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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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井上佐一郎(1834~1862)
樋口真吉(1815~1870)
天保5年、土佐藩下士(足軽)として生まれる。
土佐藩参政・
吉田東洋に認められて下横目(現在の警察職務)の役職を与えられる。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐藩主・山内豊範の参勤交代に随従し京に上る。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP176>
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文久2年6月28日、
吉田東洋暗殺事件のために延期になっていた土佐藩主・
山内豊範の
参勤交代が出立。
山内豊範(融通無碍/人物評伝)参勤交代行列の人数は通常600人程を、2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ、
武市半平太をはじめ、
久松喜代馬、
島村衛吉、
平井収二郎、
岡本次郎ら土佐勤王党の同志10数人も供奉した。
樋口真吉も藩主辺警要員で随行、さらに吉田東洋暗殺犯の探索用務で下横目・井上佐i一郎、
岩崎弥太郎が同行していた。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)久松喜代馬(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)岡本次郎(融通無碍/人物評伝)樋口真吉(融通無碍/人物評伝)岩崎弥太郎(融通無碍/人物評伝)======
[融通無碍]
参勤交代(融通無碍/関連話)
「北山道」と呼ばれる参勤交代の道が残っている。高知城から見て「北の方に抜ける道」ということから「北山道」と言われるようになった。
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文久2年8月2日、
土佐藩の下横目・井上佐一郎が殺害された。
井上佐市郎暗殺事件(融通無碍/関連話)=====
[融通無碍]
大名行列で大坂に来ていた下横目の井上佐一郎は岩崎弥太郎とともに、藩からの命令で吉田東洋暗殺犯を探索することにあった。
そのため。大坂での井上の行動が吉田東洋暗殺の下手人であった土佐勤王党員に危険視された。
岡田以蔵は密かに
村田忠三郎、岡本次郎、久松喜代馬らと謀り井上佐一郎を抹殺することにした。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)村田忠三郎(融通無碍/人物評伝)文久2年8月2日、暗殺される。享年29。
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[維新土佐勤王史(瑞山会編纂)より]

監察使の
吉永良吉、
平川光伸(=小川保馬)の2人に井上佐一郎を心斎橋筋の小料理屋「大与」に誘い出させ酒を飲ませた。
店を出た路上で岡田以蔵らによって絞殺され道頓堀に投げ捨てられた。絞殺は事故死(水死)に見せかけようとする工作であったが、久松喜代馬がうっかり脇差でとどめを刺してしまったため「他殺体」ということで発見されてしまった。(因みに、岩崎弥太郎は当時の京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、吉田東洋暗殺犯を探索する任務を放棄、一人土佐に逃げ帰っていたので暗殺の難をのがれた。)
「妓楼に遊び佐一郎を酣酔せしめたる後、其の帰途を河岸に要して以蔵は不意に手巾を佐一郎の首に投げ掛け力にまかせて絞殺し又喜代馬は短刀にて其の横腹を刺し死骸を川中に突流し溺死の體(溺死体)になし置きたりと云ふ」
吉永良吉(融通無碍/人物評伝)平川光伸(融通無碍/人物評伝)**************
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.06.01.22.51