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土佐の森・文芸 融通無碍
[人物評伝]
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大利鼎吉(1842~1865)
樋口真吉(1815~1870)

大利鼎吉遭難の地(大阪市中央区)
石碑には、辞世が刻まれている。
「ちりよりも かろき身なれど大君に こころばかりは けふ報ゆるなり」
天保13年、生まれ。
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文久元年、
武市半平太、
大石弥太郎らによって土佐勤王党が結成されると、大利鼎吉も加わり尊攘活動に奔走する。(血盟書は43番)
武市半平太(融通無碍/人物評伝)大石弥太郎(融通無碍/人物評伝)
土佐勤王党(NHK動画)土佐勤王党(融通無碍/関連話)~~~~~~~~~~
文久2年、
山内容堂の身辺警護と称して
五十人組が土佐藩の非合法な組織として結成された。
山内容堂(融通無碍/人物評伝)五十人組(融通無碍/関連話)大利鼎吉は
五十人組に1番組(伍長は
坂本清次郎)として参加、1番組には
石川喜久馬、仲彦太郎、
観音寺智隆、一瀬源兵衛らがいた。京都と江戸の間を往来して国事に奔走した。
五十人組(融通無碍/関連話)坂本清次郎(融通無碍/人物評伝)石川喜久馬(融通無碍/人物評伝)観音寺智隆(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
文久3年、脱藩して上洛。
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元治元年、京都三条木屋町(三条小橋)で
池田屋事件に遭遇。
長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士が会談している所を、京都守護職配下の
新選組が襲撃した。
池田屋事件(融通無碍/関連話)新撰組(融通無碍/関連話)混迷の京都事情の背景(融通無碍/関連話)池田屋事件で犠牲になった土佐藩の志士は
北添佶摩(闘死)、
石川潤次郎(闘死)、伊藤弘長(闘死)、越智正之(闘死)、
望月亀弥太(脱出後自刃)ら。(その他、偶々の出来事で
野老山吾吉郎と藤崎八郎が犠牲になっている。)
北添佶摩(融通無碍/人物評伝) 石川潤次郎(融通無碍/人物評伝) 望月亀弥太(融通無碍/人物評伝) 野老山吾吉郎(融通無碍/人物評伝)大利鼎吉は新選組の武田観柳斎とみられる隊士と戦っているが犠牲にならず、かろうじて逃げ延びた。
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大利鼎吉は「
禁門の変」でも逃げ延びる。
禁門の変(融通無碍/関連話)堺町御門の戦いで重症を負った
伊藤甲之助の自刃を介錯している。
伊藤甲之助(融通無碍/人物評伝)~~~~~~~~~~
慶応元年、大利鼎吉は進退に極まり大坂に隠れ潜んだ。
大坂では、土佐勤王党の残党(大利鼎吉、
田中光顕、
橋本鉄猪、池田応輔ら)と大坂南瓦町にぜんざい屋を構える石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)で、大坂市街に火を放ち、其の混乱に乗じて大坂城を乗っとるという計画を立てた。
田中光顕(融通無碍/人物評伝)橋本鉄猪(融通無碍/人物評伝)しかし、その情報が新選組に洩れてしまう。
谷川辰吉から土佐浪士の不審情報を得た新選組大坂屯所隊長・谷万太郎は兄の谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎の4人で「ぜんざい屋」を襲撃した。いわゆる「ぜんざい屋事件」である。
新選組が襲撃したときは土佐勤王党の志士はほとんど外出中で、「ぜんざい屋」には石蔵屋と大利鼎吉しかいなかった。
石蔵屋は逃げてしまい、大利鼎吉は4人掛かりで斬りつけられ討ち死にした。享年24。
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元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)ーーーーーーーーーーーーーー
2025.07.01.22.51