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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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田辺豪次郎(生没年不詳)
樋口真吉(1815~1870)
四万十中流域・十川の郷士。真吉(樋口道場)門下生で剣豪、砲術も研修した。
京での天誅による暗殺事件で関与したと推測される記述が武市日記にある。
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文久元年、土佐勤王党に加入。148番目の血盟者。

土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、田辺豪次郎は土佐藩主・山内豊範の参勤交代の衛士に抜擢され、真吉とともに上京することに。
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幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP174>
文久2年5月26日
(真吉の弟子)田辺豪次郎が高知へ。
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<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP176>
文久2年6月28日
大名行列の出発だ。
列の中ほどにあった殿様の駕篭が城を出る。最初の夜は城下を少し離れた布師田の御殿に泊まる。
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[融通無碍]
田辺豪次郎は
武市半平太、
樋口真吉らとともに
大名行列に加わり京へ上る。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)樋口真吉(融通無碍/人物評伝)大名行列(融通無碍/関連話) 京では、薩摩・長州などの尊王攘夷派の志士たちが、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者たちなどに天誅と称して集団で制裁(暗殺)を加えていた。
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土佐勤王党の志士たちは越後国出身の勤皇の志士・
本間精一郎の天誅(暗殺)に関わっていた。
本間精一郎(融通無碍/人物評伝)田辺豪次郎は
岡田以蔵、
平井収二郎、
島村衛吉、
松山深蔵、
小畑孫三郎、
弘瀬健太、薩摩の田中新兵衛らと暗殺を実行した。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)松山深蔵(融通無碍/人物評伝)小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP186>
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文久2年8月21日
昨夜、本間精一郎が先斗<ぽんと>町で横死する。四条河原に首がさらされ、胴体は高瀬川に投げ込まれた。

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文久3年、帰国し、中村に帰る。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP239>
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文久3年12月朔日
田辺豪次郎と富永音二郎(いずれも幡多人)が高知に出てきた。
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元治元年、各地の勤王志士の指導的立場に立つ者が高知城下に集結して「武市半平太らの解放」を協議することなった。「
小高坂密談」と云われている。
この密談には土佐東部の勤王党の首領清岡道之助も参加している。
清岡は真吉ほか同志に過激な提案をするが受け入れられず、これが結果的に「野根山騒動」に繋がることになる。
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《融通無碍》
◆小高坂密談(元治元年5月)
土佐藩の東西の有志(各郡から2・3名の代表者)が将来の運動の方向を定めるために、高知に集まり協議することになった。
安芸郡は、清岡道之助、清岡治之助
清岡道之助(融通無碍/人物評伝)清岡道之助(融通無碍/人物評伝)香美郡は、
大石弥太郎、
谷作七、
森助太郎大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)森助太郎(融通無碍/人物評伝)長岡郡は池知退蔵
池知退蔵(融通無碍/人物評伝)土佐吾川郡は
曽和伝左衛門、小笠原忠五郎、
河原塚茂太郎、
望月清平、西山直次郎
曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)河原塚茂太郎(融通無碍/人物評伝)望月清平(融通無碍/人物評伝)高岡郡は片岡団四郎
幡多郡は
樋口真吉、
田辺剛次郎樋口真吉(融通無碍/人物評伝)田辺剛次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
清岡道之助は、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張した。
《藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。》
樋口真吉は、今は黙して時節を待つにこしたことはないと主張した。
《今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市半平太は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。》
清岡道之助から
「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたが、真吉は頑として清岡道之助の主張には同調しなかった。
大石弥太郎ら土佐勤王党の多数派も、清岡道之助の主張は過激すぎる、また武市半平太は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
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慶応4年、戊辰戦争では
迅衝隊員として真吉とともに従軍する。
迅衝隊(幕末足軽物語<関連話>)・・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝/完結編」ではP352>
明治元年6月18日
戊辰戦争の最前線から負傷して江戸に戻り「銃傷癒えて復帰する者」の名簿がある。
その中に田辺豪次郎の名が見られる。
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没年、享年は不詳。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2024.11.01.23.59