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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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平井政実(=善之丞)(1803~1865)
樋口真吉(1815~1870)
享和3年、土佐藩上士・平井景起の嫡男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる。
板垣退助の叔父。
板垣退助(融通無碍/人物評伝) 土佐藩の大監察(大目付)として藩政の刷新につとめるが「おこぜ組の獄」によって失脚する。
嘉永元年、
山内容堂が第15代土佐藩主として襲封すると、
武市半平太、
小南五郎右衛門、
渡辺弥久馬ら尊皇派が藩庁に登用され、平井政実も再び大監察に起用された。
山内容堂(融通無碍/人物評伝) 武市半平太(融通無碍/人物評伝) 小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝) 渡辺弥久馬(融通無碍/人物評伝) しかし、吉田東洋が参政(仕置役)に登用されると、藩政の方針に関して吉田東洋と対立し辞任を余儀なくされる。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝) 終始一貫して尊皇を唱え、武市半平太と気脈を通じた。
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文久元年、武市半平太は
島村衛吉らを伴い、平井政実を訪ね土佐勤王党に対する賛意を求めると、上士の加盟者がほとんどなかった中で、平井政実は
「今こそ、天下のために起つべき時である。平井政実は老骨ながら援助を惜しまない」と武市半平太を激励したという。
島村衛吉(融通無碍/人物評伝) ~~~~~~~~~~
文久2年、吉田東洋が暗殺されると、第16代土佐藩主・
山内豊範より藩政復帰を命ぜられ、3度目の大監察に任ぜられた。
山内豊範(融通無碍/人物評伝) 山内容堂の身辺警護と称して
五十人組が組織された際には、島村寿之助、尾崎源八らと計り「出国嘆願書」のみ書かせ「願い捨て」の状態で江戸へ向かわせ「脱藩の罪」を回避させている。
五十人組(融通無碍/関連話)◆五十人組の結成
文久2年10月、勅使・
三条実美が江戸へ下る際、土佐藩主・山内豊範がこれを護衛することになり、山内豊範の江戸参勤に随行できなかった土佐勤王党の同志(郷士)たちが大目付・平井政実、
島村寿之助、
尾崎源八らの資金援助等をえて結成された警護部隊。武装集団だ。
三条実美(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)尾崎源八(融通無碍/人物評伝)文久2年11月、前藩主・山内容堂の守衛の藩命を受けて、大挙して江戸に向かった。
このなかには、
中岡慎太郎、
望月亀弥太、
千屋寅之助、
安岡金馬、
近藤次郎太郎、
豊永斧馬、
島村寿太郎、
森下幾馬、
村田忠三郎らがいた。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝望月亀弥太(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)近藤次郎太郎(融通無碍/人物評伝)豊永斧馬(融通無碍/人物評伝)島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)森下幾馬(融通無碍/人物評伝)村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久3年、京都で「
8月18日の政変」が起こると、土佐では「
土佐勤王党への弾圧」が始まり、土佐勤王党に協力的であった上士(=国家老・深尾鼎、大監察・小南五郎右衛門ら)とともに罷免された。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)土佐勤王党への弾圧(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
慶応元年5月死去。享年63.
《
佐々木高行の日記(=保古飛呂比
魚の目<魚住昭>より])に、平井政実の訃報が記されている。》
『5月11日、平井善之丞(平井政実)が亡くなった。行年63歳という。同人は我が藩の勤王家の先輩であり、我々が信用する人物である。その志いまだ伸びず地下に入る。実に歎息々々。』
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.06.01.22.51