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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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岡本八之助(=次郎)(1831~1865)
樋口真吉(1815~1870)
天保2年、土佐藩士の家に生まれる。
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文久元年、
武市半平太の土佐勤王党に加盟。(162番目の血盟同志)。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩主・山内豊範の参勤交代に随従し京に上る。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP176>
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文久2年6月28日、
吉田東洋暗殺事件のために延期になっていた土佐藩主・
山内豊範の
参勤交代の大名行列が出立。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)参勤交代行列の人数は通常600人程を、2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ、武市半平太をはじめ、岡本八之助(=次郎)、
久松喜代馬、
島村衛吉、
平井収二郎ら土佐勤王党の同志数10人も供奉した。真吉も藩主辺警要員で随行している。
京では、武市半平太のもとで国事(尊王攘夷活動)に奔走する。
久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]

「北山道」と呼ばれる参勤交代の道が残っている。高知城から見て「北の方に抜ける道」ということから「北山道」と言われるようになった。
参勤交代(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP179>
文久2年8月2日、
《真吉の日記は空白》
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土佐藩の下横目・
井上佐一郎が殺害された。
井上佐一郎(融通無碍/人物評伝)井上佐市郎暗殺事件(融通無碍/関連話)井上佐一郎は下士の足軽であったが、土佐藩参政・
吉田東洋に認められて下横目<現在の警察・検察の役目>の役職を与えられていた。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)井上佐一郎は土佐藩主・山内豊範の参勤交代に従って上洛中であり、大坂でも吉田東洋暗殺の犯人探索に当っていた。しかし、その行動が下手人であった土佐勤王党員に危険視され、勤王党員に酒を飲まされたその帰途、岡本八之助らによって絞殺された。
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[融通無碍]
この日、土佐藩下横目・井上佐市郎暗殺事件が起こる。
暗殺の実行犯は岡本八之助、
岡田以蔵、
久松喜代馬、
村田忠三郎、
森田金三郎の5人。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)森田金三郎(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP181>
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文久2年8月17日、
岡本八之助が三条家(
三条実美)へ書類を届けるため入京する。この夜、江戸から飛脚が着く。
三条実美(融通無碍/人物評伝)=====
[融通無碍]
岡本八之助は郷士でこの月の2日夜、下横目・井上佐一郎を殺害したとされる。このため土佐に帰国後、収監され、慶応元年閏5月獄舎で斬首刑。真吉の日記がこの日(2日)が空白であるのも気になる。
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文久3年、長州で馬関戰争が起こる。

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP230>
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文久3年6月15日
馬関戰争に参戦(探索?)していた、
佐々木高行(=三四郎)、時山直八らは下関戦争現場から戦闘服装備のまま帰藩、用井口(高知県仁淀町池川用井、ここに国境番所があった)番所に。番所は差し止め入国を許さなかった。
藩は内外に緘口令を敷いたようだ。馬関戦争を知る者を土佐に入れず、土佐側からの接触も禁じた。
(武市半平太の指示で)
大石弥太郎と岡本二郎(=岡本八之助)が密かに用井口に派遣され佐々木高行らとの接触を試みたが、やはり藩命が厳しくを面談を許さなかったという。
佐々木高行(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)=======
《融通無碍》
◆馬関戦争
長州による攘夷実行である。
幕府は朝廷に攘夷を決行すると約束をしたが、諸藩の見るところ『実行は不可能』であったから皆、様子見を決め込んで静観していたところ、建前と理屈好きの長州が敢然と外国船に砲撃を加えた。
馬関戰争(
下関戦争)である。
下関戦争(融通無碍/関連話)その後、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が下関の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
下関海峡の砲台を連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化することになる。薩英戦争の結果、奇しくも長州と同様な思いから近代化路線を進めていた薩摩藩と共に倒幕への道を進むことになる。

英国海軍陸戦隊によって占拠された前田砲台(山口県下関市前田)
薩摩藩も島津斉彬の集成館事業が復活し、近代化路線を突き進んでいた。
薩英戦争(鹿児島県公式動画)~~~~~~~~~~
元治元年、土佐藩論が尊王攘夷から公武合体へと転換して土佐勤王党への弾圧が始まると、岡本八之助は井上佐一郎殺害事件に関与したことを咎められて捕縛され揚り屋入りとなる。
武市半平太は獄中にあって、
「唯一人自白をしていない森金(=森田金三郎)は感心。森金はみな実なる人物と見ゆる。」
「森田金三は大丈夫にて候。岡本[八之助]と久松[喜代馬]、村田[忠三郎]と岡田[以蔵]は近々のうちに斬らるるろうと思い候。」と評している。
さらに、弟の
田内衛吉については
「[田内]衛吉も拷問になりても森田のように一言もいわず、絞め殺されるように唯々祈りおり候。この上は拷問にて絞め殺される人が一番大丈夫にて候」と吐露している。
田内衛吉(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP271>
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慶応元年5月11日
井上佐一郎殺害の罪で岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本八之助が牢屋において斬首された。(森田金三郎は拷問に耐え黙秘したため斬首を免れた。)
森田金三郎、園村新作、
島村寿之助、
安岡覚之助、
河埜万寿彌、
小畑孫次郎、
小畑孫三郎らは引き続き牢屋に監禁され、
小南五郎右衛門殿は御預け処分となった。
島村寿之助(融通無碍/人物評伝)安岡覚之助(融通無碍/人物評伝)河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝)小畑孫次郎(融通無碍/人物評伝)小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)武市半平太は屠腹<とふく>(=切腹)を命じられた。
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慶応元年、岡本八之助は井上佐一郎殺害の罪で処刑(斬首)される。享年35。
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岡本八之助の辞世(保古飛呂比/
佐々木高行日記より)
君か為め盡すまことはひとつしも
とふらてきゆる身こそ悲しき
佐々木高行(融通無碍/人物評伝) **************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51