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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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松山深蔵(1837~1864)
樋口真吉(1815~1870)
天保8年、土佐国高岡郡津野山郷北川村庄屋の二男に生まれる。郷士。
庄屋の二男に生まれたため家業を継ぐことができず、船戸村(現・津野町)で戸田隆蔵に、高知城城下で
髙松濤亭に医術を学ぶ。一時は帰郷(半山郷)し開業する。
髙松濤亭は安田の
髙松順蔵の弟。長崎でオランダ医学を学んだ後、高知城下で西洋医学の開業医になった。新しい治療法とその博学がたちまち評判になった。洋学を志す青年たちが門下生として集まる。松山深蔵も門下生のひとり。
髙松順蔵(融通無碍/人物評伝)ーーーーーーーー
万延元年、髙松濤亭の門下生・
千屋金策・菊太郎兄弟、
千屋熊太郎とともに大坂に上って
緒方郁蔵(研堂)に医学を学ぶ。
千屋金策(融通無碍/人物評伝)千屋菊太郎(融通無碍/人物評伝)千屋熊太郎(融通無碍/人物評伝)緒方郁蔵(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久2年、土佐勤王党に加盟。(血盟書147番)

土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
6月に学問修行の名目で自費で江戸に上る。姉小路公知の衛士として江戸や京で国事(尊攘活動)に奔走する。
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文久2年8月2日、
土佐藩の下横目・井上佐一郎が殺害された。
井上佐市郎暗殺事件(融通無碍/関連話)=====
[融通無碍]
京都で武市半平太に従い国事(尊王攘夷活動)に奔走するなか井上佐一郎の暗殺にも関与した。
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幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP186>
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文久2年8月20日
土佐勤王党の志士たちは越後国出身の勤皇の志士・
本間精一郎の天誅(暗殺)に関わっていた。
本間精一郎(融通無碍/人物評伝)松山深蔵、
岡田以蔵、
弘瀬健太、
平井収二郎、
島村衛吉、
小畑孫三郎、
田辺豪次郎、薩摩の田中新兵衛らが暗殺を実行した。
岡田以蔵(融通無碍/人物評伝)弘瀬健太(融通無碍/人物評伝)平井収二郎(融通無碍/人物評伝)島村衛吉(融通無碍/人物評伝)小畑孫三郎(融通無碍/人物評伝)田辺豪次郎(融通無碍/人物評伝)・・・・・・・・・・
文久2年8月21日
昨夜、本間精一郎が先斗<ぽんと>町で横死する。四条河原に首がさらされ、胴体は高瀬川に投げ込まれた。

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文久3年、松山深蔵は土佐藩の政局変化に伴い帰国する。7月には樋口真吉のこんまい家を訪れている。何を話したか日記からは読み取れないが、混迷する京都の情勢について情報交換を行ったに違いない。

高知・小高坂のこんまい<小さな>家
小高坂のこんまい家(融通無碍/関連話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP232>
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文久3年7月8日
(宿毛の)岩村左内、竹内萬彌の2人が来る。
松山深蔵も来た。
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[融通無碍]
この後、松山深蔵は9月に
上岡胆治、
那須俊平、玉川壮吉、
千屋菊次郎らとともに脱藩、長州の
中岡慎太郎のもと(
招賢閣)に身を寄せる。
上岡胆治(融通無碍/人物評伝)那須俊平(融通無碍/人物評伝)千屋菊次郎(融通無碍/人物評伝)中岡慎太郎(融通無碍/人物評伝)招賢閣(融通無碍/関連話)ーーーーーーーー
長州では
三条実美ら七卿に従う。
三条実美(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
元治元年、「
蛤御門の変」では長州藩の忠勇隊(諸藩の脱藩浪士が中心なって結成された長州藩への合力部隊。隊長は松山深蔵)に所属して参陣。
蛤御門の変(融通無碍/関連話)しかし、薩摩、会津らの連合軍に敗れて長州軍は敗走する。京都山崎の天王山で真木和泉ら17烈士が自刃した。松山深蔵 享年28。
(17烈士=土佐藩4名<千屋菊次郎、
松山深蔵、
能勢達太郎、
安藤真之助>、久留米藩・真木和泉ら4名、宇都宮藩2名、肥後藩6名、筑前藩1名)
能勢達太郎(融通無碍/人物評伝)安藤真之助(融通無碍/人物評伝)
幕末4志士<
宮地宜蔵、松山深蔵、上岡胆治、
吉村虎太郎>の墓所(高知津野町力石)
宮地宜蔵(融通無碍/人物評伝)吉村虎太郎(融通無碍/人物評伝)**************
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51