坂本龍馬の関係(心情)は、
『土佐藩からの公式な支援が欲しい龍馬。が、後藤は土佐勤王党を弾圧した張本人、建前上は逢いたくない、逢えない人物』
『龍馬の人脈と組織を土佐藩に取り込みたい象二郎。が、龍馬は脱藩の罪を犯した犯罪人、建前上は逢うことができない人物』
この両者の思惑と感情を、両者をともによく知る溝淵広之丞が調整・仲介する役割を果たした。
慶応3年1月、龍馬と後藤の会談が実現した。会談の場所は長崎清風亭。
後藤象二郎は長崎榎津町(現、万屋町)の料亭「清風亭」に坂本龍馬を招き、脱藩の罪を許すとともに、坂本龍馬の率いる亀山社中を海援隊に改編、土佐藩の海運・貿易などの事業に協力させることで決着。
長崎清風亭会談この会談の結果、土佐藩は龍馬らの脱藩(龍馬は2回目の脱藩)を赦免し、
亀山社中を土佐藩直属の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬頃に亀山社中は「
海援隊」と改編し「土佐藩の海援隊」となった。軍事と商事を兼ね備える組織だ。(この時期、京都で
中岡慎太郎が「土佐藩の
陸援隊」を立ち上げている。)
亀山社中(幕末足軽物語/関連話)海援隊(幕末足軽物語/関連話)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)陸援隊(幕末足軽物語/関連話)
海援隊・左から2人目が溝淵広之丞(他に左から
長岡謙吉、
坂本龍馬、
山本洪堂、
千屋寅之助、
白峰駿馬)
長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)山本洪堂(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)白峰駿馬(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーーーーーーー
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。
隊士は土佐藩士(池内蔵太、千屋寅之助、溝淵広之丞、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉、中島作太郎、野村辰太郎、宮地彦三郎、島村要、吉井源馬ら)および他藩出身者(紀州藩の陸奥宗光、越後長岡藩の白峰駿馬、讃岐国塩飽佐柳島の佐柳高次、越前福井藩の渡辺剛八、山本洪堂ら)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。
池内蔵太(融通無碍/人物評伝)沢村惣之丞(融通無碍/人物評伝)池内蔵太(融通無碍/人物評伝)高松太郎(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)新宮馬之助(融通無碍/人物評伝)石田英吉(融通無碍/人物評伝)中島作太郎(融通無碍/人物評伝)野村辰太郎(融通無碍/人物評伝)宮地彦三郎(融通無碍/人物評伝)島村要(融通無碍/人物評伝)吉井源馬(融通無碍/人物評伝)陸奥宗光(融通無碍/人物評伝)佐柳高次(融通無碍/人物評伝)渡辺剛八(融通無碍/人物評伝)この時に明文化された規則が「海援隊約規(高知県立坂本龍馬記念館蔵)」

5則から成り、隊士の資格は脱藩者と海外への志ある者、隊の課業は航海術や英語を勉強することなど、明確に表している。

海援隊旗(この旗印は「二曳にびき」といい、海援隊の会計を勤めた岩崎弥太郎が基礎を築いた三菱の、船舶部門「日本郵船」の社のマークとして、白地に二本の赤線が使われ、煙突にも描かれた。やはり「二曳」という。)
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慶応3年3月、岩崎弥太郎が後藤象二郎(土佐商会)の後継者として長崎に到着、後藤象二郎は長崎を去ることに。
後藤象二郎は長崎で(上海まで出向いて)軍艦等を購入したが、その購入資金について心配する佐々木高行の手紙がある。土佐藩の佐々木高行の同役・國澤四郎右衛門にあてたもの。)
『後藤(象二郎)参政は、長崎で、このたび軍艦一艘、ほかに蒸気船三艘、あわせて四艘を買い求めたとのこと。もとより当今有用の品ではあるけれども、ただいまの藩財政は、ことに軍備をはじめ足元のことまで難渋する状況なので、これまた物議を醸すことになるでしょう。』
慶応3年6月9日、後藤象二郎は福岡孝弟、佐々木高行、坂本龍馬、陸奥宗光、長岡謙吉らと土佐藩船・夕顔丸で上洛、その途上で龍馬が後藤に新国家の構想=「
船中八策」を示したとされる。(異説有り)

土佐藩船「夕顔丸」で起草したといわれる船中八策の裏書(高知県立坂本龍馬記念館)

夕顔丸
船中八策(NHK動画)その後、後藤象二郎と福岡孝弟は土佐藩を(薩摩の武力倒幕路線<薩土密約>に対して)公武協調平和路線<薩土盟約>に傾注させ、大政奉還を実現させた。
《
日記・遣倦録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
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慶応3年10月3日
後藤象二郎と
福岡孝弟の両氏が建白書(=大政奉還)を閣老・板倉周防守に提出する。
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大政奉還が行なわれてから概ね1カ月後の11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP300>
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慶応3年11月15日
この夜、才谷梅太郎(=坂本龍馬)の宿へ横山勘蔵(=中岡慎太郎)が行き(二人で)談話中のところに下婢が「度津川人の手紙が来ました」と言いながら(二人のいる)二階に上がり来たる。
龍馬暗殺(融通無碍/関連話)
坂本龍馬暗殺場所、近江屋
坂本龍馬 非業の死に迫る(NHK動画)大政奉還~龍馬暗殺まで(融通無碍/関連話)********************
慶応3年6月、後藤象二郎が長崎を離れたあとの長崎では・・・、
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岩崎弥太郎は、

土佐商会主任・ 長崎留守役に抜擢されて、土佐藩の貿易などに従事し辣腕をふるった。
明治2年正月、長崎土佐商会が廃止されると、岩崎弥太郎は大阪土佐商会に転出。以後、大阪で活躍したが、長崎での経験がそれ以後の九十九商会、三菱商会(現在の三菱グループ)へと発展する大きな原動力となった。
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ジョン万次郎は、

薩摩藩に招聘され薩摩に向かった。鹿児島では航海術や英語を教授したが、慶応3年12月には武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。
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池道之助は、

そのまま慶応4年1月まで長崎に居残り 、4月に起きた「
いろは 丸事件」では土佐藩(土佐商会)の吏員という立場で紀州藩との交渉で活躍している。
「後藤様(=後藤象二郎) 、横 山 、予(= 池道之助 )、才谷梅太郎(=坂本龍馬)4、5人連ニテ聖福寺ヘ行キ紀州藩ト談判ス」と道之助日記にある。
結果、紀州藩は土佐藩に賠償金8万3千 両(現在の価格で20億円)を支 払うことになる。池道之助 は岩崎弥太郎とともにこの賠償金の請求、受領に関わった。

いろは丸事件
いろは丸事件(融通無碍/関連話)また、7月に長崎で起きた「
イカルス号事件(海援隊士<土佐藩士>が英国船員を殺害したとの嫌疑がかけられた)」では、岩崎弥太郎とともに幕府の長崎奉行所と交渉するなど尽力している。
慶応2年8月8日、土佐の須崎港に碇泊していた藩船・夕顔丸の船上で、平野富次郎ら乗組士官に対して訊問が行われた。
慶応3年8月19日、須崎での談判が決着せず、再び藩船・夕顔丸で後藤象二郎、佐々木高行、才谷梅太郎(=坂本龍馬)らが長崎に赴き、訊問が再開された。
また、夕顔丸には英国の通訳・佐藤健之助(=
アーネスト・サトウ)が須崎から便乗して長崎に同行した。
長崎での尋問には岩崎弥太郎、平野富次郎(土佐守家来、夕顔丸器械方として)、池道之助も出席している。
イカルス号事件(融通無碍/関連話)◆佐藤健之助(アーネスト・サトウ)

イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。
長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、佐藤健之助は阿波経由で土佐(須崎)に来た。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、山内容堂にも謁見した。
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[英使サトウ滞日見聞記/維新日本外交秘録より]
サトウとの交渉で後藤象二郎は
「土佐藩は事件とは全く関係ない」と強行に論じている。
「英国を手本にして国会と憲法を作ろうと思っている。薩摩の西郷も相似た意見を持っている」とも述べている。
サトウは
「後藤はこれまで会った中で最も才智の優れた日本人である。余の考えでは、独り西郷だけが人物の点で後藤に優れていた。」と記述している。
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佐々木高行(土佐藩大目付<大監察>)は、

「いろは丸事件」、「イカルス号事件」で土佐藩/長崎駐在責任者として尽力、さらに坂本龍馬暗殺後には海援隊を取り仕切った。
伏見戦争が勃発すると、海援隊を指揮して長崎奉行所西役所を占拠、長崎市街の治安を維持するなど長崎で活躍した。
その後、海援隊を解散して
振遠隊(隊長・
石田英吉)に再編成した。長崎在住の隊員たちはこぞって振遠隊に参加、戊辰戦争(秋田戦争)に海路出陣した。
振遠隊(幕末足軽物語/関連話)石田英吉(融通無碍/人物評伝)それからの海援隊(長崎龍馬便り)
戊辰戦争(秋田戦争)に出征する振遠隊
慶応4年7月、大坂が新たな外国貿易港として開かれると、長崎の外国商人たちは、きそって大坂・神戸に商館を移した。
土佐藩は既に大坂と兵庫に開成館出張所(土佐商会)を開設しており、長崎土佐商会は閉鎖された。
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「後藤象二郎の長崎物語」その後・・・

[高知新聞/2024.1.1より]
◆民撰議院設立建白書
明治7年、国会議事堂前の庭園付近にあった屋敷に後藤象二郎ら同士が集まり、明治政府に一通の建白書を提出する話し合いが行なわれた。
国会をつくって人々を政治に参加させよ―と求めた「
民撰議院設立建白書」だ。
民撰議院設立建白書(幕末足軽物語/関連話)建白書の署名人は、後藤象二郎、
板垣退助、
岡本健三郎、
古沢迂郎、小室信夫、
由利公正、
江藤新平、
副島種臣の8人であった。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)岡本健三郎(融通無碍/人物評伝)古沢迂郎(幕末足軽物語/人物評伝)由利公正(融通無碍/人物評伝)江藤新平(幕末足軽物語/人物評伝)副島種臣(幕末足軽物語/人物評伝) ~~~~~~~~

軍艦島(外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれる)
後藤象二郎は「民撰議院設立建白書」を提出した後、長崎に舞い戻り高島炭鉱(現在「世界遺産」になっている軍艦島)の経営に乗り出す。
「
後藤象二郎の長崎物語・第2幕」だ。
◆高島炭鉱
慶応4年、佐賀藩とトーマス・グラバーが共同出資で採掘を始めた。国内初の立坑(北渓井坑)を開削した。その後、高島炭鉱の経営は官営になる。
明治7年、後藤象二郎は政治資金を調達するため商社・蓬萊社を設立。政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営に乗り出すが、炭鉱経営はかっての土佐商会と同様に困難を極めた。英国人鉱山技師エラスムス・ガウワーが近代化を試みるがうまくいかなかった。
経営を軌道に乗せられないのは、「後藤象二郎の武家の商法」のなせる技か。(ちなみに、どちらの経営も岩崎弥太郎が引き継ぎ立て直している。)
後藤象二郎の企業的経営手腕を憂うとともに政治的素質を惜しんだ福澤諭吉は、三菱が譲り受ける形で三菱造船所の創設者である岩崎弥太郎に経営を託すことを周旋。
明治13年4月25日、後藤象二郎は岩崎弥太郎の三菱財閥に高嶋炭坑の権益を譲渡、代償として後藤象二郎の政府宛未納金25万円を肩代わりした。
後藤象二郎は完全に企業経営から離れ、政界に復帰した。
後藤象二郎の長崎での旧宅跡は現在テレビ長崎の社屋となっており、脇に後藤象二郎邸跡を示す石碑が建っている。
後藤象二郎と岩崎彌太郎「後藤象二郎の長崎物語」は幕引きとなる。
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◆長崎土佐商会(「土佐商会跡・板碑より)
土佐商会は土佐藩の貿易関係の役所で、開成館貨殖局と呼ばれた。
長崎出張所は、慶応3年2月頃、長崎市西浜町(現在の浜町)に開設された。
最初は後藤象二郎が、後には岩崎彌太郎が主任となり、辣腕を振るった。
同出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することであったが、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却して捻出した。
また、坂本龍馬率いる海援隊には、隊員それぞれに月々金5両を支給するなど、その運用資金なども調達した。
このように、海援隊は土佐藩の保護のもとにあったので、海援隊旗は土佐藩旗と同様に、「赤白赤」の二曳(にびき)と呼ばれるものであった。

土佐商会跡/長崎市浜町
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◆海援隊日史
慶応3年4月から7月頃の海援隊の記録。
その内容の主なものは、海援隊約記の写、いろは丸衝突事故の簡単な記録、新政権構想素案などである。
筆者は海援隊の文官で龍馬の秘書役だった
長岡謙吉とみられる。
長岡謙吉(融通無碍/人物評伝)特に「新政権構想素案」は慶応3年4月(いろは丸事件)~7月(イカルス号事件)頃、難事件に対応する過程において海援隊で考えられていた政府構想(あるべき新国家像)として重要な内容をもっている。
海援隊日史ーーーーーーーーーーーー
[「長崎龍馬便り」より]
後藤象二郎という男中岡慎太郎が後藤象二郎という男について語っている。
「西郷は一日に15里歩むといえば必ず15里歩み、後藤は20里歩むと大法螺を吹いて、実は16里しか歩けない。しかし、結局において、後藤は西郷よりも1里多く歩む人間だ」
また、福澤諭吉は後藤象二郎の政治的素質について言及している。
「政府の現状を変え、諸悪をはらい清める、非常大胆の豪傑、満天下唯一の人物は後藤伯だけである」
「若しも此人をして総理大臣の地位に当らしめ政府の全権を任せたらんには、国家百年の長計は兎も角も、踔励風発、満前の障害物を一掃して一時天下の耳目を一新するの快断、必ず見る可きものありしならん」
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)2024.8.05.12.00