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土佐の森・文芸 幕末足軽物語/融通無碍
[人物評伝]
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弘瀬健太(1836~1863)
樋口真吉(1815~1870)

天保7年、土佐藩士弘瀬喜之助の嫡子として生まれる。父を早く失い母に育てられたが至孝沈着の武士として土佐藩に仕出した。
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文久元年、土佐勤王党に加入。血判名簿の13番目に署名している。幹部として行動する。

土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩監察使となり
小畑孫三郎や
河野万寿弥らと京都・大坂に上る。
小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)河野万寿弥(融通無碍/人物評伝)三条実美や中山忠能らと接触。土佐藩主・
山内豊範の参勤交代の際に令旨を出して貰う裏工作を行い国事周旋 の内勅を受けた。
三条実美(融通無碍/人物評伝)山内豊範(融通無碍/人物評伝)京では、薩摩・長州などの尊王攘夷派の志士たちが、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者たちなどに天誅と称して集団で制裁(暗殺)を加えていた。
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土佐勤王党の志士たちは越後国出身の勤皇の志士・
本間精一郎の天誅(暗殺)に関わっていた。
本間精一郎(融通無碍/人物評伝)弘瀬健太は
岡田以蔵、
平井収二郎、
島村衛吉、
松山深蔵、小畑孫三郎、
田辺豪次郎、薩摩の田中新兵衛らと暗殺を実行した。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)松山深蔵(融通無碍/人物評伝)田辺豪次郎(融通無碍/人物評伝)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP186>
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文久2年8月21日
昨夜、本間精一郎が先斗<ぽんと>町で横死する。四条河原に首がさらされ、胴体は高瀬川に投げ込まれた。

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文久2年9月23日
昨夜、九条家の諸大夫・宇郷玄蕃頭を討ち取り、松原河原に梟首<きゅうしゅ>(首をさらす)された。
脇に建てた札には 「玄蕃は島田左兵衛と組んで悪巧みして主家(主人=九条尚忠)を不義に陥れたからその姦悪さは主家より悪質である。よって天誅を蒙らしめる。」とあった。
また、この日には、江州石部でも天誅事件が起きている。京都町奉行所与力暗殺事件だ。
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◆京都町奉行所与力暗殺事件
この夜、土佐藩士(
清岡治之助、
弘瀬健太、
山本喜三之進、
堀内賢之助、
川田乙四郎、
千屋菊次郎、
千屋熊太郎、中平保太郎、筒井米吉、
平井収二郎、
千屋寅之助、
小笠原保馬の12名)、長州藩士(久坂玄瑞、寺島忠三郎ら10名)および薩摩藩士2名の総勢24名が幕府与力・渡邊金三郎(京都町奉行所与力) 、同心・大河原重蔵らを近江国・石部で襲撃、殺害し、その首を粟田口に梟した。(武市半平太の日記によると、土佐藩の刺客には岡田以蔵の名はない。)
清岡治之助(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)堀内賢之助(融通無碍/人物評伝)川田乙四郎(融通無碍/人物評伝)中平保太郎(融通無碍/人物評伝)筒井米吉(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)千屋熊太郎(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)小笠原保馬(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
文久2年10月
幕府に対する「攘夷督促」と「御親兵設置」を要求する勅使として正使・
三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、土佐藩主・山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。
三条実美(融通無碍/人物評伝)武市半平太が姉小路の雑掌となり、柳川左門の仮の名が下賜されて江戸へ随行した。警固役には武井半平太の配下・土佐勤王党の剣豪(
岡田以蔵、
島村衛吉、
伊藤甲之助、弘瀬健太ら)が選ばれた。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)伊藤甲之助(融通無碍/人物評伝)勅使・
三条実美に随行して
武市半平太とともに江戸へ赴く。
三条実美(融通無碍/人物評伝)武市半平太(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
江戸では長州の一部(
久坂玄瑞ら)による「横浜異人館襲撃計画」に参加した。
この計画は長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らが謀ったもの。
久坂玄瑞は武市半平太にも参加を呼びかけるが、久坂玄瑞の口から土佐勤王党の弘瀬健太がこれに加わっている事を知った武市半平太は山内容堂に訴えて収拾を乞い願った。山内容堂の警告を受けた長州藩世子・毛利定広が高杉晋作、久坂玄瑞らを説諭して襲撃は中止になった。
久坂玄瑞(融通無碍/人物評伝)横浜の異人館襲撃を計画(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・
文久2年12月
弘瀬健太は平井収二郎・間崎哲馬と相照らし土佐藩政改革/尊皇攘夷論化を行うため、青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動していた。
佐幕派の中川宮朝彦親王が令旨を発したが、このことが山内容堂の逆鱗にふれ
「土佐藩主の権威を失墜させる越権行為、不遜の極み」であると3人を獄入りさせた。後に切腹を申し渡した。
山内容堂による土佐勤王党への弾圧の端緒となる。
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《融通無碍》
弘瀬健太らの切腹の因となった「中川宮の令旨」が、中川宮が積極的に出したものか、強要によるのか、熱意で出したのか、出させたのか、史実には検証が必要だ。
令旨の発行元の中川宮は青蓮院宮と改名したり他にも色んな名前を持つひと癖もふた癖ものある人物だ。これ以前にも「
中川侯違勅騒動」を起こしている。
イカを干せばスルメになる。スルメも元を正せばイカ。同じものに変わりはない。
スルメになる前の生乾きを土佐では「一日干し=ヒイトイボシ」と呼んで珍重する。
筆者は中川宮の人格に疑問符をつける。薩摩との関連で後に詳しく述べる。
中川侯違勅騒動(融通無碍/関連話)薩摩と容堂と長州(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、土佐勤王党への弾圧が始まる。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編日記:遣倦録(融通無碍/<ノンフィクション>)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP224>
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文久3年3月14日、
同志・平井収二郎が土佐京都藩邸内の檻に押し込められるが真吉はこれに触れていない。
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文久3年4月に
山内容堂が(安政3年の参勤交代で江戸入りして以来の)7年ぶりに帰国すると、土佐勤王党への弾圧の始まりの鐘が鳴った。その鐘は重々しく段段と四方にに響き渡る。その音量は大きくはないが真吉らに冬の到来を告げる鐘だった。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)勤王党への弾圧(融通無碍/関連話)真吉らに冬の時代(融通無碍/関連話)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP229>
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文久3年6月8日、
弘瀬健太と
平井収二郎と
間崎哲馬が賜死(切腹)した。
平井収二郎(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)======
《融通無碍》
この3人は全て下士であったから本来の刑は「斬首」であるべきなのだが、大目付は苦慮の末「切腹」とその手記に書き残した。
本音は斬首なのだが問題が令旨であるだけに朝廷と、勤王派を刺激するのを避けたのだ。
弘瀬健太、切腹。享年28。
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