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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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小笠原保馬(1842~1883)
樋口真吉(1815~1870)

天保13年、高知城下・鏡川河畔の雑喉場(現・高知市)の小笠原嘉助の子に生まれる。母・美多は
武市半平太の姉で、武市半平太とは叔父・甥の関係になる。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
安政3年8月、武市半平太が藩から江戸での剣術修行が許された。鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門した。
武市半平太に同行して江戸に赴いたの同行者は、
岡田以蔵、
五十嵐文吉、多田三十五郎、
多田哲馬、
阿部多司馬らであった。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)五十嵐文吉(融通無碍/人物評伝)多田哲馬(融通無碍/人物評伝)多田哲馬(融通無碍/人物評伝)阿部多司馬(融通無碍/人物評伝)9月には江戸剣術修業が許された
坂本龍馬、
大石彌太郎、小笠原保馬も江戸に到着、ともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。
坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)大石彌太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、武市半平太に連れられ江戸に出た。江戸で武市半平太が土佐勤王党を結党すると8番目に血盟書に署名している。
武市半平太は江戸で
柳井健次とともに水戸藩の岩間金平・
隅谷寅之助、長州藩の
久坂玄瑞・
佐々木男矢・桂小五郎(=
木戸孝允)・高杉晋作、薩摩の樺山三円らを相知ることになる。
柳井健次(融通無碍/人物評伝)隅谷寅之助(融通無碍/人物評伝)久坂玄瑞(融通無碍/人物評伝)佐々木男矢(融通無碍/人物評伝)木戸孝允(融通無碍/人物評伝)その結果、勤王運動における土佐藩の立ち遅れを自覚する。
薩長土3藩はそれぞれ同志を結集し、自藩の藩論をまとめ、その勢力によって朝廷の権威を強化し、幕府と対抗すべき道を模索し始める。
その中で武市半平太は在府中だった土佐藩士らと語らい「土佐勤王党」を結成することにした。
武市半平太の元には大石弥太郎、島村衛吉、間崎哲馬、門田為之助、柳井健次、河野万寿弥、小笠原保馬、岡田以蔵、池内蔵太、吉村虎太郎ら江戸にいた土佐藩士が集まった。

1
武市半平太(土佐勤王党盟主。P236,P271、真吉伝P26)
2
大石彌太郎(土佐勤王党NO2。P230,P353、P365、p376)
3
島村衛吉(土佐勤王党弾圧で客死。P236)
4
間崎哲馬(勤王党弾圧で切腹。P216,P229)
5
門田 為之助(勝海舟門弟。御扈従組。P183,P249)
6
柳井健次(五十人組。)
7
河埜万寿彌(勤王党弾圧で永牢処分。P271)
8 小笠原保馬
9
坂本龍馬(坂竜飛騰。P164、真吉伝P124)
この頃、
岡田以蔵、
池内蔵太、
吉村虎太郎も江戸にいて血判書に署名したと思われるが、その後の諸事情から最終的な血盟書からは削除(簿外)されている。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)池内蔵太(融通無碍/人物評伝)吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP173>
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文久2年4月22日
江戸から16日という短時間で高知に帰ってきた小笠原保馬に会った。
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[融通無碍]
16日で江戸から帰るとは余程喫緊の事態が生じたためだろう。小笠原保馬がもたらした情報とは何か。
薩摩・島津久光が、1,000人の兵を率いて入洛したことか。翌23日に
寺田屋騒動が起こっている。
寺田屋騒動(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・
文久2年9月23日
昨夜九条家の諸大夫・宇郷玄蕃頭を討ち取り、松原河原に梟首<きゅうしゅ>(首をさらす)された。
脇に建てた札には 玄蕃は島田左兵衛と組んで悪巧みして主家(主人=九条尚忠)を不義に陥れたからその姦悪さは主家より悪質である。よって天誅を蒙らしめる。
◆京都町奉行所与力暗殺事件(=江州石部事件)
この夜、土佐藩士(
清岡治之助、
弘瀬健太、
山本喜三之進、堀内賢之助、川田乙四郎、
千屋菊次郎、
千屋熊太郎、中平保太郎、筒井米吉、
平井収二郎、
千屋寅之助、小笠原保馬の12名)、長州藩士(久坂玄瑞、寺島忠三郎ら10名)および薩摩藩士2名の総勢24名が幕府与力・渡邊金三郎(京都町奉行所与力) 、同心・大河原重蔵らを近江国・石部で襲撃、殺害し、その首を粟田口に梟した。(武市半平太の日記によると、土佐藩の刺客には岡田以蔵の名はない。)
清岡治之助(融通無碍/人物評伝)弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)山本喜三之進(融通無碍/人物評伝)堀内賢之助(融通無碍/人物評伝)川田乙四郎(融通無碍/人物評伝)中平保太郎(融通無碍/人物評伝)筒井米吉(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)千屋熊太郎(融通無碍/人物評伝)千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・
文久2年12月
土佐藩主・
山内豊範の参勤発途に随従し上京、引き続き勅使・
三条実美の江戸下向の護衛の任にあたる。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)三条実美(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久3年、
8月18日の政変が起こると、
山内容堂は勤王党への弾圧を行い、武市半平太をはじめ多くの土佐勤王党員が投獄される。
8月18日の政変(融通無碍/関連話)山内容堂(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応元年、武市半平太は切腹を申しつけられる。
武市半平太が切腹(融通無碍/関連話) 武市半平太の切腹は南会所大広庭で、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を3度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から2名の介錯人により心臓を突かせて絶命したといわれる。
この2人の介錯人が武市半平太の妻・冨の弟の
島村寿太郎と
小笠原保馬だった。
島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)西山志澄らが武市半平太の遺骸を長棒の駕籠に乗せ武市半平太の自宅まで運んでいる。
西山志澄(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応4年、戊辰戦争に従軍している。
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維新後は明治新政府に出仕。
明治16年、死亡。享年42。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.23.51