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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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清岡治之助(1826~1864)
樋口真吉(1815~1870)
田中光顕揮毫による記念碑
田中光顕(融通無碍/人物評伝) 文政9年、安芸郡中山郷(現・安田町)に生まれる。土佐藩郷士。
江戸に遊学、安積艮斎に皇学を学ぶ。平田国学をも熱心に学んで古史・古伝にも通じた。田野学館(文武副教頭)で国学を指導。
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文久元年、
武市半平太の土佐勤王党に加盟する。(血盟書は143番)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩主・
山内豊範の参勤交代に随従し上洛。京都では武市半平太に従い国事(尊王攘夷活動)に奔走する。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP176>
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文久2年6月28日、
吉田東洋暗殺事件のために延期になっていた山内豊範の
参勤交代が出立。
参勤交代行列の人数は通常600人程を、2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ、武市半平太をはじめ、
岡本次郎、
久松喜代馬、
島村衛吉、平井収二郎、
山本喜三之進、
大石弥太郎、
谷正方、
安岡覚之助、
小畑孫次郎、
橋本鉄猪、
千屋菊次郎、清岡治之助ら土佐勤王党の同志も供奉した。真吉も藩主辺警要員で随行している。
岡本次郎(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷正方(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)橋本鉄猪(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
参勤交代(融通無碍/関連話)
「北山道」と呼ばれる参勤交代の道が残っている。高知城から見て「北の方に抜ける道」ということから「北山道」と言われるようになった。
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勅使
三条実美の江戸下向に副使姉小路公知に扈従して江戸へ。
三条実美(融通無碍/人物評伝) ・・・・・・・・・・・
文久2年8月2日、
土佐藩の下横目・井上佐一郎が殺害された。
井上佐市郎暗殺事件(融通無碍/関連話)=====
[融通無碍]
武市半平太に従い国事(尊王攘夷活動)に奔走する。井上佐一郎の暗殺にも関与する。
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文久2年閏8月22日
雨。《後は空白》
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[融通無碍]

この日、目明かし文吉が殺害された。
清岡治之助、
岡田以蔵、
阿部多司馬によるの暗殺といわれている。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)阿部多司馬(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・
文久2年9月23日
昨夜、九条家の諸大夫・宇郷玄蕃頭を討ち取り、松原河原に梟首<きゅうしゅ>(首をさらす)された。
脇に建てた札には
「玄蕃は島田左兵衛と組んで悪巧みして主家(主人=九条尚忠)を不義に陥れたからその姦悪さは主家より悪質である。よって天誅を蒙らしめる。」とあった。
また、この日には江州石部でも天誅事件が起きている。京都町奉行所与力暗殺事件だ。
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◆京都町奉行所与力暗殺事件
この夜、土佐藩士(
清岡治之助、
弘瀬健太、
山本喜三之進、堀内賢之助、川田乙四郎、
千屋菊次郎、
千屋熊太郎、中平保太郎、筒井米吉、
平井収二郎、
千屋寅之助、
小笠原保馬の12名)、長州藩士(久坂玄瑞、寺島忠三郎ら10名)および薩摩藩士2名の総勢24名が幕府与力・渡邊金三郎(京都町奉行所与力) 、同心・大河原重蔵らを近江国・石部で襲撃、殺害し、その首を粟田口に梟した。(武市半平太の日記によると、土佐藩の刺客には岡田以蔵の名はない。)
弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)堀内賢之助(融通無碍/人物評伝)川田乙四郎(融通無碍/人物評伝)中平保太郎(融通無碍/人物評伝)筒井米吉(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)千屋熊太郎(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)小笠原保馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治元年、京から帰国し
清岡道之助らの義挙(野根山騒動)に加わる。

清岡道之助
清岡道之助(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
各地の勤王志士の指導的立場に立つ者が高知城下に集結して「武市半平太らの解放」を協議することなった。「
小高坂密談」と云われている。
この密談には土佐東部の勤王党の首領・清岡道之助も参加している。
清岡道之助は真吉ほか同志に過激な提案をするが受け入れられず、これが結果的に「野根山騒動」に繋がることになる。
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《融通無碍》
◆小高坂密談(元治元年5月)
土佐藩の東西の有志(各郡から2・3名の代表者)が将来の運動の方向を定めるために、高知に集まり協議することになった。
安芸郡は、清岡道之助、清岡治之助
香美郡は、
大石弥太郎、
谷作七、
森助太郎大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)森助太郎(融通無碍/人物評伝)長岡郡は
池地退蔵池知退蔵(融通無碍/人物評伝)土佐吾川郡は
曽和伝左衛門、小笠原忠五郎、
河原塚茂太郎、
望月清平、西山直次郎
曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)河原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)望月清平(融通無碍/人物評伝)高岡郡は片岡団四郎
幡多郡は
樋口真吉、
田辺剛次郎樋口真吉(融通無碍/人物評伝)田辺剛次郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
清岡道之助は、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張した。
《藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。》
樋口真吉は、今は黙して時節を待つにこしたことはないと主張した。
《今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市半平太は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。》
清岡道之助から
「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたが、真吉は頑として清岡道之助の主張には同調しなかった。
大石弥太郎ら土佐勤王党の多数派も、清岡道之助の主張は過激すぎる、また武市半平太は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP259>
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元治元年9月朔日
阿波から、「野根二十三士の乱」を起こした
柏原禎吉、
豊永斧馬ら7人を甲浦で引き取る。
柏原禎吉(融通無碍/人物評伝)豊永斧馬(融通無碍/人物評伝)元治元年9月5日
清岡道之助ら23人と奈半利川原で打首にされた。
斬役横田某は治之助の首を一刀で果たすことができなかった。清岡治之助は手を挙げ、「暫く待て」と制し、
「足利氏となって生きるより楠氏となって死するを潔よしとする。」と、言い終わらぬうちに、川原の砂に鮮血がさっとほとばしる。
清岡治之助と清岡道之助の首は(高知城から少し上流の鏡川河畔北側にある)雁<がん>切りの渡し場の梟木<さらしき>の上に乗せられた。享年39。
身は国に心は阿波にとどまりて
魂の真柱撓むべきかは
生ひ繁る国の醜草<しこぐさ>切りはらひ
道ひらきする太刀はこれそも
玉鉾の道を分け行く武士の
大和心は折れず曲らず
野根山騒動(融通無碍/関連話)野根山騒動始末記(融通無碍/関連話)
野根山二十三烈士の墓(田野町福田寺)
よしやこの土にかばねは埋むとも名をば千歳の松にとどめん

捕らえられてすぐ処刑された二十三士は辞世の句を詠むことも許されず、墓石の前には道之助の妻・静の詠んだ歌を刻んだ歌碑が建っている。(建立は元田野町長松本孝一氏、書は松本春氏。)
野根山二十三烈士(融通無碍/人物評伝)**************
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)~~~~~~~~~
2024.11.01.23.59