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幕末足軽物語(南寿吉著)
[融通無碍/関連話<人物評伝>]
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藤本淳七(生没年不詳)
樋口真吉(1815~1870)
中村生まれ。真吉のまな弟子で、大政奉還建白書の執筆者として知られる。
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慶応2年、真吉の日記には、藤本淳七の記述が多数ある。
《
日記・遣倦録より》
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP247>
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元治元年4月22日
藤本淳七の上書を池田順八に託す。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP261>
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元治元年9月5日
藤本淳七が大坂に行く。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP275>
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慶応2年9月24日
山内容堂の命令で、
佐々木高行は太宰府の
三条実美を訪ね、京師の情勢を探索する。
同行は中山左衛士、
毛利恭助、
島村寿太郎、
佐井寅次郎、
藤本淳七。
御隠居様(=山内容堂)が上京の内意があるらしい。
一ツ橋(慶喜)の使いが来る。乗ってきた船の船員の中に外国人がいるという梅沢源七郎の話。
山内容堂(融通無碍/南史観<人物評伝>)佐々木高行(融通無碍/南史観<人物評伝>)三条実美(融通無碍/南史観<人物評伝>)毛利恭助(融通無碍/南史観<人物評伝>)島村寿太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)佐井寅次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)=======
[融通無碍]
この探索(情報/意見収集)は、7月20日に将軍・徳川家茂が死去したこと、長防との戦いがしばらく止戦したこと、十二鄕が建白したこと、福井の
松平春嶽侯が幕府を正道に戻す建言をしたこと、などを踏まえ行われた。
十二鄕の建白は不首尾に終わった、という。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP276>
慶応2年12月17日
藤本淳七が(京から)高知に戻る。
藤本淳七は真吉人脈中の人、中村生まれ。
藩庁に出す報告書(復命書)とは一味違う京の生情報が、藤本淳七から真吉に提供されたか。
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慶応3年、9月に大政奉還が成されるが、その直前には在京の土佐藩下級官吏として真吉も藤本淳七も山内容堂の側近・
寺村左膳、参政・
後藤象二郎のもとで大政奉還にかかる職務をこなしていた。
土佐藩が提出した大政奉還の建白書は藤本淳七と
海援隊の
長岡謙吉が作成したといわれる。
寺村左膳(融通無碍/南史観<人物評伝>)後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)海援隊(幕末足軽物語/関連話)長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP293>
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慶応3年9月朔日
寺村左膳氏と後藤象二郎氏が浦戸から出船して着坂する。
参政・後藤象二郎氏着坂の音信がないから、(出張願いを出して)大坂まで行こうと伏見まで来て、
藤本淳七に会う。聞けば、後藤氏は今日京に出たとか。ならば良しと帰京した。
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慶応3年9月9日
藤本淳七氏と中城藤右衛門氏(同僚か?)と共に天祥<てんしょう>を訪ねる。山亭で酒を酌み交わす。忙中有閑(下級武士どうしのお客<飲み会?>か。)
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慶応3年10月、大政奉還が徳川慶喜によりなされた。
慶応3年11月、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された。
大政奉還~龍馬暗殺まで(融通無碍/南史観<私観>)・・・・・・・・・・・・
慶応3年11月28日
藤本淳七と下村省助が兵庫へ行く。長州兵が上がっているという情報があり、その形勢を見聞するためだ。
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慶応3年は、亀山社中が海援隊に/1月、四侯会議/5月、薩土密約/5月、薩土盟約/6月、中岡慎太郎が陸援隊結成/7月、大政奉還/10月、龍馬&慎太郎暗殺/11月、えじゃないか起こる/11月、江戸薩摩藩邸焼討事件/12月、という幕末史のクライマックスともいうべき出来事・事象が続いた激動の時代であった。
藤本淳七はその大トリとも言うべきイベント=「大政奉還」の建白書を起草したといわれている。シナリオライターだ。
この1年間を桂小五郎は龍馬に手紙で、慶応3年の一連の動き・政局を「大芝居」と茶化し、龍馬もそれに答えて「大芝居の件はかねて知っていたことだけど、実におもしろい。それがわかった時、いよいよ奮発しました」と返書をしたためている。
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)幕末足軽物語/関連話・特集版④<大芝居の役者たち>~~~~~~~~~~
明治維新以後の経歴は不詳で、戊辰戦争に参加したか否か、明治政府に出仕したか否かなど分らない。(少なくても明治4年の廃藩置県までは土佐藩、高知藩に<若しくは山内家に>藩吏として務めていたものと思われるが、それらも一切分らない。)
しかし、慶応4年の「真吉の戊辰戦争従軍記」に唐突として藤本淳七の名前が出てくる。真吉が人集め、物資の調達のため英国船ミアカで高知に帰った時のこと、官物を藤本淳一の家に預けているのだ。どうして藤本淳一の家なのかは手がかりは何もない。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP345>
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慶応4年閏4月17日、
晩、浦戸に着。小舟に移り上陸する。
分一役(港の収税吏)徳弘真作に会い、夜半「幡多倉」に着。藤本淳一宅を借りて官物を収める。
大監察・
由比猪内氏に面会を求め事情を説明すると即刻、藩庁幹部と会える事になった。
会談が終わる頃、夜はとうに明けていた。
由比猪内(融通無碍/南史観<人物評伝>)・・・・・・・・・・・・
慶応4年閏4月18日、
兵士と軍夫の注文(募集条件、員数、待遇、期間など)が終わり、八ッ時(14時)藤本淳七氏宅に戻る。
この日、野村良平が英船ミアカに乗って浪花に行く。
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慶応4年閏4月20日、
高崎・鬼怒川で戦死した
上田楠次の顛末を書いて監察府に提出する。
上田楠次(融通無碍/南史観<人物評伝>)~~~~~~~~~~
没年不詳。従って、享年も不詳。
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「龍馬の生まれたまち記念館」企画展より
大政奉還は、土佐藩が幕府に建白書でそれを訴えることで、将軍の決意を促したという経緯がありました。
その建白書を浄書した人物が、藤本淳七と海援隊(土佐藩を支援する外郭団体。龍馬が隊長を務めた)の
長岡謙吉です。
藤本淳七は漢学者として、長岡謙吉は海援隊の書記官としての実力を認められての人事でした。
長岡謙吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)江戸時代後期から幕末にかけては、身分社会が崩れ始める時代でした。
藤本淳七も、長岡謙吉も、本来なら参政権を持てない下級武士です。(蛇足ながら、樋口真吉も)
その2人が身分より実力が買われ、国政の政権交代に関わるという構図は、まさに時代的潮流を象徴しているかのようです。
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土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)

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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)融通無碍/総集版・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.01.23.59