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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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千屋金策(1843~1865)
樋口真吉(1815~1870)

中央は
千屋寅之助。脇は千屋金策と兄の千屋菊次郎、若しくは従弟の千屋熊太郎といわれる。
千屋寅之助(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
天保14年、土佐国安芸郡
和食村(現・高知県安芸郡芸西村和食)の庄屋・千屋孝則の四男として生まれる。
幕末足軽物語/関連話<和食のこと>)ーーーーーーーー
兄は
千屋菊次郎、従弟に
千屋熊太郎がいる。姉は安芸郡馬ノ上村の庄屋の安岡家の長男に嫁いでいる。義理の弟に
安岡金馬や
安岡鉄馬がいる。
千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)千屋熊太郎(融通無碍/人物評伝)安岡金馬(融通無碍/人物評伝)安岡鉄馬(融通無碍/人物評伝)嘉永2年、父の赴任に従って高岡郡半山郷(現・高知県津野町)に移る。船戸村(現・津野町)で戸田隆蔵に、高知城城下で
髙松濤亭に医術を学ぶ。
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[融通無碍]
髙松濤亭は安田の
髙松順蔵の弟。長崎でオランダ医学を学んだ後、高知城下で西洋医学の開業医になった。新しい治療法とその博学がたちまち評判になった。洋学を志す青年たちが門下生として集まる。千屋金策も門下生のひとり。
髙松順蔵(融通無碍/人物評伝)万延元年、大坂に上って
緒方郁蔵(研堂)に医学を学ぶ。
緒方郁蔵(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久元年、帰郷。武市半平太らが結成した土佐勤王党に加入する。(血盟書は108番。)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久2年、
山内容堂の身辺警護と称して
五十人組が土佐藩の非合法な組織として結成された。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)五十人組(融通無碍/関連話)五十人組の8番組伍長として参加、配下に山崎広馬、
長尾省吾、市川次平、村上鶴助、
今橋権助らがいた。京都と江戸の間を往来して国事に奔走した。
五十人組(融通無碍/関連話)長尾省吾(融通無碍/人物評伝)今橋権助(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎らと土佐藩の江戸藩邸護衛にあたる。その後、時事探索掛を命じられて土佐に戻った。
中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治元年、土佐勤王党の獄が起こると脱藩、長州の中岡慎太郎のもと(
招賢閣)に身を寄せる。禁門の変では長州藩士として薩摩藩・会津藩の兵と戦うが敗れて長州に戻る。
招賢閣(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
元治2年、尊王派の同志を募るために千屋金策は
井原応輔、
島浪間、
岡元太郎 (岡山藩)の4名で作州路を遊説中、資金集めの為に美作国柵原町百々の酒造業・池上文佐衛門を訪ねるが強盗呼ばわりされ、はては土地の百姓(土居村の村民)に追い詰められ自害した。享年23。
井原応輔(融通無碍/人物評伝)島浪間(融通無碍/人物評伝)岡元太郎(融通無碍/人物評伝)
四ツ塚様顕彰碑/岡山県美作市土居
千屋金策ら4人の志士を自刃に追い込んだ土居村の村民は、その後「四ツ塚様」と呼ばれる塚を造って祀っている。
四塚様**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.59