◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
望月清平(生没年不詳)
樋口真吉(1815~1870)

望月家墓所(高知市塚ノ原)、望月清平とされる墓は台石のみで墓石はない。
(生年不詳)土佐郡小高坂村西町の白札下士であった望月団右衛門の長男としてに生まれる。弟は
望月亀弥太。
望月亀弥太(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、
武市半平太の土佐勤王党に加盟し<血判盟約書は20番>、勤王活動を始める。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)坂本龍馬との親交が深く、文久2年(1862年)吉田東洋暗殺の嫌疑がかけられた龍馬に身を隠すように勧めたり、慶応3年には龍馬が横死する直前に手紙のやり取りをしている。
望月清平はなんとも不可解な人物で明治維新後も生きたらしいが、その事績は皆目見当が付かない。墓すらないから、没年も不明のままである。あるいは別人としてその生涯をどこかで終えたのかもしれない。
~~~~~~~~~~
文久3年、
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP234>
文久3年7月16日
望月清平と
小畑孫三郎が上書を(藩庁に)提出する。
小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
真吉日記には記録されてないが、この日「銅鉄銭の鋳造のことを言う」という別本(=樋口真吉傳)があり望月・小畑の上書に真吉が関与していたことを思わせる。
真吉は連名して上書することを好まなかった。数を頼んで訴えることを嫌ったか。
~~~~~~~~~~
元治元年、各地の勤王志士の指導的立場に立つ者が高知城下に集結して「武市半平太らの解放」を協議することなった。「
小高坂密談」と云われている。
この密談には土佐東部の勤王党の首領清岡道之助も参加している。
清岡は真吉ほか同志に過激な提案をするが受け入れられず、これが結果的に「野根山騒動」に繋がることになる。
=======
《融通無碍》
◆小高坂密談(元治元年5月)
土佐藩の東西の有志(各郡から2・3名の代表者)が将来の運動の方向を定めるために、高知に集まり協議することになった。
安芸郡は、
清岡道之助、
清岡治之助清岡道之助(融通無碍/人物評伝)清岡道之助(融通無碍/人物評伝)香美郡は、
大石弥太郎、
谷作七、
森助太郎大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)森助太郎(融通無碍/人物評伝)長岡郡は池知退蔵
池知退蔵(融通無碍/人物評伝)土佐吾川郡は
曽和伝左衛門、小笠原忠五郎、
河原塚茂太郎、
望月清平、西山直次郎
曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)河原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)望月清平(融通無碍/人物評伝)高岡郡は片岡団四郎
幡多郡は
樋口真吉、
田辺剛次郎樋口真吉(融通無碍/人物評伝)田辺剛次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
清岡道之助は、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張した。
《藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。》
樋口真吉は、今は黙して時節を待つにこしたことはないと主張した。
《今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市半平太は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。》
清岡道之助から
「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたが、真吉は頑として清岡道之助の主張には同調しなかった。
大石弥太郎ら土佐勤王党の多数派も、清岡道之助の主張は過激すぎる、また武市半平太は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
~~~~~~~~~~
慶応3年、
・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP287>
慶応3年7月25日
毛利恭輔、望月清平、下横目・謙三郎が大坂に下る。
土佐藩の帆前船・羽衣の乗組員が神戸で非人を殺す事件があったらし。この事件捜査が目的だ。
毛利恭輔(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP289>
慶応3年7月29日
望月清平が大坂から戻る。
この望月清平という名を記憶に留めておいてほしい。
この男が物語の鍵になる一人だから。
・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP298>
慶応3年10月19日
望月清平が勅書を持って帰国する。下横目・
岡内俊太郎も同行する。
岡内俊太郎(融通無碍/人物評伝)この前日(18日)、清平はすぐ近くの町屋・近江屋に潜伏する龍馬からの手紙を受け取っていた。その中身
「今、住む近江屋が危険なことは承知。だが薩摩の世話になるのもまずい。真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ」というものであった。
*******************
[龍馬書簡]

◆届かなかった手紙

龍馬暗殺の直前、安全な宿の確保を真吉に頼んでいるが、手紙は届かなかった・・・。
届かなかった龍馬の手紙(融通無碍/関連話)
樋口真吉伝~~~~~~~~~~
没年、享年は不詳。
**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
**************

元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)・・・・・・・・・・・・
2024.09.01.23.54