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土佐の森・文芸 幕末足軽物語(南寿吉著)
文久3年 正月元旦◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP208>

山内容堂とともに江戸で初春を迎える。真吉は49歳になった。
未明七ツ(午前4時前後)に起床し身を清め、朝焼けの中昇る陽を見て掌を合わせて今年の多幸を祈った。祈りながら、言いようのない憂鬱な漠然とした予感があった。
(ことしも、おおごとになりそうだ)
文久3年のことども(融通無碍/南史観<私観>)~~~~~~~~~~
思えば・・・
去年の正月も、おおごとになりそうな予感がした。
文久2年正月元旦
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文久3年日記:遣倦録/樋口真吉[ノンフィクション]《=幕末足軽物語/融通無碍<第30話>日記:遣倦録/樋口真吉より》
遣倦録は文久元年(1861)9月3日から、慶応3年(1867)2月26日までの「真吉日記」だ。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP208>
文久3年1月
伊豆下田の宝福寺で山内容堂と勝海舟が会談し、龍馬の脱藩の罪が許された。
伊豆・下田でのこと(融通無碍/第4話)龍馬という天馬にまとわり付いた手かせ足かせが解き放たれた。
龍馬の活躍が始まった。彼広い世界へ飛翔・沸騰を始めた。

龍馬は今後自由に天空を天駆ける翼ともいうべきものを得た。龍馬という馬が翼をえてペガサスとなった瞬間だ。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP217>
文久3年2月15日
真吉は「外夷拒絶の策略」を隠居(=山内容堂)の承認(許可)を得て、上書する。
この時代、藩士が藩庁上層部に勝手に意見を述べることは許されない。
「私の意見を申し述べて宜しゅうございますか」とお断りをまず言い、次に意見陳述し、併せて意見内容を書き記した書面(=上書)を提出する。これが約束ごと。
攘夷策略について<意見/樋口真吉>(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP226>
文久3年3月26日
真吉は山内容堂に随行して土佐に帰る。
真吉は、小高坂・宮前の
こんまい家で「自然に集まる情報」を整理しながら暮らすことに。
真吉のこんまい家(融通無碍/南史観<私観>)自然に集まる情報は、真吉の人脈(ネットワーク)がなせるわざであり、情報とともに、真吉の周りでの「人の往来」はすさまじい。また、情報の発信も怠らない。(しかるべき相手に「上書」<意見具申>を連発した。)
11月に「爾来の御役御免、役料除かれ、御歩行格を以って元支配へ差し返えさる。」という辞令が出て、真吉は「冬の時代」に突入する。
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◆真吉に冬の時代
真吉は武市半平太の土佐勤王党に近いが、山内容堂にも可愛がられている。
武市半平太の採った暗殺路線は到底、真吉の信条にも体質にも合わない。武市半平太の如き石頭(原理・原則で凝り固まっている)と付き合う気も失せてきた。
山内容堂の酒癖の悪さには閉口するが、真吉も酒好きだ。が容堂のような酒乱癖はない。周りを愉快にする社交的な酒だ。酔って大納言と取っ組み合いの喧嘩をして側近(=
寺村左膳)に尻拭いさせる隠居とは大違いだ。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)確かに、これから真吉は勤王党からも、藩からも疎外される時代が続くだろう。
真吉には旅の途中で作り上げてきた人脈と持ち前のおおらかさがある。
(何とかなるじゃろ 天地に恥じない生き方してきたから殺されることもないじゃろ)
(小高坂<こだかさ>のこんまい家で
自然に集まる情報を整理しながら暮らすまでのこと)
自然に集まる情報(融通無碍/南史観<私観>)(だが復活のときに備えて準備はせんとイカンろう。焦りはせぬ)
真吉に冬の時代(融通無碍/南史観<私観>)
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土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)

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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)****************
2024.01.20.23.52