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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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川原塚茂太郎(1830~1873)
樋口真吉(1815~1870)

文政13年、高知城下南奉公人町(現・高知市)の土佐藩徒歩格・川原塚重喜の子として生まれる。龍馬とは親戚筋(龍馬の兄・坂本権平の妻・千野の弟)にあたる。
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文久元年、
武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成して土佐に戻ったとき真っ先に(血盟書には11番目署名)加盟した。
諸般の事情(年老いた母と、精神を病んだ姉の介護など)で京には上らず、在郷のまま武市半平太の土佐での同志糾合に尽力した。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、武市半平太の指示により
那須信吾、
安岡嘉助、
大石団蔵が尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える
吉田東洋を暗殺した。
那須信吾(融通無碍/人物評伝) 安岡嘉助(融通無碍/人物評伝) 大石団蔵(融通無碍/人物評伝)吉田東洋(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
吉田東洋は藩主・山内豊範への講義を終え、下城する途中で3人(那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵)の刺客に襲われた。
吉田東洋の首級は思案橋辺りで、川原塚茂太郎、
河埜万寿彌、
柳井健次が受け取り、雁切(吉田東洋の首がさらされた現場)へ運び晒された。
河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝) 柳井健次(融通無碍/人物評伝)刺客の3人は、その場から直ちに脱走(脱藩)し長州に。路用のため、武市半平太から金子を渡されたという。
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文久3年、土佐勤王党弾圧により武市半平太ら多くの同士が牢に繋がれた。
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元治元年、各地の勤王志士の指導的立場に立つ者が高知城下に集結して「武市半平太らの解放」を協議することなった。「
小高坂密談」と云われている。
この密談には土佐東部の勤王党の首領清岡道之助も参加している。
清岡は真吉ほか同志に過激な提案をするが受け入れられず、これが結果的に「野根山騒動」に繋がることになる。
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《融通無碍》
◆小高坂密談(元治元年5月)
土佐藩の東西の有志(各郡から2・3名の代表者)が将来の運動の方向を定めるために、高知に集まり協議することになった。
安芸郡は、
清岡道之助、
清岡治之助清岡道之助(融通無碍/人物評伝)清岡道之助(融通無碍/人物評伝)香美郡は、
大石弥太郎、
谷作七、
森助太郎大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)谷作七(融通無碍/人物評伝)森助太郎(融通無碍/人物評伝)長岡郡は池知退蔵
池知退蔵(融通無碍/人物評伝)土佐吾川郡は
曽和伝左衛門、小笠原忠五郎、河原塚茂太郎、
望月清平、西山直次郎
曽和伝左衛門(融通無碍/人物評伝)望月清平(融通無碍/人物評伝)高岡郡は片岡団四郎
幡多郡は
樋口真吉、
田辺剛次郎樋口真吉(融通無碍/人物評伝)田辺剛次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~
清岡道之助は、遠隔地の安芸・幡多二郡の志士は決起して威勢を示し、藩が要求を容れない場合は実力で獄舎を開放して、一同で長州に脱走するべきと主張した。
《藩論を挽回し在獄の同志を救出するには今までのような各自の行動では効がないので、七郡の同志が提携し死を決して藩庁に迫り、芸幡二郡は野外に屯集して示威運動を行一挙に解決しなければならない。もし藩庁が聴かなければ獄舎を破壊して在獄舎を救出し長州へ走るのである。》
樋口真吉は、今は黙して時節を待つにこしたことはないと主張した。
《今の藩庁は佐幕派に占められているので、暴力をもって当るとその反感により在獄舎に危害を加えるかも知れない。また、たとえ在獄舎を出すことができても武市半平太は脱藩の意志がないかも知れない。その時は同志の進退を如何にするか、今は黙して時節を待つにこしたことはない。》
清岡道之助から
「樋口先生は幡多で立ち、われらが東部で立てば必ず成功する」とまで言われたが、真吉は頑として清岡道之助の主張には同調しなかった。
大石弥太郎ら土佐勤王党の多数派も、清岡道之助の主張は過激すぎる、また武市半平太は救出しても長州には行かないだろうと考えて同調しなかった。
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獄中の土佐勤王党の同士救出が懸命に模索された。特に首領格の武市半平太を早急に釈放させることは喫緊の課題だった。
川原塚茂太郎は大石彌太郎ら総勢27名で「建白書」を土佐藩風憲(監察)に提出した。
大石彌太郎(融通無碍/人物評伝)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP248>
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元治元年6月13日、
総勢27名で「建白書」を土佐藩風憲(監察)に出す。
これに応対したのは大監察・
小八木五衛兵、
横山覚馬それに板坂、若尾の諸氏だった。(小八木、横山ともに土佐藩の佐幕派幹部のため却下される。)
小八木五衛兵(融通無碍/人物評伝)横山覚馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治2年、この年の4月8日には改元され、慶応元年となる。元治という年号はきわめて短期間に現れ消えた。年号も慌ただしい。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP267>
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元治2年3月16日、
柏原文助が言う。
川原塚茂太郎が日根野弁治(龍馬も幼少の頃通った日野根道場の主)から聞いた話によると
「水戸の筑波天狗党は敦賀で斬首された」という情報がある。
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慶応4年、川原塚茂太郎は戊辰戦争で新政府軍・軍事掛徒目付として北越戦争に従軍している。
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維新後は明治新政府に出仕。讃州金陵会議結、川之江民政局副参事などを歴任した。
明治3年、職を辞して土佐に帰国。
明治9年、国事犯の嫌疑を受け東京の警視庁に抑留され獄死した。享年47。
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土佐の森・文芸/融通無碍

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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.23.51