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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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安岡覚之助(1835~1868)
樋口真吉(1815~1870)

安岡家邸宅(高知県香美市山北)
天保6年、土佐藩郷士・安岡正理の長男として土佐国香美郡山北村(現 高知県香南市山北)に生まれる。幼少より学才があり土佐藩に出仕して活躍。息子は
安岡逓次郎(=安岡正風)。
安岡逓次郎(融通無碍/人物評伝)安岡三兄弟として知られ、次男は
安岡嘉助、三男は
安岡道太郎。土佐勤王党には3兄弟がそろって加盟した。(但し、安岡嘉助は吉田東洋暗殺に関わり血盟書は簿外になっている。)
安岡嘉助(融通無碍/人物評伝)安岡道太郎(融通無碍/人物評伝)また、従兄弟にも安岡3兄弟がいる。(
安岡恒之進、
安岡権馬、
安岡覚馬)
安岡恒之進(融通無碍/人物評伝)安岡権馬(融通無碍/人物評伝)安岡覚馬(融通無碍/人物評伝)安政3年、長崎に留学して砲術、蘭学・兵学・地理学を学び帰国。
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文久元年、弟・安岡道太郎とともに土佐藩大阪住吉陣屋に土佐藩官吏として勤めている。
土佐勤王党には171番目に加入した血判同盟者。
土佐勤王党NO2の
大石弥太郎は「東の安岡覚之助、西の樋口真吉」と評価した。(樋口真吉は土佐勤王党の血判同盟者ではないがシンパ)
大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩主・山内豊範が参勤交代の途中、大坂に滞在した際には随行の
武市半平太の元で真吉らと尊皇攘夷運動に尽くす。(武市半平太は「藩主の江戸行きを阻止して入洛させる。」という薩長との約束事のため、2ヶ月間大坂に逗留して尊皇攘夷運動を行い藩主・山内豊範の入洛を果たした。大坂逗留は麻疹の集団感染が発生したためという説もある。藩主・山内豊範も感染し、従兄弟の安岡恒之助は麻疹で死亡している。)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久3年、安岡覚之助は京都御臨事ご用を拝命、上洛する。
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP228>
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文久3年5月20日
京都御所の朔平門で天誅(テロ)が起きる。姉小路公知が暗殺された。刺客は幕末四大人斬りの一人、薩摩藩の田中新兵衛と目されて捕らえられた。しかし、取調べ中に田中が自殺したため真相は不明。
この事件について、真吉は思うところを山内容堂に上書(意見具申)している。
◆真吉の上書(文久3年5月29日付け)
この度京師にて5月20日、姉小路様が凶変に遇われたそうで誠に申す言葉がなく畏れいっております。
これまで薩長土の3藩は別して苦心し、ようやく尊王の兆しも見え始め喜んでおりましたに、このような始末に。何者の仕業なのかは存じませんが、こんな事件は将軍家が常々怠りなく身辺を警備して防ぐべきでありますのに、防げなかったことは幕府の御心を伺い知ることができません。
このような状態では朝廷の存続は申すまでもなく、帝の御身辺も安全にお守りすることもかないますまい。
以前から朝廷に親兵を設置することはこのような事件が起こらないようにとの叡慮(天皇の意思)ではないかと恐察するところ。
しかし未だに朝廷に御親兵の備えもない状態では尊王のためにいかに勤労しても空しいことになるがと、心配しております。
今からはきっと尊慮をめぐらされ、それに違うことがないように願います。
恐々、不敬を犯し言上奉ります。 謹言
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[融通無碍]
真吉は
「姉小路卿が遭難殉死したのは幕府の責任だ。今後は幕府任せを改め、薩長土の3藩合同で親兵(近衛兵)を編成して不時に備えよ」との主張を婉曲に述べている。
この後、京都御所の9門の警備が強化され、土佐藩は清和院門の警備を行うことになる。(従兄弟の
安岡権馬が京都御警護<清和院門>御用を拝命し上洛している。)
安岡権馬(融通無碍/人物評伝)
清和院門
しかし、翌年の7月19日には9門のうちのひとつ蛤御門で変事(禁門の変)が起きた。
蛤御門の変(融通無碍/関連話)
蛤御門の変(元治元年<1864>7月19日)
蛤御門の変(NHK動画)御所9門ーーーーーーーー
土佐では山内容堂による土佐勤王党への弾圧が始まる。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP230>
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文久3年6月9日
昨夜、
間崎哲馬と
平井収二郎と弘瀬健太が賜死(切腹)した。
間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP235>
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文久3年9月2日
中村から安岡亮太郎、安芸から後藤内蔵助が高知に出てくる。
安岡覚之助が前月27日京を発して、今朝、高知に着いた。(29日の夜には島村寿之助、大石彌太郎が高知に帰っている。)
土佐勤王党への本格的弾圧が始動、高知県下、京の土佐勤王党の幹部が高知に召集された。
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文久3年9月21日
土佐藩では尊攘派の情勢が急激に悪化する中、「京師の沙汰により」の名目で武市半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、武市半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。
小南五郎右衛門の出仕を停め、
島村衛吉、河野萬寿弥、小畑孫次郎、小畑孫三郎らを入獄させた。
島村寿之助と下代類・審次郎は御預け処分。
小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助も捕縛・投獄された。
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慶応元年、
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP271>
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慶応元年5月11日
岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本八之助が牢屋において斬首された。
園村新作、
島村寿之助、
安岡覚之助、
河埜万寿彌、森田金三郎、
小畑孫次郎、
小畑孫三郎、
島本審次郎は引き続き牢屋に監禁され、
小南五郎右衛門殿は御預け処分となった。
園村新作(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)島本審次郎(融通無碍/人物評伝)小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)武市半平太は屠腹とふく(=切腹)を命じられた。
武市半平太が切腹(融通無碍/関連話) ~~~~~~~~~~
慶応3年、
板垣退助、
佐々木高行らの「土佐勤王党への恩赦」により釈放された。
その時、釈放された旧土佐勤王党員らを主体に結成された「
迅衝隊」の幹部として参加する。
板垣退助(融通無碍/人物評伝)佐々木高行(融通無碍/人物評伝)迅衝隊(融通無碍/第56話)~~~~~~~~~~
慶応4年、戊辰戦争には迅衝隊東征軍小軍監として参戦した。会津若松の攻防戦で流弾にあたり戦死。享年34.
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[参考]
芥川賞作家・安岡章太郎氏は安岡覚之助の「子孫」、1981年に日本文学大賞を受賞した著書「流離譚」は、安岡3兄弟(覚之助・嘉助・道太郎)の生き様を語る小説。
安岡章太郎氏の実家、安岡家邸宅は幕末の土佐藩郷士屋敷をそのまま引き継いだ造りになっている。国の重要文化財に指定されている。
安岡家文書安岡家文書2**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2024.11.01.23.59