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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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上田楠次(1837~1868)
樋口真吉(1815~1870)

墓は茨城県結城市光福寺にある。
天保8年、土佐国土佐郡江口村で土佐藩士として生まれる。上田蜂馬(130番血盟者)は実弟。
上田蜂馬(融通無碍/人物評伝)間崎哲馬に学ぶ。
間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、上田楠次は土佐藩士として江戸に勤務。江戸で
武市半平太が土佐勤王党を立上げ在郷中の同志を糾合するため、盟約書(血盟書)を携えて(
島村衛吉、
柳井健次、
河野万寿弥の3名を従え)土佐へ下った。
武市半平太(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)柳井健次(融通無碍/人物評伝)河野万寿弥(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
武市半平太は土佐藩大監察/大目付の
平井政実、
小南五郎右衛門の上士尊王派2名をたずね、土佐勤王党糾合の協力を取り付けた。
平井政実(融通無碍/人物評伝)小南五郎右衛門(融通無碍/人物評伝)さらに、
島村寿太郎・
島村寿之助・島村外内・
多田哲馬・上田楠次の5名を武市家に集め、土佐七郡における同志勧誘を依頼した。上田楠次はこの時に署名(12番目)している。
島村寿太郎(融通無碍/人物評伝)島村寿之助(融通無碍/人物評伝)多田哲馬(融通無碍/人物評伝)この武市半平太の勧誘運動は足掛け3年にもおよび、
土佐勤王党の盟約書に残るだけでも192名が名をつらねた。
土佐勤王党の盟約書(融通無碍/第55話)~~~~~~~~~~
文久2年、高知城下で土佐藩参政・
吉田東洋が暗殺された。
吉田東洋(融通無碍/人物評伝)上田楠次は吉田東洋暗殺の刺客(
島村衛吉、
谷作七、
那須信吾、
安岡嘉助、
大石団蔵、
岡本猪之助、岡本佐之助ら)に指名されたが、実行には参加していない。
島村衛吉(融通無碍/人物評伝) 谷作七(融通無碍/人物評伝) 那須信吾(融通無碍/人物評伝) 安岡嘉助(融通無碍/人物評伝) 大石団蔵(融通無碍/人物評伝) 岡本猪之助(融通無碍/人物評伝) ーーーーーーーー
越後浪人・
本間精一郎が土佐に入り、国境で
那須信吾と会して 梼原村の那須宅へ潜伏した。
本間精一郎(融通無碍/人物評伝)那須信吾(融通無碍/人物評伝) 武市半平太の指示では上田楠次は
河埜万寿彌と梼原村に赴き面談をしている。京の
吉村寅太郎から依頼で土佐勤王党の武力蜂起を促す用件であったが、武市半平太は拒否した。
吉村寅太郎(融通無碍/人物評伝)河埜万寿彌(融通無碍/人物評伝) ・・・・・・・・
江戸に上り、
間崎哲馬を介して、
坂本龍馬、
門田為之助らと交流している。ともに国事などに奔走していた様子が、文久2年9月10日の間崎哲馬の書簡に見られるほか、酒宴で間崎哲馬の詠んだ詩も残っている。
間崎哲馬(融通無碍/人物評伝)坂本龍馬(融通無碍/人物評伝)門田為之助(融通無碍/人物評伝)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP207>
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文久2年12月13日、
上田楠次と
近藤長次郎が探索のため神奈川へ行く。
近藤長次郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久3年、土佐勤王党弾圧により禁錮処分となる。
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元治元年、獄中の土佐勤王党の関係者の救出が懸命に模索された。特に首領格の武市半平太を早急に釈放させることは喫緊の課題だった。
上田楠次は
大石彌太郎ら総勢27名で「建白書」を土佐藩風憲(監察)に提出した。
大石彌太郎(融通無碍/人物評伝)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP248>
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元治元年6月13日、
総勢27名で「建白書」を土佐藩風憲(監察)に出す。
これに応対したのは大監察・
小八木五衛兵、
横山覚馬それに板坂、若尾の諸氏だった。(小八木、横山ともに土佐藩の佐幕派幹部のため却下される。)
小八木五衛兵(融通無碍/人物評伝)横山覚馬(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応3年、坂本龍馬が長崎で大量の新式銃を買い込み、蒸気船・震天丸で土佐に向かった。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
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慶応3年10月10日
才谷梅太郎(=坂本龍馬)が長崎を発出し高知を経て上京した。
この時の一部始終を長崎にいる佐々木高行に報告した「岡内俊太郎の手紙」がある。
この中に、上田楠次のことが書き記されている。
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[岡内俊太郎の手紙]
私ども一行は胡蝶丸に乗り換え須崎港を出帆して、大坂に赴きました。
折りから同志の上田楠次という者がこの船に事務係として乗り組んでおり、坂本龍馬が上田楠次に将来のことをいろいろ言って聞かせ、いよいよ京都で事が起こったときは、「神戸にある石炭を船に積めるだけ積むこと、軍艦には石炭が肝心である」ことなど告げていました。
そのとき、中岡慎太郎が上田楠次をからかう手紙を見せられ、龍馬とともに大笑いしました。その手紙にはこうありました。
御一笑に供するため写して差し上げます。
岡内俊太郎の手紙(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・・・・
[中岡慎太郎の手紙/上田楠次宛て]
君は京に来ておってお帰りになったそうだがどうなのだろうか、最近は音沙汰がない。
いったい同志の何のと言っても、一時の血気にはやった慷慨は決して恃むに足らずか。
また志を立てて、若くして望みを持つのは早く、世を憂うの志が深くないのだろうか。いや、そのはずはないだろう。
蠖屈(尺取虫が伸びるために一時からだをちぢめること。また、人がそのように身をかがめちぢめること。将来の雄飛に備えて慎み深く世を渡ることにもいう=精選版日本国語大辞典)龍伸(※時機が来れば龍のように志を伸ばすという意味か)は丈夫の志、深謀遠慮は人に知られることになるだろう。頓首。
7月10日 鈍正
短躯巨口先生
坐下
上田楠次様 石川誠之助(=
中岡慎太郎)
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応4年、戊辰戦争では
迅衝隊(東山道先鋒総督府斥候)2番隊に所属して出陣。
迅衝隊(融通無碍/第56話)下総流山では
平川光伸、
南部展衛、上田楠次の策略により
新選組局長
近藤勇を捕縛、板橋本営に護送した。
平川光伸(融通無碍/人物評伝)南部展衛(融通無碍/人物評伝)近藤勇(融通無碍/人物評伝)新撰組(融通無碍/関連話)上田楠次は旧知の坂本龍馬の暗殺犯を新選組と確信していたため、近藤勇の斬首を強硬に主張した。
この時、板橋本営の責任者は
谷干城、上田楠次の主張を受入れ、その場で近藤勇を処刑(斬首)した。
谷干城(融通無碍/人物評伝)<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP338>
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慶応4年4月17日、
真吉は江戸・市ヶ谷の尾州邸にいて前線から届いた情報を簡潔にまとめている。
①~⑤は省略
⑥迅衝隊第2小隊・上田楠次が軍監として板橋から出撃したが生死不明だ。後に聞けば、高崎・鬼怒川方面での戦闘で戦死したという。
上田楠次は小山の戦い(高崎・鬼怒川)で戦死。享年32。
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真吉が人集め、物資の調達のため英国船ミアカで高知に帰った時、土佐藩監察府に戦死した上田楠次の顛末を報告している。
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP345>
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慶応4年閏4月17日、
晩、浦戸に着。小舟に移り上陸する。
分一役(港の収税吏)徳弘真作に会い、夜半「幡多倉」に着。
藤本淳一宅を借りて官物を収める。
藤本淳一(融通無碍/人物評伝)大監察・
由比猪内氏に面会を求め事情を説明すると即刻、藩庁幹部と会える事になった。
会談が終わる頃、夜はとうに明けていた。
由比猪内(融通無碍/人物評伝)真吉、人集めのため奔走(融通無碍/関連話)・・・・・・・・・・・・
慶応4年閏4月18日、
兵士と軍夫の注文(募集条件、員数、待遇、期間など)が終わり、八ッ時(14時)藤本淳七氏宅に戻る。
この日、野村良平が英船ミアカに乗って浪花に行く。
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慶応4年閏4月20日、
高崎・鬼怒川で戦死した上田楠次の顛末を書いて監察府に提出する。
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土佐の森・文芸/融通無碍

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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.06.01.23.51