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土佐の森・文芸 幕末足軽物語(南寿吉著)
文久2年 正月元旦◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP168>

初陽が昇った。中村は昨夜来の雪で銀世界となり、初春を迎える。真吉は48歳になった。
未明七ツ(午前4時前後)に起床し身を清め、粗衣をまとい、四万十河原に出て日の出を待った。日の出まで長い時間川風に震えながら明るんでくる東の空を見ながら様々のことを思った。朝焼けの中昇る陽を見て掌を合わせて今年の多幸を祈った。祈りながら、言いようのない憂鬱な漠然とした予感があった。
頭を左右にふり、その憂鬱な思いを断ち切るように歩き始めた。
そして冬枯れの草原を抜けて岸辺にあがり家に帰ってきた。
家に帰ってからも思い続けている。
(ことしは、おおごとになりそうだ)
文久2年のことども(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・・・
文久2年日記:遣倦録/樋口真吉[ノンフィクション]《=幕末足軽物語/融通無碍<第30話>日記:遣倦録/樋口真吉より》
遣倦録は文久元年(1861)9月3日から、慶応3年(1867)2月26日までの「真吉日記」だ。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP168>
文久2年1月
◆真吉、中村に帰る。
真吉は高知城下の町奉行所の下役という勤めを辞め、家族引き連れ海路中村に帰ってきたばかりであった。
真吉 故郷中村に帰る(融通無碍/南史観<私観>)
中村は戦国時代に一条氏という京の名門公家が応仁の乱(1467年に始まった)の混乱を避け、移り住んだ公家大名の領地(荘園)であった。
土佐の中村(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~
文久2年1月19日
真吉のもとに武市半平太から手紙が来た。内容は本間精一郎のこと。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)本間精一郎は勤王思想に基づいて全国を遊説した越後の浪人。土佐に入り一番に武市半平太への接触を試みるが果たせず、次目標として県西部の盟主と目される真吉との対面をしようと幡多入りした。
その行動は不可解な点が多く最終的には京四条河原に屍<しかばね>を曝して生涯を閉じた。
本間精一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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文久2年2月
昨年(文久元年)の秋、坂本龍馬は武市半平太の密書を長州の久坂玄瑞に届けた。龍馬が土佐を出発した日、真吉は日記に「
坂竜飛騰」と記していた。
坂本龍馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)坂竜飛騰(融通無碍/南史観<私観>)文久2年2月、長州から久坂玄瑞の返書を持って帰着した。
そして、吉田東洋暗殺計画を知った。龍馬は計画を知りその醜さを嫌悪したのだろう。半平太の人格に自分と相容れない決定的異質をみたのだ。
龍馬が長州に赴いている間に、龍馬と同じ思いを持った真吉が武市半平太と袂を分かち、職を辞し中村に帰ってしまったことなど、真吉の行動が龍馬に何らかの示唆を与えたと思われる。
直接話す機会はなかったが、話さずとも両者は「龍馬なら」、「樋口のおんちゃんなら」と暗黙のうちに符合したのだろう。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)吉田東洋の暗殺が実行される直前の3月24日夜、龍馬は脱藩した。
龍馬の長州行きを「坂竜飛騰」と日記の書いた真吉が龍馬脱藩については、その前後日記に一切触れていない。それまでの親交を考えれば腑に落ちぬことである。
長州滞在中に書簡の往復があったかもしれない。脱藩を決意する前に真吉に手紙を書いたかもしれない。しかし、そのことを記した現存する「龍馬の手紙」はない。
龍馬も真吉も暗殺路線に反発した。
歴史書は龍馬と武市半平太が親密であったとするものが多いがそうは思えない。確かに一時期は親密であったが、あるいは暗殺計画を機に決別したと考えた方がいい。
武市半平太は文久2年7月入洛の後も暗殺路線を走り続け、
岡田以蔵などを使走し天誅と称した残虐殺戮を繰り返した。殺人癖にとりつかれたか。
岡田以蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)**************
文久2年3月
井伊直弼が桜田門外で暗殺された安政7年<1860>以後、世情は騒然とし京都は混乱の極みにあった。
朝廷は徳川幕府が行う施策に不平を鳴らし、薩摩、福井、土佐などの雄藩に上洛を促していた。
薩摩では国父・島津久光の上京の準備が進んでいた。
島津久光(融通無碍/南史観<人物評伝>)福井では、前藩主・松平春嶽が上洛した。
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)土佐藩でも、武市半平太の土佐勤王党を中心に藩主・山内豊範の上洛を断行する動きがあったが、吉田東洋がこれを押さえ込んでいた。
吉田東洋は朝廷の意向より、徳川幕府における
山内容堂の復権を志向して幕命に従うことを選択していた。
通例なら藩主の参勤交代は3月前後に国許を出立するのだが、京洛情況が不穏という理由で見合わせていたのだ。
井伊直弼の「安政の大獄」で蟄居処分を受けた先代の藩主(今は隠居)山内容堂は江戸にいた。(この年の暮れには、山内容堂に上洛の勅命が出て、文久3年の正月に上洛することになる。)
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~~~
◆薩摩の島津久光が上洛、江戸へ。
公武合体運動推進のため千人の兵を率いて上洛。(3月16日鹿児島発、4月16日京都着)
公武合体 (融通無碍/南史観<私観>)
【島津久光の動向】
4月23日
伏見(現京都府京都市伏見区)の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清(上意討ち)する
寺田屋事件を起こす。
寺田屋事件(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・
5月9日
朝廷に対する島津久光の働きかけにより、自身を参画させることも含めた幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、勅使随従を命じられる。
幕府への要求事項として、以下の「三事策」(①は長州藩、②は岩倉具視、③は薩摩藩の各意見を採用したもの)が決められた。
①将軍・徳川家茂の上洛
②沿海5大藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩)で構成される五大老の設置
③一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽の大老職就任
岩倉具視(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・
5月21日
勅使・大原重徳に随従して京都を出発。
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6月7日
江戸へ到着する。当地において勅使とともに幕閣との交渉に当たり、7月6日に
徳川慶喜の将軍後見職、9日に松平春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)。勅使東下の目的を達成した。
徳川慶喜(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・
8月21日
江戸を出発、東海道を帰京の途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)でイギリスの民間人4名と遭遇し、島津久光一行の行列の通行を妨害したという理由で随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する「
生麦事件」が起こる。京都へ帰着、参内して幕政改革の成功を復命した。
生麦事件(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・
8月23日
京都を発し帰藩する(9月7日鹿児島着)
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文久2年3月
◆坂本龍馬が脱藩する。
脱藩する龍馬(NHK動画)龍馬、脱藩!!(融通無碍/南史観<私観>)**************
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP173>
文久2年4月8日
◆吉田東洋が暗殺される。
吉田東洋は大石流の使い手で、暗殺剣に易々とは討たれず、
左行秀の鍛えた新刀二尺七寸を振るって防戦したが、甲斐なく3人の刺客(
那須信吾・
大石団蔵・
安岡嘉助)に首をとられた。
左行秀(融通無碍/南史観<人物評伝>) 那須信吾(融通無碍/南史観<人物評伝>) 大石団蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)安岡嘉助(融通無碍/南史観<人物評伝>)当時の土佐藩には、大まかに3派が存在した。
一つは吉田東洋らの改革派、
山内下総ら上士中心の守旧穏健派、そして武市半平太の下士・郷士中心の勤王過激派である。
山内下総(融通無碍/南史観<人物評伝>)真吉は吉田東洋を評価し、その改革路線を支持した。(真吉も龍馬も土佐勤王党のシンパではあったが、武市半平太とは考え方の相違から決別していた。)
また、吉田東洋の藩政改革は時宜を得ていたから土佐藩庁の若者層(
後藤象二郎、
板垣退助、
福岡藤次、
岩崎弥太郎、
間崎哲馬らのおこぜ組<
鶴田塾>の門下生)にも受け入れられていた。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)福岡藤次(融通無碍/南史観<人物評伝>) 岩崎弥太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)間崎哲馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)鶴田塾(融通無碍/南史観<私観>)山内容堂に信任されていた吉田東洋の横死には伏線があった。
勤王過激派の若手が守旧穏健派の重鎮・山内下総に時勢論を述べた際、暗殺を教唆された件である。若手連中は武市半平太に報告し、勤王過激派の幹部会は短絡し吉田東洋の暗殺を機関決定した。文久元年暮れのことで、龍馬が長州への使者として出立する以前のことだった。
吉田東洋の暗殺を教唆(融通無碍/南史観<私観>)
土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>)真吉と土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~~~
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP172>
文久2年4月11日
参政・吉田東洋の事故を聞く。
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[融通無碍]
真吉は、4月11日に中村で東洋暗殺を聞く。3日遅れの報であった。
お城下での大騒動は吉田東洋の暗殺。4月8日晩じゃったが、中村には11日に聞こえてきた。
予想はされたが、実際に雁切橋の畔に首が曝されたと聞いたときは何とも言えんかった。
吉田東洋には昨年末辞職して中村に帰る前に、上書を献策したが、まさか「身辺にご注意あれ」と書くわけにもいかず無念な事だ。
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16日高知へ。28日中村に帰る。
6月18日中村発、20日高知着。
この前後、真吉の門弟たちの動きは、中村ー高知の間を往復すること梭(ひ)の如くであった。
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文久2年6月
吉田東洋暗殺事件のために延期になっていた土佐藩主・山内豊範の参勤交代が行われることに。
中村で蟄居していた真吉にも6月21日に藩主上洛へのお供(身辺警護を含む側近として)が命じられた。
真吉は6月22日に高知城二の丸において殿(=山内豊範)の謁見をたまわる。
6月28日、高知出立、7月12日、大坂に着き道頓堀に泊す。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP176>
文久2年6月28日
◆土佐藩最後の大名行列が出発。

「北山道」と呼ばれる参勤交代の道が残っている。高知城から見て「北の方に抜ける道」ということから「北山道」と言われるようになった。
吉田東洋暗殺事件のために延期になっていた土佐藩主・山内豊範の参勤交代が出立した。北山越えの大名行列だ。
北山越え<立川御殿>(融通無碍/南史観<私観>)この時の大名行列の人数は通常600人程を、2,000人に増員した大部隊になったと伝えられる。奉行・山内下総、御側物頭役・本山只一郎、谷干城、及び武市半平太、島村衛吉、吉本祐雄、平井収二郎、岡田以蔵ら土佐勤王党の同志数10人も供奉した。
樋口真吉は中村にいたが急遽呼び出され藩主辺警要員で随行した。真吉は上洛後、「混迷の幕末の京都」に身を置くことになる。
吉田東洋暗殺の犯人探索を命じられた岩崎弥太郎も同行している。
山内下総(融通無碍/南史観<人物評伝>)本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)谷干城(融通無碍/関連話<人物評伝>)武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)島村衛吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)吉本祐雄(融通無碍/南史観<人物評伝>)平井収二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)岡田以蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)岩崎弥太郎(融通無碍/関連話<人物評伝>)~~~~~~~~
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP177>
文久2年7月14日
雨、武市を訪ねる。
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[融通無碍]
殿様随行の上洛も初めての経験で戸惑うた。
大坂では白札格の武市半平太の己屋を訪ねて密議を凝らした。
天誅には反対したのじゃが、あの石頭、聞く耳は持たんかった。
いずれ暗殺の報いを受ける時期も来るじゃろう。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP178>
文久2年7月23日
竜馬に会う。一円贈る。
平井収二郞が京に帰る。
平井収二郞(融通無碍/南史観<人物評伝>)======
[融通無碍]
真吉が大坂で脱藩後に放浪していた龍馬に逢う。真吉の壬戊日記に
「大坂市中に於いて
龍馬に逢い、一円を与えて別れる」とある。
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[融通無碍]樋口真吉伝/南寿吉著
大坂で龍馬に逢うたが、あの塩垂れた格好・・・。が、国抜け後、九州への探索らしいが得るもの大であったろう。
炎熱の7月、大坂街中で真吉は龍馬と逢って江戸への路銀に足る金子のほか大きなものを与えた。人脈である。
「剣名は捨てよ、江戸へ行ったら間崎哲馬に逢え。時局に開眼するため人物を知れ。九州での実見は最新だから江湖の人士を瞠目させるに価する。」
「お前にはワシから学んだ海防論がある。ジョン万の体験も詳しく知る。」
「哲馬は盲目的な尊皇攘夷論者ではない。開明派だ。哲馬は半平太勤王党のブレーンだが半平太とは一線を画す。国許で吉田東洋を殺したから藩主の上洛が実現し、ワシはここにいる。暗殺の結果だ。」
「だが決して長続きしない。暗殺は憎しみを招く。挙藩勤王を叫び、実現手段として暗殺を選ぶ。血は血を呼ぶ。実現しない。人を殺してはだめだ。片腕を奪われたご隠居(容堂)の怒りも深かろう。反発を買ってどうして説得ができようぞ。今武市派は勢いがあるが、必ず反動は来る。」
「お前は暗殺を嫌い国抜けした。ならば、今後の方向を決めるために哲馬の意見は参考になるはずだ。」
「お前は土佐を抜けた。抜けて見える景色を楽しめ。お前にはその器量がある。ワシは去年の日記に坂竜飛騰と書いた。だが本当の飛騰ではない。準備だ。これから本当の飛騰が始まる。」
「お前には初めて逢ったときから感じるものがある。包容力だ。すべてを包み込んで暖かい。一時の気持ちの波立ちをもってその後の行動、態度を決めることがない。人は生きている、色んなことがある。生きていくには都合もある、生きるに値しなくてもだ。」
「人は悲しいものだ。生きていかねばならぬ。われわれには辱められば死ぬ覚悟はある。が国の将来の見据えたとき、その場その場で腹を切りよったらいくつ腹があっても足りゃすまい。融通無碍たれ。」
「初めてあったとき、下田に連れて行た。あそこの歴史も教えた。川が山の恵みを運び海から積み出す。海外貿易が実現したら人、物の行き交いは盛んになる。湾に出没する異船は増える一方で領土的野心をもつなら打ち払わねばなるまい。がどうも連中の目的はそこにはなく交易にあるらしい。ならば打ち払い路線を堅持しつつ、貿易も考えねばいかん。」
「万延元年に幕府は使節団をアメリカに送った。木村摂津守が正使だがジョン万次郎は通訳として参加したし、このうち勝海舟殿は優れたお方と聞く。郷士の大石彌太郎が砲術修行で江戸に行った際知遇を得たことはお前もよく知ったとおりだ。
大石彌太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)「海国土佐の潮の香りを江戸の連中に教えちゃれ。馬鹿の一つ覚えで面打ち、背負い投げ一点張りではいくまい。足技で崩して相手の反発を利して連続技で勝つのが勝負じゃろ。あわせ技もある。臨機応変はお前の持ち味じゃ。」
「天下の人士に交わるに「知ったかぶり」はいかん。それも世渡りの知恵としての戒めではなく、心底「知ったかぶり」を無くす必要がある。寝言でも知ったかぶりを言わない。修行では無理だ。その人に備わった生れ持った徳。(お前が言うことなら聞こう)そういう人間に、お前はなれる。」
「お前には徳がある。万人が求めて得られないものだ。お前は船だ。積荷は人に借れ。舵取りは船頭に任せたらいい。船頭は薩長の大物かもしれん。船頭は存外先が見えぬもの。大きな海図はお前が描く。お前という船には大きな積荷がある。日本の将来よ。ちんまいことは忘れてかまん。」
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間崎哲馬は「知」の人、「行」に不安は残る。知行合一がもっとも望ましいのは無論のこと。「知」は人から借るがいい。口先ではなく、その真髄をまなべ。人の論を聞いたらわざとだきな言葉で確かめろ。
「そりゃ、要するに○○ということですかのう」
相手は言うじゃろ
「少し違います」
「ほいたら、こういうことですかの」
「だいぶ近くなってきたが、まだ少し違うようです」
相手も気づく。
(難しいことを易しく言うのが自分の務めだ)
それでもなおこ難しいことをいうヤツは本物じゃない、と思うちょれ。分からんことしゃべる、分からんこと聞く、両方が損する。
口が過ぎた。すべて繰り返し教えてきたこと。
お前の飛騰はこれから本番じゃ。
大海原に乗り出せ、龍馬。
心して行け。
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龍馬は真夏の浪速で真吉と逢ったあと、9月前後に
間崎哲馬(号滄浪)と接触し、その導きで福井藩主・
松平春嶽との拝謁が実現する。さらに春嶽の紹介状を持って勝海舟邸へ。
松平春嶽(融通無碍/南史観<人物評伝>)間崎哲馬(融通無碍/南史観<人物評伝>) 龍馬はまるで藁しべ長者のような働きをした。
竜馬に逢う 一円贈る(融通無碍/南史観<私観>)**************
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP183>
文久2年8月
京都で不穏な動きが頻発し、既存の京都所司代では治安維持が難しいとみた幕府は新たに会津藩主・松平容保<かたもり>を京都守護職に任ずる。就任受諾に際し、会津藩内では反対意見が相次いだが藩主は「火中の栗を拾う」決意で入京する。本陣を金戒光明寺(左京区黒谷)に置き、藩兵1,000人が京都に常駐した。その後治安維持の実務は
新撰組が受け持つことになる。
松平容保(融通無碍/南史観<人物評伝>)新撰組(融通無碍/南史観<私観>)近藤勇(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP187>
文久2年9月朔日
真吉は御本陣において、西国筋探索御用を命じられた。
◆真吉は、谷干城と「
西国探索の旅」に。
旅の目的は
三条実美の肥後藩主への密書の伝達。
谷干城(融通無碍/南史観<人物評伝>)三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)西国探索の旅(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~~
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP202>
文久2年11月4日
中川侯、違勅騒動の一件の顛末を江戸(山内容堂)に報告するため東下(江戸の下る)の命を大監察・横山悟馬から伝達され真吉は江戸へ出立。
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文久2年11月6日
桑名に宿す。高知から中岡慎太郎、田所島太郎(砲術の師・田所左右次の息子)ら五十人の一行(
五十人組)と同宿する。
中岡慎太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)田所左右次(融通無碍/南史観<人物評伝>)五十人組(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~~
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP206>
文久2年11月27日
◆京から攘夷実行の勅使が江戸へ
江戸城に入った勅使の
三条実美が将軍・徳川家茂に「醜夷を拒絶すべし」と破約攘夷の実行を求める勅書を手渡した。12月5日に家茂は、勅書を受け入れて来春に京都に上り攘夷の詳細を説明するという回答書を提出、実美はこれを携えて11月7日江戸を立ち、12月23日に京都に帰着した。将軍の「上洛」は寛永11年(1634年)の徳川家光以来229年ぶりのこと。
三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP206>
文久2年12月12日
御殿山の夷館(英国公使館)が焼ける。
高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文、品川弥二郎ら長州藩士10名が英国公使館を焼き討ちする。
~~~~~~~~
江戸にいる山内容堂を高崎猪太郎という薩摩藩士が訪ねた。容堂の気に入り人物だった。
この時の高崎猪太郎の密告が発端で、山内容堂の土佐勤王党への弾圧が始まる。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)高崎猪太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)幕府から山内容堂に「一刻も早く入京せよ」との命があり、幕船(
大鵬丸)を貸し与えて海路入京を勧めた。
大鵬丸(融通無碍/南史観<私観>)大鵬丸と龍馬赦免(融通無碍/南史観<私観>)9月の西国探索を山内容堂に復命するために江戸にいた真吉は、山内容堂のお供(職名は「御隠居様御供」)で江戸から大鵬丸で上京した。
途中、伊豆の下田で勝海舟と会談することに。この会談で龍馬脱藩の罪が許され赦免された。龍馬の活躍が始まった。広い世界へ飛翔・沸騰を始めた。

伊豆・下田の宝福寺
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)~~~~~~~~~~
◆土佐勤王党への弾圧
山内容堂による土佐勤王党への弾圧の始まりの鐘が鳴った。
その鐘は重々しく殷々と四方に響きわたる。その音量は大きくはないが、真吉ら勤王志士に「冬の時代」の到来を告げる鐘だった。
勤王党への弾圧(融通無碍/南史観<私観>)真吉に冬の時代(融通無碍/南史観<私観>)勤王党弾圧 雌伏のとき(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・
斯くして、真吉は

文久3年正月元旦、
山内容堂とともに江戸で初春を迎えることに。49歳になった。
文久3年のことども(融通無碍/南史観<私観>)文久3年正月元旦(融通無碍/南史観<私観>)**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)

編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)****************
2024.01.20.23.54