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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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小松小太郎(1843~1864)
樋口真吉(1815~1870)

天保14年、現・香美市土佐山田の鍛冶屋・小松菊平の三男として生まれる。
父、菊平が洋式銃の製作に関わったことで高知城下に移り住み、小太郎も勉学の機会を得て、岩崎千里に儒学を、千頭伝四郎に剣術を学ぶ。文武両道に励み神童と称された。
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文久元年、武市半平太の土佐勤王党に加盟する。(血盟書は59番)

土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久3年、
能勢達太郎らと脱藩して上洛、諸藩の勤王派と交流する。
能勢達太郎(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬とも接触し、龍馬の説く蝦夷地開拓の話に興味を持ち、「北方開拓計画」の発案者とされる
北添佶磨、及び能勢達太郎、
安岡斧太郎らと蝦夷地を視察を実行した。
しかし、小松小太郎は蝦夷地に向かう航海途中に病にかかり、函館で息を引き取った。享年21。
残された仲間達は、函館の海の見える小高い丘に小松小太郎を埋葬した後、蝦夷地視察を続け、さらに北国諸州を巡遊して江戸に戻っている。
北添佶磨(融通無碍/人物評伝)安岡斧太郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
◆北方開拓計画
龍馬の"新国家"構想の一つであり、積年の夢(蝦夷に渡って新国を開くという)『北方開拓計画』は北添佶磨の発案とされている。
北添佶磨がこの計画を発案するにあたり、当時の蝦夷地事情に精通した松浦武四郎に蝦夷地情報を求めている。

「北添佶磨書簡 文久3年8月2日 松浦武四郎宛」(松浦武四郎記念館所蔵)
鳥取藩伏見京都御留守居役の
河田佐久馬に宛てた「
龍馬の手紙」に記述がある。
龍馬の手紙(河田左久馬 宛て)<慶応3年3月>(北方開拓計画)

「坂本龍馬書簡 慶応3年2月14日 河田左久馬宛」(個人所蔵 鳥取県立博物館寄託)
《蝦夷地行きの準備が整いつつあることを、龍馬が意気揚々と報告する内容》
河田佐久馬(融通無碍/人物評伝)また、慶応3年3月6日の長州藩士・
印藤肇宛の手紙には蝦夷地開拓への思いが綴られている。《第四段》
「小弟ハエゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出に候間、何卒一人なりともやり付申べくと存居申候。」と。
蝦夷地視察を実行したあと死亡している小松小太郎、北添佶摩、能勢達太郎、安岡斧太郎への鎮魂の(蝦夷地開拓を成し遂げたい)思いがあったかもしれない。
龍馬の手紙(印藤聿宛て/慶応3年3月6日)印藤肇(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
第四段
私は蝦夷へ渡ろうとしていた頃から、新国を開くことは
積年の思いで一生の思いなのです。何卒一人でもやりやりきる覚悟です。
伊藤助太夫は私の志を憐れみ、且つ積年の思いもあるゆえ、秘めていた不屈の思いを披露してくれた。
諸国の浪人らに命じてこの地を開墾するべしと、この思いが強いのです。
伊藤助太夫(融通無碍/人物評伝)**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.23.51